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仙台育英高校は「魔術的な言葉」に勝利した

「甲子園の優勝旗はまだ白河の関を越えていない」

この表現を初めて耳にしたのは、たしか中学校の時だ。
国語の先生が芭蕉か誰かの句か歌を紹介したときに、「白河の関」という場所を詳しく教えてくれた。そのついでに、甲子園の優勝旗の話も教えてくれたのである。


なんと粋な表現なのだろう。


美しい言い回しに魅了されたことを今でも覚えている。

肝心な芭蕉か誰かの句か歌こそ忘れてしまったが、その「甲子園の優勝旗はまだ白河の関を越えていない」という表現は、こうして今日という日まで記憶から離れないほどに、僕に強い衝撃を与えた。

その言い回しは、いつから使われ始めたのかはわからないが、いちおう昨日で一区切りがついた。仙台育英高校が夏の甲子園で優勝したのだ。


「甲子園の優勝旗が白河の関を越えた」


のだ。

***

甲子園の優勝旗が白河の関を超えたことは、嬉しい反面、正直どこか寂しさもある。

なぜなら、僕たちはもう

「甲子園の優勝旗はまだ白河の関を越えていない」

とは言えないからだ。


その粋な美しい表現に魅了されて、だいぶ長い月日が経つ。
中学のその頃から今に至るまで、夏の時期に「白河の関」という表現を使いたくて仕方がなかった。それに秋田県民として、東北勢が甲子園でどこまでいけるかというわくわくも相まって、やはり「甲子園の優勝旗が白河の関を越えていない」というのは、僕はどこか特別な言い回しだった。


使いたくなるほど「甲子園の優勝旗はまだ白河の関を越えていない」という表現には、妙に人を惹きつける力があるように思える。


今大会で優勝した仙台育英高校でも、13度目の正直でようやく勝ち取ることができた優勝旗。他の東北勢も惜しいところまでいっては、幾度となく「甲子園の優勝旗はまた白河の関を越えられなかった」と言われ続けてきた。

ここに至るまで、相当長い道のりだった。

僕たちは「甲子園の優勝旗はまだ白河の関を越えていない」という言葉の魔術にかかっていたような気がする。表現としては美しく、どこか人を惹きつける。だからその言葉に操られるように、優勝旗もずっと白河の関をわざと越えないようにしていたようにも思える。


不義な力を持つ魅惑のフレーズだからこそ、その言葉に打ち勝った今、どこか寂しさを感じてしまう。


周りもどこかそのようなことを感じてはいないだろうか。

「春の甲子園の優勝旗はまだ白河の関を越えていません」

なんて表現を、もしかしたらどこかの局アナは使うかもしれない。


でも、その言葉の時代は一つ区切りがついた。


甲子園の優勝旗が白河の関をうんぬんという表現には、もうかつてほどの力も魅力も感じなくなってしまうだろう。だが、時代は進む。それでいいのだ。その言葉の力に打ち勝った仙台育英高校はやはり素晴らしいし、強かった。

ここからが新しい時代の始まりである。

高校野球における「東北」という地域に、ようやく真の意味での『血』が巡ってきたような感覚を覚える。燃えるように熱くなり、これからの時代を作っていく雰囲気が、我が東北から生まれるのかもしれない。

そんな期待も、心のどこかある。


魔術的な言葉を乗り越えたここから、新しい時代を築いていこう。

***

そのように考えると、言葉に打ち勝つというのは非常に難しいことだ。

どこか「勝ち癖」や「負け癖」と似ている。言葉が深層心理に働いてでもいるのだろうか。いずれにせよやはり言葉には力があり、最も僕たちの身近な世界で敵にも味方にもなる存在である。

そういう意味で、今回の仙台育英高校の勝利は、僕たちに素晴らしいものを見せてくれた。


あっぱれな戦いぶりであった。


今後の東北にも注目である。

2022.08.23
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