自炊に代表されるように、生産・提供者と消費者が同一人物である場合、それは1-1=0意味する。つまり自分の時間とか、自分への行為には意味も価値もない。これを仮定Aとした時、仕事のような生産・提供者と消費者が異なる場合も1-1=0となるのだろうか? そうはならないという解が真っ先に想起されるかもしれない。なぜならそこには価値が存在するとされるからだ、と。これは、価値という概念が極めて主観的で曖昧なものに過ぎないことを意味している。それは感情の高まりや、言葉にならない言ノ葉のよう
私たちは生きている限り,多数の責任に問われ続ける。相対的貧困に苦しむ同国人に対して,絶対的貧困に対して苦しむ遠い国の人びとに対して,仮想敵に対して。その射程は現在だけではない。過去からも,未来からも。戦争で苦しんだ方のため,将来世代のためというように。つまり,現時点では実在しない人物からも問われる。そうした直近性のない人物や,実在しない人物から問われる責任は,まさに人格なき責任と呼ぶべきものである。この責任は具体的に何かを提示するわけでもなく,また誰が責任を問うているのかも
仕事や世界は不完全性と脆弱性(本文では二つをまとめて至らなさと表記することがある)で成立している。ここでの仕事とは、金銭授受の有無を問わない。それらが無ければ人類史も社会も成立しない。人間は永久機関ではないため体外から栄養を確保する必要がある。しかし、それを確保するための能力や時間を要さないために外食産業やスーパーなどの小売業が成立する。医療介護や保険は私たちの脆弱性を補償する営みである。したがって、不完全性、脆弱性というピースとそれに対応する能力というピースが散らばってお
あぁ、今日も私は目覚めてしまった。 今日という日を私はまた生きていかなければならないのだ。 望んだわけではない生。人生で特にやりたいことなどなく、いつ死んでもいい。そうした屁理屈には聞く耳を立てず日々は皆に平等に訪れる。 世界が私を試している。今日はどのように自分を可愛がるのかと。私は世界の言いなりだ。世界の摂理が生を望む肉体を構成している。私の意志に関係なく私の肉体は生を望む。生を与え続ける世界と生を与えられ続ける私の生存ゲームにおいて、私に勝ち目はない。 連戦連勝の
サービス(=奉仕つまり余剰行為)というものが嫌いだ。なぜなら本質を濁し、余剰に焦点を当てるから、相手を上に上げることで対等な関係を崩すから、緩い貢献だから。ここでのサービスは接客のような行為であり、商品ではない。原価80円のものを100円で売る際の20円も余剰であるがここでそれについての批判はマルクスがすでに十分行っている。 サービスというのは等価交換から見れば余剰でしかない。例えば、10000円のものを買う。私が10000円を払う。それで契約の本質である等価交換は満たされ
侵襲性のない世界は痛みを感じれない痛みで溢れている。 人と人が出会うという価値が相対的に向上した社会の今、その価値の向上故に、他者という侵襲性もまた高まったと思う。コロナが始まる前までは、他者という存在はとても身近な存在であり、私たちは彼らから受ける侵襲に慣れきっていた。しかし、コロナがいざ始まると人と人の物理的接触の機会が減った。その結果、私たちは他者からの侵襲性に対する免疫が弱まったように思う。 思い返せば、生まれてから高校まで、私は常に他者と同じ場所にいたし、
人が喜んだ。ただそれだけ。 人が怒った。ただそれだけ。 人が哀しんだ。ただそれだけ。 人が楽しんだ。ただそれだけ。 ただそれだけ。 ただそれだけ。 そうしないとこの世の中はあまりにも刺激が多すぎる。 目を下に向けて、耳を塞いで、口と鼻を隠して。そうして刺激から身を守る現代人。そうした現代人は弱さの象徴でもあり、環境への適応力という面で強さの象徴でもある。 『イワンのばか』という民話がある。そのメッセージはいじめに対する最大の抵抗はいじめられていると無自覚であること、そ
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない」 ーキルケゴールー 1.不自由な私たち 「人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。」 ートルストイー 人は生まれながらにして不自由だ。なぜなら、生まれた時点で親と子という関係があり、自身の血と肉の中には親の遺伝子が混じっているからだ。たとえ、出
懺悔しましょう。私があなたに向けた言刃を私に向けて。 向こうに居る貴方に送った言葉の先に居たのは紛れもない私でした。 それは私に言刃として刺さりました。 誰かの後ろ姿が見え、私は追いかけました。そこに居たのは鏡に映った私でした。私は鏡を割りました。その先には他者がいました。私はその人のもとへ向かいました。その先に居たのは鏡に映った私でした。何度も何度も誰かを追いかけ、鏡を割り、歩き続けました。身体を輝かせながら、歩きました。 ガラスがこすれて聞こえてくる音は、私が人へ渡し
冷たかった祖父の手、これが死か。 冷たい僕の手、これが生か。 凍てつく寒さで生きようと震える身体に生への意志を日々感じる冬。銀世界での生活は無意識下での自身の身体の力強さを感じることが出来る。それと同時に手に死相を見て取れる生活でもある。冬はとても手が冷たい。その手は亡くなった祖父の手にとても似ている。お湯で温めても気休めにしかならないのは、死の復活という非現実性の象徴だろうか。「手が暖かい人は心が冷たい人、手が冷たい人は心が暖かい人」なんて言うが、その真偽はわからない。そ
2022年5月から免許更新のルールが変わった。詳細はこちらの記事を見て欲しい。https://www.fnn.jp/articles/-/292949 さて、一見私はこの記事を見て安心した。しかし、よく考えれば社会的にはこれは正義なのだろうか。 社会は安全保障という責務の遂行を全うする姿勢を取った。その反面、社会は車がなくても生きていける社会づくりをしていかなければならない。それはつまり、富山市のようなコンパクトシティづくりや、過疎部への出張販売、在宅介護の充実が求められ
全ての人「間」には適切な距離がある。人間関係が上手くいかないのはどちらかが近付きすぎたり、遠のきすぎているから。またこの人「間」は二人で作るという性質がある。だから互いにどのような関係をむずびたいのかを提示する必要がある。ここに個人の正義や価値観を主張する権利と義務が生じる。だから、私は絶えず自分自身の思想を唱える。それがあなたにとって不正義ならそれでいい。自分と異なる正義であると認識されない正義は主張でも意見でもなくただのぼやき、しかも私という存在自体をかすめるぼやきだ。だ