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人格なき責任

 私たちは生きている限り,多数の責任に問われ続ける。相対的貧困に苦しむ同国人に対して,絶対的貧困に対して苦しむ遠い国の人びとに対して,仮想敵に対して。その射程は現在だけではない。過去からも,未来からも。戦争で苦しんだ方のため,将来世代のためというように。つまり,現時点では実在しない人物からも問われる。そうした直近性のない人物や,実在しない人物から問われる責任は,まさに人格なき責任と呼ぶべきものである。この責任は具体的に何かを提示するわけでもなく,また誰が責任を問うているのかもわからないまま作用する。人格ある責任も具体的な行動は提示しないが,人格なき責任はさらに抽象的である。それにも関わらず,苦しみが至るところまで流通する世界において私たちは,顔もない,表情もわからない,どんな生活をしているのかもわからない人への責任を私たちは考えてしまう。

この責任は残酷だ。相手が何者かもはっきりしない以上,責任を問われた私たちは何をすればいいのかわからない。人格なき責任は出自すらわからないため,どこかでずっと私のことを監視しているように作用する。雲の裏から私を覗いているようである。そして,直近性を持たないがために,その責任を果たすためのいかなる行為も空を切る。

しかし,人格なき責任を問うものは,自分が想定した人格,自分の延長線上にある人格であって,他者の人格を有しているわけではない。他者ではない。自分を中心として環状に鏡を並べ,鏡に映る自分と話しているようなものだ。私が私を拘束しているにすぎない。

前を見るな。後ろも見るな。恐れず悔いずに,おまえ自身の内部を見よ。過去や未来の奴隷となっているかぎり,誰にも自己のなかへ降りてゆくことはできない。
E・M・シオラン,2021,『生誕の災厄』東京:紀伊国屋書店,p.133.

必要なことは解放だ。他者とのつながりだ。責任が成立するためには,責任を問う者と有す者のつながりがなければならない。私たちは他者と関係構築をすることで、人格なき責任を人格ある責任,道徳的責任へと作り変えることが出来る。他者をただの物体,画像・映像素材から人間に捉えなおすことが出来る,自分とは切り離された人格を観察することが出来る。

世界は己だけでは成立しない。常に他者との働きかけによって成立するものだ。

世界に投企し続けるのだ。


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