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サバイバーを踏みにじる「二次加害」の暴力

1か月以上かけて、「二次加害(セカンドハラスメント)」についてポチポチ書き続けていたのですが、書くたびに私の心身の具合が悪くなるので、ここでいったんリリースします。出来が不十分なのは自覚があるので、どこかでリベンジしたいです。

■はじめに:

社会、それも支援業界・ソーシャルグッド界隈における二次加害(間接的加害、セカンドハラスメント)が蔓延しております。

 本稿はここ1年半くらいさまざま問題(差別・排除・性暴力虐待・DV・いじめ・ハラスメント)の被害当事者(サバイバー)や代弁者として活動をしている方々から、支援者(専門職/非専門職とわず)あるいは支援業界・ソーシャルグッド界隈における言論活動者による「二次加害(性)」を訴えられたあらゆる行為、ならびにそれらに対する議論や訴えに触れて、考えたことであり、特定の事案、個人について扱っていません。本稿の目的も特定の事案や団体、個人への批判を目的としていません。取り上げている事象や、行為すべては「複数の人間によってなされた行為」を言及しています。ですので、自分のことかも、あの人のことかもという憶測は、どうかお控えください。自分に当てはまると思ったことがあれば、ぜひ一度自身の行為に加害性がなかったか、それを生じさせた自身の在り方について内省をなさってみてください。二次加害は、時に一次加害以上に深刻なダメージを当事者にもたらすことは珍しくありません。一人一人が、二次加害の問題を自分ごととして考えることが大切だと思っています。そしてそれは、もちろん、私も含めて。(あと、ここだけですます調なのもご容赦ください。)

■ざっくりした結論: 「弱さの受容」と「加害(性)の免罪」「弱さを許さない」と「加害を許さない」の混同が被害者(サバイバー)を蹂躙する

 結論をいうと、支援者により顕著な二次加害として、「弱さを認める」「弱さごと受け入れる」「弱さに寄り添う」ことから、「弱さが生み出す加害性と向きあう」視座が欠落してしまう、あるいは「弱さは免罪符になる(べきだ)」という価値観により、「弱さが生み出す加害(性)を矮小化する」「被害者に対して、加害者への配慮や免責をもとめる」「加害性を指摘する人への攻撃」といった二次加害を生み出している。そしてそれが蔓延しているヘル支援業界・ソーシャルグッド界隈の実態がある。

 そもそも、「弱さの受容」とは、弱さが生み出してしまった加害(性)"も含めて"受け入れるということである。そして受容とは「肯定」とは違う。「弱さに寄り添う」とは、弱さが生み出してしまった加害(性)への内省や自責”にも”寄り添うということである。加害(性)を否定したり、軽視したり、矮小化すること、反省や内省を阻害することは、真の意味で弱さを受容していないばかりか、その上澄みだけを揃って、全体としてはむしろ否定している行為である。加害者の弱さや傷つきは、加害行為を無害化できないのだ。また、これら(加害性の軽視や矮小化)は支援や回復(時に更生)のプロセスにおいて、過大すぎる自責感を修正したり、自己破壊的な自罰感情・思考を諌めることともまた異なる。もっともこれに明確な線引きは難しい状況は多々あるが。なんにせよ、弱さと加害のつながりを意識しつつ、それを適切に弁別して考え、振る舞う必要はある。加害(罪)を許さないことは、それをおこなった弱さ(人)を許さないこととは違う。弱さを許すことと、加害を許すこともまた、違うのだ。また、いずれの場合であっても、被害者が加害者を許すことを他者が押し付けるのは暴力だ。

 弱さの抱える加害者の「生きづらさ」「抑圧体験」「傷つき」ばかりに着目し、「加害の影響」「被害者の痛み」を軽視・無視してしまう。これが矮小化である。そしてそれらは自称「弱さに寄り添っている」支援者や、「誰一人取り残さない」論者がおこしがちな加害行為であり、その行為は、加害者の弱さにも真の意味で寄り添っておらず、被害者を取り残しているという事実である。

■ざっくりした提案:弱さの代弁は必要だからこそ、自己チェックをしよう、誠実に学ぼう、無知の自覚をしよう。

 弱さはだれもが抱えている。そして、ほとんどの加害行為(二次加害含む)は、その背景に、なんらかの弱さ(無知なども含め)や傷つき、その人にとって「やむない」事情がある。他者への加害性を孕む弱さや生きづらさを抱えている人の事情や困り感は理解はされづらいからこそ、代弁していくことは必要だ。けれど、目の前の当事者に没入するあまり視野狭窄に陥っていないか、それ以外の誰かの尊厳を傷つけていないか?不要な攻撃性をはらんでいないか?誰も傷つけない主張なんてないというフレーズを思考停止ないしは詭弁的な自己弁護に使ってないか?傷つく誰かを想定して、それに対して事前の誠実な言及や、事後の謝罪の一言があるだけでだいぶん違う。語る場や媒体を選ぶことも大事だ。オープンな場、(半)クローズな場、誰の耳や目に直接はいりうるのか、どう伝わるのか。語った内容や表現だけではなく、語らなかったことの意味と重みを考えよう。

 無知や無自覚で他者を踏みにじってしまわないために、差別や排除、抑圧を生む社会のメカニズムと、PTSDや二次被害、代理受傷、共感疲労といった心理的メカニズムを学ぼう知識があるだけで、わかったつもりになってないか?きちんと想像力と共感力を働かせたか考えよう

 二次加害の指摘を受けたら、自分と謙虚に誠実に向き合おう。伝え方の問題に矮小化せず、自分をチェックしよう。まして、相手の問題にすり替えるのをやめよう。これは、ベテランや、社会権威がある立場の人が陥りやすい。けどいくつになっても、どれだけのことを成し遂げた人でも、知らないことや思い至らないことのほうが圧倒的に多いのだから。指摘をすぐに飲み込めなくても、まずは相手の傷つきを受け止めよう。謝罪や再説明を行おう。

 こういった二次加害に関する内容を支援職の養成や、研修の中で扱っていこう。ソーシャルアクションが必要だからこそ、その質をたかめていくために、きちんとやっていこう。どんな主張にも傷つく誰かはいる。だからこそ不要な傷つきや、無自覚な尊厳の蹂躙がないように心がけよう。それをきちんと考えたい方は、二次加害性を指摘された行為や表現と、それに対する提案をまとめたので読んでほしい。いずれも複数の当事者(サバイバー)と代弁者たちを傷つけた言葉たちだ。「いやでもそれは」という前に、「ひどく傷ついた方がいる」という事実をふまえて、そこに想像力をおよぼして、一度じっくり考えてみてもらえると嬉しい。そのうえでの反論や異論、批判を軟迎したい。

■加害者の弱さや、背景にある事情などを理由に、被害者に対して理解や配慮、許しを求める行為

加害者の病気や障害、虐待歴や置かれた環境、抱えている生きづらさを理由に、被害者(側)に配慮や許しを求める行為。これが一番支援業界の人間がやりがちである。加害の原因になる弱さ・生きづらさを理解し、それを軽減、あるいは無くしていくこと、排除せず、更生や回復、社会参加を支えるのは社会全体の責務である。被害関係者に求めることではない。それを被害当事者に求めて、「加害者を許せ」「加害者に配慮しろ」「加害者を受け入れろ」と迫るのは二次加害でしかない。加害者の弱さや生きづらさといった背景は、加害の影響を無害化するわけではないのだ。被害者は加害行為も、加害者本人へ怒る権利がある。もっとも私刑は認められないが。「加害者を排除するな」「加害者にも将来や人生がある」「永遠に許されないのか」など、ひどい時には、その怒りの表現や許せないことを、そして社会的な排除・不寛容と混同して、被害者側を攻撃する行為まで散見される。社会に求めていくにとを、被害者に求めない。社会に求めていく 発信をする場合も、被害者に対する配慮を忘れないようにしたい。

■被害者にも落ち度があるといって、加害者を擁護する/被害者に「指導」や「助言」する

 特に、性暴力で顕著なのだが、「ふたりきりになったこと」「ふたりで飲みに行ったこと」など、被害者に落ち度があった、隙があったため、加害者が期待してしまった・誤解してしまったなどといって擁護する。あるいは、加害は「勘違いしてしまった」ゆえの行為など矮小化する。また、被害者に対して、あなたの言動が、相手を誤解をさせたので気を付けなさいといった「助言」のていで行われることもある。いじめに対して、 「あなたがはっきりと拒否しないから、相手が愛のあるいじりのつもりだった」というフォロー?の場合もある。「いかなる事情があっても、暴力(心理的なものも含む)をうけていい人は誰もいない」という態度を徹底したい。

■あなたの被害はたいしたことがない、もっと大変な人はいるというたしなめ/傷つくのは未熟だという批判

 セウハラや、モラハラ、パワハラ案件や、性差別を相談した際に、よく起きる二次加加害。そんなことで傷ついたり不満を抱える被害者が未熱だ、わがままだという批判に転じがち。みんな耐えているのに、あなただけが不満を言う、などもそう。

 『**差別に比べたら、〇〇差別なんてたいしたことない」といった、マイノリティによる属性マウンティングや、苦労マウンティング、不幸マウンティングなどもある。相談されたり、被害を申告された際には「こんなことで?」と思うかもしれないが、それぞれの辛さや痛み、尊厳を大切に、受け止めたい。特に自組織内のハラスメントに対する訴えは、自分自身の価値観や感覚が風土や文化に染まっていないか見直すよい機会である。

■加害行為や、被害の訴えを黙設する/しかるべき対応をしない/なかったかのようにふるまう

 特に、加害者が影響力のある人物であった場合、いわゆる「見て見ぬふり」が横行する。これは“今まさに加害が行われている場で見て見ぬふりをする"、“被害者から被害の訴えがあっても、様々な理由をつけてしかるべき対応をとらない"“SNS 空間等で、加害がなかったかのようにふるまう”の大きく3 つのパターンがある。一番最後の「加害がなかったことようにふるまう」行為は、 後述の加害者 (団体)の功績の称賛とセットで行われることが多い。加害の事実には触れず、何事もなかったかのように功績ばかりを取り上げる行為として発露する。二次加害に加担しており、被害者を傷つけている自覚がなく、指摘されても開き直ったり、無視するといった対応が一番みられるのもこれ。 また、職場や学校では、被害者に『何事もなかったように振る舞うこと』を強要するという二次加害もある。

■加害者の功績を持ちだして、加害行為を矮小化する

 加害に触れる際、加害者(団体)の力績を持ち出して、「今回の件で、功績のすばらしさは消えることはない」などと語る。「今回の加害があっても、尊敬している」といった態度を公に表明する。被害者の視点からすれば、「功績に比べたら些細な事」というニュアンスに傷つく。功績と加害行為は比較されるものではない。相殺されるものでもない。むしろ、加害行為はそういった功績のもたらす権威性を背景に行われていることが多い。また、被害者の傷つきや仰圧は、加害者(団体)の善良性や、権威性によってますます大きくなっている。功績が大きいからこそ、被害者に対する加害性(傷つき、ダメージ)は強くなること念頭におこう

■公に加害者を応援する、励ます

 特に SNS 界隈でみられがちなのが、加害者を応援する「いいね!」や投稿、リプライ。加害者の立ち直りを応援したい気持ちや、心配する気持ちはわかる。加害者にも支援が必要である。しかし、それは個別メッセージやクローズな 場で行えないだろうか。同様の加害から立ち直りを目指す人々への社会的メッセージのニュアンスをこめて、特定の人物や事案にたいして、公に応援を発信したい場合もあるだろうが、被害者への配慮ある言葉を重ねることを忘れてはならない。

■第三者の不快感と、当事者(被害者)の傷つきを同列に扱う

 「加害者ないしは団体の関係者がショックを受ける」といった言動で、被害者の訴えや議論を抑圧する行為。特に(加害側の)支援団体のほかの利用者が傷つくから、という理由で訴えや議論を封じる行為はとてもよくみられる。第三者の不快感と、当事者の尊厳の踏みにじられた傷つきを同列に扱う感覚も、「傷つく」というだけで、生きていくうえで不可避の現実(差別や偏見、排除などを除く)からも遠ざける行為も、そもそも支援観として危うくないだろうか。特定の利用者に対して、個別の配慮が必要なことはもちろんあるだろう。しかしそれは、訴えや議論の封じこめではなく、あくまで個別に対応をすべきことである。

 当事者の言葉が激しくなることを「気持ちはわかるけど、言い方がよくない。不快な気持ちになる人がいる」などのトーンポリシングもみられる。不適切な表現が気になる場合には、言葉が激しくなるほどの痛みがあるという受けとめを大切にしたい。第三者の"おきもち”と被害者の傷つきは質も重みも全く違う。もし、一方が配慮をするとしたら、それはどちらの側だろうか。

■(被害者を守るためという理由で)被害者を排除する


学校のいじめや、職場のハラスメントなどで多いのだが、被害者の納得がないままに、被害者側をクラスや部署から異動させる行為。加害者はそのままという場合も少なくない。
被害者を守るため、これ以上の被害を防ぐためという理由がつけられることが多いが、それ自体が加害性を孕んでいる。
学校の場合『被害者側を別室に移す』ことがもはや慣習的になっていることも多い。『ムリして学校にこなくてよい』という指導のバージョンもある。その適切性や他の手段について丁寧に検討したい。

■刑事事件になっていないことで、たいした被害ではない、悪質性はない(のではないか)という主張

 特に性暴力の案件で多いのだが、取り調べや司法面談での精神的なダメージが大きいことから、被害届を出さない人が多い。強姦は、法改正によって非親告罪になったものの、脅迫などが証明できないと、罪に問えない。そして性暴力はその密室性から、証明が難しい。そのため非親告で刑事事件としてあつかわれるのは無茶苦茶ハードルが高い。証明が難しいことと、悪質性が高くないことはイコールではない。また、性規範から被害者が責められることが多いのも、被害を訴え出づらい要因である。

性暴力に限らず、地域や仲間内のコミュニティで被害にあったとき、「あなたにも非があるのでは」「加害者にも家族(将来)がある」といった非難や、疎外をおそれて被害届を出さない人はかなり多い。刑事事件になっていないもので、悪質な加害行為はたくさんある。

■年単位の時間が経過してからの訴えであることを理由に、被害者に下心があるのではないかというような勘繰り

 性暴力に多いPTSD などの後遺症や混乱、DV に多い精神的支配の影響から被害者が自分が悪いと思っていたりなど、それが被害だと認識できるようになるのに年単位の時間がかかるのは珍しいことではない。また利害関係上にある場合などは、報復などを恐れて被害を訴えられないことが多い。すぐに言わなかったことを責めたり、時間がかかってからの告発であることに金銭目的や売名ではないかといった勘繰りは的外れであるどころか、長いこと言えなかった苦しみまでも踏みにじる。

 また、代弁者に対しても同様の「下心」を憶測されることが多い。代弁者は、同様の被害体験をしていたり、被害者をサポートすることで受ける代理受傷の痛みなどを動機として代弁を行っていることが多い。

 そういった方々へ敬意を払うどころか、後ろ指をさしたり、背を向けているのが現在の社会の実情である。敬意をもって訴えに耳を傾けたい。

■加害者(団体)が自分にとって善良であることから、加害者は悪意がない、誤解ではなどを憶測で語る

 ある人とっては、善良な人でも、ある人にとっては抑圧的・排除的な人物であることはよくある。特に権威性や影響力の高い人物、目上や対等な人物には謙虚で善良だったり、公的な場では善良な振る舞いをする人が、目下の人間や、私的な関係性や、クローズな場で、攻撃的、高圧的、加害的にふるまうのはよくあること。そのためこの種類の二次加害は、影響力が高い人間が犯しがちなため、ますます被害は広範かつ基大になる。自分に見せている姿がすべてではないことを念頭におきたい。また、そもそも善良な人間も、過ちは犯すのだ。

 また、憶測を語ることは、それ自体がそもそも侮蔑的である。なにかしらの事実や根拠にもとづいた推測や推察なのであれば、その事実を明記しよう。それを書けないなら、その推測や推察は、そもそも表にだしてよいものなのか考えたい。

■ミソジニー(女性嫌悪)、ミサンドリー(男性嫌悪)などの偏見や差別感情を無自覚に投影して語る

 加害者被害者の属性から、偏見や差別感情を無自覚に投影して、憶測で被害者に非があったように語る。二次加害の指摘に、あくまで“可能性”に言及しただけという言い訳が大抵セットである。印象を誘導しているにもかかわらず、だ。そして当該属性への差別と偏見を助長している。さらに加害を指摘されると、ミソジニーやミサンドリーを生む社会の問題を出したり、自身の被害者としての個人的体験を語りだすことがある。ちなみに直接の加害者でも、同様の自分語りを始めるのは典型的な反応である。繰り返すが加害者の傷つきや弱さは、加害の影響をを無害化できない。自分語りは自由だが、「こういう背景があるから許しなよ」という別の二次加害言動を誘発する二次加害ドミノが発生するリスクは想定したい。というか、二次加害ドミノ(による加害者擁護)を期待している自分がいないか戒めたい。

■声をあげた人を「声が大きい人」「強い人」、声をあげられない人を「弱い人」と表現すること

 被害を訴えた人、声をあげた人は「強い人」とするのは、時に賞賛の意図もあるのだろうが、当事者としては痛みを感じる表現だ。声をあげたのは「強いから」ではなく、切実な痛みに突き動かされたからにほかならない。そういった痛みや切実さを軽視するように響くからだ。たとえば津久井やまゆり園の事件の後、今まで沈黙していた多くの障害者やその家族が声をあげたが、彼らは事件によって「強くなった」のだろうか。否。加害者への礼賛や消極的同意が少なくない中で、ますます弱者性と排除性が強まり、存在が脅かされたからではないのか。

 また、被害を黙っていた(いる)人たちを「弱い」とするのもまた暴力的だ。性暴力の被害者が被害を訴えなかったことで、もっと多くの被害者が出たと責める声もあった。被害を黙っている人たちは、被害を受けることでさらなる中傷や排除をうけるリスクがあったり、PTSDなどの後遺症に苦しんでいることもある。声をあげられない様々な理由を「弱さ」という言葉で括ることは、とても暴力的だ。声をあげないことを責めたり、声をあげろと迫る前に、声をあげることの障壁になるものを撤廃していこう。

■被害者像を押し付ける/価値観の異なる被害当事者を利用する

「〇〇被害者ならこんな風にふるまうわけがない」というイメージで、被害を否定する。あるいは被害が小さいものであったように語る。 いじめ被害者なら、性暴力被害者なら、虐待経験者なら……とバリエーションは多岐にわたる。自分の支援経験や、価値観や状態像の異なる当事者を持ち出し、被害に疑義を呈する。はっきりいって、まともに支援をしていたら、当事者は多様であることはわかるはず。またこういった言論は不当に当事者を分断する。別の価値観、異なる立場の当事者の代弁として、異論を呈する場合は、一人一人の意見や立場を尊重する姿勢を大切にした表現を心がけよう。

■「誰も傷つけない主張(実践)などない」という言葉を、詭弁的な自己弁護として用いる

加害者を擁護するときや、二次加害を指摘されたときによくみられる発言。誰も傷つけない表現(実践)がないというのはまさにその通り。しかしその傷つきは考え方の違いによるモヤモヤ程度のものなのか、誰かの尊厳を踏みにじっているのかといった弁別や、他者への配慮の有無、視野狭窄や視点欠落の有無がないか、もっとよい表現(実践)があったのではないかという検討はなされるべきである。それをすっとばして、思考停止や、免罪符として使っていないだろうか。「いやなら見なければいい」という態度も、被害者の自己防衛に論点をすり替える前に、自身の言動に加害性があるかどうかは振り返るべきだ。「誰も傷つけない主張はない」からこそ、そういった検討を発信(実践)の事前・事後に丁寧に行っていきたい。

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