見出し画像

井上達夫の「戦争論」 ーー「守るため」と「勝つため」の巨大な違い

昨夜、「ロシア×ウクライナから考える「主権」「抗戦」「民主主義」」という、シンポのごときものを視聴したのですが。

井上達夫が出ていたので、井上達夫を見るためです。

それ以外の出演者、菅野志桜里と伊勢崎賢治は知っているけど、他の人は知らないし。

結果、井上達夫の話だけでよかったな。井上の話だけ、2時間聞きたかった。

このイベント、休憩なしで、2時間半にもわたった。夜7時半からで、いつもは寝る時間なのに、聞いている方も疲れた。(あとでYouTubeにアップするなんて話は聞いてなかった。それは先に言ってくれ。それを見ればいいんだから)

「議論が白熱したから予定時間を超過した」的なことを最後、司会者の今井一が言っていたけど、そうじゃなくて、司会を入れて7人も出して、それぞれが喋るからだよ。この7人がどういう関係なのかもよくわからない。司会者の知り合いを集めただけ? プランニングが甘いんだ。

お仲間を集めて、「ワイワイがやがや」では、価値がない。

私の出版界の経験でも、対談本は売れない。手軽に作れるから、作られがちだが、売れない。いわんや鼎談本や座談会本は売れない。どんなに有名人を集めた「朝生」でも、それを本にして売れないでしょう。それはなぜか、企画者は考えたほうがいいのではないか。

でも、井上達夫の話が聞けたから、収穫があった。

そもそも、7人が勝手に喋るから、議論としては噛み合っていないんだけど、少なくとも次の2つは区別すべきだと思った。

A  国際的な「平和」を守るため、どの国も「勝たない」「負けない」ようにしておく仕組みについて

B 平和が破れ、日本が戦争当事者となった時、日本が勝つための方法について

で、伊勢崎賢治なんかは、Aの話しかしない。Aについての専門家だから。Bについては絶対話さない。

しかし、本当の問題はBだろう、とみんな、心の中ではわかっている。

だけど、Bの話に行かない。そのもどかしさが、ずっとあった。

これは、日本のいわゆる「防衛論議」にありがちなことだ。

平和を守る、防衛、自衛、安全保障、平和構築・・そんな言葉しか使っちゃいけない「ポリコレ」があるから、そうなる。

みんな、「守る」という言葉に縛られている。

問題は、「戦争」であり、「勝負」であり、「戦う」ことであり、「勝つ」ことなんだけど、そういう言葉を使っちゃいけないから、本当の議論にならない。

Aの議論は、街中で喧嘩になっても、おまわりさんを呼べる状況だ。

まだ、「俺は悪くない」「あっちが先に手を出したんです」とか、訴えることができる状況だ。

しかし、おまわりさんが来なかったら?

実力で殴りあって、勝つしかない。それがBの状況だ。

ウクライナ侵攻のようなことがあっても、日本人は、みんなどこか「おまわりさんが何とかしてくれる」と思っている。

つまり、誰かが自分を「守って」くれる、と思っている。

しかし、それは幻想だ、とはっきり分かって発言していたのは、井上達夫だけだった。

なぜ井上がそれを分かっているかというと、「国家主権」だけが自由であることを、知っているからだ。

今の地球上に、「国家を超える存在」は、ない。そのことを明確に認識している。

「おまわりさん」や「自警団」があったとしても、国家主権ほど「自由」な意志も権限も持たない。最終的には、最小の「国家」でも、最大の「自警団」に勝つ可能性がある。

だから、「自警団」の話は、必要かもしれないが、むなしい。

いざという時、自警団の人に守ってもらうためには、日頃から機嫌を取っとかなきゃいけませんね、お金を出したり、人を出したりーーみたいな話にしかならない。

それに対して、昨日のイベントでの決定的な発言は、井上達夫が再三言った、

「自分で自分を守る意思のないやつを、他人は助けない」

だろう。

ウクライナに対しての救援が広まったのも、ウクライナ人が自国のために戦う意思を示したからだ。

いくら、日頃から自警団と仲良くしてても、「同盟」の契約を記した紙切れがあったとしても、いざというときに助けてくれる保証はない。同盟契約には、いくらも抜け道があることを、昨夜も井上は示していた。

しかし、助けてくれる保証がある、という前提で、日本の「防衛論議」はいつも進む。

そして、その論議は、いつも曖昧に終わる。

なぜなら、これも井上達夫が言っていたように、

「右も左も、最後はアメリカがどうにかしてくれる、と思っている」

からだ。

しかし、「自分で自分を守ろうとしないやつを、他人は助けない」のだ。

そして、知られるように、日本は、戦って自国を守ろうという意思が、世界でいちばん低い国だ。

【ジュネーブ共同】各国の世論調査機関が加盟する「WIN―ギャラップ・インターナショナル」(本部スイス・チューリヒ)は18日、「自国のために戦う意思」があるかどうかについて、64カ国・地域で実施した世論調査の結果を発表、日本が11%で最も低かった。2015/03/24
http://honkawa2.sakura.ne.jp/5223.html


だから、Bの結論は、本当は出ている。

日本は負ける。

日本人は自国のために戦わず、アメリカも「自警団」も、自国のために戦わないような国民を助けないから。

日本だけでロシアに勝つのは無理だ、と自衛隊もわかっている。


一方、日本は、ウクライナ同様に強国に囲まれた「緩衝国」でありながら、うまくやってきている。これも、井上達夫が指摘していた。

日本はプライドを捨てて、頭を低くして、「同盟国」に守ってもらってきた。つまりAの状況を、うまく作って、平和という利益を得てきたわけですね。

しかし、Bの状況になると、プライドが低すぎて、滅びてしまう。

Bについては結論が出ているので、Aについて考えるとーー。

「なぜ日本は、中国・ロシア側ではなく、欧米側なのか」

ということは、定期的に、再確認されるべきだと思うんですね。

これは、明治の初めに、当時の政府がそう決めたからです。日本の「必然的運命」ではない。

明治の初期に、以下のような一連の国際情勢があった。


1879年(明治12年)、イリ戦争。ロシアが中国(当時は清)の「イリ」を占領。

1883年(明治16年)。清仏戦争。ベトナムをめぐり、清がフランスに敗北。

1885年(明治18年)、巨文島事件。朝鮮の巨文島(コムンド)をめぐり、ロシアがイギリスに敗北。


こうした国際情勢を見て、日本政府は、

「中国やロシアは、欧米に勝てない。だから、欧米についていこう」

と決めた。

それでーー


1885年(明治18年)、福沢諭吉「脱亜論」。

1887年(明治20年)、「欧州的帝国をアジアにつくる」(井上馨)政策固まる。


という流れになる。

「中国・ロシアではなく、欧米と仲良くする」という近代日本の進路が決まる。


その後、英米を敵として戦った大きな「例外期間」を除き(そして、その例外期間の過ちも大きな反省となって)、ずっとこの進路なわけですね。

それは正しかった。大きく言えば、この間ずっと、世界は、欧米の天下だったから。

今回のウクライナ侵攻で、「ソフトパワーの敗北」が言われるけれど、しかしソフトパワーとしての「欧米文化」は、依然強力です。

中国やロシアの人も、一部のイスラム国の人などと違い、「欧米文化」に魅了され、その世俗的で資本主義的な生活様式を基本的に支持している。


しかし、それもある種の流行であり、50年もすれば、変わるかもしれない。

中国、ロシア、インドが、新たな生活様式を作り、欧米の覇権に挑戦するかもしれない。その頃になれば、中国、ロシア、インドの人口は欧米をはるかに超えるだろう。


その頃までに、「緩衝国」日本は、明治以来の進路を根本的に変えなければならないかもしれない。

そのための国家の「自由意志」をどう作るか。

しかしこれは、いま生きている日本人には無理で、未来世代以降の課題だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?