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DLチャンネルというDLsite傘下のオタク系テキストサイトに150万文字5年ほど書き…

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DLチャンネルというDLsite傘下のオタク系テキストサイトに150万文字5年ほど書き続けて、そろそろ新しい事をしようという話になってnoteをやる事に https://ch.dlsite.com/profile/75116/timeline DLチャンネルで書いた記事はこちら

最近の記事

考える。でも、考えることで物事が複雑になったら考えない。

最近、考えるという事の功罪について考えている。 考えるという言葉からは「美しい」とか「立派」とか「知的」というイメージを想起しやすい。 けれども、実際には「考えないほうがパフォーマンスが良くなる」事も多い。 例えばとあるテニス選手がいたとする。 その選手は「イン・アウト」のラインギリギリのボールを打ち分けるのが上手く、ギリギリのラインを見極めるのがとても上手かった。 それである日、コーチに「君はあんなギリギリの弾を打ち分けるなんて凄い」と褒められた。 「ありがとう

    • もし1本だけ映画を撮れるなら、楽しいアクション映画が撮れればそれでいい

      もし1本だけ映画を撮れるという話になったら、貴方はどんな映画を撮るだろうか? 人生総論の誰にも撮れない映画?自分の人生のドキュメンタリー的な映画?見たこと無いような歴史に残る映画?賞を総ナメにする凄い映画? 僕は実は楽しい”だけ”のアクション映画を撮りたい。 自分の頭の良さを証明したり、歴史に残る努力をしたりしない。 そういう創作がダメと言いたいワケじゃない。作家主義の映画だって好きだ。 でも僕は「楽しい普通の映画を撮る人」が一番かっこいいと思う。 うおーなんだこ

      • 編集が全くされてない昔のyoutubeの空気感が好きすぎる

        僕は昔のyoutubeが好きだ。 特に2011年~2013年辺りのyoutubeの空気感。これが本当にたまらない。 音楽も無い。テロップも無い。効果音も無い。薄暗い部屋でマイクの音もこもっていて、編集もあまりされずにただ淡々と商品紹介をしたりする。その空気感がとにかく好きでしょうがない。 今のyoutubeの編集は「テレビ化」が完了してしまった。 効果音は鳴り響き。編集は行き届き。照明は完璧であり、全てが機能的に完成されている。つまり映像として正しいのである。 でも

        • 海外から日本に来た外国人がテレビに映る時「その人が日本に失望するフェーズ」の予感を感じて見れない

          私は「外国人が日本に希望を持ってやってくる」姿が映る番組が苦手である。 というより「日本に希望を持ってやってくる外国人」を見るのが苦手なのだ。 海外からやって来た人を取り上げる番組を見ると、あっ。日本っていう国にファンタジーを持ってるな。って感じる外国人が映る時がある。 アニメなり何なりで、日本という国家のまとっているファンタジーを信じている人。 そういう人が映る度に、あっ・・・ってなってしまう。 いつかこの人が、日本という国の労働。モラル。社会システムの窮屈さ。そ

        考える。でも、考えることで物事が複雑になったら考えない。

        • もし1本だけ映画を撮れるなら、楽しいアクション映画が撮れればそれでいい

        • 編集が全くされてない昔のyoutubeの空気感が好きすぎる

        • 海外から日本に来た外国人がテレビに映る時「その人が日本に失望するフェーズ」の予感を感じて見れない

          サカナクションのドキュメンタリーを見て最後の「開けない夜は無い」というナレーションに凄く引っかかった感想

          サカナクションのうつ病のドキュメンタリーを見た。 私自身はサカナクションのファンとしてはそこそこぐらいで、ファンクラブに入会した経験があり、コロナ時代のインタビュー動画を片っ端から見まくったり、アルバムのコメンタリーを聴いて表参道26時が表参道のファミレスで別れ話をする男女のカップルの話だっていう事を知ってるぐらいの、目が開く藍色のライブ音源と三日月サンセットが好きなそこそこのファン。ぐらいだと思って欲しい。 全体的に面白かったけれど、番組全体の掲げる物語性が「再生してい

          サカナクションのドキュメンタリーを見て最後の「開けない夜は無い」というナレーションに凄く引っかかった感想

          僕は「100メートル走で1位を取る」とか「画力で漫画家の頂点を目指す」みたいな事をやめるようにしている

          最近、とあるきっかけで野村克也という人物の記事を読んだ。 野球経験は全く無いが、この記事のこの言葉に猛烈に僕は惹かれた。 この言葉は凄い。ここ半年の中で耳にした言葉の中ではぶっちぎりでグッと来た。 僕自身、全く固有の才能が無くて、固有の才能が与えられていない人間としてどうやって立ち回るかという事は人生のテーマとしてずっと考えていた。 努力には力がある。 努力の多くは報われると思う。だからこそ勉強には価値がある。 けれども、報われない努力も絶対にある。 例えば、1

          僕は「100メートル走で1位を取る」とか「画力で漫画家の頂点を目指す」みたいな事をやめるようにしている

          ストリートファイター6が生み出した「スポーツ漫画」の物語が大好きだ

          最近、ストリートファイター6にメロメロになっている。 その理由なのだが、ゲームが面白いというより、ゲームが作り出している物語が面白いと感じるのだ。 まずCRカップなどと言ったゲームの大会、これがまずプロット的に面白い。 複数人のプレイヤーが集まり、修行の後に本番が始まり、先鋒。中堅。大将など、全ての勝敗が「チームの勝利」へと集約されていく。 だから先鋒戦こそ面白い。先鋒戦が一番盛り上がると言っても良い。 このCRカップの修行→チーム戦の本番。という物語構造はちはやふ

          ストリートファイター6が生み出した「スポーツ漫画」の物語が大好きだ

          絵と音楽はコラムに比べて「矛盾していない」事が妬ましくてしょうがない

          最近絵が描ける人が羨ましくてしょうがない。 その原因について色々考えたけれど、1つこれだなと思う事があった。 それは絵には矛盾が存在しないという事である。 僕はずっと文字を書いてきている。 けれど、言語化にも絶対的な限界がある。正直。 世の中には「ヤバい」や「エモい」と言うだけの人を言語化できない人間として小馬鹿にするケースがある。 でも、そういう人たちと僕は根本的に同じだと考える。 なぜなら、言葉は口にした時点で矛盾になるからである。 言葉というのは、結局の

          絵と音楽はコラムに比べて「矛盾していない」事が妬ましくてしょうがない

          映画で悪役や主人公がバイクを奪って一般人が「あ、俺のバイク!」ってなるシーンでバイクを奪われた人の気持ちを15分ずっと考えて映画の内容を忘れてる

          映画とかで、主人公や悪役がバイクとかに乗って「あ、俺のバイク!」ってなるシーンあるじゃないですか。 主人公や悪役が逃げたり追いかける時に、他人の乗り物を勝手に奪うあのシーンです。 特にこのシーンがよくあったのが1980年代のハリウッド映画。この時期は本当にかわいそうなシーンが多くて、当時の警察官モノは「警察だ!」って言って手帳を見せて車を奪うシーン→車がオシャカになる展開が本当に多かった。 僕はこのシーンに結構引っかかる。 そこまでして執行する正義に意味があるのか。そ

          映画で悪役や主人公がバイクを奪って一般人が「あ、俺のバイク!」ってなるシーンでバイクを奪われた人の気持ちを15分ずっと考えて映画の内容を忘れてる

          「初心者はwikiを読まないとトロール扱いになる対人・協力ゲーム」が苦手

          僕は対人ゲームや協力ゲームにおいて「wikiを読まないとトロール扱いになるゲーム」が凄く苦手だ。 wikiを読まないとトロール扱いになるゲームっていうのはだいたい「チュートリアルが基本のゲームシステムの説明だけで駆け引きの説明が全く無い」モノが多い。 駆け引きの説明とは、例えばオーバーウォッチで言うと「キャラクターのアンチピックを使った後出しジャンケンしながらウルトっていうリソースで戦うゲーム」みたいなゲームの本質的な駆け引きの事。 僕はとにかくゲームを買ったら何も調べ

          「初心者はwikiを読まないとトロール扱いになる対人・協力ゲーム」が苦手

          創作するっていう行為自体が呼び込む躁鬱ってあるよね

          僕は躁鬱の気がある。 でも、色んな躁鬱のエピソードを読む内に「そうだね」と思うポイントもあれば「そうでもないかな・・・」と思う場面もあった。 それで、僕が色々考えてたどり着いたのが「僕は創作躁鬱」なんじゃないか?という話だった。 「創作躁鬱」って何だよ。って思うので、こっから説明していく。 まず、僕は躁鬱っていう精神体質以前に「創作という行為自体が呼び込む躁鬱」があると思う。 バズるという確率の低い期待に振り回されて、アイデアを出す時に思い出すべきでない記憶を思い出

          創作するっていう行為自体が呼び込む躁鬱ってあるよね

          「自分が大事にしている人に嫌われる」事だけは絶対に避けたい

          僕は「自分が大事だと思った人に嫌われる」のが嫌である。 正直な話ライターとして他人に辛辣なコメントをされても「あっそ」でいなせる。大事にしてない人にテキトー言われてもだいたいは無かった事にできる。 でも「自分が大事だと思った人に嫌われる」これだけは、これだけは。一生涯を捧げても絶対に嫌である。 嫌であるが故に、その人に会うタイミングは徹底的に選ぶ。コンディションが悪い時にエンカウントするなんぞもっての他。絶対にコミュニケーション力が100%出せる時にその人に会う。 そ

          「自分が大事にしている人に嫌われる」事だけは絶対に避けたい

          妄想までしかできずアウトプットできねえオタクが負けってこたねえだろ

          僕は妄想している。 それは10代の頃からそうだっし、今でもずっと妄想している。 音楽を聴いたら幻覚を見る。幻覚と言っても実際に浮き上がるそれではない。視覚に反映されずマインドのビジョンとして浮き上がる映像。その映像の方に意識を向ける。そういう幻覚。 僕が音楽の評論を諦めているのは、実は音楽って結局自分のビジュアルの妄想がみんな最優先なんでしょ?って思ってたりするのが原因。 みんな結局音楽を聞く時に、自分の好きなビジュアルや景色を夢想する脳内の個人的精神反応を発生させる

          妄想までしかできずアウトプットできねえオタクが負けってこたねえだろ

          「自分は素晴らしい存在だ」から始まる自己肯定感の罠

          自己肯定感という言葉がある。 この言葉は日本では価値がある。人間なら持たねばならぬ財産であると重宝されている。 ・・・が、実際にはこの自己肯定感はかなり危うい片足立ちのバランスで成立している事に気をつけなければならない。 例えば「自分は素晴らしい存在だ」という自己肯定感があったとする。 「自分は素晴らしい存在だ」で止まるなら問題は無い。だが、人間は思考を次へ次へと派生する本能を持つ生き物で、ここでは止まらない。 「自分は素晴らしい存在だ」が「自分は評価されるべき存在

          「自分は素晴らしい存在だ」から始まる自己肯定感の罠

          キャラクターに説明セリフを言わせつつキャラの生の台詞を引き出すのが異様に上手い「ZONE OF THE ENDERS ANUBIS」の話

          最近、PS2ゲームであるANUBISのムービーをよく見る。 まぁ~上手いのだ。説明セリフがとにかく上手い。 僕も短編小説を書いていた時期があるが、この説明セリフというのはとにかく厄介。 観客に情報を伝達する以上、どうしても説明はしなきゃいけんのだが、説明をすると当然ながら不自然になる。 例えば僕なら バーのシーンで旧友2人が会話をするシーンで「俺達、高校時代はサッカー部でいいトコまで行ったよな・・・」→「そうだな、全国大会で優勝目前まで行って・・・お前はシュートを外

          キャラクターに説明セリフを言わせつつキャラの生の台詞を引き出すのが異様に上手い「ZONE OF THE ENDERS ANUBIS」の話

          時間は全てを変えていく 良かったことも悪かったことも ひととそのありようの全てを書き換えていく 生きるとは、それを許容するか拒絶するかなんだと思う 歳を重ねる。好きだったモノがダメになる。正しい人が悪い人になる それを了解できるように生きたい

          時間は全てを変えていく 良かったことも悪かったことも ひととそのありようの全てを書き換えていく 生きるとは、それを許容するか拒絶するかなんだと思う 歳を重ねる。好きだったモノがダメになる。正しい人が悪い人になる それを了解できるように生きたい