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理性を用いて自分で考える勇気を持て

「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない」
                        ーキルケゴールー

1.不自由な私たち

「人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。」
                         ートルストイー
 
 人は生まれながらにして不自由だ。なぜなら、生まれた時点で親と子という関係があり、自身の血と肉の中には親の遺伝子が混じっているからだ。たとえ、出家したとしても、その肉体的な拘束から離れることは出来ない。他に我々を不自由にするものは多くある。仕事と人間関係と情報と思考と感情だ。仕事は我々の生き様である。自己実現の場として求めていたはずの仕事は生活の多くを拘束してしまう。そこから生のための仕事から仕事のための生へと逆転現象が生じて、仕事が生を支配する。人間関係は常に自身を縛る鎖となる。自分の価値観や思想を抑圧する要因となり、利己的な自分を押し殺して利他的であることを強いてくる。情報は我々を混乱させる。多種多様な情報の中で我々は選択することを強いられ、常に正解の道を踏み外さないように歩かねばならない。なぜなら、踏み外した先は馬頭、批判、非難の応酬だからだ。思考は我々に正義を問うてくる。自分の行いが正しいか、善いかという望まない問いを我々は我々に投げかけ続けている。感情はその思考をさらに複雑にする。利他的であることを投げかける思考と利己的であることを求める感情から生じる葛藤は我々の代表的な煩悩だ。
 そんな不自由な存在が今を生きる人間だ。胡散臭いだろうか。ニヒリズムだろうか。私はそうは思わない。弱さ、不自由の肯定は強さ、自由への一歩だ。では、我々はどのように自由を獲得できるのだろうか。

2.自由な私たち

「人間は自らの行動の中で、自らを定義する。」
                          ーサルトルー

 こんな言葉がある。哲学者サルトルの言葉だ。「本質が実存に先立つのではなく、実存が本質に先立つ。」前半は道具を指し、後半は人間を指す。例えば包丁を考えてみる。包丁が存在するには包丁の本質が必要となる。道具は最初に本質、目的があって初めて誕生するものである。本質とは、その存在理由、在り方である。包丁の本質とは何であろうか。それはモノを切ることだ。逆に言えば、モノを切る以外に包丁は道具としての生き方がないのである。一度決まった本質からは逃げ出すことが出来ない。形を与えられた包丁は切るという本質からは逃げ出せない。本質が決まっているものが実存したら最後、ずっとその本質に縛られその生を終えるのである。
 では、人間はどうか。人間は実存が本質に先立つ。つまり、本質や目的が決まっていない状態で実存しているのである。人間も形は生体的には決まっている。しかし、その本質は決まっていない。なぜなら、親は人の本質を決めることは出来ず、人は自分自身を行動の中で定義することが出来るからだ。周りの環境や親の教育によるものではない。その環境に適応するという選択の結果、自分自身を定義しているのだ。あなたが過去を否定しているのであれば、あなたは過去の環境を否定しているわけではない。過去に選択をしなかった自分を否定しているのである。我々は常に選択の中にある。なぜなら、本質が決まっていないからだ。我々は本質を規定するために選択を無意識的に行っている。成り行きに任せるのも選択であり、選択しないのも選択である。その意味で、我々は自由だと言えるのではないだろうか。我々は包丁とは違う。生体的に形は決まっていても我々の本質は決まっていない。自身の選択によって我々は本質を自らが望むように規定できる。この事実は我々が自由であると強く証明するものとなるのではないだろうか。不自由の中にこそ自由がある。実存という不自由を与えられたからこそ、本質という自由を見出せる。多くの方は大学入学当初、その自由さに困惑したのではないだろうか。自由の中に不自由があり、不自由の中に自由がある。また不自由がなければ自由は存在しないのだ。だからこそ、我々は自由である。

3.本質を探す人生を旅する私たち

「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」
                         ーフランクルー
 
 我々は本質が決まっていない状態で生きている。換言すれば、本質を決めることが人生そのものの本質である。しかし、本質はそう簡単に見つかるものではない。なぜなら、簡単に見つかった本質は非本質的な本質だからだ。しかし、人は合理的な部分があり待たされることが嫌いで、成果を早く求めるものだ。その結果、何が生じるか。非本質的な本質を自らの本質と思い込み、それを見失い、絶望し、なぜ生きるかという人生の意味を求める旅に出る。安易な自己規定は自己否定へと連れ込む。この自己否定という選択は誰のためにもならない。なぜなら、心の中にある絡まった糸は誰も直接ほどくことはできないからだ。
 自己否定を行い、本質を決めるという人生の本質が捨象された状態で、人生の意味を求めるとは何を意味するのだろうか。これは自分という生を自分で生きていくことを諦め、本質を与えられる日を待っていることを意味する。これは儚く終わりのない道である。この道は輪廻の道である。常に自分とは何かを問いかけ、その答えが出ず絶望して、誰かに決めてもらいたいと放り投げ、しかしこれではいけないともう一度自分の本質を自身に問いかける道である。考えるだけではこの輪廻から抜け出すことは出来ない。なぜなら、その輪廻は思考の輪廻であり、輪廻を抜け出すための行動ではないからだ。思考の輪廻に入った時点で人は歩くことを止めている。抜け出すための行動は行動の輪廻を作る。絶えず自身の経験を内省し、そこから得られた洞察を次の行動に活かし、内省する。行動の輪廻は公転する。思考の輪廻は自転する。人を定義づけるのは行動である。思考はただの骨組みにすぎない。

「苦悩は活動への拍車である。そして活動の中にのみ我々は我々の生命を感じる。」
                           ーカントー
 
 では、本質的な本質を見つけるにはどうすればいいのか。それは行動で自分の本質を決めること、その行動を通じて時間という重しをのせることだ。人生は我々に本質を決して与えない。人生は我々が本質を決めることを期待している。ここに人生の残酷さがある。なぜなら、人は変化を嫌うのに人生が求めるのは行動という変化であり、本質を決めるという究極の変化だからだ。しかし、変化を厭う人間は本質を探す苦しみから逃れられない。そうした人たちは人生の答えを求めているからだ。何をするにも苦しみは必ず付いてくる。苦しみを経験しなかった先にある結果は非本質的であり、我々の記憶にも残らない。それが余計に我々を苦しめる。だからこそ、我々は本質を決めるための行動を時間をかけて苦しみながら行わなければならない。
 苦しみはすべての人の本質形成に寄与する。すべての事象は私の意志の表象であり私を基底するものだ。つまり、私を苦しめるものも私を基底するものである。この苦しみから逃れようとすることは私が私から逃れることである。だからこそ苦しみは苦しみとなる。この苦しみの先に我々の本質がある。
 重しがかかるとは選択の深掘りがされることだ。それにより抽出された思考や洞察が出てくる。人は何度も思考を絞りだすことでその魅力が増すものだ。苦しみなき人生に、人は価値を見出せない。なぜなら、すべてが簡単に手に入ってしまうのであれば、そもそも努力する必要もなく、生きる必要もないからだ。まずは、自分が今まで夢中になってきたこととその要因、自分が死んだときにどんな人生だったかと言いたいかなどを考えてみるのがよいだろう。そうした行動の輪廻の先に、苦しみの先に本質が待っている。それが人生を旅するということだ。

終.理性を用いて自分で考える勇気を持て

「我々が人生の意味を問うてはいけない。我々が人生の答えを出さなければならない。」
                         ーフランクルー

 我々は常に選択の中にある。その選択を通じた苦しみと行動の先に我々の本質がある。本質は与えられるものではなく、自分が自分に与えるものである。誰もが誰かの人生を代わりに生きることはできない。あなたはあなたの人生を生きるしかないのである。では、本質規定の行動を取る為に何をすべきか。理性を用いて自分で考える勇気を持つことである。思考の輪廻の自転を活かすことで、行動の輪廻の公転はより加速する。思考の輪廻の自転がないと、行動の輪廻は減速する。なぜなら、行動の反省という加速機がなければ精神的・肉体的疲弊という摩擦を乗り越えられないからだ。考える勇気が求められるのはここにおいてである。行動には思考が前提となっている。この思考がない行動は無意味な行動であり、絶望をまた呼ぶ。行動が文化的目標とされている社会では行動すればよいという風潮を逆機能的に作り出している。行動した結果得られないものがなければ人は行動を辞めるのは無目的の行動だからだ。だからこそ、何のために行動し、その行動で何を得られたら良いのかを規定する必要がある。また、考える勇気は過去の自分への痛烈な皮肉となる。なぜなら、成長すること、自分が盲目であったことに自覚することは過去の弱みをありありと見せてくるからだ。しかし弱みの受容は強さの証明だ。弱みを弱みと認識できることは自分が今、そこにいないことを意味する。弱みを見れないのは自分が弱みから抜け出せていないからだ。
 本質を決めるには弱みを、苦しみを認めなければならない。それをふまえて目的ある行動を取らなければならない。自分の本質を求めることが自分に本質を与える。そこに己の幸福がある。人生は勇気の問題である。選択権は常に自分の中にあり、自分に壁を作るのは紛れもない自分自身である。この洞察を持つこと。これにも考える勇気が必要である。本質形成のために最も効果的な洞察、知の導入はどこから来るか。それはあなた自身である。考えることでは大変辛く見たくないものを見せてくる。しかし、その先にある自身の本質が最高善である。そのすべての原点が思考の輪廻である。だからこそ、理性を用いて自分で考える勇気を持て。

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