貢献されたくないから、誰よりも先に貢献する。
サービス(=奉仕つまり余剰行為)というものが嫌いだ。なぜなら本質を濁し、余剰に焦点を当てるから、相手を上に上げることで対等な関係を崩すから、緩い貢献だから。ここでのサービスは接客のような行為であり、商品ではない。原価80円のものを100円で売る際の20円も余剰であるがここでそれについての批判はマルクスがすでに十分行っている。
サービスというのは等価交換から見れば余剰でしかない。例えば、10000円のものを買う。私が10000円を払う。それで契約の本質である等価交換は満たされているのに、なぜそこに笑顔で対応するとか、店先まで案内するといった余剰を行うのだろう。そうした余剰が目立つほど、人々は本質を見なくなる。その結果、クレームというものが発生する。例えば、ホテルマンの対応が悪くてそれにクレームをつけたとする。私からしてみれば、それはあまりにも馬鹿げている。ホテルという商品サービスの本質は宿泊者に睡眠場所と睡眠時間を提供することである。そこに、宿泊者は対価を払う。それで等価交換は成立しているのに、なぜ行為サービスにクレームをつけるのか。それは行為サービスがサービス利用者に本質から余剰に目を向けさせると同時に、相手を上に上げるからだ。多くの人は本質より余剰に目が行く。なぜなら、余剰、つまり行為サービスは視覚情報だからだ。視覚情報は我々の認識の約6割を支配する。本質は視覚情報から見つけるものだが、多くの人はそれを見つけようとしない。なぜなら、めんどくさいからだ。つまり行為サービスは相手に判断処理の工数を減らすという意味で相手を楽にさせる、相手を優位にしている。自分が不遇な目に合うのは自分が相手に余剰という武器を相手に与えているからだ。
余剰を与えるから人は飽くなき醜い欲求充足マシンとなる。等価交換において、提供したもの以上にものが返ってくるから人はより多くを求めるようになる。欲求に終焉は存在しない。欠落、欠陥を受け入れてこその欲求充足であり、幸福だ。欲求充足を求める限り、人は不幸だ。
サービスと貢献は別だと思っている、いや信じている。でなければ、私の今までの時間は穢れてしまう。サービスは経済活動での限定的な貢献。貢献は人と人のまじりあいを通じ生への意志を強めるもの。世の中には厳しい貢献と緩い貢献がある。厳しい貢献は貢献を目的とする。緩い貢献は成長を目的とする。私が求めるものはサービスとはかけ離れた厳しい貢献である。しかし、余剰に対価を払うという社会が貢献とサービスを混同させてしまっている。今や貢献を行うことはサービスを行うことと同義である。余剰が本質を隠し、余剰が本質へと成り上がってしまった。それを作ったのは紛れもなく私たちなのである。
生=苦だと思っている。苦しそうな人の方がより魅力的というか、親近感があるように見える。私がサービスを受けるのが苦手なのはその苦を取り除こうとしてくるから、私から生を奪おうとしてくるからだ。だから私は貢献される前に貢献することで貢献されることを避けている。そうすれば社会は時系列的に抜きん出た行為を貢献として評価する。そうすれば周りは私に貢献をしようとしない。こうすることで私は貢献されることを防ぐことが出来る。つまるところ、私の貢献はあくまでも自己都合でしかないのだ。
貢献という行為を自己防衛の手段としていながらも、厳しい貢献を求めずにはいられない。この欠陥を受けいれている私は本当に幸せなのだろうか。
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