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小説「細い光」

 土曜の朝、私は体の痛みに目をさました。

 左半身が布団に沈みこみ、頬にふれると枕の縫い目がついていた。昨夜床についた時も同じ姿勢だった。どうやら一晩中寝返りも打たずに眠っていたようだ。ここ数日、同じような寝覚めをむかえていた。こちらを向いていなければならないと、無意識に思っているのだろうか。

 目の前には、美晴の寝顔があった。

 あおむけになり、軽くこちらに首を曲げて眠っていた。額に汗がうかび、ざらついた寝息が聞こえてきた。枕元にはお守りのようなひものついた、小さな赤い巾着袋が置かれていた。それは美晴が肌身はなさず身につけているもので、寝る時もそばから離すことはなかった。

 彼女の額に手をあてた。にじんだ汗が熱かった。昨夜よりは熱は下がったようだが、まだまだ平熱には遠そうだ。
 私は身をおこした。両腕を床につき、交互に前にふみ出した。五歳から下半身完全まひの身体障害を負って動くことも感じることもない下半身が、荷物のようにひきずられていった。
 寝床を出て、茶の間のすみにはいずり寄った。そこには小さな木の椅子があり、竹ひもを編んだ小箱が乗せられていた。箱の手前には水の入ったグラスがあった。私は椅子の前で姿勢をただし、心持ち頭をさげ、手をあわせた。私も美晴も、起床したらすぐここで手をあわせるのが習慣だった。
 頭をあげると、グラスをテーブルの上に置いてあったお盆に乗せ、床の上を滑らせるようにしながら慎重に台所に運んだ。グラスを頭の上まで持ち上げて流しに水を捨て、冷蔵庫の中で前夜から冷やしておいた水を、代わりに中に満たした。そしてまたお盆に乗せて茶の間に戻り、小箱の前に置いた。

 水の交換がすむと夜着のジャージのまま、玄関まで這い出た。コンクリート打ちっぱなしの玄関には車いすがあった。車いすのフレームをつかむと、両腕の力だけで下半身をひっぱりあげて、尻をシートに沈めた。すわったはずみに車いすが動いた。壁にぶつかり、大きな音が鳴った。
 私は身をかため、寝室の気配をうかがった。なんの音も声もしなかった。美晴は気づくことなく眠り続けているようだ。ほっと息をついた。
 車いすのブレーキをそっとはずし、ドアをあけた。五月末だが、夏のように日差しが強かった。つい先日まで肌寒かったというのに。私はにらむように空をみあげた。

 物置から、昨夜のうちにまとめておいたもえるごみ袋を取り出した。今日土曜日はこのあたりの町内のもえるごみ出しの日だ。ずっしりと重いそれをひざの上に乗せ、あごで押さえつけ、その姿勢のまま車いすを前にこぎだした。ごみ収集場までは、車いすでも五分ほどの距離だ。
 アパートを出ると、静かな住宅街が広がっていた。最寄駅西口からの路地に入ったこのあたりは、西口前とは対照的に静かなところだった。ただ路面状態はよくなく、つぎはぎのように雑な舗装が目立った。窪みや歪み、小さな穴も多く、微妙に車いすを蛇行させながら進まねばならなかった。

 最初の角を右に曲がったところで、女の子二人組と出会った。大通りに出たところにある中学校の生徒だ。ジャージ姿なので部活に行くところだろうか。ふたりともバドミントンのラケットをバッグからはみださせていた。私をみとめると、ふたりは不意をつかれた顔つきになった。私は小さく苦笑した。突然目の前にごみ袋を抱えた車いすの男があらわれたら、誰だっておどろくだろう。

 だまってふたりの横を通ろうとすると、ふたりは「おはようございます」とあいさつをしてきた。今度は私がおどろいた。あわてておじぎをしようとしたが、ごみ袋があごの下にあってできず、口ごもったあいさつを返すのがやっとだった。ふたりは笑みを浮かべ、小さく会釈をしながら去っていった。こっけいなところをみせてしまった、と私は小さく息をついた。

 ごみ収集場がみえてきた。おばあさんがひとり、先にごみを出しているところだった。後ろ姿に覚えがあった。八の字眉の人のよさそうな顔が振り返った。アパートの斜め向かいに住む藤田さんだ。私たちと、特に美晴と仲がよく、よくお菓子やおかずのお裾分けをいただいている。ごみ出しに行くとたいてい会うらしく、ごみのそばで立ち話してくるの、と美晴が笑っていたのを思い出した。
「おはようさん。あれ、今日はあなたがごみ出しなの、めずらしいね。美晴ちゃん、寝坊しちゃった?」
「ちょっと風邪ひいちゃいまして」
「あら、風邪。ひどいの」
 藤田さんの顔が曇った。
「熱がちょっと高くて。よくはなってるんですけど」
「そう。陽気のせいかねえ。こないだまで肌寒いと思ってたら今日はこんなに暑いし。体がついてかないわよね」
 藤田さんは話しながら、私のごみ袋に手をのばした。袋の口をわしづかみにして持ち上げ、からすよけの網をめくり、先に積まれたごみ袋のすきまにしっかり埋め込んでくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「美晴ちゃん、お大事にね。なんかあったらいつでも言って」
 言い残し、藤田さんは去っていった。母親が子どもに言い聞かせるような口ぶりだった。ありがとうございます、とぴん、と背筋の伸びた藤田さんの背中にお辞儀した。

 アパートにもどると、木の椅子の前に美晴が座っていた。左腕を右手で押さえつけているので、体温計で熱を測っているようだ。膝の上には巾着があった。
「おはよう」
 目覚めた後、真っ先に小箱の前で手をあわせようだ。どんなに具合が悪くても忘れないんだな。水滴のついたグラスをみつめながら私は思った。
「ごみ出してきてくれたんだね。ありがとう」
 こちらを向いた美晴の顔には火照りが残っていた。普段ならつやのある頬も、力なくこけているように感じられた。
 アラーム音が鳴り、彼女はパジャマの首元から体温計を抜き取った。わきからのぞきこむと、デジタルの数字は三十七度八分を示していた。昨夜よりは下がったけどまだ高いな。私のつぶやきに彼女は唇をかんだ。

 美晴が熱っぽさを感じ始めたのは三日前だった。私は早目に薬を飲むか医者に行くよううながしたが、彼女は「寝れば治るよ」ととりあわなかった。だが一日二日とたつうち熱は徐々にあがり、ついに昨日、布団から起きあがれなくなった。体温を測らせると三十九度二分だった。
 私はすぐ自分と美晴の仕事場に休みの連絡を入れた。市販薬でいいという彼女を車に押し込み、近所の内科に連れていった。ずいぶんこじらせちゃいましたね、と医師から呆れ気味に言われたようだ。
「ほんとにごめんなさい」
 五日分の抗生物質と解熱剤を受け取って帰る車中、彼女はそのことばかりをくりかえした。してはいけない失敗をおかした自分を責めているようだった……。
「今日も一日寝てなきゃな」
 体温計をケースにもどしながら私が言うと、美晴はだまってうなずいた。
 私は台所に向かった。そこに置いてある室内用車いすに乗り移り、朝食の支度を始めた。パンをオーブントースターにセットし、フライパンに玉子を落とした。簡単なサラダも作った。昨日まで彼女はおかゆしか食べられなかったが、今朝は普段通りの朝食でいいとのことだった。
 本当に食べられるのか心配だったが、美晴は時間をかけて朝食をすべて食べた。その後すぐ薬を飲んだ。天井をみあげながら抗生剤の顆粒を口に入れ、水で胃に押し込んだ。水はおおげさなくらいの量だったが、それでも薬の粉をのどにつかえさせた。苦みに顔をしかめながら、残りの水で流し込んだ。みているこちらが満腹になりそうだった。

 彼女の服薬をみとどけると、私は自分の薬を飲みはじめた。スーパーの買い物袋のようにふくらんだビニール袋を棚から取り出した。袋には薬の紙袋が三つ入っていた。私はその中から薬包を二つ選び出した。ひとつには十個もの錠剤が、もうひとつには片栗粉のような白い粉薬が入れられていた。
 色も形もさまざまな錠剤をすべて手の平に取ると、そのまま顔にたたきつけるようにして口に放りこみ、水で飲み下した。間髪いれず粉薬も流しこんだ。飲んだ水は彼女の半分以下で、つかえさせることもなかった。
「上手だね、いつみても」
 私の様子をだまってみつめていた美晴が言った。語尾が消え入るような声だった。
「慣れちゃったな。そんなつもりもなかったけど」
 私は薬のビニール袋を棚にもどした。降圧剤、利尿剤、鉄剤、血液凝固防止剤など、大量の薬を飲むようになり二年近くがたっていた。
 食器をお盆に乗せようと身を乗り出した美晴を私は制した。
「いいよ。とにかく寝てな」
 しばらく食器と私をみくらべた後、彼女はためらいつつ布団にもぐりこんだ。
「ごめんね。迷惑かけてるね」
 美晴はぐったりと体を横たえた。やはり身を起こしているのもしんどそうだ。すがるように枕元の巾着の上に手を重ねた。
 室内用車いすに乗って、流しで洗い物をしながら、私は美晴の言葉を思い返していた。
 風邪で寝込んだ程度で迷惑と言われたら、私はどうしたらいいのだろう。この二年間で迷惑をかけ通したのは彼女ではなく私の方なのだ。あの娘にもきっと心配をかけているのだろう。彼女を一生守ると、あの娘の前で誓った男がこのありさまなのだ。
 物思いにとらわれ、延々と食器にスポンジをこすりつけていた。気がつくと手が洗剤の泡に包まれ、綿あめのようになっていた。のどの奥でため息をつき、勢いの強い水で泡を流した。

 美晴と共に暮らすようになってからの二年間、私は迷惑のかけ通しだった。
 体に異常を感じたのは、彼女との生活をはじめて、まだ半年もたっていない頃だった。
 最初は疲労感だった。いくら寝ても疲れが取れず、軽いめまいも覚えるようになった。仕事がばたばたして疲れてんだろうな、と不安がる彼女をごまかした。
 そんな日々を過ごしていた秋口、仕事中に激しいめまいにおそわれた。自分だけに大地震がおきたような、すさまじいめまいだった。車いすもまともにこげなかった。同僚の運転する営業車に乗せられ病院に向かった。そこにはすでに連絡を受けた美晴の姿があった。仕事着の制服のままだった。
 精密検査の結果、腎結石と腎血管の狭窄がみつかった。美晴は動揺を浮かべながらも、私の代わりに手続きをすませ、入院に必要な物を病室に運び込んだ。
 帰っていいと言ったが、今晩は泊まるときかなかった。彼女は仕事着のままパイプ椅子で眠った。
 深夜、私は胃がめくれあがるような吐き気にみまわれた。たえきれずベッド下に顔を突き出した。気配を感じた美晴が飛び起きた。床に座り込み、私の顔の前にごみ箱を突き出してくれた。礼も詫びもできず、私は酸味の強い胃液をごみ箱に吐いた。翌朝目覚めると、美晴は車いすに寄りかかり眠っていた。

 三日後、ステントを血管に入れて狭窄を広げる処置を受けた。術前は難航も予想されたが、幸いとどこおりなく成功した。検査室から出てきた時、美晴は泣き笑いの顔で出迎えてくれた。指の間からひもがのぞいていた。手の中にはあの巾着がにぎられていたのだろう。美晴とあの娘が守ってくれたのだろうか。がたつくストレッチャーの上で、私はそんなことを思っていた。

 その後ほどなく退院できたが、それからしばしばめまいや重い疲労などの不調に見舞われるようになった。美晴に背負われ、深夜の救急病院に運ばれたことも何度あったか。彼女の細い背中で揺られるたび、本来ここで甘えるのはあの娘なのに、と思った……。

 正午になり、おにぎりとみそ汁の昼食をすませた。その後再び床についた美晴の額に手をあてると、午前中より火照りが取れていた。寝息も穏やかだった。熱が下がって、体が楽になってきたのかもしれない。
 三時が過ぎ、取り込んだ洗濯物をたたんでいると美晴が目を覚ました。
「ごめん、起こしちまったか」
「ううん、平気。洗濯物まで、ありがとうね」
「手伝うね」
 彼女は私のそばに腰をおろすと、積まれた洗濯物に手を伸ばした。
「いいよそんなの、休んでな」
「平気。少し動いた方が体にいいし」
 浮かべた笑顔に力みや無理がなかったので、私もそれ以上は拒まなかった。美晴は正座したひざの上でTシャツのしわをのばし、左右の袖をきちんと折り曲げたたんだ。私よりずっとていねいな仕上がりだ。
 少し風に触れたいと、美晴は窓をあけた。にごりのない五月の風が部屋をふきぬけた。彼女は風をあびながら、全身で深呼吸した。寄りかかった壁もひんやりして心地いいのか、また眠ってしまいそうな顔になっていた。

「はじめてふたりであの娘に会いに行ったのも、こんな日だったね」
 彼女は細めた目を窓に向けた。首にはあの巾着が下がっていた。

 会いに行ってほしい人がいるの。
 あの日、美晴は固い顔つきで言った。
 私のすべてを理解してくれた彼女と、生涯を共にすることを真剣に考えはじめていた時期だった。なにも教えてもらえないまま、示された道を車で走った。着いた先は田園にたたずむ寺だった。本堂の裏手が山になっていて、山肌が墓地になっていた。
 急な坂道を、私は車いすでのぼりつづけた。途中何度も彼女が押すと言ったが、ひとりで行くと断った。ここはひとりでのぼらなければならないと、根拠もなく思っていた。
 やがて私たちはひとつのお墓の前に着いた。古く小さなそのお墓には美晴の名字が刻まれていた。彼女の実家のお墓らしかった。

 ここに、あの娘が眠ってるの。

 美晴は、静かにささやいた。

 美晴に娘がいたことは、つきあいはじめの頃聞かされていた。
 まだ大学生の時に授かったという。当時交際していた先輩の男との間の子どもだった。そのことを伝えると、男は美晴の前からあっさり消えた。長い葛藤の末、ひとりで育てることを決意した。大学も辞めた。ありがたいことに父母も支えると約束してくれた。子どもが女の子だとわかると、父母はどんな名前にしようかと楽し気に話していた。
 そんな矢先、その子はこの世界を見ることなく逝ってしまった。くわしい原因はわからなかったが、彼女は自分が悪かったんだと今でも責め続けている。
 娘が逝った二日後、美晴は大きくなった自分のお腹に生えたうぶ毛を抜き、小さな巾着袋におさめた。なんでもいいから、この子がこの世にあったしるしがほしいと思ったのだ。以来巾着袋を、肌身から離したことはなかった。

 お墓の前で立ち止まると、美晴は桶の水をゆっくりとかけた。花を供え、線香に火を灯し、手をあわせた。私も合掌した。かなり長い時間そうしたつもりだったが、顔をあげると彼女はまだ手をあわせつづけていた。丸めた背中から骨が浮き出ていた。
 美晴は姿勢をもどすと、車いすの肘掛けに置いた私の腕に手を重ね、お墓に語りかけた。
 お母さん、この人と生きていくことにしたの。この人ね、あなたのことを話した時、おれに娘ができるんだって喜んでくれたの。もううれしくて。あなたがいなくなった時より泣いたかもしれないな。
 私と彼女はその日、夕暮れまでお墓の前でたたずみ続けた。山肌を染める夕焼けに、私の瞳はなぜか潤んだ……。

 私は気づくと、椅子の上の小箱をみつめていた。
 竹ひもの小箱の中には、ベビー服とくつ下、手袋がおさめられていた。いずれもあの娘が着るはずのものだった。ふたりでこの部屋に越してきた時、彼女は真っ先にこの小箱の置き場所を決めた。
「風邪なおったら、会いに行かなきゃな。あの娘も心配してただろうから」
 彼女はうん、とうなずいた。
 洗濯物をたたみおえ、テレビをながめていると、彼女はクッションに寄りかかり眠っていた。 布団に寝かせないと、と思ったが寝顔があまりに気持ちよさげで、起こすのがためらわれた。美晴の背中に毛布をかけた。

 私は夕食の買い物に行くことにした。メモを残し、物音をたてないように部屋を出た。
 車いすを走らせながら、彼女がよろこびそうなおかずを思いめぐらせた。少しボリュームのあるおかずにしようか。その方が風邪の治りも早いかもしれない。
 私は細い道を車いすで走った。街は夕焼けで染まっていた。あの日、美晴と私と、そしてあの娘と一緒に見た夕焼けみたいだった。
                               (了)


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