許し合う心
わたしは年をとっても、ほとんど人間的に成長しなかった。
まことに面目ないと思っております。
でも唯一、この年になって、成長したのではないか、という点がある。
他人のミスを許せるようになったことですね。
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若いときのわたしは、それは他人に厳しかったですよ。
おれは自分にも厳しいから、他人にも厳しくて当然だ、とか思って。
わたしより後に注文されたラーメンが、わたしのより先に届こうものなら、キーッとなって、店員にカスハラざんまいでした。
列に並んでて、だれかに割り込まれたと認知したら、かりにそれが意図的でなくても、喧嘩ですよ、喧嘩。チョー喧嘩っぱやかった。
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最近は、そういうのを全部許せるようになった。
ひとつには、年を取って、自分にミスが多くなったからですね。
老人は、こぼす、こわす、こける。わる、わすれる、わけわかんなくなる。
デジタルがわからずにレジの前でアワアワするし。
老人になると、なんでも完璧にはできなくなる。若者が自分にいら立っているのもわかる。
だから、自分を許してもらうためにも、他人のミスを許せるようになる。
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最近はこういうことがあった。
相手に迷惑がかかると悪いから、ぼかして話すけど。
わたしの体にある不具合があって、軽微な手術をした。
わたしは、その手術は意味がないと思ったが、先生は自信満々で、手術で治るとわたしを説得した。
結果は、やはり手術は失敗したようだ。
でも、わたしには先生を責めるつもりはない。
わたしは、他人のミスを許せる老人である。
治ってないよ、と先生に告げたのも、責めるつもりではなかった。
でも、先生は、「自分の責任だから、手術をやり直す。治療費はいただかなくてもいい」という。
そうですか、それならお願いします、とまた手術を受けた。
でも、やはり治らない。それを、もう3回繰り返している。
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なんか、こういうこと、むかし本で読んだな、と思った。
色川武大の『怪しい来客簿』だ。
色川武大は、阿佐田哲也の名で書いた麻雀小説でも有名ですね。
『怪しい来客簿』は、1977年の泉鏡花文学賞をとった名作。ちょっとやさぐれた人生を送った作者が、人との出会いのエピソードをつづった連作だ。
その最後のエピソードが、こんな話だった。
作者(色川)は、腹部に激しい痛みを覚え、手術を受ける。
「名医」と評判の若い先生に担当してもらうのだが、どうも手術は失敗で、症状が改善しない。
「名医」は、苦悩して、かならず治すから、と、いろいろ手をつくす。
そのせいで、作者はその後、苦しい手術を何度も受け、死ぬような思いをする。
その過程で、作者は、「名医」を、ますます好きになるのだ。
自分は、手術の苦しみと引き換えに、「生涯の友」を得たとすら感じる。
作者は、神仏を信じず、「この世は自然の定理のみ」という人生観で生きてきた。
人生は苦しい、嫌なことばかりで、みんな心のなかで「助けてくれ」と悲鳴を上げている。
しかし、それが自然の定理であり、根本的に「救い」はない、と。
だが、このミスを繰り返す「名医」と、それを許す自分との関係に、作者はある種の「救い」を感じる。
それが、この連作『怪しい来客簿』の結論になる。
作者は、以下のように自分の「悟り」を述べている。
ミスだとしたら、私はこれまで他人のミスに対して寛大でなかったことは一度もなかった。その基本方針をまげるわけにはいかない。
しかし同時に、自分であれ他人であれ、一度ミスをしたら、助けてくれるものは何もないのだという現実に誰でも直面してしまう。だから寛大にならざるを得ないのである。
この世は自然の定理のみ。神仏など居ない。そんなことは数千年前の人間にだってわかっておったことで、だから人間は神を造る必要があった。ミスったとき神のせいにできるから。(中略)
私たちは生活のしくみの変化で、自分以外の権威を信じなくなり、信じすぎるという愚はおかさなくなったが、同時に(心の外の)裁判官もなくしてしまった。一度でもおかしたミスは永遠に自分の心の中に、かたのつかないものとして残るのである。
私たちはお互いに、助け合うことはできない。許し合うことができるだけだ。そこで生きている以上、お互いにどれほど寛大になってもなりすぎることはないのである。
(『怪しい来客簿』角川文庫版p298)
*
若い頃、わたしはこの本を読んで、なにか異様な感動を覚えた。
だから憶えているのだが、「他人のミスに対して寛大でなかったことは一度もなかった」という部分は、よくわからなかった。そういう人間を想像できなかったからだ。
作者は、自分とはずいぶんとちがった境涯の人だと思っただけだ。
いまのわたしは、作者の人生観が、少しわかったように感じる。
まあ、わたしのは、そんな文学的な「悟り」のようなものではないが。
でも、治らない手術のため、手術台に横たわるたびに、
「私たちは助け合うことはできない。許し合うことができるだけだ」
という言葉を思い出している。
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