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落合恵子、佐高信、鎌田慧・・・「国葬反対」文化人に感じるズルさと危険性

「マスコミ主催」の反政府デモ


安部元首相の国葬に反対する集会・デモが都内で続いている。

そのデモのスケジュールを、東京新聞が紙面で「報道」したことが波紋を呼んでいる。

ジャーナリストで弁護士の楊井人文氏が、ツイッターで、その異様さを指摘していた。

反対デモを報道するのは当然のこと。だが、今後のデモのスケジュールをここまで細かく報道するのは、少なくとも私はあまり見たことがない。主催者の広報を担い、読者に参加を促しているようにもみえるが…

特定思想の政治デモを新聞が広報する。

確かに異様である。

なぜこんな偏向報道をするのか、と問われた場合の東京新聞のエクスキューズは予想できる。

「鎌田慧さん、沢地久枝さん、佐高信さん、落合恵子さんなどの有名人が呼び掛け人なので、ニュース価値がある」

こうした言い訳が通用する、と思っている人たちが、まだマスコミにはいるのである。(これらの人たちは、もうそれほど有名ではない)

中国で「官製デモ」の話は聞くが、これは「マスコミ製デモ」と言うべきか。

東京新聞の現役記者は、より露骨だ。「デモで意志示そう」と扇動している。すでに「活動家」として有名な人ではあるが。


左派マスコミの異様な光景


これらの名前を見て、私は7、8年前の異様な体験を思い出した。

ある新聞記者の出版記念パーティーに参加した。ちょっとした義理でこうしたパーティーに付き合うのは、出版界ではよくあることだ。

そこに来ていたのが、いま「国葬反対」を叫んでいる「有名人」たちだった。

ちょうど第二次安倍政権が始まった頃だった。「有名人」たちが次々と政治的演説をして、パーティーはたちまち「アベ政治を許さない」の集会のごとくなったのである。

その新聞記者の本は、社会批評ではあったが、別に安倍政権批判の内容ではなかった。私はバックグラウンドを知らなかったので、まったく面食らってしまった。

最後は、著者を含めて、

「アベ政治を打倒しよう!」

と、拳を突き上げてのシュプレヒコールとなった。

その著者が所属する新聞社(左派とされる「大新聞」の1つ)の人たちも、それに唱和していた。

その「大新聞」は、教育のために子供に新聞を読ませることを盛んに勧めているが、こんな姿を読者に見せられるのだろうか。

いや、平気なのだろう。偏向新聞とは知っていたが、もう人前でも隠さないんだな、とその時、思ったものだ。

と同時に、これらの「有名文化人」は、こうした左派マスコミの世界では「身内」なんだな、と思った。

それにしても、この人たちは、なんでそれほど安倍晋三氏を憎めるのだろう、とその時から疑問だった。

安倍氏は民主制下の政治家なのだから、選挙で戦えばいい、と思った。

いまから振り返れば、その後の「もり・かけ・桜」を仕掛けたのは、あそこに集まっていたような人たちなのだろう。


旧「朝日ジャーナル」グループ


佐高信、落合恵子・・たちは、「週刊金曜日」のグループだ。

「週刊金曜日」は、朝日新聞が、冷戦が終わって1992年に「朝日ジャーナル」を廃刊したとき、それを不満とした左翼の新聞記者や文化人が作った雑誌。つまりは、形を変えた「朝日ジャーナル」だ。

「朝日ジャーナル」をいまの人たちは知らないだろうが、朝日新聞が出していた新左翼系の理論誌のようなもので、私の田舎の日教組の先生たちもよく読んでいた。一方、毎日新聞はマルクス経済学の理論誌「エコノミスト」を出していて、佐高信はこれに書いていた(「エコノミスト」はマル経色を薄くして今も存続する)。

早い話が「過激派」の仲間だ。

「週刊金曜日」は、本多勝一、佐高信、落合恵子といった人たちが当初から中心だった。

「週刊金曜日」はその後、朝日や毎日などの左派新聞の中でも、「左」すぎて出世できなかった記者の「天下り」先になる。

サンデー毎日編集長や、慰安婦報道で有名な朝日の植村隆などが、「週刊金曜日」編集長や社長をかわるがわる務めている。

私が「金曜日グループ」と呼ぶ、これらの「知識人」の特徴は、

表の「マスコミ」で特権を享受しながら、裏から「反体制思想」を密輸入する

ということだ。

例えば、「国葬反対」が、革マルや中核派の主催だったら、マスコミは報道できない。

しかし、有名出版社から本を出し、「有名な先生」として自治体や学校から講演依頼が来るような文化人が主張するなら、その活動を「広報」できるのである。

そして、彼らの背後には、マスコミ内部にいて、彼らの活動をサポートする活動家編集者や活動家記者がいる。そうした連中が彼らを「有名人」でいられるように世話をする。

そうした編集者や記者も、マスコミ体制内の居心地のいい待遇を享受しながら、「反体制気分」を楽しむ「金曜日グループ」の一員だ。ゆくゆくは「週刊金曜日」への天下りも期待できる。


アンフェアな政治姿勢


彼らのズルさの象徴は、決して天皇制は批判しないか、しても控えめであることだ。彼らは天皇制反対であるに決まっているにもかかわらず。

それは、過去に天皇を揶揄して右翼と揉めたことも影響している。最近、右翼の「一水会」をよく自分たちのほうに巻き込むのも、「週刊朝日」や「サンデー毎日」が必ず1人は保守系文化人の連載を持つのと同じ、左翼色を薄める「隠れ蓑」にするためだろう。

しかし、それと同時に、天皇制批判を前面に出すと、「体制内」でいられなくなる、マスコミが取り上げにくくなるーーそれが大きい。

だから天皇制には表立って反対しない。昭和天皇の戦争責任も大声で言わない。

その代わりに、選挙で選ばれた政治家である安倍晋三を、死んでもなお口をきわめてののしる。

安倍晋三は死後、その功績によって、天皇が与える日本人最高の勲章、大勲位菊花章頸飾を得ている。

国葬に反対するなら、この叙位叙勲にも反対すべきだろう。どちらも閣議決定なのだ。

しかし、国葬反対有名人も、左派メディアも、それについては何も言わない。天皇の権威にケチをつけることになるので怖いのだ。主張が一貫していない。

(右派が「天皇陛下ご自身が安倍氏に位階一位と最高勲章を授けた。安倍氏の国葬に反対するとは天皇陛下に対する反逆だ」と怒れば、これら体制内左翼は黙るかもしれないーー私の好む成り行きではないが)

国葬反対有名人も左派メディアも、もりかけ桜、といろいろ「謀略」を仕掛けたにもかかわらず、選挙で負け続けたことがよほど悔しいのだろう。だから「統一教会」に飛びつく。ネタは何でもいいのである。

(宗教団体と付き合った政治家が政治を歪めているというのなら、創価学会におんぶに抱っこの毎日新聞は創価学会の意向で報道を歪めているのか。そんなことはない、と毎日新聞が言うなら、政治家も同じだろう。)

彼らは、安倍晋三を選び続けた民主主義を許せない。反民主主義だ。その意味では「反体制」なのだろう。選挙で正当に選ばれた安倍晋三こそが「体制」なのだから。

だが、彼らは特異な「反体制派」だ。

要するに、ギリギリ自分の社会的身分の安全を見極めたうえで、そのとき叩きやすいものを叩く。

自分の身分が安全な範囲でしか「反体制」活動をしない。「反自民党」は、その中でも最も安全だ。


左派マスコミの横暴をいつまで許すのか


戦前、社会主義者たちは一切の立身出世を断念して活動した。それが反体制ということだし、思想の違いを超えて尊敬された理由だった。

だが、いまの「体制内反体制」の人々はまったく尊敬できない。彼らはむしろマスコミで厚遇されている。本が売れなくなっても、テレビに出なくても、彼らは死ぬまで左派マスコミに「有名人」として、しかも「良心派」のように扱われる。

彼らに政治的主張があるのはいいが、なぜストレートに活動しないのか。いつもマスコミ内の活動家を使い、公平であるべきメディアの情報を偏らせ、デモや扇動で民主制の結果を歪めようとする。そのようにして、自分たちの主張を不当に「拡声」する。そのやり方が汚い。

私はマスコミの中で、この「金曜日グループ」とよく接触した。「有名人」ではなく、社員として入り込んでいる活動家たちのほうだ。本当に辟易とさせられた。

それで感じた彼らの哲学は、「弱者は何をしてもいい」という昔ながらの思想、つまり「目的は手段を正当化する」だ。

その左翼思想が、20世紀に何億人の人を殺したのか。そんな反省が彼らにまったくないことに驚く。(「民主、法治、公正」がモットーで、手段の正当性にこだわる私の価値観とはまったく相容れない)

要するに、自分たちの目的のためには、犠牲や偽計、裏工作や印象操作や謀略が当たり前と思っている、と思えるような人たちだ。

それに、彼らは「弱者」では絶対にない。マスコミ内の特権階級だ。満員電車にも、出世競争にも無縁で、会社に来ることも少ない。マスコミは労働組合が強いことをいいことに、叱るとパワハラだ何だとうるさいから会社には腫れ物扱いされ、デモ三昧の日々でも高給が保証される。

1960年代の過激派シンパみたいなのが、曲りなりにも「表」の組織にいまだに生存できているのは、もはや既成マスコミの世界しかないと思う(ほかにいるとすれば、アカデミズムの世界だろう)。一般社会の常識からどんどんかけ離れていっている。

彼らに感じてきたのは、ズルさや、姑息さだけではない。社会のルールを平気で破壊する危険性、反社会性だ。肩書だけを見て、まともな人に思えるかもしれない。しかし、間近で見てきた私に言わせれば、恐ろしい人たちなのだ。

そうした活動家に振り回される左派マスコミは、マスコミの信頼性や公平性を壊しているだけではない。我々の民主主義を内部から壊そうとしている。誰か止める者はいないのか。


PS  私はマスコミの偏向に怒っているのであり、あなたが自民党や安倍晋三の国葬に反対するのはもちろん自由だ。私自身は、「長く首相を務めたから」とか「国葬は外交の舞台になる」といった理由にはあまり納得していない。それよりも、国の指導者として影響力を持った政治家が、現役活動中に暗殺等の非業の死を遂げたら、民主国として、支持政党のいかんに関わらず国民全体が特別の弔意を示すべきだと思う。民主主義の殉教者だからだ。民主制下の政治家は、常に人前に立つので(小沢一郎のように常に隠れている人は別にして)、常に暗殺される危険がある。その危険を引き受けている人に敬意を持たなければならない。そして、それで斃れたなら、最大限の弔意を示さなければならない。それは与党野党を問わない。浅沼稲次郎は国葬扱いしてよかった。そして、二度とこのようなことを許さないと誓う機会にすべきだ。その意味で、安倍氏が国葬となることに反対しない。安倍氏個人の「神格化」などではなく、あくまで民主制を守ること、その破壊を許さない意志を示すこと、を旨とする、という条件で。



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