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エッセイ: 『ペルソナ』というベルイマンの映画論、演劇論、神学論

『ペルソナ』は、映画評論におけるエレベスト級の最高峰。仮面(ペルソナ)を被って生きる人間、アニムス、現実性と非現実性、神と人類の関係に向き合い、そして映画とは何なのかを問う映画……。
 
スウェーデンの巨匠、イングマル・ベルイマンは、「神の沈黙」三部作の後、本業だった舞台監督に戻りますが心労を追い、長期入院していた際に、この『ペルソナ』を構想したという。ルター教の敬虔な家庭で育ちながらも、幼い頃から神を見限っていたと告白していたベルイマンだが、「神の沈黙」シリーズでは何度も神を蜘蛛に例えながらも、同時に「神とは和解した」と述べている。王立演劇劇場の監督経験があったからこそ構想が生み出されたものとも彼は語っているが、舞台監督については王室お墨付きであったために冒険ができず、自分の想像力を十分に発揮することができなかったと考えていたらしい。難解複雑な『ペルソナ』は、そんな彼の心境のもとで、ベルイマン本来のクリエイティビティが爆発したものだったのかも知れない。

君のお母さん……じゃないよね?

まず、そこに光があった ―――。『ペルソナ』は、そんな聖書・創世記の一文のような映像モンタージュから始まる。黒から白へのスローフェイドが、やがては映写機の光とフィルムになり、サイレント映画時代のアニメや死んだ羊などのイメージが写しだされていく。この映像の中には、蜘蛛の映像も含まれている。これらのモンタージュが何を意味するのかは不明だが、「蜘蛛=神」や「羊=人間」というような意味を求めることもできるし、映像学的原則の対比、つまり「アニメーションと実写」「動と静」「生と死」、そして「光と影」を表しているとも言える。これから始まる物語の主人公が苦悩する現実と非現実を暗示しているのは間違いないだろう。

死体安置所のような場所で寝ていた少年が起き上がると、その壁にボンヤリと映し出されている女性の顔を触ろうとする。もちろん、その壁の向こうにあるかも知れない現実に触ることはできない。これは、ブレヒトの異化効果(日常を異常化させ、観衆のキャラクターへの感情移入を避けることで客観性を保つという、1930年代に始まるフォーマリズム的舞台理論)を映画に当て嵌めたものであると解釈できる。映画の本筋に登場しないその子は、ベルイマン自身(映画)であり、観客(演劇)であり、人間(信仰)である。

ベルイマンと二人三脚だった撮影監督はスヴェン・ニクヴィスト(Sven Nykvist)

この意図的な感情移入の回避は、看護師アルマ(リヴ・ウルマン)の心の仮面が剥がされる映画の中盤(池に反射する彼女の姿の美しいショットに注目)、そしてエンディングで撮影側を撮影するという行為にも見て取ることができる。ブレヒトが想定した舞台演劇ではなく、自分の映画の中だったら異化効果をどのように作り出されるのかを、ベルイマンは考えたのではないだろうか。
 
女優エリザベート(ビビ・アンデショーン)が、なぜ声を出さなくなったのか。その理由については物語で述べられていないが、チベット僧の焼死やユダヤ人迫害といったモンタージュから、現実という外的要因に絶望して沈黙することになったことが示唆されていると想像ことはできる。

一方のアルマは過去の情事を滔々と告白し、人を助ける職業でありながらも人を傷付ける行動にも出るという、内的要因を抱える人間的なキャラクターである。他人を演じる女優と、他人の世話をすることで生きる看護師という、どちらも仮面を被った職業に生きる人間として描かれているが、告白を続け懺悔するアルマに対して、言葉を発しないエリザベートの姿は、全人類的な迫害から個人的な羞恥までの自分の浅はかな行動を棚に上げ、神にすがろうとする人間の苦悩に対して、沈黙を続ける神を擬人化したようにも見える。

世話やきでおしゃべりなアルマと、物言わぬエリザベートの力関係が上手く表現されている

映画の途中、シーンの真ん中で突然フレームがフリーズし、亀裂が入り、フィルムそのものが焼けてしまう。物語はそれまでとは別の場所で、さらに不快感が増した雰囲気の中で再開する。この時点までは直線的に見えていた物語は、空間、時間、因果関係の点でより抽象的なものへと反転し、この亀裂によってストーリーは、現実と幻想、事実とフィクション、あるいはアルマとエリザベートの区別ができなくなってしまうかのように、より解読不能なレベルに移行していく。

この映画を視聴する者は、突然亀裂が入った内省的なストーリーテリングの破綻によって、「観客は映画を観ているに過ぎない」異化効果を強く感じ、このストーリーを一歩離れた場所で観ることを再認識させられる。その際、冒頭のシーケンスにあった不気味なモンタージュを思い起こす人も多いだろう。

こうした映像表現によって、そもそもエリザベートとアルマは同一の人物ではないのかという解釈も、古くから映画評論では提起されてきた。この映画では、2人の顔がピカソの絵画のように重なり合うようなシーンが何度もある。さらにベルイマンは、2人の顔をオーバーラップさせたりディゾルブさせたりという映画表現を使って、2人の同一性を高めているのは間違いない。 冒頭の少年は、エリザベートが女優業に専念するために預けたという、障害を持つ子供であると考えることもできるが、最初(と最後)のシーンで少年が手を差し伸べているのはアルマの顔なのだ。

また、エリザベートを訪ねてきた夫も、アルマのことをエリザベートと呼ぶ。同じアルマのセリフが2回、リバースショットで繰り返されるという映画ならではの技法を使ったり、そもそも原題ではPersonasという複数形でないことも、そうした「人間の内面と外面、人格とアニムス(アニマ)を、2人の役者で表現する」というベルイマンの意図を感じざるを得ない。

 もちろん、この物語において2人が同じ人物であるかどうかは、さして深い意味があるようには思えない。エリザベートは沈黙を保つ患者であるが、同時に精神的にはアルマの上に立つ存在でもある。アルマは感情的にエリザベート以上に自由だが、同時に自分の感情や行いに対する他者の審判に縛られている。声を出して何かを訴えることと、何に対しても沈黙を続けることは、この映画においてはもはや反面的でありながらも同一だ。

偉大なる創造主であるにも関わらず沈黙という仮面を付けて、自分が作り出したはずの人間の苦悩を観察するばかりの神と、情事や傷害(もしくは僧の焼身自殺やユダヤなどの宗教迫害、そしてアルマがエリザベートに手を挙げる冒涜)を続けているのに、仮面を被って神にすがり続けようとする人間。神は常に人間の上にあるが、神は人間の信仰にのみより存続し得る。つまり、神と人間は単体では存在しえない、一心同体なのである。

アルマの過去の体験で最も他人に伝えるほどの意味があるものは、ビーチでの性体験というパーソナルで他愛もないものとしか描かれていない。エリザベートの心を閉した世界の実情を、メディア(映画の中の記録映像)を通して、あたかも自分の身の回りに迫っている現実であることのように表現することと、どことなく重なって見える。

アルマは言う。
「すべての口調は嘘であり、すべてのジェスチャーは偽りであり、すべての笑顔はしかめっ面。自死する?いえ、それは醜いわ。そんなことはしないわよね。でも、動かなくなってしまうことはできる。黙ってしまうこともできる。そうすれば、少なくとも嘘を着く必要はないから。自分を閉じ込めて、自分を閉ざしてしまっているの。」

それでも、エリザベートという仮面には現実を遮断する強さがあったが、アルマという我々のもう1つのペルソナにはその勇気も術もなかった。やがてアルマはエリザベートに反逆し、エリザベートは去っていくが、アルマには神に祝福されていた(おでこを撫でられていた)という余韻が残されている。このシーンが、ベルイマンの「神との和解」の意味するところなのかも知れない。

『ペルソナ』は最後、この物語の撮影隊とカメラがとらえる演者を映し出し、やがて光が消えて終わる。現実的映像表現が可能となった「映画」によるストーリーテリングとは、ありもしない人間のペルソナを作り出している非現実に過ぎないということを、ベルイマンは彼が王立演劇劇場での舞台演劇よりも、映画という媒体を使ってさらに明確に表現してみせた。

『ペルソナ』のメッセージが複雑に感じるのは、この映画がベルイマン自身の映画論として作り上げられただけでなく、演劇論でもあるからだ。そして、彼が悩み続けた神と人間の関係、その信仰への理解を表現する神学論でもあり、三重構造が形成されている。「愚か者は心の中で神はいないと言う」とは聖書の一節だが、ベルイマンにとっての神は人類を救済しないまま去り、その余韻だけを残して人々の心の内にある、ということなのではないだろうか。


リヴ・ウルマン、イングマル・ベルイマン、スヴェン・ニクヴィスト。何とも恣意的なショットですこと


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