見出し画像

「自分が何者か」を考える時間を学校でもっと作ろう!

アメリカの大学院の授業で「文化」について考える時間が続いています。文化の認識には「他(the other)」の存在が不可欠で、誰に対して説明する必要があるのか、そしてそれはなぜかなど、根本的な言語の定義をする作業です。以下はその作業に連動したメモです。

例えば、私の興味関心であるコンピテンシーの考えは西洋的な考えかもしれませんが、それが日本でなぜ必要かといえば基本的には対外的に必要になる能力だからだと言えると思います。そして、そのような議論が国内で盛り上がらない背景には、日本に浸かっていると、「他」の存在が見えない(と思っている)からです。

文化の存在は実は常にパワーバランスによって成り立っていて、その力関係によって差別や不平等などが日常的に生まれています。(BLMなど)そして、それは日本のような「同一民族国家」意識の高い国でも(でこそ?)大きな問題だと思うのです。「多様性」と言えば日本の少数民族や多様な文化背景を持つ方々、学校現場でいえば外国人児童などのことと捉えられがちですが(もちろんそれは課題)、私はこの「文化」の持つパワーバランスが「同一」とされている人々の権利をも侵害していると考えています。

例えば、私は公立高校に勤務して10年以上、色々な生徒を見てきましたが、自分を表現できない生徒はたくさんいます。そしてそれによって自己実現ができなかったり、家族関係、友人関係、恋人関係でトラブルにあったりする生徒もいます。社会の同調圧力がストレスの原因や社会問題の一翼を担っていることは、今回のコロナへの対応を見ても思い当たるところはあるのではないでしょうか。

自己表現の機会を十分に与えられないまま、高校三年生になると進路実現のために急に「自分は何者か」を問われます。そんなの誰も今まで聞かなかったのに、変な話です。急に自分のことを考えなければならない生徒を見ていると気の毒でしかありません。中学校、高校を通して6年間のうち、「自分が何者か」「自分は自分をどのような人間で、自分のアイデンティティーは何だと考えるか」などを考えるための時間を、彼らはいったいどれほど学校で与えられているでしょうか。

自分が何者かを考える機会を奪われたまま大人になり、「周りの人が見ている自分が自分」だとか「周りの人と同じようにしているのが自分」だと思って成長して欲しくないものです。

自分のことについて話す時間。
自分のことについて考える時間。
そんな時間をもっと積極的に学校で提供できるようになればいいなと思っています。

Teachers of Japanではティーチャーアイデンティティ (教師観)の発見を通じて日本の先生方がもっと自分らしく教育活動に専念し本来は多様である「教師」の姿を日本国内外へ発進しています。日本の先生の声をもっと世界へ!サポートいただけたら嬉しいです。