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考える。でも、考えることで物事が複雑になったら考えない。

最近、考えるという事の功罪について考えている。

考えるという言葉からは「美しい」とか「立派」とか「知的」というイメージを想起しやすい。

けれども、実際には「考えないほうがパフォーマンスが良くなる」事も多い。

例えばとあるテニス選手がいたとする。

その選手は「イン・アウト」のラインギリギリのボールを打ち分けるのが上手く、ギリギリのラインを見極めるのがとても上手かった。

それである日、コーチに「君はあんなギリギリの弾を打ち分けるなんて凄い」と褒められた。

「ありがとうございます!」とその選手。

ところが、その選手はその褒め言葉を受け取った次の日から一気にギリギリのボールが見極められなくなった。

その選手は自分がギリギリのラインを突くのが上手いなんて考えもしなかったのである。

しかしコーチの言葉でそれを意識した。つまり考えた。考えた事で一気にパフォーマンスが低下したのである。

考えるという事は物事の解決に近づく有効手段だと思っている人が多い。

けれど、考えるという事は、考える対象物の難しさを過大評価する癖が付く。


音ゲーでもそう。縦連があると考えた瞬間にパフォーマンスが下がる。階段譜面を階段譜面だと強く意識した瞬間に一気に押せなくなる瞬間がある。

考えることは「これは解決困難な問題だ」と、向き合っている問題を難しく捉えてしまうデメリットがある。

「じゃあ考えなければいいのか?」これもまたそうではない。

考えずに取り組んでいたら絶対に技術は熟達しない。反省もせずにただただ繰り返すだけは上手くならない。

考える⇔考えないの間に「考えながら、考えない」という理屈が成立している場所がある。ここにこそ最大のパフォーマンスがある。

これを引き出すためには「楽しむ」という感覚が必要になってくる。

マグロナというvtuberの言葉を今でも覚えている。いつの生放送かは忘れたが、非常にパフォーマンスの高いプレイをしているというコメントに「楽しんでるだけで集中しているとかじゃない」と口にしていた。

これだよな。と今でも思う。楽しんでる時はなんでもシンプルに見える。ただこれをやれば良いがわかる。

僕がここでしているのは全てに言える。料理でも執筆でもゲームでもスポーツでも。考える事によって向き合う問題が難しく見えることがある。

「考えて動け!」「ちゃんと考えろ!」と言った「考えるという神話」がこの国にはある。

「試合中どんな事を考えていますか?」や「執筆中どういう事を考えていますか?」という質問をするインタビュアーは多い。

けれど「考えない方がパフォーマンスが高い」というのは事実だと思う。


つまり「データを集めてからデータを捨てる」というテニスの王子様の乾のやり方は笑い話でもなんでもなく最適解なのである。

「考えながら、考えない」

この領域こそが一番パフォーマンスが高い。僕はそこに人間の脳の面白さを感じている。この感覚にたどり着きたい。そういう思いでずっと文字を書いている。そういう話でした。



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