他者と侵襲性
侵襲性のない世界は痛みを感じれない痛みで溢れている。
人と人が出会うという価値が相対的に向上した社会の今、その価値の向上故に、他者という侵襲性もまた高まったと思う。コロナが始まる前までは、他者という存在はとても身近な存在であり、私たちは彼らから受ける侵襲に慣れきっていた。しかし、コロナがいざ始まると人と人の物理的接触の機会が減った。その結果、私たちは他者からの侵襲性に対する免疫が弱まったように思う。
思い返せば、生まれてから高校まで、私は常に他者と同じ場所にいたし、お互いに侵襲行為を繰り返していた。当時はそれを侵襲行為だと思うはずもなかった。大学生となり、オンラインでの人との接触が増えた今、私は他者を他者と認識して接触することが極端に減った。つまり、画面上に存在する他者はどこか人間の持つ身体性や自分との異質性に欠けているのだ。基体は私と同じで、その実体の表出の仕方が私と少しだけ違うような存在、用意された存在が画面に映っているように見えるのだ。この用意された存在が物理性、身体性を持った途端、その存在は侵襲性を持つ。つまり、初めて他者として形を持つのである。
では、身体性を持たない他者の発言には侵襲性があるのだろうかと聞かれれば私は頭に対しての侵襲性があると答える。人は架空の存在でもそれを理解することが出来るという意味で頭がよくない。それによって、身体性を持たない他者の発言は理解できないものを投げかけるという意味で頭への侵襲性がある。そして、身体性を持つことによって侵襲性は拡大する。具体的には、空間と身体に対してである。まず、会わないとわからないものがあるというのは、ここ最近多くの人が感じている感覚だろう。それが空間に対する侵襲性である。また発言や、手足や頭の動きによる空間の歪み、話せば話すほど相手の心の壁がより高くそびえたつ感覚、自分がまるでその足元に立ちすくし圧倒されるような感覚、その人が動くたびにじわじわと染み出てくる痛みが身体に対する侵襲性である。
しかし、この侵襲行為を決して悪だと主張するつもりもないのである。なぜなら、空間や身体に対する侵襲性は人の身体性やアイデンティティに則ったもの、つまり非選択的なものであるからだ。加えて、侵襲されることによって、私の中に差異あるものが表象され、私という外延が形成される。外延は自己像を把握するための一つの基準である。自我を知るには非我がいるというように侵襲行為は自分という外堀を埋めてくれる。しかし、その差異があまりにも大きすぎると、差異を差異として受け止めることが出来ず、おぞましきものとして認識してしまう。そのとき、侵襲行為の善意志は捨象される。つまり、他者から見れば侵襲という行為は善かれと思ってなされることが多いがそれは被侵襲者からすればそれは全くもって悪だと認識するということだ。逆に言えば、受け取り手の一方的な解釈そのものが悪であると侵襲者の行為は一方的な非難されることにもなるのだが。こうした善かれとした行為とそれによって侵襲された私が生じるこの構造において、誰かを批判することは難しい。なぜなら、侵襲行為を行う他者はその行為から抜け出すことは出来ないし、その行為はたえず再生産され、私はそうした差異で溢れた社会で生きる限り、そうした侵襲行為から抜け出せないからだ。こうした誰も悪くないが誰かが困る構造的不正義の中で、私は生きていかなければならないのだ。そう、こうして書いている私の文章もあなたにとっての侵襲行為なのだ。
人間関係は鏡のようなもので、自分が被害を受けたと発言することによって、誰かを加害することに繋がったりする。また、被害を受けたと発言することによって、自分がより加害されることもある。ハリネズミのジレンマではないが、私は人と出会う限り誰かを傷つけ、傷つけられることもある。しかし、逆に誰とも会わないという非現実的な対応を取ることは出来ず、棘のついた服を着て満員電車のような社会で生きていかないといけないのだ。どういうわけだか人は傷つくことを自ら望むところがあって、そうした不便な社会は現実社会だけに留まらず、ネットワーク上でも展開されている。世の中が便利になればなるほど、人と人の物理的、心理的距離は縮まり、加害と被害の容易さも向上する。そうした結論は用意に想像できるのに、なぜ私たちは四角い機械を通じてこうも痛みを感じにいくのかと考えることがある。推察される仮説の一つとしては人が人を傷つける連鎖の中に身を置くことが最も自身を正当化する方法だと考えた、というものが今のところ私が最も納得できるものである。被害者からの訴えを退ける方法の一つは自身も被害者の一つであると訴えることだ。そうして被害の連環を形成すれば私たちは敵を見つけずに済む。常に誰かが悪いという構造を作っておけば私たちは反省よりも犯人捜しを楽しみながら行うだろう。いつ出会えるかわからない犯人に見せるための傷口を治すことなく私は犯人を捜し続ける。先に裁かれるのは、傷口を作った犯人は自分だと知らずに。
誰も傷つけないためには全員が傷つけばいい。誰にも傷つけられないためには傷ついたと気付かないほどまでに自分を傷つければいい。そうすれば人は皆幸せだ。その結果、人は痛みを忘れるだろう。しかし、侵襲性のない世界は痛みを感じれない痛みで溢れているのだ。
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