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【日本左翼史】 女スパイ・北林トモの最期

1941年9月27日、和歌山県粉河町(現紀ノ川市)粉河寺前の北林家に特高警察が踏み込んだ。

屋内にいた北林トモ(55歳)は無抵抗で検挙され、東京・六本木警察署に連行された。

六本木署での北林トモの自白から、20世紀最大の国際諜報事件といわれるゾルゲ事件が発覚した。


北林トモ、旧姓斉藤トモは1886(明治19)年、堺市生まれ。1920(大正9)年、34歳のとき、ロサンゼルスで農業を営む北林芳三郎(37歳)と写真結婚し、渡米した。

トモが日本を捨てたのは、神戸で外国人のメイドをした経験や、日本の女性差別に絶望した、アメリカの自由に憧れた、などの理由が言われるが、はっきりしない。

そのロサンゼルスで、1929年頃、沖縄出身の画家・宮城与徳と出会う。2人はその時までに、プロレタリア芸術研究会に入会し、アメリカ共産党に入党していた。当時、トモ43歳、宮城25歳。2人が思想的同志の関係に留まるのか、男女の関係だったのかは分からない。


ゾルゲ事件の名は、国際諜報団首謀者のドイツ人ジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲに由来する。彼はコミンテルン(社会主義ソビエト)のスパイとなり、1933年から日本で日独の軍事機密を盗んで、スターリンに伝えていた。

そのゾルゲの重要な協力者だったのが、近衛文麿のブレーンだった朝日新聞記者、尾崎秀実。そして、その尾崎とゾルゲの仲介役で、情報の受け渡しをしていたのが宮城与徳だった。


宮城は1936(昭和11)年、ロサンゼルスで北林トモを諜報団に組織した。北林トモは、その年末から、帰国して東京の洋裁女学院の教師となった。その後、ロサンゼルスの農場を処分して帰国した北林芳三郎とともに、夫の故郷である和歌山県の粉河町に引っ越した。

宮城与徳は、放浪の画家という体で、粉河町の北林宅にたびたび立ち寄り、北林トモとともに関西地方の諜報活動をおこなっていた。その内容は、農家の状況や公共工事の現状などの調査で、公式の産業報告には上がらない情報ながら、どれほど重要な情報であったかは評価が分かれている。


北林トモは、粉河町でも洋裁学校を開いた。戦時にもかかわらず、洋服でスカート、ヒールの高い靴を履き、パーマをかけて標準語を話したので「ハイカラさん」と呼ばれ、とくに少年少女に「トモちゃんおばちゃん」として親しまれた。

女子たちはそのファッションに憧れ、男子たちはカレーライスやビスケットなどの洋風の食べ物に惹かれて、北林家に出入りした。「外見の華やかさとうらはらに、非常に慎み深く気さくで優しく、礼儀正しかった」という。

一方、「トモ子さんは方言で話せないから雲の上の人で、スパイという噂があったから交流しなかった」という町民の証言もある。


1941年9月の北林トモ逮捕を皮切りに、10月に宮城、ゾルゲ、尾崎、そして、ソ連に情報を打電していた無線技士クラウゼンが逮捕され、翌年までに諜報機関員17名、協力者被疑者20名が一網打尽となった。

1943年8月に宮城は獄死。1944年11月に尾崎とゾルゲは絞首刑となった。

女スパイである北林トモに関する記録は破棄され、関係した多くの人の記憶は封印された。


1945年2月、和歌山刑務所に収監されていたトモは、病気によって懲役5年刑を執行停止、釈放された。

大雪の日だった。夫の芳三郎と、その兄の三宅亀太郎は、トモをリヤカーに乗せて、刑務所から自宅まで連れ帰った。

その時、トモの姿を見た亀太郎の孫は、こう回想している。

「すごい姿やったとな。布団ちょっとかけてあったんかな。そう、座ってきた。顔は腫れて、ぼろぼろだった。かなり暴力受けてあるみたいよな、あれやったら。そんな姿やった。小さくなってた。大きな人がな」

2日後、トモは亡くなった。58歳だった。


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(参照:海津一朗「ゾルゲ事件被告北林トモの粉河時代」『世界史とつながる日本史 紀伊半島からの視座』所収)








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