価値と行為に対する考察

自炊に代表されるように、生産・提供者と消費者が同一人物である場合、それは1-1=0意味する。つまり自分の時間とか、自分への行為には意味も価値もない。これを仮定Aとした時、仕事のような生産・提供者と消費者が異なる場合も1-1=0となるのだろうか?

そうはならないという解が真っ先に想起されるかもしれない。なぜならそこには価値が存在するとされるからだ、と。これは、価値という概念が極めて主観的で曖昧なものに過ぎないことを意味している。それは感情の高まりや、言葉にならない言ノ葉のような決して表現することの出来ない零の近似値と言えるかもしれない。

加えて、差異なきところに価値はないと考えると、生産・提供者≠消費者の時点で差異がある、つまり価値が発生する隙があるということも可能だろう。交易、つまり価値取引の始まりである物々交換からも、差異の重要性は読み取れる。差異をさらに広げるならば、日々感じる違和感こそが価値の表れを意味している。自覚していないだけで、特定の言動や対象に対する違和感の射程は表面的な部分に限らずその奥にまで伸びていることがほとんどではないだろうか。サービスが溢れている現代において、近似値同士はより近くなりつつある。拙い理解ではあるが、マーケティングの需要はここから来ている部分もあるだろう。

話がそれてしまったのでもとに戻そう。価値を起点とした主張は、そもそも仮定A自体が偽であることを唱える。自分への行いは1-1=0ではないとする。

しかし、これを行為という明晰判明で客観的な事実だけに焦点を当てるのであれば、生産・提供者と消費者が共に私であろうと、私と他者であろうとそこに大差は無いのではないだろうか。私が私にご飯を作ろうと、私があなたにご飯を作ろうと、ご飯を作るという行為だけを見ればそこには何の差異もない。行為が成立するには行為者と行為を受ける対象が必要になるが、行為を起点とした主張は登場人物が誰であるかを考慮せず、そこでなされる行為に焦点を置く。そのため、この考えは冷徹な印象を持つ。極論ではあるが、高級旅館での食事といったある種上質な行為も、チェーン店での食事といった庶民的な行為もすべて同じ食事という行為に単純化し、一括りにしてしまう。

裏を返せば行為者は自身のなす行為が単純化されることを知っているからこそ、介在価値や顧客体験の質向上といった課題に直面することになる。1-1=0に抗おうとする。

この時点で、価値と行為は完全に切り分けることができないことが確認できる。いや、行為という事実に対して、その価値を測る解釈が必然的に引きおこってしまうと言った方が正しいだろうか。行為という明晰判明な事実と、価値という主観的なものを同時に追求する社会で生きてきた結果、仮定Aが存立したのだろうか。

結論もまとまりもない文章になってしまったが、このあたりで一度筆を置こう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?