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四季詩集(終)

四季詩集とは

 詩誌「四季」の同人の作品を収録した詩集です。「四季」は昭和8年創刊の詩誌で、萩原朔太郎、室生犀星、井伏鱒二、中原中也、伊東静雄、立原道造らが同人として参加し、風立ちぬで知られる堀辰雄が編集に携わっていました。

四季詩集概要

タイトル:四季詩集
著者:丸山薫 編
出版社:山雅房 昭和16年(1941年)
価格:3円50銭
発行部数:限定800部
参加詩人:
井伏鱒二、乾直恵、内木豊子、大木実、木村宙平、阪本越郎、神保光太郎、杉山平一、竹村俊郎、竹中郁、田中冬二、立原道造、高森文夫、津村信夫、塚山勇三、萩原朔太郎、福原清、丸山薫、眞壁仁、槇田帆呂路郎、三好達治、室生犀星、村中測太郎、薬師寺衛 (50音順)

眞壁仁『鶴に寄せて』

靄のただよう沼澤地方のゆうぐれに
みそらにむかって喉をふるわし
哀愁のおのがさけびの
こだまとなってかえってくるのを
ひとりうつろに聴いていた

 晩く訪れた春に、ポツンと取り残された鶴を見ているような印象に始まります。花が咲き風が薫り始める春先は、明るい印象を持たせますが、その中にあってこの詩は、孤独感と喪失感が溢れています。
 夕方に独りで鳴く鶴を眺めていると、次第に日は暮れて、星々が輝き始めます。それはまるで、鶴が星影という手の届かないものに向かって、何か後悔の念を叫んでいるようです。
 この詩で書かれた「星かげ」は「余儀ない命の煌めき」です。亡くなった母の哀しみを思い出すように、ひとりぼっちの鶴と星を見ているのでしょう。吐き出したくても吐き出せなかった哀しみの感情を、鶴が代弁してくれているかのように、哀しみを帯びた音が響いています。

つるとなったかなしみに
みづからはいた虹にあこがれ
ながれる雲と風にすがり
おまえはとおく行くという
なおもとおく行くという

あるひとつの憧れと、遠く離れた現在地との距離を埋めるように、鶴(かなしみ)が飛び立っていきます。その姿は縋りつくように、格好の悪いものだったとしても、確かに前へ進んでいるという力強さがあります。そして、それを強調するリフレインがとても印象的です。

槇田帆呂路郎『夏の別れ』

おとといの夕昏れどき
道に迷いつかれて憩うた
馬ごやしのひろがる草丘の
我亦紅(ワレモコウ)がひっそりひかっているあたり
ぼけの実のひとつあるのを
もぎって呉れたあなたの顔
夏の日に汗ばんだ
よわよわしくわたくしに渡した

 「馬ごやし」「我亦紅」「ぼけの実」と、草花や果実などでその場面を切り取ったような描写が、著者にとっての印象深い思い出であることを思わせます。ひとつずつ丁寧に思い出して書いているようですね。
 この詩は旅の一期一会を詩っているような印象です。旅先で助けてくれたのは優しい老人でしょうか。ぼけの実にかぶりつくと(生食は推奨されませんが)、その酸っぱさに思わず笑ってしまうような、老人との和やかな空間さえ想像されます。

ここらへんの松の木の根で
わたくしの見えなくなるまで
送ってくれるというなら
動かない夏ぐもの白と黒とに
それではお別れして
ひかる草原にきえてゆこう

 木の下に腰掛けて見送る老人の姿が思い浮かぶと、とても印象的です。それはもう会うことはないという、旅ならではの哀愁があるからです。ゆっくりと手を振るその人に、手を振り返し、空を見上げると夏雲がモクモクと伸びています。「ああ 雨でも降るのかな」なんてことを考えながら、サワサワと音を立てる草原の中を歩いていくまでが、綺麗な映像として想像できます。雨を暗示する描写が、別れの哀しさを際立たせていますね。美しい回顧録です。

三好達治『静夜』

稀れには、実際稀れにはこんな静かな日もある ――― 。

 静かな月の見えない夜に、わずかに覗く星々を見ている描写には、異様なほどの落ち着いた雰囲気があります。
 夜の渚に来ると、橋の上で波の音に耳を傾けます。波は何度も同じように打ち砕け、渚一面にその音が広がっていきます。波が引いた後の束の間の沈黙に、ふと、長い間佇んでいたことに気が付くと「何をしていたのだろうか」という不思議な感覚になります。年を重ねる毎に、些細な情景に感動を覚えることもなくなってしまったはずなのに、何が自分をそこに留めさせたのか。単調な道のりを行く駱駝のように、黙々と「自分について」考えています。

――― 意を安ずるがいい、お前もそうではなかった、この世には実は怠け者というものは一人もいないのだ。
――― なるほど神さまのみ心にかないそうな人も見当らないからね、誰が怠け者だろう。

次第に波が高まり、暗闇に何かを呼びかけるように、音が響いています。それは自分にも呼びかけられているかのような、不思議な風味の感情をまとっています。すると退屈なものになってしまった自分の心に、何らかの価値を見出したかのように、静かに歩き始めます。

そうして私は、なるほどそう思えば我ながら駱駝のような足どりで、埃っぽい路の上に徐ろに歩みを移した。そのすぐ先の丘の上の私の住居には私を待っている家族がいる訳でもない。急ぐ理由もないのである。

それにしても「稀れには、実際稀れには~」という書き出しが、この散文詩の格好良さを際立たせていますね。読者を引き込む読ませる詩のお手本のようです。

室生犀星『家族』

家族というものは
緑の木かげで食事をしたり
楽しい話をしたりするものだろうか
美しい妻を招んで
白い乳母ぐるまの幌を帆のように立てて
田舎の径をうたいながら行くのは
あれは楽しい家族でなくて何であろう
だがあれは音楽ではなかったか
音楽に聴きとれた空想ではなかったか

 「家族」に対する憧れのようなものを感じさせる描写は、著者の生い立ちによるところが理由でしょう。著者は次のような句を詠んでいます。

”夏の日の匹婦の腹にうまれけり”  (匹婦:いやしい女という意味)

 これほど哀しい句があるでしょうか。著者は加賀藩足軽頭であった男と女中の間に私生児として生まれ、幼くして実の父とは死別、実の母とは生き別れとなっています。ちなみに「私生児」とは明治民法下で、未婚の男女の間に生まれ、父親に認知されていない子供を指すようです。そして生後間もなく育ての親に引き渡されている生い立ちが、作品に大きな影響を与えていると言われています。
 この詩に表現されている家族像は、現代に置き換えても決して現実離れしたものではありません。しかし、それを空想と思ってしまうほど、自分自身の家族像からかけ離れているということが、どこか哀しいです。自信の幼少期に大きな影響を受けた、とても純粋な詩作品です。

村中測太郎『みすぼらしい歌』

この明るい街々に 風がさわさわと鳴って去った
ひとびとの足音が たかだかと夕ぐれの風にひびいた

 賑やかな街の夕暮れが描写されています。雲は橙色に染まり、鳥たちは憩うように空から降りてきます。

空には愉快な月が懸って わたしは胸に勲章を灯し
荘重な仕草などして心が軽るかった

 この詩の描写と、著者が兵隊にまつわる詩も書いていることから、その関わりが想像されます。そして、それがこの詩の核になっているように思います。

わたしは洒落れた髪かたちを水溜に写してみて
舗道に出て来て靴を蹴った
晴れがましい歌がうたえそうな気がした

 この詩の表層を読む限りでは、明るい心情がうかがえます。しかし晴れがましい歌という言葉で締めくくられる詩にあって、題名はみすぼらしい歌です。そこには何か皮肉めいたものが感じられます。賑やかな街々と、迫る軍靴の音の狭間で、思うところがあったのでしょうか。そう考えると、どこか哀しい詩に思えてきます。

薬師寺衛『風の日』

そとにはひどい風がふく

じぶんは それで ふと よみさしの
古代美術史の本から眼をあげていた
まいにちをさびしく きままに すごしているな
こころひくものだけを ひごろ まもりそだててきたが
それに これという注文もなく
けれどもゆたかならぬ
しんから こころをつくすあてのない 気がする

 読書をしていると、ふと、外の風音に気を惹かれます。惰性的な日常が、静かな家の中と、荒れた風の吹く外とで明確な線引きがされています。効果的な対比があって、閉塞感が際立っているようです。
 守り育ててきた心惹くものが何かは分かりませんが、それは詩人としての感性であるとも考えられます。

じぶんが まもりそだててきたようなものを ひそかにいまこそ
もとめているような そんなひとが
やはりひとり どこか あまりとおくもないところに
しずかに いるものではないか
きのうもきょうも ゆきちがったのではないか

 詩が共感と慰めを与えるものであるとするならば、荒れ狂う風の中を行く人々に対して、何か自分の感性(詩)を必要としている人がいるのではないかという、寄り添う気持ちが感じられます。
 それは、奇しくも現代にあてはまるような気がします。コロナ禍にあって、閉塞的な空間に留まる人々、危険な場所を行き交う人々、最前線で戦う人々がいれば、詩人は閉塞的な空間に留まる人々でしょう。
 災害や疫病に対して詩人は無力です。しかし一方で、3.11後に震災関連の詩が発表されたり、金子みすゞの詩がテレビで流されたりと、非常時にあって寄り添う形で活用される側面もあります。事実、コロナ禍を題材とした詩を発表している詩人も多くいます。詩人が自身の価値を発揮するのは、自分自身に対する慰めではなく、他人に対する慰めを考える瞬間なのでしょう。

ああ けれども きょうは いちにち

そとにはひどい風がふく

終わりに

 約1年をかけて『四季詩集』という本の解釈に取り組んできました。軽い気持ちで始めたものの、内容の濃さに圧倒されて、これまでの時間をかけてやっと咀嚼できました。
 本を読むということは、ある意味では著者との対話ですが、有名無名問わず80年前の人々の感性に触れることで、様々な考えを見ることが出来ました。特に、生い立ちや社会情勢によって揺さぶられる感性が垣間見える瞬間は、震えるような感動がありました。
 詩を書くためには詩を読み解くことが大切です。その文章の解釈を自由に広げていくことで、自身の詩的表現の幅を広げることにも繋がります。その意味では『四季詩集』という本との出会いは、僕に大きな影響を与えてくれたことでしょう。


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