芭蕉と歌仙
元禄二年卯月廿四日(新暦6月11日)。
4月22日に須賀川に到着した芭蕉と曽良は、駅長である相楽等躬の敷地に庵を結んでいた可伸に招かれて、俳席が設けられたそうです。
別の記事(雛祭関連)のトピックを書こうと思い立ち、訪れた須賀川市立博物館。そこで展示されていた「かくれがや」と銘打った七吟歌仙の俳句が、結構面白いのです。
芭蕉と曽良が須賀川に到着したのは、新暦で言えば、丁度田植えシーズン真っ盛りの頃。
実際に、24日午前中は等躬自身も田植えで大忙しだったのでしょう。ひょっとすると午後になって一息つくために、田植えが終わったお祝いも兼ねて、句会が開かれたのではないでしょうか。
この時の歌人メンバーは、以下の通りです。
松尾芭蕉
栗斎(可伸)
等躬
曽良
等雲
須竿
素蘭
句会は、芭蕉の発句から始まりました。
後に、「世の人の見つけぬ花や軒の栗」と推敲。
もっとも、この芭蕉の句で「可伸庵の栗の木」はすっかり名所となり、敷地の持ち主である等躬は、やや戸惑ったようです(笑)。
いきなり季節は秋に飛びました😅
もしかしたら、「真柴に月を~」からの連想なのでしょうか。
これも、「露」という言葉が使われているので、秋の句?
「年暮」ですから、季節は冬に。
「酒の遺恨」の内容が気になる(笑)。等躬様、一体何があったんですか?
「婿入り」したのは、ひょっとして曽良自身なのでしょうか。
うーん、当時は婿入りは「恥ずかしい」という概念でとらえられていたんですね。
思わずギクリ😅。
須竿がどのような身分だったのかはわかりません。
ですが、江戸時代の須賀川(当時は宿場町として繁栄)は、商人を中心として宿場の運営を行い、俳諧は彼等の教養として町人の嗜みの一つでした。そのため、盛んに句会歌仙などを開いていたようです。
その流れからすると、須竿も須賀川の有力商人、もしくは有名人だった可能性がありそうです。
きっと、今だったら「貧乏を神のせいにするなんて、馬鹿じゃないの?」というニュアンスなのではないでしょうか。
これ、砂魚が何だか分かりませんでした。
ただし、この時代で手軽に釣れそうな魚というと、「アブラハヤ」じゃないかな?と推測しています。
一人で魚釣りをしている情景というのは分かりますが、須賀川は内陸ということもあり、どんな魚なのか、見当がつきません。
んー、これも解釈が難しい。
ですが、前の句は「春」ですから、冬の間、髪の毛を洗えない程寒かった。
春になって、水で髪が洗えるぜ!
・・・・・・そんなイメージが伝わってきます。
あー、この頃は雛祭は一大イベントで(公式に節句が祝われていました)、お琴を鳴らし、華やか・賑やかに祝っていたのでしょう。
繰り返しになりますが、この時期は晩春~初夏。
それにも関わらず、季節に関係なく連想ゲームのように、雑談を挟みながら、楽しげな句会が開催されていたのではないでしょうか。
何だか今の方が、固定概念にとらわれがちなのかもしれませんね。
この「かくれがや」を見て、「季語や文法も大切だけれど、まずは楽しもうじゃないか」という、そんな解釈をしたくなりました😁
「俳句幼稚園」に入園してから、割と難しい季語が続き(最難関は「ぼうふう」)、どうしたものか少し悩んだ数日前。
ですが、この句の並びを鑑賞したら、「技巧も大切かもしれないけれど、まずは楽しみなさい」という、先人のアドバイスが聞こえてくる……かもしれません。
そんな想像(いや、妄想?)が広がる、連句でした。
補足:バナーは、何度か使いまわしていますが(笑)、須賀川入りする前に芭蕉と曽良が立ち寄った、「かげ沼」跡地にある石像です。
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