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自己主張(アサーション)ってうまくいかなくない?



 自分のおねがいを相手に伝えたのに、相手が応じてくれなくてイライラする。

 自分がこまっているのに、相手はわかってくれない。



 あなたには、そんな経験があるのではないだろうか。



 心理学やコミュニケーションの勉強をするとき、「アサーション」が円滑な人間関係を築く方法として推奨される。

 アサーションとは、相手の意見に耳を傾けながら自分の意見も伝えるコミュニケーションの手法である。

 ほかのひとに配慮せず自分の意見をつよく主張するコミュニケーションや、自己主張を控え相手にあわせようとするコミュニケーションとはちがい、アサーションでは自分と相手の双方をだいじにする。



 しかし、アサーションはしばしばうまくいかない。

 円滑な人間関係を築こうとしたはずが、かえって人間関係をこわすことがある。



 なぜ自己主張(アサーション)はうまくいかないのだろうか?

 どうすれば、自己主張とはちがった方法でうまくコミュニケーションをとれるのだろうか?



 この記事を通して、「上手に回り道をして人間関係を保つ方法」を、わたしはあなたと考えたい。


 自己主張してもうまくいかず悩むひとや、ひととよく衝突するひとにこの記事を読んでほしい。

 また、アサーションをひとに教える対人支援職のかたにも読んでもらいたい。






自分の気持ちが伝わらない



 以前、わたしは自己主張をして辛い目にあった。



 車の運転が必要だったので、わたしはペーパードライバー講習をうけた。


 駐車の指導をうけていたときだった。
 わたしは教官の説明にたいして理解が追いつかなかった。教わったことを確認するとき、わたしはまちがいを言った。すると教官はつよい口調で

「ちがいます、ぼくはこう説明しましたよね。そうはならないです」

と言った。


 わたしはパニックになった。

 なかなか駐車のやりかたが飲みこめないなか、きつい口調で指摘されて怖くなってしまった。

 駐車について考えようにも、恐怖と焦りが頭を支配して、思考を整理できなくなった。


そこでわたしは教官に、

「すこし落ちつかせてください」
「すみません、言いかたがちょっときつく感じるのでやめてもらってもいいですか?」

と伝えた。


 すると教官はこう言った。

「ごめんなさい。じゃあ、進めてもいいですか?」


 じゃあ、進めてもいいですか?


 わたしは凍りついた。

 この教官は、わたしが感じた恐怖や不安や混乱を理解していない。

 彼は口で謝っただけで、もうしわけない気持ちも伝わってこない。

 なにがよくなかったのかわかっていない状態で

「じゃあ進めてもいいですか」

と講習を進められても、きっとまたわたしはきつい言いかたで混乱する。


 わたしは防衛反応で思わず

「いや、わたしの気持ちをわかってなくないですか?」

と言ってしまった。


 教官は

「なにがですか? ぼく謝ったじゃないですか」

と答えた。


「いや、そうじゃなくて、さっきの言いかたがきつくて、わたしは不安に感じたんです」

 わたしはそう教官に伝えた。


 教官の返しはこうだった。

「いや、駆里さんがさっきまちがいをおっしゃられてたので、事故をおこしたら危険だと思ってそれはちがいます、こうです、って言ったんですけど」


 ああ、このひとにはなにを言っても無駄だ。

 確かにまちがった知識を覚えたら危険だ。しかし、ただしい知識を覚えようとする段階でまちがいを厳しく指摘したら、教わる側は動揺してしまう。


 わたしはもう、教官に怯えながら運転を勉強しても内容を飲みこめそうになかった。

「すみません、今日はもう帰らせてください」

 わたしはそう伝えた。


 家まで送ってもらう道中、わたしは涙をおさえられなかった。くやしくてしょうがなかった。

 教官は泣いているわたしにティッシュをさしだした。
(ひとを泣かせるようなひとにかぎって、泣いているひとにティッシュをわたすのがやさしさだと思っている)



 わたしの伝えかたに改善の余地があったのかもしれない。

 でも、伝えかたを工夫しても、この教官にはわたしの気持ちは伝わらなかっただろう。

 教官にわたしの話を聞こう、わたしの訴えをわかろうとする気持ちがなかったから。


 それに、追い詰められたときに最大限に言いかたを配慮するのはむずかしい。あのとき、わたしは自分にできるSOSをだしていた。それ以上をあのときのわたしにもとめるのは無茶だ。



 自分の気持ちを伝えたから、そしてそれが伝わらなかったからわたしは傷ついた。

 がまんしてなにも言わないのがいちばんよかったのでは、と思わずにはいられない。



円滑な人間関係を築くためのアサーション



 ここで、あらためてアサーションの手法について紹介する。アサーションに関する記事の説明を提示する。


 アサーションでは、まず「Iメッセージ」をつかう。これは、主語を「あなた(You)」ではなく「わたし(I)」にする方法である。


 たとえば、

「あなたはひとの気持ちを考えていないよね」

と言われるよりも、

「わたしはこれをされるといやだからやめてほしい」

と言われるほうが、聞く耳をもつ気にならないだろうか。


「あなたはひとの気持ちを考えていないよね」
と言われると責められたと感じるし、相手の主張がわからない。

「わたしはこれをされるといやだからやめてほしい」
は明確な要望として素直にうけとれる。



 つぎに、アサーションでは、話を

「状況」「気持ち」「提案」「選択」

の4つの順序で整理する。


 これは「DESC法」と呼ばれる手法だ。DESC法では、

①状況を客観的に説明し(Describe)

②自分の気持ちを表現し(Express)

③解決のための方法を提案し(Specify)

④提案にたいして相手の「Yes」「No」それぞれの反応を想定しながらつぎの表現を準備・選択する(Choose)


DESC法のやりかた



 たとえば、夫が靴下を部屋に置きっぱなしにしているとする。

 靴下を片付けてほしいとき、妻は夫にこんな伝えかたができる。

「靴下が部屋に置きっぱなしだけど(状況の描写)、わたしが洗濯する前に片づけなきゃいけなくてこまっているんだよね(気持ちの表現)。靴下は脱いだら洗濯機にいれてくれないかな?(提案)

 夫が「わかった」と言えば「ありがとう」と言う。
 夫が片付けを渋るようであれば
「それだったら置きっぱなしにした靴下は自分で洗ってくれる?」
とべつの提案ができる(代案の選択)



アサーションには注意が必要



 昨今コミュニケーションの手法としてアサーションが推奨される。


 しかし、無分別にアサーションを勧めるのはよくない。なぜなら、アサーションによってかえって傷つくことがあるからだ。



 たとえば、こころの傷を負って、自己主張できないひとがいたとする。

 このひとは問題があるといつも「自分が悪いんだ」と思う。

 そして心身の調子を崩す。

 このひとはセルフケアの勉強をして、カウンセリングをうける。


 このひとは気づく。

自分が傷ついたのは当たり前だったんだ。
自分は悪くなかったんだ。
相手にも問題があったんだ。

 そうして、このひとは自分を尊重できるようになり、他者に怒れるようになる。


 このひとは回復の途中で、アサーションを学ぶ。

 このひとは自分の怒りをアサーションをつかって相手に適切に伝えようと試みる。

 そうすれば円滑な意思疎通ができるようになり、このひとの生活の苦労が軽減される。


というのがアサーションの筋書きだ。だが、そうはならない。

 この試みは必ずしもよい結果にならない。


 せいいっぱいことばを尽くして

「わたしはこれがいやだからやめてほしい」

とこのひとが伝える。


 しかし、相手はこのひとを気遣わない。

 このひとの気持ちを尊重しない。

 謝らない。

 このひとのためになにもしない。

 どころか、このひとの気持ちを害する。


 このひとは自分の気持ちを伝えたがためにかえって打ちのめされる。

 さきほどのわたしのペーパードライバー講習のように。


 アサーションを真面目に実践して問題を解決しようとすればするほど、思った結果にならずにこのひとは傷つく。

 アサーションを覚えたとて、このひとの生活の苦労や生きづらさは解消されない。



「人間関係でこまったときはアサーションをしてみよう」

となんでもかんでもアサーションを勧めるのは、方向性をまちがえている。


 アサーションを身につけるだけでは、人間関係の問題の解決につながらない。

 わたしたちはアサーションとはちがった、コミュニケーションをとる方法を身につける必要がある。



なぜアサーションはうまくいかないのか



 相手に配慮しながら、ことばを選んでこちらの要望を伝えたのに、相手はこちらの努力にこたえない。


 アサーションとは円滑な人間関係を築く手法ではなかったのか。
 なぜアサーションはうまくいかないのだろう。



①代案の皮肉



 まず、アサーションの難点はDESC法のChoose(代案を選択する)にある。


 自分の要望が通らなかったとき、わたしたちがだせる代案は

①べつの要望を相手にだすか、

②自分の行動を変えるかである。


 ①べつの要望をだして自分が満たされ、その要望を相手がうけいれるのであれば問題はない。


 しかし、それもむずかしい場合がある。


 そのときは②自分の行動を変えるしかない。


 しかし、このときわたしたちがとれる選択肢は折れてがまんするか、相手のいる場を避けるまたは離れることになりがちである。


 そもそも、こちらの要望を相手に伝えるのは負担が大きい。
 それでも相手にこちらの要望を伝えるのは、がまんやその場を避けたり離れたりすることをやりたくないからである。


 仮に自分が行動すればここちよくいられるなら、そもそも自分の意見を伝えずに自分が行動を変えているはずだ。


 相手が自分の要望を拒否すれば、わたしたちはがまんや撤退をするしかない。わたしたちはなにかを失ったり、負担を負ったり、いやな思いをしたり、その場でのひととのつながりを断念したりする。それにたいしてわたしたちは傷つき、怒りがわいてくる。


がまんや退避をしたくなくて要望を伝えたのに、
がまんや退避をさせられる


 さきほどのペーパードライバー講習の例でも、安全に講習をうけたくて

「きつい言いかたをやめてほしい」

と伝えたのに、結果としてわたしは講習を中断することになった。


 あなたにも、相手へのお願いが断られ、自分ががまんしたりその場を離れたりしなければならなかった経験がないだろうか?



② 理解は気持ちを離れされる



 自分の願望を通すだけでなく、妥協も建設的なコミュニケーションには必要だ。


 しかし、妥協には双方の気づかいと歩み寄りがもとめられる。こちらが努力しても相手が努力しなければ、こちらが損をする。

 互いにいっぱいいっぱいで相手を気づかいたくてもできないときもある。


 相手とよい関係を築きたくて自分の要望を伝えたはずなのに、相手の対応が好ましくないと落胆して、対立や分断を深めることがある。


「理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を生む」


 これは俳人の種田山頭火のことばである。



 相手に理解してもらおうとすると、相手の対応を見てわたしたちは理解したくなかった相手のいやな部分を理解することがある。


 こちらの要望が拒絶された場合、しばしばわたしたちはなにも言わなかったときよりも傷つき、相手に失望して、相手との関係を終わらせる。


 あなたにも、二者間の問題について話し合った結果、話し合う前よりも相手のことを嫌いになった経験はないだろうか?

 あるいは、ぶつかりあいにならないように話し合いを避けたことはないだろうか?



③他者を正すことはできない



 そもそも、

いくら相手が身勝手で配慮のないひとだったとしても、

そしていくら自分の要望が正当だとしても、

自分の思い通りに他者を変えるためにこちらの要望を伝えるのは傲慢なのかもしれない。


 わたしたちは他者を正せない。

 他者はわたしたちの思い通りにならない。


 不条理な世界で自分のただしさに囚われていても、不条理な他者とすれちがいつづけるだけだ。


 わたしたちが他者に変わってほしいとねがうとき、まるで

舞台で照明も、踊りも、舞台装置も、出演者たちも、なにもかも自分の望み通りに取りしきりたがろうとする役者

「アルコホーリクス・アノニマス」

のようになっていないだろうか。


 理想がただしくとも、それが現実の他者にそぐわなければ、それは自分本位な夢物語に終わる。


 あなたも、困った相手に変わってもらおうとはたらきかけたことはないだろうか?

 その結果はどうだっただろうか?



 自分の主張を伝えようとすると、人間関係に溝をつくることがある。

 わたしたちにはべつのやりかたが必要だ。



伝えずに解決する



 どうやって自己主張せずに人間関係の問題を解決するのか。

 回り道をしよう。



 こまったとき、わたしたちは直接自己主張するのとはちがった方法で、そして単に自分ががまんしたりその場から離れたりするのともちがった方法で、問題に対処できる。



具体例①:検討します!



 当時大学院生だったわたしの友人は、大学院で交流会を開いて来客を招くことになり、その準備に追われていた。


 そのときに、友人たちは先輩から何度も

「これがよくない」
「あれを直して」

と指摘をうけたそうだ。


 友人は自分たちがもうせいいっぱいやったから、先輩にこれ以上の助言をしないよう伝えようとした。


 そのとき友人の同期は、その先輩に

「わかりました、検討します!」

と表面的に言って適当に流した。


 友人はそれを見て、同期の対応はうまいなと感心した。



具体例②:教祖だったら



 わたしがボランティアでお世話になっている天理教の教会の奥さんは、教会で子ども食堂を開いていた。


 その子ども食堂で、来てくれた親御さんが食事に文句をつけた。


 格安で食事を提供するのだから、そんな風に言われる筋合いはない。

 奥さんはその文句に傷ついたことを伝えることもできた。


 しかし、そこで奥さんは思いだした。


 天理教の教祖である中山みきは自ら私財を手放し貧しい生活に落ちきって、こまっている人々に家財を施した。

 活動のなかで、中山みきもやってきたひとから文句を言われたこともあっただろう。

 そんなとき、教祖(おやさま)は『ご苦労様』と言ったのではないか。


 そう思い、奥さんは怒りをしずめた。



 問題があったとき、自己主張だけが物事を解決する方法だとはかぎらない。

 自分の気持ちを伝えなくても、わたしたちは相手のことを上手にかわしたり、自分の思いを自分のなかで消化したりすることができる。

 そうすれば、相手と平和的な関係を結べるかもしれない。



おかしなかたちのままにする



 文学紹介者の頭木弘樹さんは、向田邦子さんが脚本を書いたテレビドラマ「あ・うん」のセリフを引用してつぎのように述べる。


 ぐしゃぐしゃに積まれた将棋の駒を引っ張ってとろうとすると、ザザザザッと将棋の駒の山が崩れる。人間関係においても、ちゃんと話し合うのはぐしゃぐしゃの状態からきちんと積み直そうとすることであり、そうするとかえって人間関係が崩れることがある。おかしなかたちでもおかしなかたちなりに均衡があって、それがみんなにとってしあわせなかたちでありうまくいくこともある。なんでもきちんと話し合ったほうがよいとはかぎらない。



 きちんと話し合って“不均衡な均衡”を取りこわし再建を試みると、相手は足元を崩されて揺さぶられるし、自分のバランスも崩れる。わたしたちに問題という瓦礫が刺さるかもしれない。


 自分の意見を伝えると、それが相手に不都合なものであれば相手は脅かされ、相手からいやな反応が来ると自分も脅かされることがある。わたしたちは解決できないすれちがいや対立に痛めつけられ仲違いする。


 あえて“不均衡な均衡”を保つコミュニケーションをとったほうがよいときもあるのではないか。

 こわしたものを建て直せないと、取り返しのつかない残骸になるのだから。

 ちぐはぐな均衡を保ったまま、わたしたちは自分を満たせるかもしれない。



誰かではなく、わたしがしあわせであるために



 直接的な自己主張ではなく、上手な回り道で人間関係がうまくいくかもしれない。



 ただし、注意点がある。

 上手にかわすやりかたは、あくまで自分にたいしてだけもとめたほうがいい。


 他人にたいして、自己主張せずに受け流すことをもとめたり、自己主張を責めたりしてはならない。それは暴力的だ。


 自己主張はケアの要求やそのひとの権利を守るために必要だ。

 それを否定するのはケアの必要性や侵してはならない権利の否定になる。


 差別、ハラスメント、加害行為といった社会問題に怒りの感情をもって声を上げたひとにたいして

「伝えかたが悪い」
「そんな言いかたでは伝わらない」
「もっといい伝えかたがあった」
「怒らないで主張してほしい」

といった指摘をし、相手の主張ではなく態度を批判して論点をずらすトーンポリシングが問題になっている。



 ひどい目にあってはげしいことばで怒るひとには、ことばがはげしくなるほどの痛みがある。



 そんなひとの口を塞いではならない。

 権利を主張し被害を訴え人権問題を指摘するひとたちの話にわたしたちは耳を傾ける必要がある。



 普段の対話においても同じである。

 誰かが自分のニーズを訴えたら、わたしたちはそのひとのニーズに気を配る必要がある。


 ほかのひとにたいしてもっとうまく立ち回るよう強いないほうがよい。

 それはそのひとの気持ちをまともに取り扱わない態度になるかもしれない。


 わたしたちにできるのはせいぜい、

「こういうやりかたもあるよ」

と提案するくらいである。



「要望を直接相手に伝えて、"わたし"はしあわせになれるだろうか?」

 あくまで自分自身のためだけに、そう自分に問いかけたい。



ひととぶつかってばかりでいいのか?



 もう人とぶつかりたくない。

 だから私は、自己主張とは違う方法を考える。



 ひとと頻繁に衝突するのがわたしのこまりごとだ。


 ひとと関わっていやな思いをすると、わたしはつい相手に真正面から自分の気持ちを伝えてしまう。


 その結果、

 あるときは全面的にわたしの考えや人格を否定された。

 あるときはごめんごめんと笑ってはぐらかされた。

 あるときはただ泣いて許しをこわれた。

 あるときは無反応で応酬された。


 そしてどの場合も人間関係が破綻した。

 わたしは自分の気持ちを粗末に扱われるのに耐えられなかった。



 自分の気持ちを真っ向から主張するだけでは、果たして状況はよい方向に変わるのだろうか?

 それでわたしは自分をしあわせにできるのだろうか?


 わたしにいやな思いをさせたひとも、無知だったり、余裕がなかったり、不完全だったり、傷ついていたりして、わたしに配慮できなかったのかもしれない。

 そんな相手との衝突は建設的な結果につながるだろうか?


 上手に迂回して関係を保つ方法を身につければ、もうすこしわたしの生きかたも楽になるのではないか。



あなたならどうしますか?



「上手に迂回して関係を保つ方法」

について、知人からいくつか意見をもらった。


  • 本人に言うよりも第三者に言う。
    そのひとに言いにくいことはそのひとの上司や責任者に言う。

  • 下手にでる。「熱心に教えていただいて恐縮ですが…」

  • かわいそう感をだして自分を守ってもらう対象と認識させる。
    もうしわけなさそうに伝え、「手間のかかる自分」にあわせてもらうようおねがいする。
    「実は昔の怖い先生がトラウマで……わたしが怖がりで気にしすぎるばかりにほんとうにもうしわけないのですが、言いかたをなるべくやわらかくしてほしくて……無理をおねがいしてもうしわけないです」

  • 自分が悪くなくても謙虚にふるまう。
    「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
    立派なひとほど謙虚にふるまうものである。



 あなたならどんな対処法を思いつくだろうか? 自分にできそうな方法をぜひ考えてみてほしい。




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