天井が見つめている

あぁ、今日も私は目覚めてしまった。
今日という日を私はまた生きていかなければならないのだ。

望んだわけではない生。人生で特にやりたいことなどなく、いつ死んでもいい。そうした屁理屈には聞く耳を立てず日々は皆に平等に訪れる。

世界が私を試している。今日はどのように自分を可愛がるのかと。私は世界の言いなりだ。世界の摂理が生を望む肉体を構成している。私の意志に関係なく私の肉体は生を望む。生を与え続ける世界と生を与えられ続ける私の生存ゲームにおいて、私に勝ち目はない。

連戦連勝の世界と、連戦連敗の私というゲームに何の魅力が、価値があるだろう。

今日も私は私を鼓舞する。誰かのために生きろと。そうでなければ存在価値が消えてしまうと。
今日も私は私を憐れむ。自分で生きる目的を設定する。そのために日々を過ごす。なんて虚しい生だと。

そうして自分を可愛がった成れの果てに、何が残るだろう。それすらも空しく浅はかな欲求だ。自分たちが生きる理由を自分以外のものに求めることで私たちは誤って、先走って河を渡らないように縛り合っている。大切なものという鎖が死を望む私を拒む。鎖を恨んでも、その鎖を作ったのは紛れもなく私自身であるということがこの上なく皮肉だ。

どうして死にきれないの?
鎖があるから?
生ききっていないから?

どうして生ききれないの?
生を望んでいないから?
生きるのに真面目すぎるから?


虚っぽの心が今日も重い。


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