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脆さ、弱さを赦せたのなら。

 仕事や世界は不完全性と脆弱性(本文では二つをまとめて至らなさと表記することがある)で成立している。ここでの仕事とは、金銭授受の有無を問わない。それらが無ければ人類史も社会も成立しない。人間は永久機関ではないため体外から栄養を確保する必要がある。しかし、それを確保するための能力や時間を要さないために外食産業やスーパーなどの小売業が成立する。医療介護や保険は私たちの脆弱性を補償する営みである。したがって、不完全性、脆弱性というピースとそれに対応する能力というピースが散らばっており、それらの凹凸が噛み合うことで世の中は成立している。「各人からは各人の能力に応じて、各人に対しては各人のニーズに応じて」というニーズの原理に従い、各人は各々の能力を行使する、仕事をする。こうして私たちは互いに支え合っている。能力は自他のニーズを満たす力であるが、これは最も正当化される不平等という特徴がある。スポーツはまさにそうだ。逆に言えば、能力を均すとは能力によって受ける利益を均すことを意味し、仕事はその手段の一つである(なお、消費者が対価としてお金を払う仕事の場合は、利益を均すというよりは価値を交換するという意味合いが強くなる)。

 不完全性と脆弱性で物事が成立する以上、不完全性や脆弱性なき自分は幻想となる。不完全性や脆弱性が成立するには、完全性や行き届いた補強が想定されていなければならない。現状は不完全である、脆弱性があると認めなければならない。自身の不完全性や脆弱性を満たすための行いで世界は満ち溢れている。他者は私一人では出来ないことを補い合うために存在している。他者は私の至らなさを映し出す鏡である。自身の至らなさを自覚しない、否定することは鏡をたたき割ることを意味する。逆に、他者の弱さを認めないことは周りへの理解も、周りからの理解も拒んでしまい自身を孤独にする。だからこそ、弱さを認めなければならない。脆弱性という引力のもとに、私たちは共生している。相補性を作っている。 したがって、私の、あなたの持つ能力を使う対象範囲は際限なく広がりを見せる。すべての人を支えることなど不可能だ。では、私たちの意志や選択による排他性や差別を避けるために、全員が傷つくのが最も平等な社会なのだろうか。

 モノやサービスにおいては完全であることが重要である。ご飯を炊けなくなった炊飯器をもっていても仕方がない。しかし人間は、実存が本質に先立つために完全であることはない。私たちは常に本質を探す存在である、つまり常に本質を欠いている、不完全性と脆弱性を抱えている。仮に本質にたどり着いたとしても、私たちの欲求と不完全性と脆弱性を映し出す他者が私の不完全性と脆弱性を指摘する。したがって、人生は自己否定と本質規定の循環であり、不完全性と脆弱性は再生産される。これらから逃れるときは最期だけだ。死において完全であることの意味や価値は成立しない。

 弱さの受容や肯定は私の不完全性や脆弱性を他者や社会が悪用せず責任を果たしてくれるという信用を土台にしている。なぜなら、それらを開示することは自身の持つリスクの開示だからだ。したがって、信用が鍵となる。だが、やったもん勝ち、自己責任という考え方が社会で幅をきかせるようになるとこの信用は削がれていく。誰も弱みを見せず、見て欲しいところだけを見せる。公的な自分と私的な自分がどんどん分離していく。誰かに助けてもらうのではなく、自助で自身の不完全性や脆弱性の解決を試みる。誰か私のことを理解してくれないだろうか、誰も私の苦しみも弱みも理解してくれないと人々は孤独になっていく。苦しみは他者理解の共通言語だが、孤独によって苦しみが社会から排除されていく。まるで無い物として扱われる。そして人々は周辺化、無力化への道を知らず知らずのうちに歩いて行く。

 信用という一つの命題に反する形でもう一つの命題がある。それは、不完全性や脆弱性は他者の存在がゆえに成立するというものである。私たちの不完全性や脆弱性は、私以外の人やモノとの出会いや、私を相対化することによって発見されるものである。他者の侵襲性によって出来るものである。したがって、私たちは生きていくために自身の至らなさを他者に表明しなければならない一方で、その至らなさは他者を主とする外的存在によって形成されるという不安定な状況に置かれている。

  脆弱性が作り出す相補性の中に身を置かなければ生きていけないことは確かだ。私の不完全性や脆弱性と他者の能力が出会うことで一つの幸せが生まれる。しかし、私の持つ不完全性や脆弱性を私ではなく他者が補うことそれ自体が不完全性や脆弱性を再生産してしまうという私の根本的な不完全性や脆弱性の問題を先送りにしている。リスクを抱えないためにはその被害を被ればいいというのは一つの言説だ。しかし、こうした自己責任的な考えは許容できない。なぜなら、再生産される不完全性や脆弱性には他者や社会が少なからず関与しているからだ。人々の苦しみが覆い隠されるような社会においては、現にリスクが現実のものとして降りかかってしまっている人々がいる。たしかに本人の能力不足という指摘は一理あるが、その不完全性や脆弱性をそれとして成立させる制度的文脈まで視野を広げる必要がある。自己責任という言説は不完全性や脆弱性の開示に対する不安や恐怖心を植え付ける。それは人々を孤独に追いやる。しかし、その言説を行う人もまた、自己責任社会の終焉という脆弱性を逃れたいのだ。自身の不完全性や脆弱性を守るために、他者のそれを攻撃してしまうのだ。

 他者は私の不完全性と脆弱性を映し出す鏡である。私に対する他者の働きかけが、私の能力不足や不完全性、脆弱性を映し出す。他者の顔を被った弱い私の手が近づいてくる。他者が嫌いというわけではない。むしろ、その働きかけに感謝している。しかし、 ヤマアラシは今も鏡の前で震えているのだ。


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