白猫になった魔女 / 連作短編小説 -1-
――吾輩は猫である。
――名前など、とうに捨てた……。
「もぉ。白猫さんったら、またいけずなこと言わはって」
ひょい、と白猫は少女に持ち上げられる。少女の手首にミサンガで結ばれた小さな鈴が、チリンと可愛らしい音を転がす。
――小娘、いい加減にしてくれぬか。
――このような道の往来で、吾輩を赤子のように抱きかかえるなど。
「だって白猫さん、ずっと早足やし。こーんな短い足やのにねぇ」
――無駄に肉球を触るな。ぷにぷにとしてくれるな。
――そもそも小娘は、なぜそれほど歩くのが遅いのか。
――今の吾輩と違い、立派な足を生やしているというのに。
「わたしの足、そんな立派かな? また太ってきたんかなぁ」
制服のスカートから伸びた自身の足を見つめながら、少女は不安げに首を傾げる。
実際にはそれほど太いわけでもない少女の足は、むしろ十六という年齢相応のほっそりとした肉つきに留まっている。
――吾輩は足の外径を差して言ったわけではない。
――小娘はどうも緩慢に過ぎる。
――歩様もそうだが、思考についてもだな……。
「もぉ。さっきから小娘小娘って。前にも言うたけど、わたしはもう十六やし、小娘はさすがにやめてほしいわ」
――フン、たかが十六。吾輩から見れば充分に小娘だ。
「あ、そっか。白猫さんは結構年上な設定やったね。そんならしゃあないね」
――納得してくれたようでなによりだ。設定、という語彙は少々気になるが。
――ともあれ、小娘から見れば吾輩は途方もないほど年上に当たる。
――そのような相手を不用意に抱きかかえることがどれだけ無礼なことか、小娘とて分からないわけではないだろう?
「せやねぇ。気ぃつけなねぇ」
などと言いながらも、少女が白猫を下ろす気配はない。にぱにぱと能天気そうな笑みを浮かべたままゆっくり散歩を続けている。
――それで小娘よ、いつになったら吾輩を解放するのか。
「んー、どないしょ。白猫さん、あったかくて気持ちええしなぁ」
――答えになっていない。
――気をつける、という言葉は虚言だったのか?
「あ、じゃあこんなんはどぉ? 白猫さんがほんまのお名前、わたしに教えてくれるんやったら放して……ひたっ!」
平和ぼけした少女の頬を、白猫が前足の肉球で引っぱたいた。大して痛くはないはずだが、少女は両目をバッテンマークにさせている。
――言ったはずだ。
――名前など、とうに捨てたと。
「せやけど、ずーっと白猫さんのままって呼ばれづらない?」
――別に構わぬ。
――それに、たとえ吾輩の真名を教えたとしても、小娘には百害あって一利なしだ。
「えー。また魔女だとか、異世界がどうのって設定のお話?」
――設定ではなく真実だ。
――少なくとも、吾輩にとっては……。
「もぉ、困った中二病さんやねぇ。それとも、ほんまは恥ずかしがってるだけやったり?」
なにかくすぐられたように笑いながら、少女は両腕に抱いた白猫の頭を撫で回す。くすぐったいのはこっちの方だ、と言わんばかりに白猫は不満げな鳴き声を上げる。
今日も今日とてまともに信じてもらえる気配がない。そもそも中二病とはなんなのか。虚言癖かなにかを言い表すこの世界特有の病なのか。
まあ、少女が信じないのも無理はない。
なにせこの白猫は――金目銀目のオッドアイを光らせ、混じり気のない真っ白な毛並みの上からフード付きの黒いキャットウェアを纏ったこの猫は、端的に言ってこの世界の猫ではないのだから。なんなら本来は猫でさえない。
白猫の正体は正真正銘、異世界から来た魔女だった。
†
魔女、それは異端の存在。
いずれに世界においても疎んじられ、排斥の運命から逃れることはできない。
のちに白猫となる魔女も、元の世界で窮地に追い詰められていた。
(もはやこれまで、か)
夜の帳が下りた村の広場で、魔女は磔にされていた。
その姿は傷と血に塗れながらも、未だ浮世離れした美しさを保っていた。黒衣のフードから覗く肌は極地帯の雪原のように白く、膝元まで届くほど長い髪は星屑の海で染めたように銀無垢の煌めきを有している。物憂げな双眸は互いに色を違えており、右目は黒が入り混じった金色を、左目は灰色がかった銀色を映している。
(まったく、因果なものだ。魔術によって忌み嫌われた吾輩が、同じ魔術に屈する日が来ようとは……)
鉛のように重たい目蓋を必死に持ち上げ、絶望に染まった視界を広げる。
周囲は修道女や神父、怒声で喚く民衆が取り囲み、今にも火を放たんとばかりに気勢を上げている。
彼らが排他的な思想を持つことに論理的な理由などない。
ここに異端者がいるという、たったそれだけのこと。
異端者は大地を汚し、災いを引き寄せる。
疫病の流行。続く凶作。民に慕われた王女の非業の死。
この地に起こったあらゆる災厄、それらの原因はすべて魔女にある。
要は単なる責任転嫁——誰かのせいにできれば、誰でも構わないのだ。
(フン、憐れな子羊たちだ。吾輩を葬ったところで、状況はなに一つ好転せぬというのに)
魔女は諦観したように口角を上げるも、傷だらけの頬の痛みですぐに眉根を寄せた。
十字の柱に釘で打ちつけられた両手両足にはもはや感覚がない。首から上の痛覚だけが魔女の意識をかろうじて引き留めている。
本来であればこの程度の拘束から逃れるのは造作もない。魔術を一つ唱えれば身を眩ますのはたやすいことだった。
しかし今は詠唱ができない。その原因は魔女の左脇腹に刻印されたスティグマと、眼前に立っている聖女の魔術にあった。
「災厄をもたらす魔女よ。今や汝の力は無と化し、逃れることは叶いません。神の裁きを受けるのです」
聖女が穢れのない美声を張り上げると、それに呼応するように群衆も士気を高める。無数の松明が魔女の足元に迫ってくる。
魔術の詠唱は聖女の魔術によって制限されていた。教会の暗部で秘密裏に伝えられている愚者への烙印と封術を絡めたもので、聖女の視界に入っているうちは魔術を使用できない。
抵抗する術があるとすれば、自己詠唱ではなく魔法円の描写によって発動できる魔法だが……横木に釘で打ちつけられた両手は、もはや血が零れていく感覚さえ失われている。
「呆気ないものですね。幾千の魔術を操る魔女も、封じられればただの子羊に過ぎないのですから」
この期に及んで憐れむような聖女の言葉に、魔女は笑みを零さずにはいられなかった。それがまた新たな痛みを伴うと分かっていても。
「……笑わせるな、生娘。吾輩がただの子羊ならば、このような仕打ちを受ける道理などあるまい」
魔女は声を振り絞る。口はほとんど開けず、砂鉄を含ませたような嗄声だけがかろうじて這い出てくる。
まだ反応があることに聖女は少しだけ驚いたが、すぐに余裕のある微笑みを取り戻し、
「汝のこれまでの所業を思えば詮ないことです。されど心配はいりません。あらゆる裁きは汝の魂を救うためのもの。その痛みも苦しみも、此度ばかりの天罰です」
「だとすれば随分と温い罰だな、聖女様の裁きというのも。あまり魔女を侮らぬ方がいい」
「わたくしではなく、主による裁きです。まだ減らず口を叩く余力があることには感心しますが、この状況で汝になにができると? 魔術の詠唱は封じられ、魔法円を描くための両手も今や釘づけ。魔術も魔法も扱えない魔女など、赤子も同然……」
「もう一度だけ言おう――魔女を侮るなよ、道理知らずの生娘が」
刺すような鋭い目つきと、不敵な微笑。
邪悪な気配に群衆はたじろぐも、聖女だけは動じない。柔和な微笑みを浮かべて勝利を確信している。
が、しかし――その余裕もすぐに驚愕へと変わった。
「こういうやり方もあるのだよ、吾輩には」
魔女は大きく口を開け、青白い舌をべえっと露わにする。
舌の上には、赤い魔法円が確かに描き出されていた。
「まさか――血のついた歯で、魔法円を」
顔を凍りつかせる聖女。封術を施すつもりかとっさに腕を伸ばしてくるも、魔女の思考が一手先を行く。
舌を強く噛み切った直後、血で描かれた魔法円が赤い光を放ち出し、一瞬にして辺りを飲み込んだ。
(お別れだ、世界――)
真紅の光で視界が満たされた瞬間、魔女の意識は暗く閉ざされた。
次に魔女が目覚めた時、これまでとはまったく異なる世界にいた。
――どうやら成功したようだが、少しばかり度が過ぎたか……。
まったく未知の街並みを眺め、傷だらけの魔女は心の中で微苦笑を浮かべる。
彼女が土壇場で発動したのは転移魔法だったが、その規模は発動の代償にしたものによって変わる。本来の状態であれば制御することはたやすかったが、あの局面では舌を噛み切ることしかできなかった魔女は、自らの命を引き換えにしたも同然となってしまった。
――その結果がこれとはな。
――なぜ転移如きが自己詠唱ではなく魔法円を要する禁術扱いだったのかは長らく謎だったが、これなら得心もいくというもの。
魔女は治癒と復元の自己詠唱を行い、痛んだ体とぼろぼろだった黒衣を修復させていく。
命を失いかけるほどの損傷だったため、本来であれば完治に一日は費やすはずだったが、この時ばかりはほんの一瞬で全快に至った。
魔術が強力だったわけではない。治癒すべき肉体がこれまでとはまったく異なる形になっていたからだった。その事実に気づいていない魔女ではなかった。
自らの視線があまりにも低い。まるで地を這っているかのように。
それもそのはず――この時にはすでに、魔女の体は白猫に変わっていた。
――ここまで来ると、転移というより転生に近いかもしれない。
――街並みの装いからしても、吾輩が知る世界とは比べものにならぬほど発展しているように感じられる。
常に冷静な魔女も、現段階では状況の分析に苦心していた。この世界についてもっと情報を得る必要があると感じた。
魔女は白猫の姿のまま、石とも土とも言いがたい材質の路地を歩いていく。短い手足による四足歩行はそれほど苦ではなかった。魔術で猫に化けて教会の追っ手から逃げおおせたこともある。小柄でしなやかな獣の感覚はすでに馴染み深いものだった。
しかし開けた道に出たその時、魔女は小さな不幸に見舞われる――車輪のようなものが目の前を横切り、それによって舞い上がった水溜まりの飛沫を全身に浴びてしまった。
修復したばかりの黒衣も体もがずぶ濡れになったわけだ。特段の問題はないが、だからといって不快にならないわけではない。
――まったく、幸先の悪い。
――しかし今し方駆け抜けていったのは一体なんだ。
――車輪のようだったが馬車ではなかった。二つの車輪を前後に並べ、その上で人間が操っているようだったが……。
道の端で呆然としていた魔女は――この時、少々気が緩んでいたのもあってか――後ろから近づいてきていた人間からひょいと、いとも簡単に拾い上げられた。
「もぉ、いけずな自転車やわ。白猫さん、大丈夫? どぉもない?」
うら若き少女だった。柔らかな栗色の髪に、黒目勝ちな垂れ目がいかにも優しげな雰囲気を醸している。体つきには女性らしい曲線が見て取れるものの、鼻先から両頬にかけて微かなそばかすを散らしている辺りにまだ垢抜けていない印象もあった。
「あれ? 白猫さん、もしかして……」
なにを不思議に思ったのか、少女が覗き込むように顔を近づけてくる。
――まあいい、好都合だ。
魔女は短い首を伸ばし、少女の額に自らの頭をくっつけた。
そして猫の声のまま自己詠唱を行った瞬間、少女の頭の中にある知識や情報が栓を開けたばかりの葡萄酒のように流れ込んでくる。
――なるほど……やはりこの世界は、吾輩がいた世界と随分異なるようだ。
魔女が唱えたのは『知』の魔術。頭を突き合わせた相手から知りたい知識や情報を瞬時に取得することができる。
たとえばここが日本という国で、京都府という行政区画の宇治市なる都市で、現在がどういう時代であるのか。どのような風俗、どのような社会が形成されているのか――。
少女の知識をベースに、この世界における通俗的な常識を得ることができた。先ほど、魔女の目の前を横切ったのが自転車という普遍的な移動手段の一つであることも。
無論、この少女が何者なのかもすでに知り得ていた――名前は結木朱音。現在十六歳で、この春に地元の高等学校に進学したばかりの少女。
どうやらこの時代ではほぼすべての少年少女が学校という場で教育を受けるらしい。少女が纏っている衣服もその学校で着用を義務づけられている学生服という装いで、上着はセーラー服に赤いリボンタイ、腰から太ももにかけて取り巻く紺色の布はスカートと呼ぶようだ。
「うーん、やっぱり違う白猫さんかなぁ。目の色どっちも違うし、それにこんなヘンテコな服、着てへんかったしなぁ」
何気ない少女の言葉、けれど魔女にとっては聞き捨てならなかった。
――吾輩にとって由緒ある魔法装束をヘンテコとは。
――まったく、無礼な小娘に行き当たったものだ。
心の中で、魔女は語りかけるような言葉を浮かべてみせる。
すると、少女は驚いたように辺りを見回した。
「あれ? 今、なんか声したような」
――吾輩だ。小娘がその両の手で抱えている吾輩が話しかけているのだ、小娘。
「両の手って……え、まさか白猫さん? ほんまに?」
――左様。先ほど頭を突き合わせた際、小娘から必要な知識と情報を得るための魔術を施した。
――吾輩の言葉が理解できるのは、その副作用のようなものだ。
ぽかん、という擬音が聞こえてきそうな顔で、少女は目の前の白猫を見つめていた。
「どないしょ。わたしの頭、おかしなったんかな」
――心配は無用だ。
――吾輩の魔術によって、小娘の脳や精神が異常をきたすようなことはない。
――今はただ、吾輩の意思が小娘に伝達するようになっているだけだ。
「ええっと、つまり白猫さんの考えてること、分かるようになったってこと?」
――左様。無論、小娘が口にしている言葉も吾輩は理解できている。
――まだ疑うようなら、吾輩に動かしてほしい手……いや、足を指示してくれれば、その通りに動かそう。
「じゃあー……右の前足で、わたしのおでこを触るとか」
言われてすぐに、魔女は向かって右の前足を少女の額に押しつける。
少女は「おーっ」と幼子のように目を輝かせ、
「すごーい。白猫さん、頭ええんやねぇ」
やや頓珍漢な称賛だったが、ひとまず証明には充分だったらしい。
――理解してもらえたのならなによりだ。
――では小娘、再び頭を差し出せ。その副作用を無くすための魔術を施す。
「無くす? なんで?」
――吾輩の意思が伝わり続けるままでは、小娘とていい気はしないだろう。
――先ほども自らの異常を訝しんでいたではないか。
「うーん、さっきは確かに焦ったけど。今はちゃんと白猫さんの言葉って分かってるし、別に悪い気はせえへんよ? むしろ面白そうかもって」
――ふむ、しかし吾輩とはどうせ別れるのだから。
——そのような副作用が残り続けても仕様があるまい。
「せやったら、別れんければええのと違う? 白猫さん、このままうちの猫さんにならへん?」
魔女はつぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせる。
――それはなんだ。吾輩を使役したい、という意味か?
「使役いうんはよぉ分からんけど、わたしの家の飼い猫になってくれへんかなって」
少女から向けられた人懐っこい笑みは、魔女には不慣れな代物だった。
――小娘は、吾輩を怖ろしいとは思わぬのか?
――自らの意思を伝えられる猫など、得体が知れぬだろう。
「うーん、不思議やなぁとは思うけど、怖くなんてあらへんよ。こんなかいらしい猫さんとお話しできるやなんて、夢みたいで楽しそうやし」
――……フン、楽しいか。
――小娘は吾輩の正体を知らぬから、そのようなことを言えるのだ。
「白猫さんの正体?」
――左様。今でこそ、このような白猫に身をやつしてはいるが、吾輩にとってこれは仮の姿でしかない。
――吾輩はこの世界とは異なる世界より現れた、魔を操りし異端の存在。
――民衆は吾輩を魔女と呼んだ。吾輩もそう名乗ってきたのだ。
――悪いことは言わぬ。吾輩と共にあろうなどと、身のほど知らずなことは考えぬ方が身のため……。
「ふふふっ。そっかぁ、白猫さんは魔女なんかぁ」
魔女はまたしても呆気に取られた。
呑気に微笑み返した少女は、濡れている魔女の体を厭うこともなく胸元で抱え直し、ゆっくりと道を歩き始めた。
――待て、小娘。なんの真似だ。どこへ行こうというのだ。
「わたしの家。この近くやし、連れてってあげよう思て」
――そのようなことを訊きたいのではない。
――吾輩は魔女なのだぞ。理解しているのか?
「うーん、それはよぉ分からんけど、今はどこをどう見ても猫さんなんやし。あの自転車のせいで濡れた体、さっぱりしたいって思わん?」
――さっぱり、だと?
「うん。とりあえずわたしの家で洗ってあげたいし、ややこしいことはそれから考えればええよ。ね?」
なんとも浅はかな保留に、魔女はそれきり緘黙する。
少女の懐から抜け出すことはたやすいはずだった。
しかし魔女は、白猫となったその身を少女の腕に――不慣れな人の温かさに委ねたままでいた。
†
異世界の魔女が白猫となり、結木朱音の飼い猫になってから幾日か過ぎた。
外見は白猫といえども中身は魔女。その事実をこの世でただ一人知る十六の少女が、なにを思って自分を使役したいと望むのか。魔女は少しだけ興味を持っていた。
しかし少女とのたわいない日々が無為に続くにつれ、その興味は疑問へと変わっていく。
――未だに読めぬな、小娘の考えていることが。
「わたし? うーん、今は少し小腹とか空いてきたかなぁって考えてたけど」
朱音は細い橋の赤い欄干に前のめりで凭れている。その眼差しはとろんとしていて眠たげに見えた。
――吾輩が言いたいのはそういうことではない。
――小娘は、吾輩にどうあってほしいと願うのか。
「どうあって? 別に今のままでええよぉ。こうやって一緒にいてくれるだけでええし、話し相手にもなってくれるんやったら普通の猫さんと違て楽しいし」
魔女は欄干の上にちょこんと座したまま、にゃあと短い溜め息をついた。やはり少女がなにを考えているのかまるで分からない。
橋の下には宇治川と呼ばれる一級河川が横たわっている。この時間は京阪電車の鉄橋に沈む真っ赤な夕陽が眩く差し込み、川面は仄かな暖色を帯びて煌めいている。
朱音にとって、この時間帯は学校の放課後に当たるらしい。人によっては遊興に費やしたり、部活動や習い事、勉強といった自己研鑽に励んだりするのが一般的なようだ。
が、この少女はどうにも趣が異なる。放課後になると朱音は自宅に鞄を置くや、魔女を連れて散歩に出かける。
ルートはいつもほぼ同じで、宇治橋を通っていったん駅まで向かったのち、交差点を右に渡って細い府道に入っていく。しばらく歩くと神社が見え、参拝を済ませると宇治川の堤防で一休みするか、朝霧橋を渡るついでに静かな川の流れを見つめる。この日は後者の気分だったらしい。
そぞろに歩くこの日課が、朱音にとって単なる遊興に過ぎないとは魔女も思っていなかった。なぜこんなことをして時間を潰しているのか、理由を問うほどのことではないにせよ、朱音という少女の不思議さを濃くするには充分な要素の一つだった。
――遊歩に付き合うだけならただの猫でもできるであろう。
――吾輩を異界の魔女と知りながら庇護し、使役しているのだから。
――相応の対価を支払わせるつもりではないかと訝っていたのだが。
「対価? 白猫さん、お金払えるん?」
――茶化してくれるな。金銭という意味の対価ではない。
――ここではない別の世界、吾輩は魔女として畏怖の対象と見なされながらも、吾輩の魔術を己が利益のために利用したいと思う者も少なくなかった。
――小娘は、そうではないのか。
――吾輩の見立てでは、小娘はただそぞろに歩いているのではなく、なにか大きな望みを叶えるためにこの日課を継続させているのではないかと推しているが。
「ふうん。中々ええ勘してはるんやねぇ」
朱音は普段通りの笑みで取り繕うことなく、魔女に興味深げな視線を向けていた。
「白猫さんはもう分かってはるん? わたしがなんのためにぶらぶら歩いてるかって」
――定かとまでは言えぬ。
――が、小娘のこれまでの挙動に鑑みて、察するところはあった。
――捜しもの、といったところか。
「うーん、せやねぇ。大正解、でも半分正解かも、って感じやね」
はにかむような笑みを浮かべると、朱音は眠気を追いやるようにその場で軽く伸びをした。
「白猫さんの言う通り、捜してるんよ。白猫さんのこと」
――それは、吾輩ではなく別の白猫という意味か?
「うん、別の猫さん。白猫さんとよぉ似てるけど、オッドアイやなかったし違うかなって。そんなヘンテコな服も、中二病みたいなことも言わんしね」
――相変わらず無礼な物言いだが、もはやなにも言うまい。
――しかし、それならば捜しもので正解ではないか?
――半分正解などと曖昧な物言いにはなるまい。
「せやねぇ……捜してるんやけど、見つからんでもええって思うてて。せやし半分正解、みたいな」
――おかしなことを言う。
――捜しているのなら、見つかった方がいいに決まっているではないか。
「白猫さんはさ、『シュレーディンガーの猫』って実験、知ってはる?」
――小娘から『知』の魔術で得た知識の中にあるにはあったな。重要度の低さから深くは思慮しなかったが。
「シュレーディンガーって人が考えた実験なんやって。そういうんに詳しい友達に聞いただけやし、わたしもよぉ知ってるわけやないけど……簡単に言うとな、一匹の猫さんを箱の中に入れてな、その箱に猫さんを殺すかもしれへん仕掛けを施すらしくて。せやけどその仕掛けが本当に動くかは分からないんやって。そうするとな、おかしなことになるんやって」
――おかしなこと?
「箱の中の猫さんはまだ生きてるかもう死んでるんか、どっちかの可能性しかないはずなんやけど、この実験やとどっちの可能性も残ったままになるらしいんよ。誰も箱の中を開けんで、猫さんの状態を確かめられんやったら」
――観測できなければ生死は分からぬ、ということか。
「そうそう、友達も観測がどうとかって言うてたんやけど、わたしはそんな難しいことまでは分からんくて。量子力学っていう学問らしくて、本当はどっちの可能性もあるなんておかしいって反論のための思考実験やったらしいけど……それ聞いてわたしが思ったんは、もしそんな状態になってるんやったら、箱は開かん方がええのと違うかなって」
――しかし開かなければ、真のことは分からぬではないか。
「せやし、分からんでもええかなって。せやったら、猫さんが生きてる可能性も、ずっと残されたままになるんかなって思うし」
夕陽に濡れた朱音の瞳は、まだ微かに笑っていた。遠くを見つめている視線の先では鉄橋を渡る四両編成の電車が規則正しく通過している。
――小娘が捜しているというその白猫は、いつから見なくなった?
「うーん、五年くらい前やね」
――吾輩とよく似ていると言ったな。
「せやねぇ。なんとなくやけど、雰囲気とか大きさとか。凛とした白猫さんやったねぇ」
――……左様か。
これ以上訊くべきではない。魔女はそう思った。
子猫ならともかく、今の魔女の姿と同じくらいにまで成長した大人の猫を見なくなってから、五年。長い寿命を持たない動物にとっては、およそ絶望的にさえ思える空白。
その猫が朱音にとってどんな存在なのかは分からない。
が、仮に五年もの間、この日課を続けながら捜し続けているのだとすれば、大切な存在だったことは容易に想像がつく。
捜しているにもかかわらず、見つからなくてもいいといった理由――開かない箱に一縷の可能性を残したままにしておきたいわけも。
「せやけど、もし白猫さんがほんまに魔女さんなんやったら、わたしの捜しものも簡単に見つけてもらえたかもしれへんね」
――吾輩が真の魔女だと、まだ信じていなかったのか。
「半々ってとこやねぇ。魔女さんでも別にええけど、わたしが白猫さんの言うてること、勝手に空想して楽しんでるって可能性もありえそうやし」
――可能性、またなんとかの猫とやらか。
――小娘の言う通り、吾輩を真に使役することができれば、猫一匹捜し出すことくらい造作もなかろう。
――吾輩が素直に従うかどうかは、吾輩の気分次第だがな。
「あはは、白猫さんは優しいんやね。別の世界でも、そうやって色々な人のお願い事、聞いてはったんやろ? ええ魔女さんやったんやねぇ」
――フン、まるで万屋のように言ってくれる。
――吾輩はただ……利用されていただけだ。吾輩だけが使える特異の力を。
――その結果、吾輩がなんと呼ばれていたか分かるか?
「うーん、頼れる街のなんでも屋さん、とか」
――いいや、『不幸を運ぶ魔女』だ。
「え、不幸?」
朱音が不思議そうな目を向けてくる。
魔女は前足で耳の辺りを掻くという、猫らしい取り繕い方を覚えた。
――吾輩のような魔女が訪れた街や村には、災厄もまた訪れる。
――作物の不作、疫病の流行、そして飢饉……あらゆる災いは、すべて神を冒涜する存在によるもの。
――初めは吾輩の魔術に頼る者もいる。されどいつしか、災厄の訪れと共に異端の存在は忌避され、排斥の対象となる。
「白猫さんのせいや言われたってこと? せやから、不幸を運ぶ?」
――有体に言えばそういうことだ。理不尽極まりないがな。
――されど魔女とは、そういう存在なのだ。
――吾輩も理解していたからこそ、特異の力を以って逃げおおせ続けてきたが……よもやこのような異界に、このような姿で顕現することになろうとはな。
――甚だ因果なものだ、吾輩にとっては。
魔女の言葉は声として空気を震わせてはいない。『知』の魔術の影響により朱音の脳内に直接響いている。魔女は必要以上に感情を込めて話すことなく、淡々と自らの成り行きを語っているはずだった。
けれど話を聞いた朱音は、わずかに物悲しそうな顔をしていた。朱音がどんな風に魔女の言葉を受け取ったのか、それは彼女自身にしか分からない。
しかし単なる同情と呼ぶには、朱音の悲しげな顔はそう長く続かなかった。
「せやったら白猫さん、白猫さんに生まれ変われてよかったねぇ」
魔女の白い毛並みの頭を、優しく温かな手が撫でる。
いつの間にか、朱音は嬉しそうに顔を綻ばせていた。その笑みの理由が魔女には分からなかった。
――猫でよかっただと?
――おかしなことを言う。このような姿に身をやつしてまで異界に逃げ込むことが、吾輩にとって真によきことだと、小娘はそう思うのか?
「うーん、その辺はよぉ分からんけど、白猫さんは前の世界で理不尽な目に負うてたんやろ? せやったら、この世界の方が白猫さんにとって優しいと思うし……それに、ただの猫さんやなくて、白猫さんやし」
――毛並みが白いことが、どうしたと言うのだ。
「ふふっ、白猫さんはね、日本やと『幸せを運ぶ存在』なんよ。ほら、これ見て」
チリン、と鈴のような音が転がる。
朱音の手首にミサンガで結ばれた、小さな白猫の形を模したアクセサリーから鳴っていた。
「これな、猫さんの形した鈴なんやけどな、こういう猫さんのことを招き猫いうて。幸運を運んでくれる猫さんなんやけど、白い招き猫さんは『福を呼ぶ』って言われてて。せやし白猫さんも、この世界で白猫さんになれてよかったんと違うかなぁって」
屈託のない微笑みだった。魔女は返答に窮したまま、朱音の手首に結ばれた小さな鈴を見つめた。右前足を掲げた小さな白猫のアクセサリーは、奇しくも朱音を真似たように目を細めて優しく笑っている。
「ほんとはこれ、わたしが捜してる白猫さんが首につけてた鈴で。色々あって今はわたしが預かってるけど、できれば返してあげたいなぁ思てて。せやし出歩く時はいつもつけるようにしてるんよ」
魔女は前足でくすぐったそうに髭の辺りを掻いた。猫らしい誤魔化し方がすっかり板についてきている。
――フン、白猫に白猫を模した鈴とは。芸がない。
「あはは、確かにそうかも。今考えるとあれやね、シュールっていうかなんていうか」
――ともあれ、小娘がどのように思おうと勝手だが、今の吾輩が白猫だからといって、幸福を運ぶ存在になったとは限るまい。
「そんなことあらへんよ。白猫さんはもう、わたしに幸福を運んでくれたし」
――小娘に?
「せやでぇ。白猫さんのこと、ずーっと捜してたわたしのとこに現れてくれたし。それにお話しまでしてくれる猫さんなんて、世界中捜してもおらへんやろし」
――吾輩は、小娘が捜していた白猫とは違うのだろう。
――それでも、幸福などと言ってよいのか。
「言うてもええんやで。どんな些細なことにも、幸せは幸せって顔のまま来てくれはるんやから」
朱音は橋の欄干に乗っていた魔女を抱きかかえた。手首の鈴がまたチリンと転がる。
「魔女とか別の世界とか、変わったこと言う猫さんやけど、今まで以上に日課が楽しくなったし。それに、独りぼっちでもなくなったし……それって、幸せって言ってええんちゃうかなって」
魔女はまた言葉を返さず、微笑みかけてくる朱音からぷいと目を逸らしていた。
元の世界では長らく独りだった魔女にとって、朱音の温もりは少しだけ居心地のよくないものだった。
――……小娘の言いたいことは、分からんでもない。
――が、一つだけ忠告しておく。
――このような往来で、唐突に吾輩を赤子のように抱くのはよせ。
――今でこそこのような姿だが、吾輩はれっきとした成人なのだ。
「あはは、もしかして白猫さん、照れてはるん? 抱かれるの恥ずかしい?」
――そういうわけでは、ない。
――どうも心地がよくないだけだ。吾輩にとってはな。
「そうなん? わたし、結構猫さんに好かれやすいねんけどな。わたしも猫さん抱くの好きやし」
無邪気に言いながら、いっそう包み込むように抱いてくる朱音。
両腕と確かな胸元の膨らみからくる温かさが、魔女の羞恥心を余計に高めた。
――ええい暑苦しい。いい加減、放さぬか!
遂に朱音の腕から逃れようと、魔女は短い手足を動かしてもがく。
「わ、わわ、白猫さん、危ないっ――」
慌てる朱音の手つきを振りほどき、魔女はぴょんと欄干に飛び移る。
その際、後ろ足の爪が朱音のミサンガに引っかかり――、
「あっ!」
チリンと、鈴の音がしたかと思えば、朱音が身を乗り出すようにして川を見下ろしていた。
「わぁ……見事に鈴だけ落ちてってしもた」
見ると、朱音の足元には切れたミサンガだけが横たわっている。結んでいた招き猫型の鈴はどこにも見当たらない。
「どないしょ。まさか失くすやなんて、思ってもみんかったから」
朱音は人目も憚らずその場にへたり込み、緩やかな川の流れを無力な眼差しで見つめている。
――不運だったな。
――よもや、吾輩の爪に引っかかろうとは……。
さすがの魔女も気の毒に感じたのか、珍しく申し訳なさそうな言葉になる。
朱音はしばらく黙り込んでいたが、ほどなく「ううん」とかぶりを振り、
「白猫さんは悪くあらへんよ。元はといえば、わたしが白猫さんをからかったせいやし」
その笑みがどこか取り繕ったものだと、魔女は一目で見抜いていた。
――フン、吾輩をからかうとは。
――そこは小娘にも大いに非はあるが。
「あはは、大いにあるんやね……でも、せやね。これでよかったんかもしれへんね」
――よかった、だと。
――あの鈴は、小娘にとって大事なものではなかったのか。
「せやけど、もうええってことなんかもって。もう会えへんからって、神様がそんな言わはってるんかなって……そもそも、わたしがずっと目を瞑ってきたことやし。ほんまは可能性なんて、どこにも残ってるはずあらへんって、気づいてて……」
気丈な微笑みを浮かべたまま、朱音の声は少しずつ萎んでいく。
欄干の上で、魔女はふと川の流れに視線を移した。緩やかといえど一級河川の宇治川。小さな鈴はもう影も形も見当たらない。朱音が諦めるのも無理はなかった。
しかし、それでも――静かな悲嘆に暮れる朱音の姿が、魔女はどうしてか気に入らなかった。
――この世界でも、神の言葉は絶対か。
――されど小娘よ。吾輩はいずれの世界においても異端の存在。
――神の言葉などという曖昧な教義、魔女たる吾輩にまで通用すると思うなよ。
「白猫さん……? さっきからなに言うて――あっ」
驚く朱音の声を置き去りにして、欄干から飛び降りた魔女。
落ちた先は橋の上でも、へたれ込んでいる朱音の頭の上でもなく――宇治川の中だった。
魔女も、初めから孤独だったわけではない。
彼女もまた無力な小娘だった頃には、彼女の手を引いてくれる存在がいた。
『我が子よ、よく聞きなさい。我々は特異な力を有しています。それは時に有用であり、時に残酷です』
それは紛うことなき、母親の声。
死に別れてからもう幾歳も経つが、羊毛のように柔らかなその声はまだ鮮明に思い出すことができる。
『時に民衆も、我々にとって残酷でしょう。されど我が子よ、決して恨んではなりません。在り方を誤ってはいけません――たとえ排斥の日々が続こうとも、いつか必ず辿りつけるはずです。我々のような存在が受け入れられる安住の地に……この旅を終えない限り、希望もまた絶えることがないのです』
物心ついた頃から、母親はいつもすぐ傍にいてくれた。
親子らしいたわいない会話もあったが、神妙な顔で語り聞かせてくれる話はいつも同じ。
自分たち魔女と、力を持たない民衆の違い。有り様の違い。
幼い頃の魔女にはまだ理解できないことだった。母親以外の人間がこの世界に存在することには気づいていたが、関わりを持ったことは一切なかったし、必要だとも考えなかった。
母親さえ傍にいてくれればいい。そもそも自分たちがほかの人間とは異なる存在で、それを理由に理不尽な扱いを受けるのなら、一生関わりを持たなければいいのに――。
幼き魔女の疑問に、母親はかぶりを振った。
『魔女とて、人です。どれだけ特異な力を持ち合わせていようと、その事実は変わらないのです。人は誰も、孤独には生きていけません』
その答えは、幼き魔女を納得させなかった。
自分たちは孤独ではない。これまでも二人で一緒に生きてきたのだから……。
『これまでも一緒だったという過去は、これからも一緒でいられるという未来を保証するものではないのです』
優しい声音ながら、母親の言葉は確かな厳しさを持っていた。
そして旅のさなか、立ち寄った村で母親が教会の人間によって捕らえられた時、魔女は遂に孤独を思い知った。
同時に、民衆からの理不尽な敵意に恨みを抱いたが、平静を保てたのはやはり母親の言葉を思い出したからだった。
『我々が力を持って生まれてきたわけは、民衆に不幸をもたらすためではないはずです。いつか必ず、我々の力によって幸運を運べる日が来きす……ゆえに我々は旅を続けるのです。たとえどれだけの歳月がかかろうとも』
不思議なほど心を穏やかにする母親の言葉には、それこそ魔法がかけられていたのかもしれない。
母親の最後の抵抗によって命からがら逃げおおせた幼き魔女は、たった独りで旅を続けた。母親の意思を受け継ぎ、安住の地へ辿りつくために――独りきりではなく、誰かと共にあることのできる存在になれるように。
魔法装束であるローブは母親の形見だった。『変化』の魔術を得意とした幼き魔女のため、母親が手編みして形状適合の魔法をかけた代物。どんな動物に化けても見事に形を変えるローブは魔女のお気に入りだった。
そして形見はもう一つ、魔女は自らの名前を魔法円として刻んだペンダントを母親から授かっていた。
『我々の真名には、名前そのものに強力な魔法がかけられています。どのような魔法かは名づけた魔女にしか分かりません。つまり我が子よ、あなたの真名にかけられた魔法はこの母しか知らないものです。みだりに名乗ること、教示することは許しません――』
そのペンダントも、今や魔女の手元にはない。
教会と聖女の手によって捕らえられた際、ペンダントを繋ぐチェーンが壊れたのか、村のどこかに落としてしまっていた。
魔法円は随分前に解析できていたため、自分自身の真名は覚えている。ペンダントがなければ真名にかけられた魔法も発動しないのかどうか、それは魔女自身にも分からない。
ただ、ペンダントを失くしたまま世界を転移したことには心残りがあった。
たった二つだけの、母親からの贈りもの。
なに一つ欠くことなく旅を続けたかった。形見として姿を変えても、傍にいてほしかった。失ったままでいるべきではなかった。
そんな密かな後悔が、白猫となった現在の体を突き動かしていることを――魔女自身はまだ知らない。
静かに流れる宇治川にボチャンと、大人の猫が一匹飛び入る音が響く。
――この姿のままでは、少々動きにくいか。
——猫は本能的に水を嫌うと聞いたことがある。
――よかろう……ならば再び、吾輩は魔女と相成るのみだ。
川の奥深くへと沈む中、魔女は『変化』の魔術を発動するための自己詠唱を行う。
元の世界では、それこそ猫などの動物に姿を変えるための魔術。頭の中に浮かべたイメージを元に、自身の体を変化させる。
この世界では白猫の姿がスタンダードである彼女がイメージしたのは――魔女としての本来の姿。人間の形。
白猫だったはずの魔女の体は、刹那の光を纏ったのち、瞬く間にその姿を変えた。
流麗な銀無垢の髪と、漆黒のローブをなびかせる馴染み深いシルエット。
これこそが魔女の真の姿だった。
(この深さでは、橋の上にいる小娘には見えておらぬか……吾輩が真の魔女であると信じさせるには、千の言葉を尽くすよりこの姿を晒す方がたやすいであろうな)
浅緑の水中で、魔女は一人ほくそ笑む。
自分がなぜこんなことをしているのか。とっさに川の中へ飛び込み、金目銀目のオッドアイを光らせて小さな鈴のありかを探しているのか。
――『白い招き猫さんは「福を呼ぶ」って言われてて。せやし白猫さんも、この世界で白猫さんになれてよかったんと違うかなぁって』
――『魔女とか別の世界とか、変わったこと言う猫さんやけど、今まで以上に日課が楽しくなったし。それに、独りぼっちでもなくなったし……それって、幸せって言ってええんちゃうかなって』
ぽつぽつと脳裏に浮かぶのは、朱音の柔らかな声。
ほんの気まぐれのつもりだった。あるいは確かめてみたかったのかもしれない。
この世界において、白猫が本当に幸福を運んでくる存在なのだとすれば……そういうものに、自分がなれたのだとすれば。
(このまま鈴を見つけられなければ、吾輩はあの小娘にとって、やはり不幸を運んできただけの存在……そのように思いたくない吾輩が、吾輩の心のどこかにいるとでも言うのか。
フン、バカバカしい。たかだか河川に沈んだ鈴を見出すだけのことに、幸も不幸もあるものか!)
魔女は『暗視』の魔術を発動するための自己詠唱を行う。金銀の双眸が文字通り光を放ち始める。
元は夜目をきかせるための魔術だが、底へ沈むにつれて照度を失っていく川の中でも有用だった。
水中の様子が鮮明になる――同時に、数メートルほど先で淡水魚の群れが不自然に集まっている光景が目に留まる。
魔女はすぐさま動き出した。淡水魚たちが誤って口にしては面倒なことになる。
淡水魚の群れを不格好な泳ぎで掻き分け、もがくような手つきになりながらも――その手で、鈴を掴んだ。
(まったく、無駄に手こずらせてくれる……)
まるで他人事のような招き猫の微笑みを見て、魔女も無自覚な笑みを向ける。
橋の上にいる朱音は、どんな顔で自分を待っているだろうか……。
魔女は鈴を口に咥え、二つの魔術を解いた。美しい魔女の体が再び白猫の姿に戻る。
魔女が川から上がった場所は、神社手前の船着き場の辺りだった。石積みの堤防の切れ目にある石段の上で、朱音がきょろきょろと川を見回している。思いのほか焦っている顔に見えた。
しかし川の中から現れた白猫の姿を見つけると、安堵したような面持ちで石段を駆け下りてくる。
「白猫さんっ……無茶したら、あかんて。猫さんは水ん中、危ないし、心配するし」
魔女の前にしゃがんだ朱音は酷く息切れしていた。
よく見ると、額に玉の汗を光らせている。朝霧橋からここまで慌てた様子で走ってきた朱音の様子がたやすく想像できた。
――フン、大袈裟な。たかだか河川に飛び込んだ程度で。
「て、程度って。白猫さんまで流されて、もう会えへんくなったら……」
――吾輩が流されるだと?
――ありえぬ。あまり魔女を侮ってくれるな。
――それにな、小娘。真に大事にしてきたものならば、そうたやすく手放すものではない。
「え……?」
――なんの行動も起こさず諦めたあとでは、悔やんでも悔やみきれぬもの。
――同じ悔やむなら、自ら箱を開けて確かめてからでも遅くはなかろう。
魔女はべえっと舌を出し、救出した招き猫型の鈴を見せる。
朱音はしばらく呆気に取られていたが、ほどなく普段通りの微笑みを浮かべ、
「……ほんまに、いけずな猫さんやね、白猫さん」
鈴を手に取り、そのままずぶ濡れの魔女を抱きかかえた。
普段通りの笑顔に見えた朱音の瞳は、近くで見ると少しだけ濡れているのが分かった。
――小娘、何度も言うがな、吾輩を赤子のように抱くのは……。
「ふふっ、だぁめ。またこんな濡れてしもて、はよ帰ってお風呂入らな」
魔女は密かに背筋を震わせる。
初めて出会った日も、ずぶ濡れだった魔女は小娘の手で風呂に入れられた。
無理やりにローブを脱がされ、熱湯のシャワーで裸体をくまなく洗われた。成熟した魔女にとってこの上なく恥ずかしく、情けない瞬間だった。
――よせ、小娘との湯浴みなどもう御免だ。
――そもそも猫にとって、水は危険なもの……。
「さっきまで川に飛び込んでた猫さんがよぉ言いはるわ。さ、帰ろ帰ろ」
朱音は顔をうきうきさせて帰路に着き始める。日はいつの間にか随分と傾き、川沿いの並木道には春の宵の薄い暗闇が広がりつつあった。
また抵抗することもできた魔女だったが、川の水で冷えた体をじんわりと温めてくれる朱音の体温だけは、そう悪いものでもないように感じていた。
――やはり、やはりだ。
――湯浴みなどするものではない……金輪際御免だ!
「もう、そこまで言わんでもぉ。いい加減出てきてよ白猫さん」
毛布越しに体を揺さぶられる魔女。猫の姿に戻っている彼女の身にはいつものローブがなく、裸のまま毛布に包まっている状態だった。
剝ぎ取った相手はまあ、言うまでもない。
宇治川での一件から帰宅後、朱音は魔女を抱えたまま脱衣所へ直行し、ぐっしょり濡れた魔女からローブを取り払うとすぐさま洗濯カゴに放っていた。それから魔女を抱いていたことで汚れたセーラー服を脱ぎ始めた朱音は、「ついでにわたしもぉ」と言って魔女と一緒に風呂場へ入った。
その後の過程は……思い出したくなさそうな魔女の気持ちに鑑みて詳細は省くが、まるで手のかかる幼児でも相手にするような声と手つきで体を洗われることが、成熟した魔女にとってどれほどの辱めであったか。想像に難くないことはお察しの通りである。
ともあれ、川水のぬめりも完全に拭い取られ、尻尾の先まで充分に乾き切った魔女はすぐにでもローブを纏いたかったが、数少ない母親の形見は朱音のセーラー服と共に洗濯機の中でぐるぐると回っていた。
取り出し不可能の状態と分かるや、魔女は猫の俊敏性をフルに活用して階段を駆け上がり、朱音の部屋に入ってベッドに飛び乗り、毛布に包まることであられもない姿を隠した。
ほどなくラフな格好に着替えた朱音が部屋まで戻ってきたものの、すっかりふてくされた魔女は一向に顔を出さないでいる——というのが現在の状況である。
「あの服、白猫さんにとっては一張羅やもんね。でも普通の猫さんやったら、なにも着ない方が動きやすいって思うけど」
――何度も言っておろう。
――吾輩は魔女だ。猫であろうがなんであろうが、裸のままうろつく趣味はない。
「あはは、やっぱり恥ずかしいんやね。今はわたしだけしかおらへんのになぁ」
おかしそうな笑みのあとに、ベッドの軋む音が続く。朱音が魔女の隣に体を倒したようだった。
「でも、今日はほんまに助かったわ。おおきにな、白猫さん」
――フン、あの程度のこと、とりわけ感謝されることでもない。
――それに、今回の一件で充分理解できたであろう。
――吾輩が真の魔女であり、特異な力を有していると。
「うーん、どうやろなぁ。世の中には泳ぐんが得意な猫さんもいるらしいし」
――見かけによらず強情な小娘だ。
――そもそも吾輩と意思の疎通ができている時点で、信じるには充分過ぎるであろう。
「あーそれなぁ、ずっと不思議やなぁ思てて。白猫さんがほんまに異世界の魔女さんなんやったら、わたしと日本語で話が通じてるのっておかしないかなって。白猫さんの方も、標準語やないわたしの言葉を普通に理解できてるのも凄いし」
――吾輩の魔術に言語は関係ない。
――吾輩の意思は小娘の脳内に直接伝達されている。それを小娘が日本語なる言語で受け取っているに過ぎない。
――そうでなくとも、吾輩は『知』を司る魔術を施した段階で、小娘からこの国の言語体系についてはあらかた習得できている。小娘が話している言葉がこの国の標準的な形式から外れていることも把握済みだ。
「へぇ、よぉできた設定やね。ほんまに全部自分の妄想やったら小説家になれそやわぁ、わたし」
また毛布越しに魔女の体を撫でてくる朱音。結局のところ、朱音が本当に信じているのかどうかはよく分からなかった。
「そんでなぁ白猫さん、そろそろ毛布の中から出てきてくれへんかな」
――うるさい。交渉したいならまず、吾輩のローブを持ってくるのだ。
「さっき洗濯機に入れたばかりやん。乾くにはもうちょっとかかるし……恥ずかしいんやったら首から先だけでもええから。ね、白猫さん? 白猫さーん?」
――……ええい、小うるさい。吾輩の首がなんだと言うのだ。
構いたがりな手つきにうんざりしたか、魔女は渋々と小さな顔を突き出す。
するとすぐ、朱音の手が魔女の首の辺りに動き、
「ふふっ、はいこれ。白猫さんに預けとくわ」
チリンと、もはや聞き慣れた音が転がるように鳴る。
見ると、先ほど川から救った招き猫型の鈴が、赤い首輪と共に魔女の首につけられていた。
「わたしが持ってたら、今日みたいなことがあるかもしれへんし。白猫さんが持っててくれたら安心やわ」
――なにかと思えば、吾輩の意向も聞かずに首輪など。
「でも、中々似合うてはるよ。白猫さんは別嬪さんやし」
――褒めてもなにも出ぬぞ。
――それより、よいのか?
――この鈴は、小娘が捜している白猫のものであろう。
――それとも、やはり猫捜しは諦めるつもりか?
「ううん。白猫さんにはあげるわけやなくて、預かってもらうだけやから……それに、白猫さん言うてくれたやん。諦めたらそこで試合終了やって」
――なんだそれは。意思の伝達に齟齬でも発生したか。
「冗談やって。でも、そんな感じのこと言うてくれたのはほんまやし、まだこれからも頑張ってみよかなって……ふわぁ、今日はもう疲れたし、わたしの日課も店じまいやけどなぁ」
大きなあくびを見せると、朱音はあやすような手で魔女の頭をさすっていた。またしても赤子のような扱いには不服だったが、わざわざ払いのけるのも朱音を喜ばせるだけのような気がした。
その優しい手つきはほどなく止まり、代わりに安らかな寝息が聞こえ始めると、魔女は呆れたように溜め息をつく。
――まったく、あやされるべきはむしろ自分の方ではないか。
――まるで年端もいかぬ子供のような寝顔を晒しおって……。
朱音の手をよけて毛布から出ると、魔女はまた『変化』の魔術を発動し、美しい魔女としての姿を取り戻す。
そうは言ってもローブがなければ裸のため、すぐに毛布を羽織って身を隠した。足元まで覆うようにしっかり纏ったのち、太ももの辺りに朱音の頭を乗せてやった。
「フン、これでいくらかは寝やすかろう」
呟くような魔女の声が聞こえたのか、朱音が微かに寝顔を綻ばせる。すでに浅い夢の中へと落ちているようだった。
お返しと言わんばかりに朱音の髪を撫でていると、魔女は少しだけ昔のことを思い出した。
まだ母親と共にいた時――子供の頃、自分もこうして膝枕をしてもらっていたことを。
「異界で白猫となり、そして白猫捜しとは……因果なものだな、まったく」
朱音がなぜその白猫を捜しているのか、朱音にとってどういう存在なのかはまだ分からない。『知』の魔術によって朱音から知識や情報は取得していても、朱音の記憶までは覗いていない。
単に飼い猫が行方を眩ませただけなのか。
それともほかになにか、見つけ出さなければいけない理由でもあるのか……朱音が時折見せた物憂げな表情が、魔女はわずかに気にかかっていた。
けれど、今だけは――朱音は幸せそうな寝顔を浮かべている。
そのささやかな幸いが、ほかならぬ自分の温もりから生まれていることに、魔女は人知れずほくそ笑んでいた。
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