ゲームの持つ社会的な役割

最近、ゲームの役割がわからなくなってきた。
インターネット対戦が普及する前の特に通信ケーブルや赤外線通信で人とやりとりしていた時代は、コンピュータゲームというのは大切なコミュニケーションツールだった。アーケードゲームで同じ筐体で隣り合って対戦するゲームも同様だ。カードゲームやボードゲームだって当然のごとく、会話がなければゲームが進まない。この時に生まれる会話は、ゲームを遊ぶ人間を本当に社会的に育ててくれていたと思う。インターネット対戦が普及し始めた当初もギリギリその役割を果たせていたと思う。なぜなら、ボイスチャットが導入されたり、スカイプをしながらゲームをしてもどうにか家庭のインターネット回線も持ちこたえてくれたからだ。しかしここで大変なことが起きた。スマートフォンのゲームだ。

多くのアーケードゲームやコンシューマゲームのプレイヤーもスマートフォンゲームに流れていったし、手軽なプラットフォームであることからコンピュータゲーム未経験の層も一気に掴んでいった。この時から、一人で熱中できたり、ネット上でチャットさえもない環境でランダムにチームや対戦相手が組まれたりするなど、人間とのやりとりがなくても楽しめてしまえるようになった。

配信開始から数年経っても絶大な人気を維持しているスマートフォン向けゲームもたくさんあるが、そんな中でFPSやTPSのコンシューマゲームの人気作品が続々と出ている。コンシューマゲームが息を吹き返す時かと思ってぼくもWii UからSplatoonに参加してみた。Nintendo Switchの同タイトル続編も遊んでいて、ガチマッチの全ルールでS+辺りをうろうろしている程度の実力だ。この程度のやりこみ具合で語るのもおかしな話かもしれないが、ここまで人間とのやりとりなく遊んできた。回線の先には同様に遊んでいる人間がいることはわかっているが、どうもその感覚が薄い。そして、ゲームなので誰でも当然失敗する。その時の自分を冷静に保てなくなっていた。隣に一緒に遊ぶ人がいたり、スカイプをしながら遊んでいたりすると、すぐそばに人がいる感覚が常にあるので、失敗に対する冷静さを失わずに済んでいたが、今はそうではない。味方の失敗、自分の失敗を素直に外にぶつけてしまう自分がそこにはいた。果たしてコンピュータゲームという娯楽、今ではスポーツになっているこのゲームは、そんな状況を望んだだろうか。コミュニケーションが大の苦手なぼくでも楽しめていたあの頃のゲームはどこへ行ってしまったのだろう。

社会現象を巻き起こすほどの、かつ、コミュニケーションツールとしてのゲームの立ち位置を多少回復してきた人気のゲームがある。スマートフォン専用ではあるが、ポケモンGOだ。しかし、それさえもほとんど人とのやりとりなく、ぼくは一人で図鑑を全て揃え、プレイヤーレベルも最大まで到達してしまった。今は人とのやりとりを抜きにしては達成できないタスクなどが実装されたが、ゲームが生んでしまったコミュニケーション不足の空白期間の影響をもろに受けたぼくには、今更それに追いつく方法がわからなくなってしまっていた。2018年秋にはポケモンGOとの連動もある新作のポケモン本編が発売される。その作品が、かつて通信ケーブルによるゲームボーイブームを巻き起こしたポケモンのような存在になってくれたらと期待するが...
ゲームはコミュニケーションツールであってほしい。

かつては積極的にゲームをコミュニケーションツールとして活用していたつもりのぼくがそれをできなくなってしまったのは、一概にゲームの環境が変わったからとは言えない気もする。元々のぼくのコミュニケーション能力が、実は時代を追えるほど高くなかった可能性、ポテンシャルを持っていなかった可能性もある。しかし、そんな人間にさえも、コミュニケーションという夢を与えてくれるゲームであることを期待したい。それこそがゲームの社会的役割だと思うし、プロスポーツとも呼ばれるようになった以上は、多くの人に普及させることも大切な役割だ。

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