ルンパはかわいい掃除機ペット
マンションの自室ドアにある小さなレンズを見つめると、ドアはかちゃりと開いた。平井昇太はため息をつきながら、まだ暗い玄関に足を踏み入れた。
奥の方からみゅーんと軽い音を立てながらルンパが近づいてくるのがわかる。LEDの青い色が目まぐるしく点滅して、うす暗い細い廊下をちかちかと照らしている。
やがて室内照明がゆっくりと明るくなっていくと、ルンパがすぐ近くに来ていて、うれしそうにくるくると円を描いて動き回っているのが見えた。
うれしそうに?
いや、ほんとうにルンパがうれしいのかどうかはわからない。そもそも、うれしいとかの感情があるのかもわからない。
というか、ないに決まっている。
それでも、そのルンパの動きは、ご主人様 ―の片方― である昇太が帰ってきたのを喜んでじゃれつきまわっているとしか思えなかった。
すごい技術だとあらためて思う。
ルンパそのものは感情をもたない機械、室内自動掃除機、にすぎなかったとしても、少なくともその動きを見た人間側には強い感情が生まれる。
円盤状の本体をくるくる回転させながら、自分がリビングのソファーに向かうあいだも、ずっと足元にじゃれついてくる。
縮こまっていた心が、少しだけほどけていくのを感じる。
足元でめまぐるしく動きながらも、けっして、歩行のじゃまになることはない。むじゃきに動き回るようでいて、そこにはカンペキに計算された動きがあるのだ。などと、どうでもいいことを考えながら廊下を進んだ。
リビングのエアコンは、少し前に作動を始めていたのであろう。すでにだいぶ温まっている。
しかし、やはり、心はまだ寒いままだ。
はしゃぎまわるルンパに少し元気をもらいながらも、部屋の照明がお気に入り設定にまで明るくなると、その事実は隠しようもない。
今日もまた、結菜は帰っていなかった。
ここまでこじれてしまうとは思わなかった。
最初は、ほんのたわいのないことでの言い争いにすぎなかったはずだ。
ただ、二人とも、疲れていた。
結菜は新しい部署に異動になったばかりで、慣れない仕事についていこうと必死だった。それでも、家庭の中では笑顔でいようと努力していたに違いない。今から振り返って考えれば、それがすごくよくわかる。
しかし、その時の昇太もまた、余裕を失っていた。
クライアントがつきつける納期の短さは相変わらず。それに何とか応えようと、クリエーター部とテクニカル部との間をなんども行き来して、ようやくめどをつけたところだった。そのために、二カ月近くも、超過勤務をする日々が続いていた。それが、その日の夕方、クライアントの一方的な都合でキャンセルになってしまったのだ。
売り言葉に買い言葉というのか。
ちょっとした結菜の言い方にカチンときて、言わなくてもいいイヤミを言ったりしてしまった。
そのあとどういうやり取りを続けたのか、もう思い出せない。いや、正確には、思いだしたくない。
まったく意味のない、傷つけあうだけの言葉のやりとりを続けてしまった。
ルンパが小さく、みゅー、という電子音を出したので、はっと我にかえった。
電子レンジの中で、買ってきた冷凍の夕飯セットができ上っていた。
トレイに載せたまま、ダイニングテーブルの上に運ぶ。ご飯は炊きたてのよい香り。それにカレイの煮つけとほうれん草のごま汚しが、おいしそうにでき上っていた。付け合わせの漬け物も、デザートの小さいメロンも、すべてがちょうどよい温度で仕上がっている。
ルンパは、キッチンの床に少しこぼれた水滴を掃除したあとで、すぐにご主人様を追って、するするとテーブルの下にやってきた。
昇太が夕食を食べるのを見るでもなく ―まあモニターカメラに映ってはいるのだろうが― ただリビング内をゆっくりと行ったり来たりしている。
キッチンを拭いているときだけオレンジ色になったLEDランプは、もう青に戻っている。リビングをあちこち動き回っても、稼働中であることを示すオレンジ色のランプがふたたびつくことはない。昼間のお留守番のあいだに、部屋中をくまなく掃除する時間がたっぷりあったのだ。どこもかしこも、ピカピカでチリひとつ落ちていない。
夕食を食べ終わると、ソファーに移動して、リーガルサワーの缶を開けて飲みはじめた。今日は飲むのはやめておこうと思っていたのに、どうにもさみしすぎてシラフでは耐えられない。もっとも、アルコールのように体に害を与えるものでもなし。飲めば、気分をまがりなりにも高揚させてくれるのだから、合法ドラッグの助けを借りて悪いことはないだろう。
結菜が短いメモのような手紙を残して出て行ってから、もう一週間になる。
最初の数日間、あくまでも自分は、結菜の子供っぽい行動に腹を立てている、というスタンスをとっていた。
今日と同じように、ルンパがゆっくりと動く横でリーガルサワーを飲みながら、怒っているのは自分である、という立場を堅持しようとしていたのだ。
日が経つにつれ、だんだんとリーガルサワーの本数が増えていった。しかしそれでも、その考えを変えようとしなかった。
いや、ほんとうは気づいていたのだ。
実は、心の中で大きく膨らんでいく、「後悔」という暗雲を認めるのを怖がっているのだということを。
そこに、稲妻が光っているのも、実はわかっていたのに。
しかし、今日は、もう、さすがにごまかしがきかなかった。
昼間の仕事中から、胸の奥はずっと締めつけられるように痛んだままだった。
一度、それを「さみしい」という感情だと認めてしまったとたん、激しい後悔が暴風雨となって心の奥底を叩きつけた。
ぐったりとうなだれたままソファーの上で動かないご主人様を心配したように、ルンパが足元にすり寄ってきた。
少しもうろうとなった視界の中で、ルンパがまるで話しかけるかのようにくるくると胴体を回しているのが見える。
ちょっと眠くなってきたようだ。まぶたが重くなってきている。かすんだ眼の端の方で、ルンパのランプがオレンジ色に替わったように見えた。ああ、チリでも、見つけたの、だろうか……ルンパはほんとにはたらきものだな……
と、突然、電話の呼び出し音が響いた。ルンパに搭載されている高音質スピーカーから、昔風のiPhoneの呼び出しトーンが鳴っていた。
誰からだろう、と思いながら「はい、もしもし」と答える。
「……あの……わたしです。遅くにごめん」
通話モードに切り替わったルンパのスピーカーから聞こえてきたのは、まぎれもない、結菜の声であった。
一気に眠気は吹き飛び、ソファーの上に座りなおした。
「あ、ああ。……こんばんは」
想像もしていなかった、急な結菜からの電話。いったい何を言っていいのかわからず、間抜けな返答になってしまった。
「……」
「……」
二人とも、何も言えぬまま、しばらくの時間が流れた。
通話モードになったルンパは動きをとめて、スピーカーに徹している。
「……あのね、突然で申し訳なかったんだけど」
結菜が無言の空間をやぶった。
「どうしても言わなくちゃと思って、つい電話しちゃったの」
どうしたんだろう。昇太はまたソファーに座りなおした。
「あの……わたし、あれから考えたんだけど……」
じっとルンパのスピーカー部分を見つめる。
「ほんとに、子供っぽすぎたなっていうか……あの、わたしの、その、行動が」
体が硬直したように固まった。
「あの、なんというか、考え直してみると……ほんとに……ごめんね」
もう黙って聞いていることはできなかった。
「いや、なんで、いや。ほんとうに、悪かったのは僕だから。ほんとうにごめん」
ルンパの方に身を乗り出しながら、昇太は一気に話し始めていた。
「そんな、結菜はぜんぜん、あの、あやまることなんてないよ。ほんとに僕がバカだったんだから」
声がヒートアップしてくる。
「もう、まったく、なんというか。自分がテンパってただけなのに、結菜にひどいこといろいろ言っちゃって。ほんとに悪かったと思って。すごく反省していたんだ」
かすれた声になってきたのは、大声になったせいではなかった。
突然の結菜からの電話、それも思ってもみなかった謝罪の言葉。……いや、謝罪ってなんなんだ。悪いのはぜんぶ自分の方なのに。結菜に「ごめんね」などと言わせるなんて。なんというひどい夫なんだ、自分は。
それからは、ただひたすらに、昇太は自分の言動をあやまりつづけた。そんな言葉を、結菜は、優しい声で相づちを打ちながら、ただ聞いていてくれた。
そして、わだかまりは完全に融けていった。
一度、二人を凍りつかせていた氷が消えてしまえば、もうそのあとは、そんなものがあったことすら思いだせないくらい、二人の会話は弾みだした。
それがもともとの二人の姿だったのだ。
「そうそう、ちょっと前に話してた改修中だったイタリアンのお店、今日、開店してたのを見たよ」
「ああ、あの老舗のしぶいお店ね。評判いいもんね。わたしの会社の人たちもほめてたのを何度も聞いたなあ」
「そうそう。今度、行こうよ。改装してちょっとオシャレっぽくなってるよ」
「いいね。じゃあ、次の休みに行く?」
「そうだね。もう仕事のピークもすぎたんで、ちょうどいいよ」
「じゃあ、昇太ががんばって山のような仕事を乗り越えたお祝いということで」
「飲みすぎに注意だな」
「ワインはアルコール入ってるからね。でもやっぱりイタリアンにはワインだよね。また前のように次の日にまで残るようなことがないようにね」
「そうそう、あのときはまいったよ。もうワインはこりごりと思ったけど、すぐに忘れちゃうんだよね。アルコールには記憶を消す作用があるのかな」
「さあ、どうなんだろうね」
たわいもない二人の会話は、夜遅くまで続いた。
そして、次の日、結菜は帰ってきた。
玄関を開けたときには、さすがにちょっと照れくさそうな感じではあったが、すぐに元の二人の空気にもどった。
ルンパが、いつもよりも早いのではと思うくらいのスピードで結菜のもとに駆け寄り、いつもより多いのではと思うくらいにくるくる胴体を回しているのがおかしかった。
それが二人の笑いを誘ったことが、ちょっとぎこちなかった空気をゆるませるきっかけになったのかもしれない。
ルンパはほんとうに結菜が大好きみたいだ。
それから、二人は幸せな毎日を送っている。
例のイタリアンレストランにも行ったし、帰りの道で、昇太が思いついて花を買ったりもして、結菜を喜ばせた。
仕事はときどきは忙しくなったりはするけれども、そういうときこそ、余裕を失わないようにしようと、昇太は気をつけるようになった。
結菜との楽しい毎日を過ごすこと以上に大切なことなどないのだから。
ただ、ちょっとだけ、気になることがあった。
例の、結菜が突然、電話をかけてきたときのことだ。
二人とも、なんとなく照れくさくて、その時の話はしようとはしないのだが、いちどだけ話題になったことがあった。
そのときの話が、いま一つかみ合わないのだ。
電話をかけてきたのは結菜なのに、結菜は、昇太から電話をかけてきたような言い方をした。
突然、自分の実家の掃除機ペットに、ルンパ経由で昇太からの電話があったと。
急に電話があったので驚いたとさえ言っていた。
まあ、でも、きっとそれは、彼女の照れなのだろう。
自分から電話をかけたとはっきりと言いたくない気持ちはよくわかる。
そういえば、もうひとつ変だと言えば、レストランのことも食い違っていた。
結菜が帰ってきた次の週末に、電話で約束したイタリアンに行こうよと言うと、結菜は、中華料理の店のことだったんじゃないの、と言った。
こちらは、単なる思い違いだろう。なんといっても、あの日は遅くまでたくさんの話をしていたし。
そうそう、あの夜、ルンパを通して、結菜と話をしたんだよな、とあらためて床でゆっくりと動く、ルンパを見つめて思う。
ルンパを通した会話のおかげで二人は仲直りできたのだ。
高性能AIを搭載したペット型掃除機ロボットとして、カンペキな掃除と、まるでほんもののペットのような動きで、一大ブームとなったのはもう数年前だ。
AIの機能は学習をつづけ、さらに進化が続いているらしい。
まるで人間の心を読むようにして動き回ることで、より一層、掃除機ペットのファンとなる人が増加しているという記事をどこかで読んだ。
それに電話だってできるんだから、なんて、便利なんだろう。
もう、ルンパなしでいられないな、と昇太はちょっとおかしくなって笑った。
<終わり>
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