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頑張ることは当たり前、けれど全力を出すことは怖い、という話

「頑張る」ことは、私にとってほぼ当たり前のことだった。
それこそ、頑張らないとはどういうことかがよくわからないくらい、努力というのは日常的なものだったし、それがふつうだと思っていた。

あの時、燃え尽きて崩れ落ちるまでは。

その時以来、私は「全力を出す」ということが怖くなった。全力を尽くしても望みのものが手に入らないということに対する怖さもあるだろうけれど、それ以上に、自分の限界を見極められず、ある日突然何もできなくなることが怖かった。

最初に燃え尽きて何もできなくなったときは、高校生の頃だった。まるで世界から色が消えて、自分自身が世界から断絶されたかのような感覚に陥った。ここにいるようでいない。自分の存在が確かなものだと感じられない。

今だからわかることだけれど、本来ならば、その時は休めばよかったのだろう。学校も授業も何もかも。けれど、当時の自分には、「休む」という概念があるようでなかった。だからこそ、限界が来て燃え尽きた。

働き始めてからようやく、自分の中に「休む」という行為が具体的に導入された。そのおかげか、疲れて限界が来る前に、少しだけでも休むということができるようになった。

その当時の影響かどうかはわからないけれど、いまでも私は「全力で何かを頑張る」ということが怖い。「全力で頑張る」というフレーズに、「休まず頑張る」という意味が含まれているように感じでいたからだ。それは、私には無理だった。適度に休みをとらなければ、何かを成す前に自分自身が潰れてしまう。

それでも、何かを成すためには、望みのものを手に入れるには、休まず頑張らなければならない、と思っている自分がいる。そのことが一番怖い。

休みは必要だし、ほしい。わかっている。
けれど、それで私がほしいものは手に入るのだろうか。

そもそも、私がほしいものって何だろう。
それは、休まず頑張らなければ手に入らないものなのだろうか。

……困った。わからない。

努力して、頑張って、全力を尽くして、私がほしいものってなんだろう。

なんというか、この文脈上での私がほしいものって、やりたいこと100個書いたときには出てこなかったもののような気がする。

やりたいこと100個書けてもわからない、私のほしいもの。

まあ、まずはそこからかな。きっとすぐには見つからないかもしれないけれど。地道に探してみよう。なかったらないで、それでもよいのかもしれないし。

まずは、自分の興味があることを試してみることから。
さて、何をやろうか。

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