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機嫌をとって




”相手の機嫌をとる必要はない”



「その人が不機嫌になるのは本人の課題である。よって、私たちは他者の機嫌をとる必要はない。」


 アドラー心理学の流行によって、こんな言説が広まっている。



 この言説は、他者の機嫌に振り回されてきた人、特にこちらに過干渉したり、言うことを聞かせようとしたり、不機嫌をぶつけてきたりする親やパートナーがいる人にとっては、自分を解放し、人生を救ってくれる福音だった。


 しかし、幼少期より常に周囲からからかいの対象にされ、親からこちらの気持ちを慮らない態度をとられ続けてきた私にとって、この言説は悪魔の教義だ。


 この言説は、人を傷つけた人が自分の責任を帳消しにし、相手への配慮の欠如に対する責任を不問にするために利用される恐れがある。



 この記事では、「他者の機嫌をとる」、つまり相手の気持ちに配慮し、相手のために自分の行動を変える必要性について解説する。



「他者はあなたを気遣う必要はない」

「あなたが不機嫌なのはあなたの責任である」

「困っている人がいてもそれは相手の課題である」

という言葉に違和感をもつ人が、この記事を読むことでその違和感を解きほぐすきっかけになれば幸いである。


 また、

「自分の機嫌は自分でとるべきである」

「他者の機嫌をとる必要はない」

と信じる人にも、違った見方を提示できればと考えている。




エアリプと不機嫌



 以前、私は友人と喧嘩をした。その友人とはオンラインゲームを通じて意気投合し、X(旧Twitter)で相互フォローになった。


 ある日、私は「この記事がとても良かった」と読んだ記事をXにポストした。

 すると、しばらくして彼女が「私も○○さん(記事の筆者)好きで本読んでる」と投稿した。私へのリプライではなく、通常のポストとして。


 またある日、私は京都に旅行に行った。そして「京都旅行行ってきました。楽しかった~!」とポストした。

 その後すぐ、彼女は「京都行ったときに買った香水、今でも気に入ってよく使ってる」とポストした。これも私へのリプライではなく、通常のポストだ。


 そして私が相談員とトラブルになったとき、私は「相談員にヤバいこと言われた。マジあり得ん」という旨の長文愚痴ポストを投稿した。

 すると間もなく彼女は通常のポストで「私は以前相談員にこういうことを言われて~」と書き込んだ。



 彼女がやっていることはいわゆるエアリプと呼ばれる行為だ。

 エアリプとは、実質的に他の人の書き込みへの返答にあたる内容を通常のポストとして投稿する行為である。


 彼女は私へのエアリプを繰り返していた。
 私はいい気がしなかった。

 彼女の書き込みの内容そのものは特段不愉快なものではない。

 しかし、間接的に自分のことについて言及されるのは不安感があり、「言いたいことがあるなら直接言ってくれ……」とまどろっこしい気持ちになる。

 こちらへの直接的なリプライではないので、こちらも触れてよいのか分からず反応しづらい。


 こちらからは返答がしづらいのに相手はこちらに好き勝手言えてしまう非対称性。

 遠回しに自分のことについて言われることの気持ち悪さ。

 そこに対して私はもやもやしていた。



 彼女と通話をしていたとき、私は彼女に

「エアリプを止めてほしい。直接リプライするか、私の名前を出して書き込みしてほしい」

と伝えた。


 そのとき、彼女はこう返事した。


「他の人にもやってるし、あなただけにやってるわけじゃない。なんでエアリプしちゃダメなの? 私の書き込みに口出ししないで」


 私は腹が立った。なぜこの子は私が嫌がっていることを自分の都合で押し通そうとするのだろう。私にだけエアリプを控えるのは、そんなに難しい要求だろうか?


「私が嫌な気持ちになるから止めてほしいって話をしてるんだけど。私にだけエアリプを控えるっていう配慮はできないかな?」

 ムカつきながら、私は彼女にそう伝えた。

 すると、彼女からの返答はこうだった。


「不機嫌を選んでるのはもぐちゃん自身だよ。私にはあなたの気持ちに対して責任はないよ。私があなたを“嫌な気持ちにさせる”ことはできないんだよ」


 は? 何を言ってるの?

 なぜあなたは私に嫌な思いをさせている責任から逃れようとするの?


 私は頭に血が上った。この子には話が通じない。そう思い、私は通話を切った。



 イライラしながら私はXのタイムラインを見た。

 そのときにその子がXで共有していたのが、アドラー心理学の記事だった。




アドラー心理学における不機嫌の言説



 インターネット上の“アドラー心理学界隈”において、不機嫌はどのように見なされているのか。


 アドラー心理学についての記事では、次のようなことが書かれている。



 不機嫌になるかならないかを決めるのは本人の課題である。よって、不機嫌は惰性である。

 そして、感情には目的がある。不機嫌の目的は、「不幸な私に気を遣ってほしい」「優しくしてほしい」というアピールである。

 あなたの機嫌をとることは他人のすることではなく、あなた自身の義務・課題である。機嫌をとってもらえることは、感謝すべき他人からの優しさであって当たり前ではない。

 他人に自分の機嫌をとらせようとすることや、不機嫌によって相手を自分の思い通りに動かそうとすることは幼稚な甘えであり迷惑である。

 不機嫌な態度で支配しようとする人がいても、それは相手の問題なので関わる必要はない。



 また、他人を怒らせたり不機嫌にさせたりする人はいるが、その人たちに感情的に反応しても改善することはない。
 「私が不機嫌なのはその人たちが悪い」というのは自分の不機嫌を正当化する屁理屈である。

 人から悪いことをされて感情が乱れても、他者にはあなたを気遣う義務はない。

 また、たとえこちらのせいで相手が不機嫌になったとしても、それはこちらではなく相手自身の問題である。






 以上が、インターネットにおけるアドラー心理学の言い分である。


 つまり、

①不機嫌になるのは本人の責任であり、
②よって私たちは不機嫌な他者を気遣う必要はなく、
③他者から傷つけられたとしても、それによって生じる不機嫌に責任があるのは他者ではなく本人である

ということになる。



 確かに、この理論には注目すべきところがある。


 まず、私たちは周囲の環境や振る舞いにただ為す術もなく振り回される存在ではなく、自分で自分の心持ちを決められるという教訓がある。


 次に、私たちは自分の態度によって周囲や相手をコントロールしようとしていないか省みる必要がある。


 そして、これがこの理論において最も重要な点だが、私たちは他人の顔色を窺って行動する必要はない。



 このことを学んで、例えば不機嫌を態度に出す人が職場や学校にいて困っていた人は、その人に構わなくてよいのだと楽になっただろう。


 何より、子どもになんでも自分の言うことを聞かせようとしたり、過干渉したり、過保護になったり、自分の気に障ると不機嫌をぶつけるような毒親の元で育った人にとって、この理論に救われた人は多いだろう。

 ちなみに、DV加害者の常套句は「俺/私を怒らせるな」だという。


 「相手の機嫌をとる必要はない」というこの言説は、私たちを攻撃し侵害する人から私たちを守るバリアになっている。



 さて、先ほどのエアリプの例にこの理論を当てはめてみよう。


 まず、私がエアリプをされて不機嫌になったのは彼女ではなく私に責任があることになる。私が自分で機嫌よくいる努力をする必要があったのだ。


 そして、私が彼女にエアリプをしないようにお願いし、それを断られると不機嫌になり彼女を咎めたのは、私が彼女に迷惑をかけていることになる。彼女には私を気遣う責任がない。これがおそらく、彼女の考えだろう。



 それってなんか嫌だ。彼女の身勝手さと配慮の欠如が少なからず私に嫌な思いをさせたのだ。その責任を棚に上げないでほしい。



 「相手の機嫌をとる必要はない」という言説を盾にして、彼女のように、相手に配慮する責任を投げ出して他者を踏みにじり自分勝手に振る舞うための口実に使う人がいる。

 そのことに対して私は疑問を抱いている。



傷つけた責任の免除―周囲からのからかい



 小学生の頃のことを思い出す。


 私は周囲からからかわれていた。男子からも、女子からも、年下の子からもからかわれた。


 怒って相手に手を出すと、彼らはそれをよけた。私が怒って暴力を振るうのを彼らは面白がっていた。私の攻撃が当たらないのを彼らは面白がっていた。


 そして先生が来て、私が叱られ、私が「困った子」ということにされた。

 相手のからかいへの責任追及はなされない。

 私の心の傷は見向きもされない。


 「ジコチュー」が彼らの合言葉だった。

 体育マットで泣いていると「うわー汚い」と迷惑そうに言われた。



 そんな環境を私は耐え抜いてきた。

 私だからからかってよいと思っているのが、ひどかった。


 あのときの感情が全部私のせいだと、彼らに責任はないと言われるのは我慢ならない。



ケアの欠乏―毒母による精神的ネグレクト



 私の母は、私に分かりやすい虐待こそなかったが、“精神的ネグレクト”と呼んで差し支えない態度を取っていた。

 私の母は、親子関係に必要な情緒的なケアを怠った。




 小学2年生の頃、母の日に喧嘩になって、私は母に「お母さんなんて大嫌い」と言った。

 すると、母から「母の日に嫌われて嬉しいわ」と言われた。

 あのとき私は母にちゃんと傷ついてほしかった。

 それか、「そんなことを言うんじゃありません」って言ってほしかった。



 あるとき私と母は口喧嘩になった。

 私は怒って「お母さんのバカ」と言った。

 母は私に「そう、あなたは賢いのね」とおだてるような口調で言った。

 なんで自分を省みないの?

 それか、どうして「バカなんて言ってはいけません」って怒ってくれないの? 



 私はちゃんと母とぶつかり合いたかった。

 しかし母は私の言葉を軽んじるような馬鹿にしたような態度をとり、まともに取り合わなかった。



 私は母とのやりとりの中で、怒りや暴言で相手をコントロールしようとしていたかもしれない。

 それは幼稚で不適切な行動だと言われても仕方がない。



 しかし、コミュニケーションのやり方が未熟な子どもにとって、怒りは不満や困りごとを示すサインである。


 親だからいつも子どもに共感的でなければいけないとは思わない。

 親だって怒るし傷つく。


 しかし、子どもの気持ちへの思いやりや、子どもへの然るべき応答は、子どもを保護する親の責務だ。



 母はいつも、怒っている相手の気持ちを考えるのではなく、怒っている相手の神経を逆撫でして、みだりにもっと怒らせる人だった。




 小学校の修学旅行で学校からバスが出発するとき、みんなの親はバスに駆け寄り手を振っていた。

 しかし、私の母だけ校舎のそばに突っ立って手を振ってくれなかった。


 ねえ、一人だけ手を振ってもらえない私の寂しさを考えた? 



 中学生の頃、私は人間関係のトラブルに悩んでいた。

 母に相談すると、「私が子どものときは親に相談なんかしなかった」とあしらわれた。


 私はあなたの立場を私に押しつけたりせずに、親としてちゃんと相談に乗ってほしかった。



 センター試験のとき、私は前夜ほとんど眠れず、試験1日目を終えて疲労困憊だった。

 当時アパートで一人暮らしをしていた私がアパートに帰ると、駐車場に親の車が止まっていた。


 今日うちに来るなんて連絡をもらっていない。

 今日は一人でゆっくりしたいのに。


 車の方に立ち寄ると、車に乗っていた母が窓から顔を出した。そして私にこう言った。



「お父さんが行けって言ったから来たけど、来なくてよかったよね?」



 試験を頑張った後なんだから、お疲れ様とか、どうだった?とか、ないの?


 ねえ、友達は試験の前に、親から応援メールを貰ったんだよ。

 それを聞いて私がどう思ったかなんて、きっとあなたには分からないんだね。



 別に私の期待通りにならなくてもいいよ。

 だけど、どうしていつも、私の気持ちをぐちゃぐちゃにする方向で期待を破るの? 




 「相手の機嫌をとる必要はない」と言われると、

「母に私をケアする責任はない、だってそれは母の課題ではないから。だから母にケアしてもらえなくても仕方がないよね」

と言われている気持ちになる。


 「相手の機嫌をとる必要はない」という言葉は、母のような、相手の気持ちを蔑ろにする接し方に正当性を与える。

 そして、必要なケアを受けられなかった子どもの思いを踏みにじってしまう。



 毒親問題というと過干渉な親が大々的に取り上げられる。一方で、こういった精神的ネグレクトはあまり取り上げられない。


 こういった状況も、「相手の機嫌をとる必要はない」という言説を加速させ、その言説によって傷ついている人を見えなくさせているのだろう。



「本人の責任」の恐ろしさ―相談できない男の子



 高校生のとき、同じクラスの男の子が他の数名の男子からからかわれていた。

 あだ名で呼ばれたり、勝手にものを持っていかれたり、ノートに書き込みをされたりしていた。


 私はこれはひどいと思い、先生に相談した。

 すると、先生からこう言われた。



「でも、本人が相談に来ないとねえ。自分のことなんだから、まず本人が自分で止めてって言わないとダメでしょ」



 私はその先生の対応に不満タラタラだった。


 その男の子とは仲が良かったので、「カウンセラーの先生とか、保健室の先生とかに相談してみるのはどうかな」と彼に提案した。


 すると彼は、「相談に行くのが怖い。否定されそうで怖い」と言い相談に行きたがらなかった。



 彼と話しているうちに、彼からこんなことを教えてもらった。


 彼は小学生のころいじめに遭っていた。

 椅子に画鋲を置かれたり、トイレで殴る蹴るの暴行を受けたり、ズボンを脱がされたりしていた。

 怪我をして病院にかかったこともあった。


 彼はそのとき、担任の先生にも保健室の先生にも親にも相談した。


 担任の先生はみんなの前で注意するだけで、何もしてくれなかった。

 保健室の先生は話を聞いてくれるだけだった。

 親は「男なんだから負けるな。お前が堂々としてないからちょっかいをかけられるんだ」と喝を入れた。


 彼は誰も助けてくれないのだと絶望した。
 そうして、彼は相談やSOSの発信が怖くなってしまった。



 彼のような人に対して、「本人が行動しないんだから」と手を差し伸べないのは、どれだけ残酷だろう。

 むろん、相談や困りごとの発信への恐怖は、いずれ彼が乗り越えるべき課題だ。

 しかし、今の彼の困りごとに関しては、今の彼が自分でどこまでできるのかを見極めて、できない部分は周囲が手を差し伸べてカバーする必要があるのではないのか。



「本人の課題なので相手が困っていようがこちらが気を遣う必要はない」
という態度をとる人が実生活でも少なくないと感じる。

 そんな人は「それが相手のため」と、それが教育的な対応だとすら思っている節がある。


 だけど私はそういった、身動きの取れない相手が困っているのをそのままにしておく態度がすごく嫌だ。



人間関係の中で生きるためのケアの交換と共助



 DV・モラハラの加害者支援を行う団体であるGADHA (Gathering Against Doing Harm Again) の代表の中川瑛さんは、Xで次のようなポストをしている。






 対人関係を維持するためには、ケアの交換と、相手を気遣うための自分の行動変容が必要である。

 これらのポストではそのことが強調されている。



 相手と人間関係を築く上で、私たちは自分のニーズを尊重し、その一方で相手のニーズにも配慮する必要がある。


 周りの人に気を配らず自分のことだけを押し通していれば、周りの人は傷つき、周囲と軋轢が生じ、人間関係は壊れてしまう。


 「相手の機嫌をとる必要はないから自分の行動を変えない」という態度は、身勝手に相手を傷つけ、相手に対する配慮を欠いてしまう。

 それは関係構築とは対極にある姿勢である。




 また、アドラー心理学について書かれた記事によれば、アドラー心理学には「課題の分離」だけでなく「共同の課題」という概念がある。


 これは、困っている相手が助けを求めているのであれば吟味し、状況に応じて相手の課題を共同の課題として部分的に引き受けることで、困っているときに助け合うというものである。

 この記事によれば、アドラー心理学の本来の目的は他者とのよりよい協働・協力関係の構築である。




 また、別の記事では、課題の分離は

共同体感覚(他者を「仲間」だと捉え、その共同体に対して協力し、貢献するという考え方)

に繋がっていくものである必要があると書かれている。


 アドラー心理学における「嫌われる勇気」は、

「自分だけの幸せのためには、他者を傷つけ嫌われてもいい。自分のことだけ考えよう」

という意味ではなく、

「自分と他者の幸せを考えた上で、精一杯できることをした結果、もし嫌われたとしてもそれは仕方のないことだ」

という意味なのだという。




 人間関係の中では、相手の気持ちへの配慮と自分の行動の変化が必要だ。困っている相手への気遣いが必要だ。ケアの贈与が必要だ。


 「相手の機嫌をとる必要はない」というスローガンによって、こういったことを疎かにしてはいけない。

 このスローガンは使い方を間違えると人間関係を壊し、他者を傷つけ、困っている人を追い詰めてしまう。



「自分の機嫌は自分でとりなさい」?



 ここで、先の主張に対して考え得る反論について検討してみよう。


  • 「あなたの主張は、相手に機嫌をとらせて相手をコントロールしようとする未熟で怠惰な人間の言い訳だ」


 確かに自分の機嫌を自分でとろうとする自助努力は大事だ。
 しかし、自助努力でなんでも対処できる人なんていない。


 そんなとき私たちは助け合いが必要だ。
(むろん、特定の人に無理に寄りかかりすぎない/無理して助けすぎないようにする必要はあるが)


 それに、未熟さや怠慢は必ずしも問題だろうか?

 私たちには弱さがあってもいい。弱さは私たち自身を守ってくれる。私たちは弱いからこそ力を合わせられる。


 むしろ私が問いたいのは、周囲の辛さや苦しみへの無関心は怠慢ではないのだろうか?



  • 「他者に機嫌をとってもらうのは、周りの資源を奪って感情労働をさせる行為だ」


 むろん、自分のキャパシティを超えてまでケアをする必要はない。私たちは他人のために苦行を行う必要はない。私たちに必要なのは、少しでも困っている人に手を差し伸べる努力だけである。

 また、他に適切な人につなぐのも立派なケアである。


 それに、情緒的なケアの要請は必ずしも害悪ではない。情緒的なケアは私たちが共に過ごし協力して何かをする上で必要なものである。関係を深める上で、情緒的なケアのプラスの影響も少なくない。



  • 「結局のところあなたは周りが自分の思い通りにならないと気が済まないのだ」


 私は嫌と言うほど思い知っている。


 他者は私に優しくするために存在しているわけじゃない。


 だから、現実には他者に不平ばかり言うのではなくて、自分がどう行動するかを考えていく必要がある。


 それでも、たとえ「こうあるべき」という風にはままならない現実があったとしても、私は伝えていきたい。


 誰かから蔑ろにされている人には
「あなたは人から尊重されるに値する」と。

 誰かの置かれた立場に関心を払わない人には
「もっと周りを顧みてほしい」と。


 優しい人ばかりじゃない。しかし優しい人はいる。

 自分を大事にしてくれない人を当てにするのは止めて、より自分を大事にしてくれる人のそばに行った方が、私たちはきっと幸せになれる。



  • 「相手を自立した主体としてみなすのであれば手助けをしてはいけない。私たちは相手の課題を取ってはいけない。相手が自分で対処する機会を奪ってはいけない」


 援助の依頼も立派な自立の方法である。


 それに前述した通り、世の中にはSOSの発信が難しい人がいる。


 相手が自分で対処できるようそっとしておく消極的な姿勢ではなく、相手を積極的に気にかけ、手を伸ばしてみて、相手の力を見定める姿勢こそが必要ではないだろうか。



 ここまでの議論を踏まえ、私の主張をまとめよう。


 「他者の機嫌をとらないこと」における問題は他者の辛さに対する無関心と配慮の欠如だ。

 他者の辛さに対して配慮できないことではなく、配慮を怠ることが問題だ。

 窮地にある相手に「自分の領分ではないから/相手の領分だから」という理由だけで何もしないことが問題なのだ。



私たちには気遣われる価値がある



 高校で軽音楽部に所属していたとき、話し合いをしていて、部員のAさんとBさんの意見がぶつかった。



 揉めた内容はこうだ。

 Aさんのバンドが部室の練習予定を押さえていたが、Aさんのバンドはその日に練習をせず部室をたまり場として使っていた。

 それに対してBさんは、練習をしないなら他のバンドに部室の利用を譲ってほしいと主張した。


 話し合いの中で、AさんはBさんに対してきつい言葉を投げかけた。



 話し合いが終わった後、Bさんはトイレに駆け込んだ。


 私から見ても、Bさんが普通に話しているのに対して、Aさんの言い方は威圧的で険があった。


 しかし、部員のみんなはBさんに冷ややかだった。

 Bさんがトイレに行ったことに対して、「あの子また泣いてるんでしょう」と零していた。


 それは、普段からBさんが情緒不安定で、コミュニケーションが上手でなく、周囲に迷惑をかけてきたからだった。


 しかし私は、その状況に憤慨していた。今回Bさんに強く当たったのはAさんだ。

 それなのに、なぜAさんは咎められず、Bさんが悪者にされなければならないのだろう。



 私はトイレに様子を見に行った。

 彼女はまだトイレから出てこない様子だったので、私は彼女をそっとしておいた。



 その日の夜、私は彼女にメールをした。

「Aさんの言い方ひどかったよね。大丈夫だった?」

 彼女は自分の気持ちを打ち明けた。

 Aさんの物言いに傷ついたこと。強張ってしまって自分の言いたいことがうまく言えず、誰かにフォローしてほしかったこと。誰もAさんの言い方を咎めないのはおかしいと思ったこと。


 私は彼女とメールを交わし、彼女の気持ちを聞いた。「辛かったね」「気が回らなくてごめん」とメールに書いた。私にはそれだけしかできなかった。


 メールのやりとりの終わりに彼女は、「聞いてくれてありがとう。味方になってくれて助かった」と言ってくれた。



 私たちは互いにケアされ、思い遣られるに値する。

 大丈夫? 辛かったね。傷つけてごめんね。


 優しさは当たり前じゃない。

 けれど、優しくされないことを当たり前にもしたくない。


 自分のことだけ考えて他者をケアしない、そういう生き方もあるのかもしれない。
 でも、私はそうはなりたくない。


 もちろんセルフケアや、相手への過度な介入の自制は大切だ。

 その上で、周囲とは思い遣り、思い遣られる関係を築きたい。


 一方のみに過度な要求がなされたり(頻繁に機嫌をとらせたり)、一方が全くケアされない(適切に機嫌をとってもらえない)ところに、加害や虐遇がある。


 私は、たとえ相手にとっては些細な事でも、嫌だと思ったことは相手に伝えようと思う。そして、そこに配慮がなかったら、ちゃんと傷つこうと思う。私は私の気遣われる価値を貶めたりはしない。



 そして、傷ついている人や困っている人への配慮を忘れないでいたい。
 また、相手を傷つけたり困らせたりしたときに自分の行いを問い直せる人間でありたい。



ひっくり返った亀を助けようとする亀



※第三者のプライバシーの保護のため、掲載している事例には架空事例が含まれています。



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