生としての手、死としての手
冷たかった祖父の手、これが死か。
冷たい僕の手、これが生か。
凍てつく寒さで生きようと震える身体に生への意志を日々感じる冬。銀世界での生活は無意識下での自身の身体の力強さを感じることが出来る。それと同時に手に死相を見て取れる生活でもある。冬はとても手が冷たい。その手は亡くなった祖父の手にとても似ている。お湯で温めても気休めにしかならないのは、死の復活という非現実性の象徴だろうか。「手が暖かい人は心が冷たい人、手が冷たい人は心が暖かい人」なんて言うが、その真偽はわからない。それでもわかるのは手は生と死の感覚を宿しているということだ。心が燃えている時、身体が燃えている時でも私の手は冷たい。生きた心と、死んだ肢体が恒常的に併存している。
小学校時代、祖父が亡くなった。その手はとても冷たかった。その手は確かに手だったが単なる物体だったが祖父の実存、生を感じさせるものだった。高校時代、3000m障害のハードルから転落し意識を失ったことがある。目が覚めたときに最初に見つめたものは手だった。大学時代、単独事故を起こしたおじいちゃんを助けたことがある。迂闊にも血を少し触ってしまった。そのときに見つめた紅の手は暖かく、他人の生を感じるものだった。またまた大学時代、今度は自分が単独事故を起こした。最初に見つめたのは手だった。手は生の証明機関としての機能があるのだろう。
同級生からの拳、その痛みをもたらしたのは手だ。志望校からの不合格を見た瞬間、手は私を盲目にした。私を聾にした。手は死の証明機関としての機能があるのだろう。
手は常に私に生と死の感覚を与えている。落ち着かないとき、思考のピントが合わないとき、つまり心が死んでいるとき、いつも手は生きている。落ち着いているとき、思考のピントが合うとき、つまり心が生きているとき、手はいつも死んでいる。生の感覚を持つ心と、死の感覚を持つ手。こうした矛盾を抱えながら、生と死を常に背負いながら私の身体は今も実存している。
今日も私は死んでいる。そして生きている。
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