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正月のバイトと「ニーベルングの指環」

正月になって、高校時代に郵便局で年賀状のバイトをしていたのを思い出した。

もう40年以上前の話である。

バイトをしていたのは確かだが、不思議なことに、具体的に何をしていたかを覚えていない。

配達ではなかったと思う。当時は、郵便番号制度はすでにあったが、郵便番号を書かない人もまだ多かった。だから、年賀状の仕分けを機械でできず、その手作業を手伝ったはずである。

覚えているのは、年末、何もしないで、夜遅くまで郵便局の中で「ニーベルングの指環」を聴きながら待機していたことだ。

というのも、当時、年末の4日間を使って、NHKのFMでワーグナーの「ニーベルングの指環」を流していた。それは、私にとって、事実上、この作品を聴く唯一の機会だった。

当時は録音の手立ても持っていなかった。だから、郵便局の構内で、ラジオのイヤホンから流れる「ニーベルングの指環」をひたすら聴くしかなかった。

そして、死ぬほど退屈な音楽だと思いつつ、それはまだ自分が芸術というものをわからないからだと思って、聴き続けた。どんなストーリーなのかの予備知識もなく、いきなりドイツ語のオペラ(楽劇)をえんえん10時間近く聞いているのだから、苦行以外の何ものでもなかった(でも、これで俺は「指環」を聴いた、という誇らしさだけを握りしめた)。

しかし、いま考えると、なんでそのバイトがそんなに暇だったのかが、わからない。

その郵便局のバイト代がいくらだったのかも覚えていない。

私は新聞配達のバイトもやっていた。

そして、元日の新聞といえば、分厚くて、重くて、ポストに入れづらく、とても嫌だったのは忘れられない。正月特集という別刷りが、5つも6つも挟まれているのである。自転車に全部乗らず、2回に分けて配っていた。

ある年は雪が積もったなかを配達に行かねばならず、泣きそうになった記憶がある(ほんとに泣いたかもしれない)。正月が近づくと、それだけでなんとなく憂鬱になったものである。

あのころは、「主婦の友」みたいな月刊の婦人雑誌をどこの家庭でもとっていて、その正月号も分厚かった。家計簿などが付録に着くからだ。表紙は晴れ着を着た女優で、どの雑誌も似たり寄ったりだった。

ただ、元日の新聞は、配達が多少遅い時間になっても文句を言われないから、その点はよかった(たいがい大晦日に「紅白歌合戦」「ゆく年くる年」を見て夜更かししているので朝が遅い。田舎だから初詣とかも行かない)。そして、翌日は配達を久しぶりに休める(当時は新聞休刊日が少なかった)。

新聞配達のバイト代(朝刊のみ)は、月8000円くらいだったろうか。1万円はもらえなかったと記憶している。

いまは、年賀状も新聞も需要が少ないから、高校生の手を借りることはないだろう。あれも昭和の風物の1つだった。


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