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小説:監獄




あらすじ

21世紀半ば。第三次世界大戦を経て、日本は「人間の精神を数値化し、価値算定をする」大監獄社会を築き上げていた。6歳で人を殺し人間以下の烙印を押された大牙(たいが)は、獲物を狩る獲物として公安局刑事課に配属される。最愛の姉に支えられ、なんとか生きながらえていた大牙は、大監獄社会の陰謀に巻き込まれ、人として生きる場所を失っていく。
あるべき国家運営と尊厳の対立を描く、理想郷の臨界点。

1章:魘
 

親子間の義務については、われわれとは根底から考えかたが異なっている。生物の雄と雌との交合は、種の保存と繁栄をめざす自然の偉大なる原理なのだから、人間の男女の結びつきも動物と何ら変わるところのない、肉欲につき動かされた結果にすぎないと、リリパット人は言う。

「ガリバー旅行記」
ジョナサン・スウィフト


 雨が降っている。夏の夜に風情を添えるような、そんな生温い雨ではない。天が目の前の血の海に怒り、それを罰するような雨。今、己が項垂れている畳の部屋。その部屋の頭上の瓦を激しく打ち付ける雨。そして、それだけでは満足しないのか。天の怒りは留まることなく、窓の外には雷鳴が轟く。青白く神々しい光が、目の前の墨染色(すみぞめいろ)の液体が、実は赤色であることを教えてくれる。
 2054年8月。6歳の俺は、血液の醸す独特の鉄臭さに覆われていた。目の前の大量の血の海は、畳の上に膝をついて項垂(うなだ)れている、俺の膝下を侵略しきっていた。纏っている衣服の上から血が侵食して、生身の足が浸されている。血液は酸化し雑菌が繁殖し始めているのか、鼻の奥を抉る嫌な匂いまで発し始めた。その血の海の出処に目を向ければ、太った汚らしい中年男が転がっている。眼は窪み、肌は渇ききっている。中年男の腹の大きく開いた切り口から、腸が弾け出ている。腸は、主の渇いた肌とは対照的に、みずみずしいほどの艶を放ち畳に転がっていた。男の皮膚は焦げた土色に変わり。目の前の男が既に人間ではなく、粘土で作った工芸品のような、ただの物体であることを思い知らされる。
 人を殺した
 茫然とする中で、突如、自分が超えてはならない一線を超えたことに気づく。その事実は、雷の如く己の脳髄を突き破る。生気を失った、無数の窪んだ眼が脳内に浮かぶ。殺された者の恨みが、千の鐘を一度に鳴らすように、脳内に響き渡る。
 この人殺し
 殺された者の怨念に耐えきれず、発狂する。身体中の細胞が震えるような悪寒を覚え、声という声、その全てを放出する。喉がその声と乱流する空気に傷つけられ、削られていく。やがて声にならなくなった。刹那、胃の中の未消化物が一気に競り上がってくる。口からそれは大量に吐瀉され、ただでさえ痛烈な死臭に追い討ちをかける。
「うぇ……」
 嘔吐が止まらない。この世の終わりのような臭い、だけではない。この眼の前に転がる元人間には。奥さんや子供がいたのだろうか。また、まだ親も生きているのではないか。そういった、この元人間の家族から俺はその構成員の命を奪ったのだ。この元人間と、その家族の怨念が一気に打ち寄せてくる。畳の部屋一体に立ち込めている暗闇が、怨念という姿で物体化し、その重力で体が押し潰される。そんな錯覚に襲われ、体が臓腑の奥から、ガタガタと震えている。夏の茹だるような暑さにも関わらず、真冬のような寒気を覚える。意識が遠のいていく。
「大牙」
 遠のく意識の中で、俺を呼ぶ声が聞こえる。それは遠方から聞こえる声ではない。すぐ後ろ、俺の耳元で発せられた声。細く、情緒の一切が抜け落ちたような声。だが今は、それがとても優しいものに感じられる。なぜだろうか。おそらくその声の主に後ろから全身を包まれるように、抱きしめられているから、だろうか。
 司由希子(つかさゆきこ)。8歳。2歳年上の由希姉(ゆきねえ)が、俺を後ろから抱き締めている。その体温だけでそれとわかるが、由希姉が後ろから俺の顔を覗き込んでいることに気づき、改めて認識した。雪のように真っ白な肌は、暗闇でより映えている。高級な猫を連想させる、大きくて丸く、それでいて鋭さも伴った眼。由希姉が心配そうに覗き込み、俺の頭を撫でている。
 栃木県足利市。ただでさえ田舎のこの町は、全国的な人口減少の波に飲まれ、今では1万人ほどしか住んでいない過疎地域となっている。その数、三十年前の2024年と比較して、当時の10%ほどの人口となっている。運営されていない工場地や住宅街、商店街などが廃棄された、いわゆる廃棄区画。第三次世界大戦後の帰還兵の保護療養施設も設置されている。
 このようなエリアが日本中に点在しており、この栃木県もそのうちの一つに過ぎない。まるで昭和初期に逆戻りしたかのような時代。ダメ押しの貧困と共に人々の心は荒み、野生動物丸出しの心しか育まれない人間が大量生産されていた。
 そんな緩い地獄のような場所で、俺には由希姉だけが唯一の救いだった。血は繋がっていないが、本当の姉のように想っていた。その由希姉が側にいる安堵感で、何とか意識を保てている。ほんの数分前の出来事、のはずなのに。俺はなぜ、この場にいるのか。こんな身に覚えのない建物の中で、なぜ死体と飛び散った内臓たちと、血液と吐瀉物に埋まっているのか。いつの間にか由希姉は俺の顔を覗き込んではおらず、その顔は俺の首筋に付けられている。震えの止まらない俺に応えるようにさらに強く、心地よい息苦しさを覚えるほど、抱き締めてくれている。
「ごめんね……」
 由希姉の謝罪の意味が分からない。だがその瞬間、張り詰めた糸が急激に弛緩し、意識は闇の中に落ちていった。


 涼しい。この海辺の風は、いつも程よい塩気の匂いを伴って、訪れる者を丁重に迎えてくれる。その匂いと共に、鼓膜を擽る波の音。まだまだ暑さが鬱陶しい秋の季節。鬱陶しい授業が終わった後は、真っ先にここに来る。夕方、澄み切った水色の空が徐々に黒みを増し、コバルトブルーへと変色していく時間。前方の彼方に見える太陽は、肉眼ではその動きは分からないが、確かに刻一刻と水平線の下に潜り込もうとしている。太陽より下に位置する雲は、黄色なのかオレンジなのか、曖昧な色に染められている。今日も何事も無く、そして何の意味もない一日が終わろうとしている。
 神奈川県鎌倉市。坂ノ下地区側の鎌倉海浜公園に張り巡らされた芝生の、その中にあるベンチが、授業終わりの俺の居場所。ここはいつ来ても静かで宜しい。せっかく海と夕陽を眺められる絶好のロケーションなのに、世界規模の紛争を皮切りとした人口減少のせいで、この鎌倉市も過疎地域になっている。2058年9月。日本国内の人口が1000万人ほどしかいない現代では、国民は東京・大阪・名古屋の三大都市圏、特に東京に集中している。東京から遠く離れた鎌倉では、俺のような「可哀想な子供」か、昔から棲みついている老人か、児童養護施設の職員しかいない。だが、何も悪いことではない。お陰様でこの景色をゆっくり、静かに堪能できるのだから。今、目の前を、柴犬を散歩させているお祖父さんがヨボヨボと通過している。邪魔、ということはない。これはこれでのどかな海辺を彩る一つの風景なのだ。
 だが。後方から人間が走ってくる音が聞こえる。これは間違いなく、邪魔者の音だ。
「大牙〜」
 邪魔者の柚菜姉(ゆなねえ)が後方からトコトコと走り、俺に近づいているのだろう。
「おサボり」
 2歳年上、12歳の藤原柚菜(ふじわらゆな)はベンチまで駆け寄り、俺の両肩に両手を置く。こら、ということなのか。だが柚菜姉の顔を見るとそこには屈託のない、いつもの笑顔がある。年上だが背が小さくて愛らしい、姉。
「授業は出ただろ」
「帰りの会もちゃんと出なさい」
 俺の反論を柚菜姉は受け付けない。真面目で素直で、養護施設の皆から愛される子。皆と打ち解けられない俺とは大違いだ。数値を聞いたことがないが、ラナン数値が相当高い、精神状態良好な児童なのだろう。そんな「模範国民」である柚菜姉は、しれっと俺が座るベンチの左隣に腰掛けている。
 ラナン数値。それは、国民の健全度を数値化したもの。米国で開発された精神測定システム「Ranun-Culus(ラナンキュラス)」によって数値化される。ラナンは人間の心理傾向を計測し、計測した数値に応じて様々なセラピー、医療サービスを人々に推奨する。ただ、推奨というのは実態に合っていない。強制隔離、が正しい表現だ。被害者の俺が言うのだから間違いない。ちなみに「Ranun-Culus」というのは、花弁が幾重にも重なった花の名前が由来しているらしい。花言葉は「幸福」。以前、この話を聞かされた時に「気持ちわる」と言ったら養護施設の先生に怒られた。
 2045年から導入されたラナンは日本で猛威を振るい、「人間が健やかに、ストレスから解放された暮らし」を実現するに至った。なぜ、米国で開発された訳の分からないシステムを、国民は受け入れたのか。以前、聡明な由希姉から聞いたことがある。
 経緯としては2042年まで遡る。1945年に第二次世界大戦が終結して以降、依然として世界には火種が燻ったままだった。経済的、政治的、宗教的。理由は無数に存在するが、結局人間というのは「社会」を構築した段階で他民族との戦闘は避けられない動物なのである。それは人類史250万年が証明している。その燻っていた火種の中で一際大きかったものが、「ウクライナ政権のNATO(北大西洋条約機構)加入」である。親欧米の当時のウクライナ政権がNATO加入を目指す動きは、隣国のロシアにとって我慢ならない。そこで当時のロシア大統領が「国民を守る」という、正気とは思えない理由で2042年にウクライナに侵攻。
 当初アメリカをはじめとしたNATO諸国は、ウクライナに武器支援だけをしていた。あくまで様子見に留まっていた。しかし、ウクライナが予想外の善戦をみせ、これを機にアメリカは「ロシアが二度と他国を侵略できないようにしてしまおう」と、方針を変更。様子見レベルの武器提供ではなく、より高価で高性能な武器を提供し本格的にロシアを崩壊させるべく動く。ロシア側は死者が続出し、加えて世界各国から経済制裁が実施される。追い詰められた元々理性的ではないロシア指導者は、戦術核兵器を使用。戦後97年破られなかった世界の均衡が、ついに崩れる。
 アメリカ、イギリスをはじめとしたNATO加盟国が武器支援にとどまらず、軍事介入。ロシアはベラルーシ、カザフスタンをはじめとした6カ国軍事同盟諸国の支援を受け対抗。第三次世界大戦勃発。
 結果、世界的な食糧とエネルギー価格高騰の影響を受け、貧困層が急激に拡大。貧富の差の拡大が原因で倫理・道徳観念の世界的崩壊が起こり、犯罪・紛争の激化に起因する政情不安のために瓦解する国家が続出。この間、米国はメタンハイドレート開発によるエネルギー自給と、カナダとの同盟による世界トップの食料自給率を実現。米国の指令により日本は米国以外の国家との外交を閉ざし、日本はエネルギー・食糧を完全に米国に依存する体制に移行した。
 また、他国からの違法入国を水際で防ぐために国境や周辺海域に武装ドローンを配備。世界でも稀有な法治国家体制の維持に成功。同時に、米国で開発された精神測定システム「Ranun-Culus」が導入される。
 ラナン導入以前の日本は、先進国の中で完全に遅れを取り、経済力をなくした暗黒期に突入していた。世界中の傾向に漏れず、日本国内でも貧富の差が広がり経済水準が低い国民による犯罪行為が激化。首相を撃ち殺すクーデター、自殺願望に塗れた新興宗教の指導者たちによる集団殺人事件も多発。「安全な国ニッポン」のブランド崩壊を食い止めるべく、米国の精神管理システムを導入。公安・警察の権力を強化し、厚生省直轄で国民の精神状態を管理。精神状態はラナン数値と呼ばれる数値で管理され、一定水準を下回った国民は強制隔離・セラピーが施される。このシステムが功を奏し、治安の悪化を食い止めた。
 今や、世界のどこに行っても安全な場所などない。であれば「精神を国家に管理され、人権を剥奪される」環境でも、それを受け入れる方がまだ良い。国民は己の人間としての尊厳を差し出し、国家に飼われている。
 国内では歴史に関する書物・データは破棄され、学者達も強制隔離されている。そして、学校でも歴史の授業は無くなっている。にもかかわらず、なぜ由希姉はこんな歴史を知っていたのか。聞かされた当時は何も思わなかったが年々大人になるにつれ、由希姉に対する「恐ろしい」という感情が芽生え始めている。
「由希子、遅いよ〜」
 柚菜姉が後方を見て手を振っている。学校からゆっくり歩いてきたと思われる由希姉が、公園の芝生を踏みながらこちらに近づき、笑顔で手を振り返す。12歳となった由希姉は、相変わらず血が通っているのか心配になる程に白く。そして女子にしては高身長で、手足が長い。「普通の女の子が知るはずのないこと」を知っていたこと。そして4年前のあの悍ましい記憶。12歳とは思えない妖艶さ。それらが、姉との心の距離を作っている。
由希姉が近づいてきた。背中で感じていた気配はやがて俺の隣にやってきた。
「おサボり」
 由希姉が俺の右肩に手を置きながら、俺が座るベンチの右隣に腰掛ける。
「同じこと言ってる」
 柚菜姉が笑っている。それに釣られて、由希姉も笑う。そして二人は間にいる俺など存在しないかのように、女子トークに勤しみ始めた。
 うるさい。鼓膜に心地よく響く波音が、もう聞こえない。程よい塩気の匂いも消え、目の前の鮮やかな海もただの沼と化してしまった。せっかくの、俺の憩いの時間はあっさりと奪われた。
 前方右手に目を向けると花壇が目に入る。ピンク色の鮮やかなラナンキュラスが植えられている。本来ラナンキュラスは3〜5月が開花時期なのだが、9月の現在も瑞々しい花びらを保っている。今や全国各地に植えられているこのラナンキュラスは、アルコール・多価アルコール・メタノール含色素などが混ざった加工液でたっぷりと浸されている。そのせいで、花本来の寿命を全うすることができず。国家による洗脳道具として、命を弄ばれている。その洗脳道具が大量に植えられた花壇の石垣の上に、先ほど前を通過した爺さんが腰をかけ、休憩している。犬は爺さんの持つリードに首を繋がれ、へっへっへっへっへっ、と舌を出しながら呼吸を整えていた。犬を見ていると、犬もこちらの視線に気付き、俺の目を見つめる。
 同じだな。
 犬に妙な親近感を覚える。やがて犬は休憩が終わった爺さんに引き摺られ、芝生の公園から出て行ってしまった。
 また視線を前方の沼に戻す。ぼーっとしていると、左肩を軽くはたかれた。
「ちょっと、聞いてるの」
 柚菜姉が俺に問いかける。丸顔。たぬき顔、というのか。丸みのある大きな目。由希姉の持つ鋭さを微塵も感じさせない雰囲気。
「どうしたの虎城(こじょう)くん、黄昏ちゃって」
 由希姉が意地の悪い顔をしている。「うるせーな」と言うと、ふふ、と笑った。
 俺の苗字を呼ぶな。忌々しい。ゴミのような親達を思い出すから、自分の苗字は嫌いだ。
「なんの話」
「だから、明日。測定日」
 俺の問いに柚菜姉が答える。測定日というのは、毎月20日〜月末までに実施される、ラナン数値の測定の日を指す。国民は皆、毎月「私は模範国民です」という証明を、政府に提出しなければならない。そのために米国のサーバ上で稼働するラナンのソフトウェアにログインし、そこでバーチャルAI「Ran」との10分程度の面談をこなさなくてはならない。俺たちのような子供は、所属する児童養護施設が主導でこのラナン測定を受けさせられる。
「ああ」
「ああ、って。ちゃんとお薬飲んでるの」
「飲んでない」
 もう、と柚菜は母親のような反応をする。ガキ丸出しだが、俺はその顔が割と好きだ。
「飲んでも意味ないもんね」
 珍しく由希姉が柚菜姉を裏切り、悪ノリする。
「そうそう」
 話の分かる奴だ。
「ちょっと」
 柚菜姉が口をキュッと閉め、由希姉を見る。変なこと言わないで、と。
 柚菜姉は何を心配しているのか。それは俺が「また刑務所送りになるのでは」ということ。ラナンはその測定により、国民一人一人に値札を付けている。
 
ラナン数値70以上:遵法精神の高い、模範国民
ラナン数値40〜69:精神健康
ラナン数値20〜39:精神不健康。就職に影響を及ぼす
ラナン数値10〜19:要セラピー対象者。通称、未来犯(みらいはん)。刑務所にぶち込まれる
ラナン数値9以下:更生見込みなし。永眠保護。つまり、死刑
 
 このように国民には値段が付けられている。国民はこのラナン数値を健やかに保つことに躍起になり、世の中に蔓延る健康療法、サプリメントに取り憑かれている。いつだったか、どこぞのラナン認定学者が書いた記事にこのような記載があった。
 過去の社会を形成してきた主義に代わり、現代を覆い尽くす思想。

【精神至上主義】(英:Spiritualism)
精神至上主義。構成員の精神面における幸福度の最大化を至上命題とする政治的主張、若しくはその傾向。地球上に発生するあらゆる事象に対して、人間の精神の働きを優先し、または決定的な要因とみなす。人間の幸福度は精神が支配し、決定づけるという考え方。具体的な局面においては、構成員を精神測定システムの運営下において見守り、計測したデータを元に精神を脅かすあらゆる病気・ストレスから保護する取り組みを通じて、構成員の幸福を担保できるという思想を指す。
 
 この無色透明・空気のような思想と言う名の首輪を、皆が取り付けられている。その首輪は無理矢理外そうものなら、たちまち毒針を首に打たれて死に至る。だがこの首輪こそが、この地球上で稀有な「今日他者に殺される心配」から身を守ってくれる代物だということも、痛いほど分かっている。だから皆「支配されている」という自覚を意識の奥底に押しやり蓋をして。自分は「守られている」という、少しでも息苦しさを緩和させる自己洗脳を無意識にやってのける。それが、模範国民というものだ。だが相変わらず。年々息苦しさが増す俺は、その規範からは程遠いところに追いやられている。
 柚菜は、そんな不適合者をちゃんと人間に保つための薬、精神を安定させるための薬をきちんと飲んでいるのか。それを聞いてきたのだ。だが、飲むわけがない。由希姉の言う通りそんなものを飲んでも何の効果もないからだ。飲んだところで、俺のラナン数値は変わらない。
 28。これが俺の値段。2058年現在の10〜16歳の平均価格は65であるから、正真正銘の不良品である。
 4年前、当時6歳。血の海に犯された俺は、殺人罪で横須賀の児童精神更生施設に送られる。定義上は、「犯罪などの不良行為をした児童、不良行為をする恐れのある児童、家庭環境等から生活指導を要する児童を保護する施設」とあるが、早い話が刑務所だ。人の命を奪う獣には、人権などありはしない。神奈川県横須賀市。金田湾を見下ろす要塞に強制隔離され、窓のないコンクリート剥き出しの部屋で四肢を拘束された。人口激減期においては、子供は貴重な資源である。国家の戦闘力は人口、特に若い層がいかに充実しているかで決まる。そのため、この獣堕ちした生物達を何とかして人間に戻そうと、国家は努力した。俺は約二年間薬漬けにされ。収容当時は12まで低下していたラナン数値は、常時開口してよだれが流れ続けるほどの猛烈な投薬生活により、何とか33まで回復した。そして2056年。8歳になった俺は、ようやく娑婆での生活が許されるようになる。だが出所する頃には、アルコール依存症の父親は肝硬変で、共依存の母親は父親の後を追いそれぞれ死んでいた。身寄りのない俺は、当時北関東の過疎地域で暮らす子供達を保護するエリアに選定されていた、ここ神奈川県鎌倉市に移送される。
出所後も、精神を安定させるために。ラナン数値を健やかに保ち、上昇させていくために。処方された薬をしばらく飲み続けていたのだが、この二年間、ダラダラと数値は下降している。このままいけば未来犯堕ちする。刑務所に再送される。そのために養護施設常駐のかかりつけ医は、手を変え品を変え、様々な薬や認知行動療法などのセラピーを俺にぶつけてくるが糞の役にも立たない。だからもうセラピーも薬も、辞めてしまった。それを今、柚菜姉に咎められている。
 柚菜姉は由希姉を見た後俺を見ているが、「しっかり飲みなさい」と追撃してこない。この子には何を言ってもしょうがない、という気持ち半分。自分が想像もつかない心の暗部についてズカズカと踏み込みすぎるのも、という気持ち半分。そんなところだろうか。別にいつどうなっても構わない。そんな気持ちも、何となく柚菜姉に見透かされている気がする。俺の心情を自分事として引き受けたいのに、それが及ばない無力さを悔いる。そんな表情をしてくれている、ように思える。そんな柚菜姉に対して、愛おしいと思う気持ちと、どうしようもない申し訳なさが込み上げてくる。
 大丈夫だよ。
 軽々しく嘘100%の台詞を吐きたいが、それも憚られる。薄寒いだけだ。柚菜姉にかける言葉が見つからず。そして、未来犯堕ちしていく自分を食い止める手段も見つからず。
 そんな状況に反して、耳から音が入ってくる。いつの間にか風が強くなっている。波が浜辺を打つ音が強くなっていた。
 何秒かの静寂が訪れる。柚菜姉から目を逸らし前方の海を眺めると、先ほどまで雲を黄色・オレンジの中間色に彩っていた太陽が、その半身を水平線に沈めている。どおりで、辺りが暗くなっているわけだ。
 そんな束の間を、右隣から聞こえてくるコール音が台無しにした。由希姉の指にはめられた指輪型端末(リング)が鳴り出した。由希姉はリングに触れ、AR(拡張現実)を呼び出す。リングから空間上に映像が映し出される。映像には、「聖慎学園 職員 原慶子」の文字と、中年女性の顔写真が並ぶ。由希姉は応答ボタンを押し、はい、と応える。
『もしもし、由希ちゃん?』
「はい」
『どこにいるの?』
「近くの公園です」
『柚菜ちゃんと大牙くんも一緒?』
「そうです」
『そ。もう遅い時間だから帰ってらっしゃい』
「わかりました」
『今日は柚菜ちゃんの好きな広島焼きよ。気をつけてね〜』
「はーい」
 そう言って、電話は切れた。電話の内容が聞こえていた柚菜姉は喜んでいる。
「さ、帰りましょ。大牙くん更生計画はまた後で」
 由希姉はそう言い、立ち上がった。
「わーい、広島焼き〜」
 柚菜姉は先ほどの表情から、笑顔に戻っている。行こ、大牙。そう言い、俺の手を引いて立ち上がる。前を歩く由希姉の後を、柚菜姉と俺がついて行く。
「あ、でも大牙、小麦粉ダメなんだよね」
 柚菜姉が思い出したように言う。
「うん。ひどい施設だ」
 児童が食えないものをわざわざ出すなんて。
 あはは、かわいそー、と姉二人が笑っている。本当に、ひどい施設だ。
「どうしよ。あ、冷蔵庫に鮭あったかな。焼いてあげる」
 由希姉が振り返り、そう言ってくれる。だが。
「鮭も嫌い」
「じゃあもう卵かけご飯でも食べてなさい」
 偏食の俺に、鋭い目でピシャリと言う。それを見て柚菜姉がアハハ、とまた笑う。
「てか広島焼きってなんだっけ」
 由希姉が柚菜姉に問う。
「えーと、小麦粉と卵と、キャベツとかお肉入れて、焼くやつ」
「あー、お好み焼きみたいな」
「そうそう。本当はちょっと違うんだけど」
 柚菜姉が由希姉に解説している。後ほどの夕食を楽しみにしている二人にイラッとする。
「なーに通ぶってんだよ、神奈川県民のくせに」
「なんですって」
 悪態つく俺に、柚菜姉がぴょんと飛んで、体当たりしてくる。そんな戯れを見て、由希姉は優しく笑っている。
 ずっとこの時間が続いたらいい。そう思わせてくれる、俺の素晴らしい家族。だが、高度専門学校に行かない場合は、16歳になる年の3月に、施設を出ていかなければいけない。俺がそんな学校に行くはずもないから、あと5年半。この5年半の間にまともなラナン数値を担保できなければ、この姉達とは卒業後も過ごせない。そんな焦燥に駆られる。だから何とかしなくてはならない。まずは、明日の測定をクリアすることだ。
 だが、ふと思う。俺の目の前を楽しそうに笑いながら歩くこの女性は。4年前、俺と一緒に人間としての一線を超えた現場にいたはずなのに。

 なぜ、お前は健常な数値なんだ。 


 あの日と同じだ。天の怒りというのか、涙というのか分からないが。天から激しく降る雨が天井や、屋外の木々を打ち付ける音がする。
 低気圧不調。気圧変化によって体内の水分バランスが乱れることで起こる。血管拡張による神経圧迫で、頭痛が起こる。おまけに気圧の低下が内耳で知覚され、自律神経が乱れる。結果、気怠さも伴っている。だが、正直それらの影響は微々たるものだと思う。一番は、この雨があの日の映像を思い起こさせるから、だ。雷が鳴っていないのがせめてもの救いである。
 児童養護施設聖慎(せいしん)学園。鎌倉市にあるこの施設は、全国の身寄りがない子供達を引き受け不在の親に代わり子供を育てる。夕方に二人の姉と過ごしていた公園から、稲村ヶ崎方面に向かって海風を感じながら歩くこと10分。元々ホテルとして使われていた広大な土地と建物が、今は聖慎学園として運営されている。児童は帰宅すると、入り口に聳える大きな、南国を思わせる椰子の木のような木々に出迎えられる。そしてフロントを通過して、それぞれの部屋に戻っていく。例外もあるが、大体が1部屋3人。精神不健康児童1名に対して、2名の精神健康児童が配置される。2056年に出所してそのままこの施設に連行された俺は、かつての姉である由希姉との再会に驚いた。そして由希姉と仲良しの柚菜姉が一緒の部屋になり、今の関係性が構築されている。
 2058年9月。この時期の児童達は、エアコンの冷房をつける・つけないの問題で揉めている。幸いにも俺たち3人は皆が寒がりなので、誰も冷房をつけたがる者はいない。今、エアコンがついてない快適な部屋で、俺はタオルケット一枚をかけてキングサイズのベッドの真ん中に横たわっている。だが、今日のように雨が激しく降っている夜は、なかなか眠りにつくことができない。壁にかかる時計を見ると、針は23時04分を指している。気分が悪い俺とは対照的に、好物の夕食を食べた柚菜姉は、俺の右隣・部屋の入り口側で静かに寝息をたてている。俺の左隣は由希姉の寝る場所だが、彼女はいつも深夜までリビングで本を読んでいるため、今は不在だ。
 雨の日は寝付きが悪い。そのせいで気づいたこと。今、天井に向かって広がる暗闇。暗闇とひとことで言っても、それには様々な色彩がある。ある場所は薄い灰色、あるところは僅かに黄色味を帯びた闇。そしてある箇所は一切の光も寄せ付けない、絶望的なまでの漆黒。色彩の違いはどこから来るのだろうか。それは、部屋奥の大きな窓からカーテンの隙間を縫って侵入してくる光や月光の粒子。そんな侵入者たちが行き場を失って彷徨っている様相が、色彩の違いを生み出す。天井をぼんやりと見つめる。漆黒は大嫌いだ。光・月光の粒子たちをなるべく目で追う。だが、意識とは残酷なもので、避けようと思えば思うほど矛先はそれに向いてしまう。油断すると、一切の光を受け付けない底なし沼のような闇を見つめている己に気づく。その闇から、あの中年男の窪んだ目が、ギョロリと睨みつけてくるのではないか。その目からあの汚らしい体が産まれ出てきて、俺の上にのしかかってくるのではないか。そんな恐怖に、妄想に取り憑かれてしまう。
 もう、ダメだ。額に汗をかいている。なるべく飲まないようにしていたが、今日は睡眠薬を飲まなければ正気を保てそうにない。うんざりしながら、気怠い体を無理やり起こし。大きな鏡のついたドレッサーの戸棚を開け、主治医から処方されている睡眠薬を飲む。そしてのそのそとベッドの定位置に戻り、目を瞑る。
 もう天井は見ない。そう決心して、体を右側に傾ける。目の前に柚菜姉の体温を感じながら、そこから意識を逸らさないようにする。
 30分ぐらい、右側を向いたままじっと堪えた。次第に柚菜姉の体温が体内に乗り移ってくるように、心なしか気持ちが穏やかになってきた。建物と窓を激しく打ち付ける雨音は次第に、施設の古臭いスピーカーの音量調節ネジを回すように、ゆっくりと消えていった。
 
 栃木県足利市。そこは約50年前に13歳の少年が両親と、恋人の父親の計3人を惨殺した事件が発生した場所。まだ足利市の人口が10万人以上いた頃。俺が産まれた頃の人口の、10倍以上の人数がいた時代。世帯の経済水準は当時から低く、機能不全家庭で覆われた町。機能不全家庭とは、ストレスが日常的に存在する家族状態を指す。主に親から子供への虐待、ネグレクト(育児放棄)、子供に対する過剰な期待、不倫などに起因する両親の不仲など。それら様々な要因が絡み合い、子育てや生活など家庭機能がうまく働いてない状態。
 そんな機能不全家庭の典型と言える環境で、俺は産まれ落ちた。産まれ落とされてしまった、と言わざるを得ない親達だった。そんな忌々しい土地に今、俺はいる。ただ、自宅にいるのかと思いきや、急に視界が切り替わりあの瓦屋根の建物の、薄汚い畳の部屋で仰向けになっている。
 天井から、父親の顔だけが浮かんでいる。アルコールでぶくぶくに膨れた顔。血色の悪い顔色は、なぜか暗闇にいるはずなのに鮮明に映し出されている。その顔から腕が生えて、ただ無感情に殴られている。
「帰ってくるな」
 そう、膨れ上がった男はいう。
「お前が食う飯はない」
 そう、膨れ上がった男はいう。
 その男の横から、懐かしい母親の顔が浮かび上がる。傷み切った髪が顔にかかり、痣が所々に見える痛々しい顔。その女は、俺が殴られているのを見ても、何も言わない。ただ無表情に俺を見つめている。
 懐かしい。
 幼少期の記憶など、投薬治療のせいで消えかかっていたが。なぜか今、目の前でとても奇妙な形で映像が流れている。
 苦しい。
 呼吸が苦しくなってくる。そして父親が横を向き、母親を殴りだす。
「こんなもん産みやがって」
 殴られている母親はごめんなさい、ごめんなさい、と。無限再生動画のように、ただ機械的にその言葉を発している。
 殺してやる
 殺意という黒黒とした観念が、意識内に醸成されていく。その時、例の窪んだ目が天井からギョロリと浮かび上がり、その眼球が父親と母親を丸呑みにした。呑み込まれた後、大きな風穴の開いた腹が眼球から出てくる。次いで、これまた脂肪で膨れ上がった汚らしい顔が浮き出てくる。やがて全身全裸の中年男が、天井からゆっくりと迫ってくる。
「よくも、俺から楽しみを奪ったな」
 中年男はそう言い、顔を真っ赤にしている。血管が額から浮き出そうなほどの怒り、とはこの表情を指すのではないか。そう思うほどの顔と共に、天井から迫ってくる。
 臭い。気持ち悪い。吐瀉物のような男の体臭が迫ってくる。そして数段の横線の入った、たるみ切った腹。それに隠れていた突起が現れ。腐ったイカの匂いが混ざり鼻腔を刺す。中年男の顔は鼻息があたるほど目と鼻の先に迫り。突起物はさらに肥大し脈を打ち、たるんだ腹が俺の腹にのしかかった後、突起物が俺の尻に触れてきた。
 
「大牙……大牙!」
 中年男の顔が柚菜姉の顔に変わっている。吐瀉物の臭いは、桃を連想させる甘い香りに切り替わっている。上体はベッドから起こされ、柚菜姉に抱えられている。室内がまるで暖房をつけているかのように、暑い。服が皮膚に張り付いていて気持ち悪い。大量の汗をかいている。そして喉が微かに痛い。どうやら叫んでしまい、柚菜姉を起こしてしまったようだ。
 柚菜姉のただでさえ大きな目が、さらに見開いている。何度か魘(うな)される様子は目撃されていたが、今日のような失態は初めてだ。明日はラナン数値の測定日なのに。柚菜姉の健全な精神を汚してしまっただろうか。夕方に公園で申し訳ないと思ったそばから、また迷惑をかけてしまった。
「ごめん……」
 掠れた声しか出なかった。柚菜姉は首を小さく横に振る。柚菜姉は困った表情で、頭を撫でてくれている。口が開きかけたが、またすぐに閉じられた。何と言葉をかけていいのか分からないのだろう。そんなに気を遣わなくていいのに。柚菜姉の言葉なら、捻くれず、何でも素直に受け取れる気がする。勝手な解釈をして勝手に傷つき、傷つけ返すことなどあり得ない、と思う。
 だが、俺の表情から何かを汲み取ってくれたのか。
「苦しかったね……」
 柚菜姉は小さく、言葉を絞り出し。強く抱きしめてくれた。下腹部から、熱いものが込み上げてくる。それは抑えることは到底できず、目頭が熱くなる。
 柚菜姉は、この施設の職員から聞かされているのだろう。俺がどういう家庭で育ち、何をしでかして刑務所に放り込まれたのか。刑務所でどんな仕打ちを受けて、この聖慎学園に流れ着いたのか。それを知った上で、年もあまり変わらない彼女が、配慮して俺と関わってくれているのが嬉しかった。
 逆に、俺も彼女の話を職員から聞かされている。柚菜姉は埼玉県の浦和で育った。埼玉は栃木ほど治安は悪くなかったが、同様に過疎化が進んでいた。彼女は俺や由希姉と違って、ラナン数値の良好な両親に育てられた。
だが。2055年からラナンの統治は「対 個人」に留まらず。「対 家族」にまで、目を光らせることとなった。
 今まで人類は国家を構築し国民を管理する際に、個人の問題を「個人の資質」に求めるに留まっていた。2024年以降急増した精神病・精神障害患者。アルコール・薬物・ギャンブル依存症者、うつ病患者、解離性障害者、強迫性障害者、適応障害者等。またそれらの悪化による、自殺率。それらは全て個人による問題、で片付けられていた。しかし米国はこの植民地日本の惨状を見逃さず。あらゆる精神疾患、および自殺者や犯罪者は「機能不全家庭」から生まれていると断定し、全国の家庭への介入を決定する。人口が激減した現代では、子供は極めて希少性の高いリソースである。その国家繁栄のための資源を腐らせるわけにはいかない。
 ラナンは2048年、俺が生まれた年に、実に9割以上の家庭が機能不全家庭であることを特定した。そして2050年に「子育て認可制度」を発表。2055年から施行された。
 子育て認可制度。それはラナンの計測のもと、「子供を育てる人格」を保有している大人・家庭であるかを判定する制度。ラナン測定において一定水準を超える「人格者の両親2名」による家庭で、子育てが実施されることを当面の目標とする。しかし2055年時点でその割合は日本全国で僅か2%。当然その2%だけでは子供を育てることは不可能であるため、政府は暫定措置を取る。ラナン数値50以上の精神健常者の親が1名以上・かつ政府の定める「子育て認可研修」を受けた者であれば、子供を育てる認可を与えられる。その家庭では、毎週子育てコンサルタントなる者との面談がオンラインで実施され、子供との接し方・親のメンタル状況などをモニタリングされる。
 柚菜姉はラナン数値良好な両親に育てられた。しかし2055年、柚菜姉が9歳の時に、母親が宗教家による千代田区無差別殺傷事件に巻き込まれ死亡。父親はラナン数値が急激に悪化し、数値が50を下回る。父親は子育て認可が剥奪され離別。孤児となった柚菜姉は、ここ聖慎学園に送られた。
 一度手に入れた愛を失う。それはどれほどの絶望だろうか。無慈悲に、不条理に、それは奪われた。今、柚菜姉は俺に哀れみの目を向けてくれているが。最初から何もないままの俺よりも遥かに、辛く苦しい思いを抱えているのではないか。それでも腐らず、自分から家族を奪った国家に反旗を翻すこともなく。この地に生きる一人の民として、その生を全うする彼女の強い姿に敬意を抱く。柚菜姉の大きな、慈しみに溢れた眼。きっと両親は強く、真っ直ぐに子供を愛する人たちだったのだろう。
 唐突に、柚菜姉の腕の力が緩んだ。あ、と思い出したように言った後。
「風邪ひいちゃうね。着替え、持ってくるね」
 柚菜姉が俺の頭を、枕元に置こうとする。氷を溶かすような温かさと安堵感が一気に奪われる恐怖を覚えた。情けない。でも、怖い。柚菜姉との間にできた空白を埋めるように、彼女を強く掴み、引き寄せた。彼女は、驚いた表情をしているだろうか。だがそれを確認する余裕はなかった。力が緩められた細い腕は、再び力を込めて俺を包んでくれた。


 広い個室、高い天井。キングサイズのベッドに、紺色のふかふかの絨毯。洒落た間接照明に、広い窓。バルコニーに出れば、眼前にどこまでも広がる母なる海を感じることができる。一言で言えば、ただの高級ホテル。それが児童養護施設聖慎学園。昔、不動産や株式をはじめとした資産価格が、無数の市場プレイヤーの投機によって経済成長以上のペースで高騰を続けた事象が発生したらしい。通称、バブル経済。現代は子供という資産の時価がべらぼうに高騰を続けている、まさに子供版バブル。日本再興を渇望する老人たちによる投機活動は留まる様子がない。だが、バブル経済は崩壊した。バブルとはその名の通り、泡・あぶく。膨張に膨張を重ねた結果、最終的には破裂して無くなる。それがバブルだ。この投機ゲームはいつまで保つのだろうか。
 なんとか精神が安定した俺は部屋を出て、廊下を歩いている。時間は24時27分。もちろん児童も職員も、誰一人歩いていない。廊下は壁の片面がガラス張りになっている。海側の部屋とは逆側の景色。真っ黒な要塞を思わせる山々が見える。窓ガラスには大量の雨粒が張り付いているが、とめどなく打ち付ける新たな雨粒たちに蹴落とされていく。廊下も空調が効いており、この上なく快適である。
 10階建ての施設。俺たちの部屋は8階にある。8階からエレベーターに乗り、1階まで降りる。チン、という音とともにエレベーターの扉が開き、廊下を歩く。廊下の前方には広いエントランスが目に入るが、その手前に左右に曲がれる箇所がある。そこを右に曲がると、リビングがある。大人数が食事できるリビングが5部屋存在するが、8〜9階の子供たちが使うリビングに入っていく。そのリビングも、もはやただの豪邸のリビングである。200平米ほどあるその空間の真ん中に、20人ほど座れるであろう、木目調の大きなテーブルが二つ。そのテーブルを大量の木目調の椅子が囲う。そのテーブルから離れた場所に、ベージュ色のソファが並ぶ。そのソファの側には暖炉があり、パチパチと火の粉が散る音を立てている。だがそれはホログラムだ。レーザーによって記録された立体画像を浮かび上がらせているに過ぎない。本物の暖炉など、火の玉小僧であるエネルギッシュな子供達の側に置いておくわけにはいかない。
 やはり。ベージュのソファ群の中に、由希姉がただ一人座っている。施設から支給されている、白のシルクパジャマに身を包み。「女の子はボタンを上まで留めなさい」と職員から言われているが、由希姉はボタンを一つ外しており、露出面が多い。長い足を組み、長い黒髪を纏うその小さな顔は少しばかり俯いている。視線は、手に持っている紙の本に固定されている。
美しい。
 姉に対して、そう思うことが増えてきた。複雑だ。そんな感覚を覚える自分に、嫌悪感とも違うが、言い表せない何かを感じる。
 由希姉の場所には向かわず、反対側のキッチンに向かう。冷蔵庫を開けて、お気に入りの軟水を飲む。当然、存在に気づかれる。
「眠れないの」
 女性は本から視線を外し顔を上げて、こちらを見ている。最近気づいたことがある。この女性は、柚菜姉や他の子供達と話している時と俺と話す時、声質が明らかに違う。柚菜姉たちといる時は、高く透き通った声で。笑う時は、カラカラと鈴の鳴るような声で笑うのだが。俺といる時はどうだ。相変わらず細く、人を眠りに誘うような声であることに変わりはないのだが。通常より少し低い、弛緩しきった声になる。今もそうだ。
「うん」
 応じると、そう、と女性は応えた。そのまま本に視線を戻すのかと思ったが、目はこちらを見たままである。
「魘されてたのね……」
 女性は真っ直ぐにこちらを見ている。動揺を覚える。この動揺は、言い当てられたことによる動揺だと思いたい。なぜ、バレたのだろうか。俺の表情が面白いのか、女性は小さく笑った。
「顔見ればわかるわよ」
 そう言って、また視線を本に戻した。悔しい、と思った。俺はこの有様なのに、なぜこの人は、こんなにも涼しい顔をして過ごしているのか。その感情を持つのが惨めだとはわかっている。だから思わないようにしよう、とずっと蓋をして生きてきた。だが、蓋を閉めようとすればするほど、中身はガタガタと暴れ出し、一向に閉まる気配がない。
 もう寝よう。軟水のペットボトルを持ち、女性には何も言わずに部屋に戻ろう。そう思ったのだが、出口に向かうつもりが、吸い寄せられるように足がソファに向かう。なんだか、このままだと眠れない。その思いが足をソファに向かわせたのだろうか。
 女性から少し離れた場所に座った。だが、女性は目線を紙の本に向けたままだ。目線は右から少しずつ左に向かい、細い指でページが捲られる。そしてまた目線は右に移った後、少しずつ左に向かう。
 なぜ今時、紙の本を読んでいるのか。ダウンロードして指輪型端末(リング)で読むか、タブレットで読めばいいじゃないか。以前そう聞いたことがある。この2058年で、紙の本など見かけることがない。書籍は当然そうだし、今や授業に使う教科書も全てデータ化されている。日常での情報共有、コミュニケーションのあらゆる側面において、紙という媒体は社会から劣等生のレッテルを貼られた。劣等生は人間様の世界から姿を消しつつある。そんな社会でこの変わり者(スプーキー)はよく紙媒体を手に持っている。
 電子書籍は大嫌い。女性はそう言っていた。
 なんで。俺は聞いた。
 今の時代、人の体温に触れられるのは紙の本だけ。優しく、わたし達から思考する苦しみを奪う大人達で溢れるこの世界では、絶対に味わえない感覚。紙に指が触れ、その匂いを感じながらパラパラと紙を捲る感覚。単なる文字情報じゃない、著者の想いと体温が、指先から電気信号として心臓と脳に伝わっていく感覚。完全に殺菌されたこの世界で、電子書籍では絶対に味わえない感覚。
 そう、女性は言っていた。この人は、その貴重な感覚とやらを味わうために、国立日本図書館からテキストをダウンロードして、わざわざお金を払って製本業者に書籍化してもらっている。といっても、その図書館にはラナン認定作家や認定学者が記した、精神に優しい本しかなくてつまらない。そう言っていた。だから最近は、海外のサーバを経由した違法サイトにしかないテキストばかりを書籍化しているようだ。
 内緒だよ。
 人差し指を口にあて小さく笑い、そう言っていた。
 そんな回想から現実に戻された。左斜め前にはその感覚を存分に貪っている女性がいる。本の表紙には、「監獄の誕生 監視と処罰」と書いてある。
「また物騒な本読んでるな」
 女性の栄養補給の邪魔をする。だが女性は嫌な顔をせず、微笑んだ。
「社会の監禁網は身体の現実的支配と果てしない観察とを同時に確実におこなうのであって、自らの固有性の点で、権力の新しい経済政策に最も合致した処罰装置であり、しかもこの経済策そのものが必要とする知の形成のための道具である。こうした監禁網は自らの一望監視的な作用のおかげでこの二重の役割をはたすことができるのである」
 冷たく、そしてフルートが奏でる音色のような柔らかさをたたえた声。演者が聴衆に語りかけるようなものとは一線を画す。ただ、自分のためだけに、女性は呟く。
「この国そのものだな」
「そうね」
 女性は変わらず、本を見つめている。
 まさにこの社会を表す一節。ラナンは、米国の巨大IT企業が開発したAIに、米国精神・心理解析研究所で構築された精神分析理論データを掛け合わせたシステム。と、対外的には公表されている。その精度の高さにより、現代は理想的な官僚制行政に近い国家運営を実現した。第三次世界大戦が始まる以前の日本では、承認欲求・嫉妬という醜さに身を支配された人間たちが政界を蠢き、この国の政治機能を自ら崩壊させた。だがこのラナンの統治により、「憤怒も不公平も・憎しみも激情も・さらに愛も熱狂もなく、ひたすら義務に従う」理想的な人格を持つ官僚政治が実現された。明日の命が保障される。人間の醜い欲望に左右されない、科学の叡智による公平な国家運営。そんな偉業を達成したラナンは国民から神のように崇められている。だが、そんな神の実態を知ることは、民衆には許されていない。
 理想的官僚政治であると同時に、フランス絶対王政の側面をも併せ持つ。
ラナンという神は国民の精神を監視し、規定値を逸脱し社会に仇なす危険を秘めた者を隔離する。日本全土を覆うこの巨大監獄は、処罰装置であると同時に最強の平和保障政策である。その圧倒的な強みは、経済に留まらず健康・医療、福祉・介護等のあらゆる政策を包み込み凌駕する。監獄は監獄自身に必要な情報を、その生命活動の中で自発的に取り込み、それを監獄自身にフィードバックする。自己完結型循環により、監獄は肥大化を続ける。
「大牙はラナンが嫌い?」
「は?」
 何を分かりきったことを。イラっとしてしまい、それがそのまま口から出た。
「壊したい?」
「……」
 何を言い始めたのだ、この人は。ふざけているのか。だが女性はいつの間にか本から視線を外し、こちらを見ている。真剣に。
「……そうだな、壊せるなら」
 本音かどうかは分からない。だがなんとなく、そう応えるべき、と思われた。
「そう……」
 女性は再び俯く。だが視線は紙の本ではなく、ホログラムの暖炉に向いている。数秒の静寂の後、小さな口から言葉が紡がれる。
「本当に壊したくなったら言ってね。一緒に壊してあげる」
 女性は再びこちらを見て、細い声で力強く言った。12歳の少女の戯言。そう退けるにはあまりにも説得力があり過ぎた。由希姉の生い立ちに比例しない知性。無数の人の死と向き合ってきた軍将校が放つような異様な波動。それに飲み込まれ唾を飲み、まだ凹凸のない喉が鳴る。そんな俺の様子に構わず、女性は先を続ける。
「でも、それを壊しても大牙が望む世界にはならない」
 難しい、困ったな、という考えが女性の顔に浮かんでいる。
「……どうして」
「敵はラナンだけじゃない。みんなの、ひとりひとりの中にあるものだから。昔みたいに王様をやっつければ社会が変わる、ってわけじゃないの」
どういうことだろう。全く話についていけない。俺のレベルに合わせて、女性は話す。
「今の精神至上主義社会は、ラナンが上から抑えているだけじゃない。人々を律するものは、人々の中にある。みんながお互いの精神を気にかけあって、優しさと慈しみを押し付け合っているでしょう」
 たしかに。この国の住人は、自分の精神の健やかさを保つことに取り憑かれている。そのために、犯罪行為は以ての外。言葉遣いには細心の注意を払う。言葉は人を傷つける以前に、自分の心を傷つけてしまうからだ。そして孤独も精神の大敵。誰かと常に関わり、見せかけでも人との繋がりを自身の心に実感させなければ、たちまちラナン数値は下がってしまう。そう信じられている。だから俺がこの聖慎学園に来た当初、人とうまく関われない俺を誰も彼もが積極的に気にかけてくれた。一緒にお弁当食べよう、一緒に遊ぼう、一緒にリングでメッセしよう。
 だが、それだけならまだ可愛いものだ。誰も求めてないのに、
 あら、顔色が良くないわね。このサプリメント飲みなさい。
 言葉遣いが荒いわねぇ。今度このセッションを受けなさい。
 お前は認知に歪みがある。明日から毎日、この認知療法のワークブックに取り組みなさい。
 関わりたくもない人間たちが笑顔で、自分が正義と疑わずに土足で入り込んでくる。それがこの精神社会に生きる模範国民というものだ。一人一人が思想の奴隷となり、日夜踊らされ続ける。相手のために、という名札をぶら下げている人間は皆、その脳内には自分のラナン数値しかない。
「でも、それは今に始まったことじゃない。第三次世界大戦以前の社会で、SNSっていうのが流行ってたんだけど知ってる?」
「聞いたことある」
 SNS:Social Networking Service. 中央集権から個の時代へ。そのガソリンとしての役割を担ったネット上のコミュニティサービス。
「元々は、人々が承認欲求を満たすための自己表現ツールだった。でもね。ある時から、人が非倫理的な発言をするとそれに人々が群がって糾弾する行為が急増したの」
「炎上、ってやつか」
「そう。当時から常識とか思いやりとかっていう大義名分のもと、ひとりひとりが権力の代理人となって相互監視し合って、私的制裁を下していた。晒し者にして、袋叩きにして。その餌食となった人々は精神を病んで。結果、自殺者の山が出来上がった」
 人は仮面をかぶるとその本性が現れる。安易な手段で手に入れた仮面という名の武器は、チープな万能感をもって人間を腐らせる。
「だからSNSっていうのは無くなったんだけど。ネット上での、思いやりという名の相互監視は無くなったけど。今はまた、リアルの場で相互監視・押し付け合いは続いているでしょ」
「ネットが流行する前の時代、なんだっけ。昭和、っていう時代だっけ。それみたいだよな」
「そうね。いわゆる村社会。国家から降ろされてきた常識、規範。女は早く結婚して、子供は3人以上作れ。男は朝から晩まで働いて家計を支えろ。子供は親の言うことに従え。子供を産まないから同性愛などあり得ない。これを隣近所、地域社会単位で延々と押し付け合ってた」
「今はその中身が、精神の健やかさにすり替わっているだけ、か」
 考えるだけでうんざりする。われわれ人間は延々と、同じところをぐるぐる回っているだけなのだ。
「みんながそれぞれ規律を内に秘めて監視し合う。そう言っている私たちも無意識に、誰かに規律を押し付けている。これはもうずっと前から。民主主義が姿を現してからずっとそう。それが段々と強化されてきた。その成れの果てが、今の精神至上主義社会。この平和と精神の健やかさに取り憑かれた社会はもう、たとえラナンを壊しても、また誰かがシステムをすぐに拵(こしら)える。それも、もっと強力なものを。人間が自我をもって、本能的に種の保存を目指す限りは避けられない。息苦しさから逃れるために、倒す敵が自分だった場合、わたしたちはどうすればいいの」
「……」
 言葉が出てこない。何も、見つからない。この女性の深淵を覗き見て、その深淵から睨み返され、今は全身を呑み込まれている。じっと見つめてくる大きく鋭い目は、まるで白目が闇に呑まれたように黒々としている。 
 なぜこの人は、こんなにも涼しい顔をして過ごしているのか。
 涼しげな表情の奥底を垣間見せられ、こう思った自分が恥ずかしい。
 思えば、足利に住んでいた頃。隣の由希姉の家からは、よく母親のヒステリックな声が響いてきていた。父親はいない。母親が由希姉を孕った時に出て行ったからだ。あの狂気が、幼い女の子一人にぶつけられていた。それはもはや、四六時中拷問に晒されていることと同義だ。
 由希姉の境遇にいつの間にか思いを馳せていると、それが悟られたのだろうか。由希姉は、ふふ、と笑い。ぱん、と本を閉じた。
「喉渇いた〜」
 声質は意図的な軽やかさを帯び。組まれた長い足を解いて立ち上がり。俺の前を通過しキッチンに向かう。と思いきや、由希姉は俺の右手からペットボトルを奪い、再び定位置に戻り軟水をごくごく飲んでいる。
 奔放。慎重。大胆。繊細。そして誰にも見せない腹のうち。周りの人間たちとの調和を演出しつつ、美しい孤独を保つ。絶対に涙を見せない強さ、という仮面を片時も手放さない。物心ついた時からこの人と過ごしてきたが、未だに全貌が掴めない。
 なぜ、お前は健常な数値なんだ。
 そう思った夕方の自分を思い出し、後ろめたい気持ちになる。だが相変わらず今も、その疑問と惨めさが消えない。
「なぜ、お前は健常な数値なんだ」
 低い声が響く。しん、と空気が止まる。止む気配のない雨音が、大きな窓から漏れてくる。冷たく、感情の一切を断ち切った顔がそこにあった。それを見て、肩の筋肉が強張っていることに気づく。
 彼女の目に囚われていると、冷たい顔に体温が戻った。口元は緩み、ふふ、と笑っている。
「わかりやすい子ねぇ」
 そう言って、女性は視線を外した。彼女の目から解放され、強張った肩の筋肉が落ち着きを取り戻していく。
 ごめん。ここでそう言えば、彼女の繊細な肌をつねることになるだろう。だが、黙ってやり過ごしている今も俺は、彼女の肌をつねり続けている。
「わたしが、ひとり気ままに、能天気に生きているとでも思った?」
「そんなわけないだろ」
 本当だろうか。一瞬でも、そう思った日はなかったか。血の海から解放された後。屈強な男たちに拘束され連行され。要塞の中で、刑務官に目隠しをされたまま尻穴に棒を入れられた時。四肢を拘束され続け、薬漬けで廃人にされた時。涎まみれで、言葉を発することさえ許されなかった日々。雨が降った日の夜、魘され続けた日々。娑婆に戻った後、周囲から殺人鬼のように見られているのでは。その妄想が消えない日々。その中で、かつての同志が周囲と調和し、無邪気な笑顔で笑っている日々。一瞬でも、そう思った時はなかったか。
 身体は正直だ。目は口ほどに物をいう。自分では抑えているつもりでも、むしろ抑えようとすればするほど、そう言い切れない自分を目が物語っているのだろう。
「わたしも、雨の日は眠れないの」
 女性は暖炉を見ながらポツ、と言う。
「ううん、雨の日だけじゃない。あなたがいなくなってから。夜、目を閉じるのが怖い……」
 火の粉を見つめるその顔。真っ白な頬が強張っている。
「むりやり眠ると、悪魔が襲ってくる。一匹だけじゃない。何匹も、何匹も」
 由希姉の顔を見つめる。彼女は応じない。
「だから大牙がここに来てくれた時、本当に嬉しかった。眠れない日はあなたの手を握れば、悪魔は襲ってこない」
「……」
「覚えてないかな。夜、母親が叫んでわたしを殴ってた時。大牙が顔を真っ赤にして家に入ってきて、母親に殴りかかって。居候の、あの女が養ってた男に殴られても、失神するまで向かっていって」
 由希姉が俺を見る。だが、6歳の頃の記憶は酷く断片的で、全く覚えていない。物心がつき始める3歳の頃のように、朧げな映像しか残っていない。そんな俺の表情を見て、そっか、と由希姉が呟く。やっぱり昔の話しないほうがいいね……と言い、また暖炉を見つめる。
 俺はなんてバカなんだ。自分だけが苦しんでいると思い込んで。自己憐憫に酔いしれて。残されたこの女の子が、どれほどの想いで今まで生きてきたのか。器の小ささに腹がたつ。
「ごめん……」
 気づいたら、謝っていた。由希姉は暖炉を見ながら、首を小さく横に振る。
「俺が捕まったから、あの後、ずっとひとりだったんだよな。ひとりで、あの地獄に置き去りにして……」
 そう言うと、由希姉はこちらを見た。少し目を見開き、「え?」という顔をしている。
「ひとりにしてごめん。あいつを殺した後、項垂れて、気を失っている場合じゃなかった。由希姉を抱えて、捕まらずに逃げるべきだった」
 由希姉の目がさらに見開いている。眼球が潤んでいるように見えるのは幻覚だろうか。
 何かに突き動かされた。立ち上がり、左斜め前の女性に足が向かう。近づくにつれて、女性の体に緊張が走るのを感じる。だがそれは考慮に値しない、そう思われた。左膝をソファに立て、女性の強く、儚い体を抱きしめた。思ったよりも細く柔らかい感覚に驚く。薬漬けにされた頃の感覚が甦り、頭がくらくらする。腕に勝手に力が入り、思いの外強く抱きしめてしまった。
 由希姉の腕は、まるで神経が切れているように垂れたままだった。しまった、と思った。そして今、脳裏を掠めた映像に鳥肌がたっている。吐き気を催す悪寒を覚え、勢いよく由希姉から離れる。動悸がする。由希姉の顔も見ずに背を向け、リビングの入り口に向かった。
 入り口に差し掛かると、歩みを妨害される。後ろから服の裾を引っ張られていた。さすがに感じ悪かったかな。その思いがよぎり振り返ると、その頼りない体に抱きしめられた。
 たった数秒。だが永遠のように感じられた。
 今度は俺の腕が、神経が切れたように垂れている。由希姉は、何も喋らない。
「由希姉……?」
 そう言うと、由希姉の腕の力が緩んだ。
「……もう、由希姉って呼ばないで」
 胸元に埋もれていた女性の顔が離れた瞬間、唇があたった。それは離れることがなく、頭蓋を金属で殴られたような衝撃が走る。香りが鼻腔を抉り、先ほど脳裏を掠めた映像が再生された。
 犯したい
 父親が母親にしていたように。全裸にして突き上げ。顔を殴り、首を締め上げて。陵辱し、人間としての尊厳を奪い取ってやりたい。
 吐き気を催しながら、女性の両の二の腕を掴んでいた。手が震えている。女性の顔が痛みで歪んでいる。だが痛みよりも。男の顔を見て、雪のような顔からさらに血の気が引いている。
 捨てられる。そう思った。閾値を超えた恐怖は震えを抑え、全身を凪のような穏やかさと絶望が包む。
「そっか。そうだよね……」
 自惚れだろうか。女性は寂しそうな顔をしていた。おやすみ、と言ってリビングから消えていった。
 
 翌日、一睡もできずに臨んだ計測日。数値は18を叩き出し、家族との時間は奪われた。


 16年後

「ワレぁよくも公安を詐欺(ペテン)師呼ばわりしてくれたのう。生きて帰さんぞガキぁ!」
 老神将矢(ろうがみしょうや)が吠える。175cmでガタイも良いこの56歳の刑事は、初老とは思えない迫力がある。黒々とした顔に、鷹のような鋭い目。黒地に金の柄シャツを胸元まで開け、首の金ネックレスが光っている。昔、由希子と一緒に海外の違法サイトで見た、ヤクザ映画に出てくるマル暴刑事そのものだ。
 被疑者の男が、座っていたパイプ椅子を老神に蹴られ地面に転がっている。先ほどまでの舐め腐った態度から一転。震え上がり、ひい、と情けない声を出している。
 2074年7月。ラナン数値が18となり未来犯認定され、刑務所に連行された日から16年が経過した。俺は今、東京都千代田区の厚生労働省庁舎にいる。地上60階、高さ275mの庁舎。精神至上主義が玉座に就いたこの国では、精神の健やかさを生業とする厚労省があらゆる行政機関の中でも一際権力の集中する組織となっている。ラナンという大監獄は人間を精神という一軸で値踏みし、その値段が低いものを「将来的に犯罪を犯す危険度が高いもの」と判定する。その者は精神的に不調をきたしている。つまり、精神病患者なのだ。だから治療しなければならない。そして、その患者を保護するのも我々の仕事だろうという暴論から、全国の警察・公安機能を統合し、厚労省の内部部局とした。
 厚生労働省公安局公安部刑事課四係の老神は、厚労省庁舎の地下一階取調室で奮闘している。目の前の被疑者はこの取調室に連れて来られるなり「証拠も無しに連行して、公安は詐欺(ペテン)師なんか」と老神を挑発した。だがその後、現場に急行した同じく刑事課四係の高山慶介(たかやまけいすけ)から、「被疑者の事務所の地下に、子どもたちを保管している部屋がありました」と指輪型端末(リング)にて報告を受けた。言い逃れできない状況に固まる被疑者。その報告を受けた老神が、詐欺師呼ばわりされたことにキレたのだ。懸命に業務に励むヤクザ刑事は、口元を緩ませながら生き生きと被疑者を蹴り、殴り飛ばしている。もちろん、違法である。
「親父、その辺で」
 このヤクザ刑事は、俺の父親でもある。いつも暴走する親父を息子が止める。普通は逆じゃないだろうか。俺に肩を叩かれた親父は振り返り、俺を見上げながら言う。
「なんじゃい大牙、こっからがええとこじゃなぁの」
「これ以上やったら喋れなくなるだろ」
 諭された親父はふん、と鼻で言い、取調室のドア側のパイプ椅子に戻る。広い取調室。夏の暑さを感じさせない、完璧な空調。天井の真っ黒のシーリングファンがくるくると回っているが、それがこの完璧な空調の役に立っているのかは疑問だ。暗い部屋。天井の暖色照明のせいで、妙に雰囲気がある部屋になっている。俺の眼下に、被疑者の玖珠森憂(くすもりゆう)が顔を腫らし鼻から血を流して倒れている。この痩せ細った19歳の犯罪者。体を起こさせ、パイプ椅子に座らせる。ぐったりと俯き、目の前の机を見ている。
「お前が出入りしてた白豹会(はくひょうかい)の事務所。もう俺の同僚たちが潰してる。白豹会の他の事務所はどこだ」
 目の前のチンピラに問う。この玖珠森は、反社会組織「白豹会」の末端構成員。大した情報は知らされてないのかもしれないが、組織の事務所情報ぐらいは持っているのではないか。だが、組織の情報を漏らすこと。いわゆる、チンコロ。それをすれば自分が組織に消されることを恐れているのか。目の前の男は体をぶるぶると震わせて、口を固く結んでいる。
「貴様、喋らんと金玉握り潰しちゃるぞ」
 どちらが反社なのか分からない。
 親父はいつも以上にキレている。それは、子どもに関する犯罪だからだろう。玖珠森が属する白豹会が今回摘発されたのは、奴らが違法ビジネスを手掛けていたからだ。子育て認可制度の施行以来、子どもの人身売買ビジネスが盛り上がっている。
 2055年、子育て認可制度の施行。ラナンは人間の精神の監視にとどまらず、「人間の構築」にも乗り出す。今までは毎月実施される精神測定で、一定の成果を収めていた。しかし、精神は成人後ではその更生が難しいと判断され、今後の国家繁栄のために「生まれた時から、精神的に健やかな人間を作る」という方針が打ち出される。そこで、遵法精神に溢れ、かつ思考力も高く精神的熟練度の高い大人で構成された、一定水準以上の経済力のある家庭でないと子どもは育てられないとする制度「子育て認可制度」を施行。これにより、ラナンが認定した家庭でなければ、家族をつくることが許されない社会が訪れる。
 だが、2055年時点で理想の家庭条件をクリアする割合は、日本全国で僅か2%。当然その2%だけでは日本中の子供を育てることは不可能であるため、政府は暫定措置を取る。ラナン数値50以上の精神健常者の親が1名以上・かつ政府の定める「子育て認可研修」を受けた者であれば、子供を育てる認可を与えられるようになった。
 それでも門からはみ出る者たちは一定数いる。子育て認可制度が出現する以前の日本では、「想定外の妊娠を契機に家族になる」という現象が大量に起こっていたらしい。そうして肉欲につき動かされた結果創造された命は、今までは社会の構成員たちによる「常識・良識」という大義名分のもと、相互監視によって規制されていた。つまり、「責任を取れ」という脅迫のもと、新設された家族によって育てられていた。あるいは、特別養子縁組などの制度により、子どもを望む家庭にその命は引き取られていた。あるいは、その相互監視をものともしない猛者たちによって捨てられたり、虐待されて殺されていた。
 ラナンによる子育て認可制度は、それらの伝統を根本から壊した。望むと望まざるに関わらず、「認可家族かどうか」この一点で、その命の行方は決まる。認められない命は政府に没収され、その命を生み出した男女は罰せられる。
 そこで反社組織の登場である。罰せられるのを恐れる男女の中で行動力のある者たちは、反社組織に子どもたちを預ける。第三次世界大戦以降、世界的な人口減少の波にさらされた現代、子どもの希少価値は高い。反社組織は海外、特に昨今台頭する東南アジアの国々に子どもを売り飛ばす。この仕入れ値ゼロの高利益ビジネスは反社組織を潤している。
「知らない。本当に、知らないんだ……」
 玖珠森の目の瞳孔が開いている。先ほどはそうではなかったから、覚醒剤によるものではないだろう。本当に知らないのだろうか。
 リングでこの男の捜査資料を呼び出す。2055年生まれ。ラナンの子育て認可制度元年に生まれた子ども。現在19歳。精神不健康な両親のもとに生まれ、0歳から離別。児童養護施設聖慎学園に引き取られる。
 同じだ。だがこいつは、俺が刑務所にぶち込まれた2058年、まだ3歳だった。常時100人以上いるあの施設で、当時10歳の俺と3歳のこいつの間に接点などない。この男は15歳まで施設にいたがラナン数値は低いまま。卒業時のラナン数値は25。精神不健康な人間はまともな企業には雇ってもらえない。街中をふらついているときにヤクザと知り合い、末端の構成員になった。そんなところか。
 俺の左手の中指に嵌めた公安局支給のリング。リングの内蔵カメラを玖珠森に向けると、AR(拡張現実)の画面に、「ラナン数値:18」という表示が出る。20を下回ると未来犯認定となるが、もはやこいつはただの犯罪者だ。公安局支給リングのカメラを向ければ、常時繋がっているラナンのシステムから判定結果が返される。数秒、遅くても数十秒で判定結果は返ってくる。対象の目つき、顔の表情、全身の筋肉の収縮、言動。それらを総合的にシステムが判断し、対象の価格を提示する。
 自分と被って見える。俺もあのまま、中途半端に測定をクリアし続けていたら。由希子に拾われず、フラフラしていたら、こうなっていただろうか。未来犯、ではなく本物の犯罪者になっていただろうか。
 そう思った瞬間、笑ってしまった。本物の犯罪者になっていただろうか、じゃねーだろ。元々、ただの人殺しだ。
 今では違法となっているタバコに火をつける。お気に入りの、マールボロ・ゴールド。親父から買っている。親父はどこから入手しているんだか。
「シラ切りやがってこんガキぁ。豚の餌にしちゃろうか」
 親父は再度激昂し、テーブルを蹴飛ばす。軽い安物のテーブルは勢いよく吹き飛び、玖珠森ごと後方に倒れる。胸元を強打された玖珠森は呻き、床に転がっている。転がった玖珠森を再び殴り出すが、それでは収まらないらしい。玖珠森の体を起こし、ひっくり返ったテーブルに近づける。テーブルの4本の脚はまるで処刑台のように、天井に向かって直立している。親父は口から血を流す玖珠森の額と顎を持つ。
「口開けんかいコラ」
 玖珠森は抵抗するが、若輩者の軟弱な体ではこの熊には勝てない。抵抗虚しく、口元は処刑台に近づく。このままでは歯を砕かれる、と観念したのだろうか。玖珠森の口は開かれ、直立するテーブルの脚を咥える。声にならない呻き声をあげており、テーブルの脚には口内の血が垂れている。親父は満足したように笑い、倒れたパイプ椅子を折りたたむ。
「おい、死ぬぞ」
「人はそう簡単には死なんのじゃ」
 親父は俺の方も見ずに、椅子を振りかぶっている。頭を叩き、喉元を潰す気だ。
 子どもを食い物にする奴は死んでも許さん。鏖(みなごろし)にしちゃる
 以前、酒を飲んでいた時の親父の台詞が頭に浮かぶ。白目が闇に呑まれたように黒々とした眼。人殺しの眼。
 玖珠森の全身が震えている。震えているというより、痙攣し始めている。まぁいいか。こんな奴死んだところで、誰も困らない。吐き出した煙の中に、瞳孔の開いた親父の姿が浮かぶ。
「やめなさい」
 天井のスピーカーから声が響く。冷たく、室内を凍らす声。
 やばいな。
 壁に貼られた黒のブラインド窓を見る。艶のある黒の画面の向こうはこちらからは見えないのに、思わず見てしまった。だが、そこに映るのは違法のタバコを吸う刑事と、特別公務員暴行陵虐罪に手を染める刑事とその被害者。声の主は見えない。取調室のドアが開き、四係の池澤陽菜(いけざわはるな)が入ってきた。彼女は俺たちにぺこりと頭をさげ、愛嬌溢れる笑顔の上に困惑の表情を浮かべる。
「あとは池澤さんが代わります。二人は課長室に来なさい」
 氷の女王は冷たく言い放ち、スピーカーは切れた。親父はパイプ椅子を振り上げたまま、あちゃー、という顔をしている。
「ありゃ……お嬢、休暇だったはずなんじゃが……」
 親父は由希子をお嬢と呼ぶ。すっかり熱が冷えた親父は笑って、ベロをぺろっと出している。全く可愛くない。
 大量の始末書と、謹慎。この後待ち受ける仕打ちに頭が痛くなる。まだ葉っぱが多く残っているタバコに未練を抱きつつ、灰皿に押し付けた。


 ひどい目に遭った。といっても当然の報いだが。謹慎はどうということはなかった。そもそも俺たち未来犯の刑事は、厚労省庁舎の地下4階フロアの宿舎エリアに閉じ込められているからだ。例え業務中でも、精神健常者の刑事の同行無しには外を歩けない。いわば警察犬。業務以外は、この大監獄社会の象徴とも言える建物に閉じ込められている。長年の刑務所生活で、窓のない閉鎖空間での生活には耐性がつき過ぎている。だが問題は、始末書の方だ。公安局(カイシャ)に本件の謝罪をし、再発をさせないことを約束させる文書。なぜ不始末が起きたのかを明らかにし、二度と繰り返さないために。だが、原因はあの不良刑事に取調させたこと、それ以外ないだろう。もはや作文だ。恭しく、「自分が同席しておきながら止めることができず、刑事としての自覚が、うんたらかんたら……」と、大量に文字数を膨らませて、なんとか提出できた。やりたくないこと、嫌いなこと、本音に反すること。これらは体を痛めつける。身体中が凝り固まり、痛い。この痛みの発端である、今目の前で縮こまっているクソガキを睨みつける。顔中が腫れて痣だらけのガキは目を逸らし、落ち着かない目で机を見ている。
 2074年7月。3日間の謹慎を経て、俺は再びこの厚労省庁舎の地下一階取調室にいる。隣に不良刑事はいない。「あなたたちは二度と組ませない」と、女王に言われたからだ。だったら原因は取り除かれたんだから、始末書必要ないだろ。そう言ったら、あの鋭い目で無言で怒られた。
 天井の黒いシーリングファンがくるくる回っている。空気を割き、循環させる音がする。目の前の玖珠森に言う。
「お前、聖慎学園だったんだな」
「……はい」
「俺もだ。あそこは目の前が海でいいところだよな」
「……ですね」
「近くの公園もよかったな。鎌倉海浜公園」
「稲村ヶ崎のですか?」
「そこもいいけど。坂ノ下地区の公園が一番よかった」
「ああ、いいですよね。ちょっと歩くけど、人が少なくて」
 こういう雑談。アイスブレイク、というのだろうか。こういう会話は苦手なんだが。怯えた少年にはまず、「この男は自分を殴らなそうだ」と思わせることが大事なのでは、と思ったのでトライした。少年は徐々に目が合うようになってきた。
 そもそもなぜ俺のような者が刑事をやっているのか。理由は、スカウトされたから。俺が18歳の時、当時20歳でエリート国家公務員・公安刑事様の由希子に、スカウトされたから。
 2058年、約16年前。由希子に悍ましい欲情を抱いた夜。まるで去勢されるかのように、10歳の俺は連行された。青森県にある精神治療・社会復帰促進センター。名前は穏やかだが、要は刑務所だ。未来犯を収容する施設。そこで俺は8年間拘束されていた。遠い青森の地であるにもかかわらず、由希子と柚菜は毎月欠かさず、面会に来てくれた。二人が来てくれなかったらとっくに首を吊っていただろう。特殊ガラス越しに、円形の小さく大量に穴を開けられた箇所を通じて、少ない時間だが二人から生きる力をもらった。
 俺が18歳になった時、柚菜は婚約者を連れて会いに来てくれた。杜原純希(もりはらじゅんき)、31歳。彼は東南アジアのマレーシア出身で、母親がマレーシア人、父親が日本人。両親は共に国内の紛争に巻き込まれて亡くなってしまったそうだ。マレーシア出身だが顔立ちは日本人。刑事の彼は目鼻立ちがはっきりとした、精悍な男だった。低く太い、穏やかな声。健全な精神の持ち主、俺とは対照的な男。嬉しかった。9歳の時に無慈悲に両親を奪われ、手にした愛を奪われた女の子。境遇を呪い絶望することなく、懸命に生きてきた柚菜が、自分を愛し守ってくれる存在を見つけた。柚菜の表情はこの上なく満たされ、多幸感に溢れていた。自分の辛さには蓋をして周囲を気遣う柚菜には、うんざりするほど杜原に甘やかされ、大事にされてほしいと思った。
 柚菜と杜原が帰った後。独房で、ある観念に囚われた。柚菜はこれから杜原と、一度は失った家族を築いていく。子供が産まれたとしたら、3人なのか4人なのかわからないが、孤独とは真逆の、騒がしくて素敵な家庭となるだろう。たまには由希子も、柚菜の家に遊びにいく。その時、由希子の旦那や子供もいるかもしれない。皆で食卓を囲み、いつまでも取り留めのない話と笑い声が交錯する家。
 死にたい。初めて本気で、そう思った。これから俺は80年、この惨めな生を晒すのか。独房で孤独に塗れ、姉たちの幸福に歯軋りしながら、畜生として生きていくのか。
 だが、首を括る前に由希子は俺を拾い上げた。「あなたに適性が出た」と、由希子は言った。肉体的頑健、思考力、ストレス耐性、その他様々な項目があると言われるが、それらを総合的に鑑み、ラナンは俺に公安局刑事課の適性があると判断した。現代は精神至上主義に侵されており、誰も精神異常者である犯罪者と関わりたがらない。公安局の仕事はとてつもなく社会的ステータスと報酬が高い職務だが、それでも願い下げだ、という風潮がある。慢性的人手不足に陥っている公安局は、採用母集団を未来犯にまで広げた。「未来犯の思考は、同類の未来犯の方がわかるから捜査・保護活動上も役に立つだろう」という後付けの理由も、その意思決定を後押しした。
 あなたに生きてほしい。刑事になりなさい。
 由希子に命を拾われた。そうして、社会の猟犬として。国家公務員・キャリア組刑事の精神を汚さないための、犯罪者の前に立ち塞がる壁として。俺は青森の地獄から解放された。
 あれから8年経った。相変わらず人権はなく犬としてではあるが、だいぶマシな生活を送らせてもらっている。今は、これから地獄に送られる目の前の少年との雑談に興じている。
「てか今更ですけど、首元のタトゥーカッコいいですよね! 俺も入れようかなぁ」
 玖珠森が俺の蛇のタトゥーを見ながら言う。青森の刑務所時代、夕食後の休憩時間に仲良くなった彫り師に入れてもらったものだ。
 約70年前の栃木県足利市に、両親と恋人の父親の計3人を惨殺した少年がいた。彼の手記を違法サイトで見たときに思った。彼が愛した女性は蛇のようだと描かれており、そして由希子に似ていた。俺はこのタトゥーを気に入っているが、面会にきた由希子と柚菜にダサいと笑われた。
「お前が入れたら周りのハイエナどもに虐められるだけだ」
 ですね、と玖珠森は笑っている。
「左頬の……切り傷、ですか? どうしたんですか」
「前にな。犯人追いかけてる時に返り討ちにあって、殺されかけたんだ」
「……マジすか」
「そんな話どうでもいいだろう」
「あ、すみません」
 雑談だけで終わると流石に上司に怒られるため、そろそろ本題に移ろうかと思ったが、玖珠森から本題を提示してきた。
「いやー、優しい方で助かります。あの、白豹会の他の事務所のことは本当に知らないんですけど……ただの噂なんですけど、いいですか」
「なんだ」
「この前うちの兄貴がですね。あ、兄貴といっても役職とかは全くない人なんですけど。近々、うちの組が吸収されるかもって言ってました」
「へー。どこに?」
「分かんないんですけど、なんかすごいおっきな組だって」
「大きな組、ねぇ」
「たぶん、極東(きょくとう)会ですよ」
「なんでわかるんだ」
「だって今時、他の組吸収できるような伸びてるとこ、他にないですよ」
 玖珠森が段々得意げになってくる。極東会。約20年前に立ち上がった、新興の反社勢力。現代のほとんどのヤクザ組織は、覚醒剤や大麻などのドラッグビジネスか、子供の人身売買、詐欺などの典型的な違法ビジネスで細々と生き残っている。だがこの極東会は、違法ビジネスは展開していない。法律スレスレの投資、キャバクラなどの水商売がメインの、特殊な組織である。2年前、東日本一帯で幅を利かせていた皇海(すかい)組と抗争となり、多数の死傷者を出した。この抗争は公安が介入し、双方のトップ逮捕・殺処分により収束。皇海組は組長離脱を皮切りに内紛が起こり組織崩壊。今では風前の灯火である。一方の極東会は、会長交代により組織力が増している。公安調査部の知り合いに聞いたところでは、新しい会長は外国人のようだ。なんでも、極東会は東南アジアで幅を利かせる軍閥がケツ持ち、とのこと。その軍閥の資金力によってこの20年で日本有数の反社勢力に昇りつめたらしい。
 俺は黙っているが、玖珠森は変わらず饒舌である。
「でもしょうがないですよね。うちみたいな零細会社でも、公安さんの手にかかればあっという間に潰されちゃいますからね。ほんと、どこでうちの事務所の情報なんて手に入れてくるんだか」
「あ?」
「すみません」
 調子に乗っている。親父だったら半殺しにしているだろう。
 だが、確かに気になっていたことではある。こんな10名にも満たない弱小の白豹会事務所の情報など、普通は入ってこない。奴らはドブネズミのように湧いて出てきては消える。事務所も短期間で転々とするため、キリがない。「キリがないから、今は弱小の組織はしょうがない」として、放っておいているのが実態だ。公安が本腰入れて手に入らない情報などない。情報が入ってこないというよりは見逃してやっていた、というのが正確な表現だ。
 今回この玖珠森を引っ張ったのは親父だ。特段由希子からの指示がないにもかかわらず、「大牙、ちょっといいか」と言われて新宿の歌舞伎町に連れ出された。親父は迷わず違法カジノの店に入り、そこで遊んでいた玖珠森をとっ捕まえて連行した。しかも同時に、四係の高山慶介に指示して、部下の未来犯刑事たちを連れて白豹会の事務所に捜査員を向かわせていた。
 手際が良すぎる。親父ならスパイの一人や二人は常時抱えているのだろうが。いくら子供の人身売買が嫌いだからって、この熱の入り具合には違和感がある。今回の白豹会に限らず、公安が正式にリソースを割いていない団体への親父の情報網と検挙数は異常だ。
「だから、うちの組長も降参したんでしょうね。もうやっていけないって。でも極東会に入れば、公安さんも少しは手加減してくれるから。賢明な判断ですよね」
「お前どの立場でもの言ってんだ」
 たしかに、ハハハ、と玖珠森は笑っている。俺は玖珠森の話を聞きながら、意識の半分は別のところにあった。
 極東会に入れば、公安さんも少しは手加減してくれる
 これも以前から違和感しかなかった。極東会は今や200人を超える一大組織だ。実態はその2倍とも3倍とも言われる。ラナンという大監獄社会で、反社活動に勤しむ団体は軒並み壊滅させられた。現在では構成員数が50名を超える組織であればあっという間に公安に潰される。それがなぜ、400人とも600人とも思われる一大組織が野放しにされているのか。確かに目立つ違法事業に手を染めてはいないが、最近は急激に武装化しつつある、という話が入っているにも関わらず。
 タバコに火をつける。ゆっくりと吸い、煙を吐く。血管が収縮する感覚が気持ちいい。だが、この違和感はどうしたものか。
「公安にスパイが入り込んでいるからですよ」
 違和感の正体をぼんやり考えていると、それに回答するように、玖珠森が前のめりになって口を開いた。両手を握り、机の上に置いている。タバコを玖珠森の手に押し付ける。
「熱ッつ!」
「何言ってんだお前」
「いや、じゃなきゃおかしいじゃないですか。あんな大きな組の事務所がガサ入れされないで生き残ってるなんて。大体2年前の抗争だって、収束したきっかけは刑事が皇海組幹部の黒岩って奴を、非公式に殺したから、って噂ですよ。極東会の人間が公安に入り込んで、うまいことやってるからですよ」
「アホか、たかがスパイごときにそんなことできるわけないだろ。特定の組に肩入れなんてすぐにバレる。そんなもん局長か、厚生大臣クラスじゃなきゃありえない」
「じゃあ、局長さんがスパイなんじゃないですか」
 またタバコを玖珠森に押し付ける。再び叫び、バタバタしているのが面白い。
「違法ドラマの見過ぎだな。現実はそんな、面白くねーんだよ」
 微かに黒ずんでしまった手の甲を見つめながら、玖珠森は口を尖らせている。もう収穫はないだろう、これ以上遊んでいると怒られる。今日はこの後、柚菜の家に行かなくては。
 タバコを灰皿に押し付け、立ち上がる。あ、もう行っちゃうんですか、と玖珠森が言う。取り調べの刑事を引き止める犯罪者は珍しい。
「最後、教えてください。公安が電波傍受システムで、国民の会話全て捕捉しているってホントですか」
 いつの間にかチンピラは、ド三流の週刊記者に変わっていた。楽しそうに、目を輝かせている。
「……精神科医に診てもらえ」


 厚労省庁舎の地下一階取調室を出て、エレベーターに向かう。高速エレベーターは苦手だ。内臓が浮く感じもそうだが。外部と内耳内の気圧差がうまれ、耳が詰まった感じがする。思わず眉間に皺が寄り、唾を飲み込む。耳管が開き圧力が調整され、なんとか元に戻る。この嫌いな儀式を通過する間に、エレベーターは目的地の42階へ到達した。
 扉が開かれると、味気ない白・グレーベースの色合いの廊下が現れる。廊下を進むと刑事課の各係の執務室が並ぶ。一係、二係、三係の部屋を過ぎて、四係の部屋に入る。
 こちらの部屋も廊下同様に味気ない。だが灯りが消えていて、夕暮れ時の太陽が仄かに照らす部屋は、廊下に比べればだいぶマシな雰囲気だ。17時46分。今は全員出払っているようで、誰もいない。執務室のデスクは、一目で誰のデスクなのかがわかる。PCの配線や充電器のコンセントもきっちりと整備して、ものが一切ない池澤陽菜のデスク。配線はもちろんこんがらがっており、ペンやペットボトルなどが置きっぱなしなのが高山慶介のデスク。そして、空になったタバコの箱、大量のメモ書きなどが積もりに積もって触れればジェンガのように崩れそうなのがヤクザ刑事のデスク。仲間たちの味わい深いデスク達を通過し、己の散らかったデスクの引き出しからストックのタバコを取り出す。
 四係の執務室を出て、再び廊下の奥に向かって歩き出す。突き当たりの部屋、刑事課長室。
 扉を開くと、空気が変わった。80平米ほどの広々とした部屋。ホテルのスイートルームを思わせるデザインと照明の部屋は、先ほどいた四係の執務室とは雲泥の差。まだ20代後半なのに異例の出世を遂げた女王への、局長からの期待とプレッシャーの現れ。
 照明は落とされていた。部屋奥の大きな窓から、夕方の太陽が雲に隠れながらもその光を部屋に届けている様が見える。太陽はこの部屋だけでなく、眼下に広がる東京の街全体を照らしている。この時間帯の景色は美しい。明かりをポツポツと灯す高層ビルが所狭しと立ち並び、その遥か先に目を向ければ壮大な山々が広がる。あの山々を超えた先には栃木県があるのだろうかと、なぜか大嫌いな故郷が思い浮かぶ。
 部屋の奥。俺の背を越える大きな窓が並ぶ手前に、大きなデスクがある。デスクのスタンドライトは消えており、タバコの煙が浮かんでいる。女王は束の間の休息中なのだろう。
「お疲れ様です」
 デスクに向かいながら上司に挨拶する。だがデスクまでは行かず、その手前の応接用ソファに腰掛ける。
「おつかれさま」
 冷たく、細く、雪のようなサラサラとした声。初見の人は機嫌が悪いのではと勘違いするであろう、いつもの声が返ってくる。女王は黒縁の眼鏡を掛けたまま、椅子の背もたれに体を預けている。長い足を組み、マールボロ・ゴールドを堪能している。大きく鋭い目。高級な猫を連想させるその瞳はさながら猫のように、薄暗い部屋の中で妖しげに煌(ひか)り、浮かんでいる。暗がりでもはっきりと分かる肌の白さは健在だ。身長はおそらく170cmを超えているだろう。プライベートではさらにヒールを履くため、たいして俺と変わらない。ミルクティベージュの長い髪を揺らして歩く様は、どう見ても刑事には見えない。
 あの日、聖慎学園で過ごした最後の夜。一度は崩れたと思った壁だが、さらに強固な壁が出来上がってしまったように思える。俺が刑務所に連行されてからも欠かさずに会いにきてくれた由希子。柚菜と一緒に面会に来る由希子は、まるで何もなかったように、笑顔で勇気づけてくれた。刑事となってからも直属の上司として、親父と共に刑事のイロハを教えてくれた。何も変わったところがない由希子。何も変わったところがないように演じ切ろう。そういう思いが節々で透けて見えるのは俺の自意識過剰だろうか。
「今日も一緒に行けないのか」
「ちょっと会食が入っちゃって。同行は陽菜ちゃんに代わってもらったから」
 申し訳なさそうに言う由希子。ここ一年、精神的に崩れている柚菜に一週間に一回二人で会いに行っていた。この一ヶ月は、毎日電話もしている。だが管理職であり、局長と公安部長のお気に入りである由希子は業務に埋もれ、お偉方との会食に連れ回されている。最近は夜もまとまった時間が空かず、二人で会いに行けていない。案の定、今日も厳しいようだ。未来犯の刑事は、精神健常者の刑事の同行無しに外をほっつき歩くことができない。だから最近は四係のキャリア組刑事、高山慶介か池澤陽菜に同行してもらうことが多い。
 由希子の表情には疲れが見える。心なしか、顔がより細く小さくなってないか。
 由希子が座るデスクに向かう。近づく俺に、ん? という表情を向ける。大きな窓側に周り、今は由希子との間を遮るものは何もない。
「……少し痩せたか」
 部下の思わぬ発言に、目を丸くする由希子。角が取れ、鋭さがなくなっている。ふふ、と笑った。
「あなたもそういうこと、言えるようになったのねぇ」
 そういう意味じゃないんだが、まぁいいか。そういう意味にしておいてくれ、と言われている気がした。
 息苦しさから逃れるために、倒す敵が自分だった場合、わたしたちはどうすればいいの
 あの日の言葉を思い出す。違法書籍を読み漁り、この監獄社会における精神の居場所を探し続けた女の子。底なし沼のような黒黒とした眼は今でも鮮明に浮かぶ。精神至上主義、ラナン、大監獄、相互監視員である市民たち。精神健全児童としての仮面を被りながら、腹の底では悲痛の叫びをあげていたはずの少女が、今では刑事になっている。公安警察。この大監獄を体現し、民の精神を独房に閉じ込め続ける存在。俺が刑務所に閉じ込められていた間に、どういう心境の変化があったのか。
「ねぇ、柚菜のことどう思う?」
 16年前の少女に思いを馳せていると、16年後の女性に現実に戻された。
「正直、どうしたらいいのかわからない」
「そう……」
 なぜ柚菜が精神的に崩れているのか。それは、家族を失ったから。柚菜はまたしてもラナンにより、家族を奪われてしまった。
 2055年からラナンは精神監視では満足せず、人間の構築にも乗り出した。機能不全家庭によって俺のような不良品が生み出される連鎖を断ち切るべく、子育て認可制度が施行された。同時に、「子育てがきちんとできる人格者を増やす」ための動きを、厚労省人材開発局が旗振り役となり進めてきた。
 9割以上の家庭が機能不全家庭となっていた日本。そこで育てられた人間は「アダルトチルドレン」と呼ばれる。つまり、大人になりきれてない子供。姿形は20歳だろうが、60歳だろうが、中身は小学生以下。精神的に未熟な子供に、子供が育てられるわけがない。そこで2056年から「子育てができる人格者・家庭を増やす」べく、子育て認可が与えられない水準の大人たちに対して半強制的に研修・セラピーが実施されることとなった。
 内容は至ってシンプル。親から傷つけられてきた心と向き合うことだ。隔週に一度、バーチャルAI「Ran」との面談を通じて、自分の子供時代を振り返る。親に殴られたこと。殴られなくても、言葉の刃で傷つけられたこと。その時の気持ち。言われたかった言葉。それらを徹底的に洗い出し、自分が「大人になれない」原因を把握する。だが、それだけに留まらないのが従来の精神治療とは異なる点だ。ラナンは、そういった従来の自己完結型を許さない。「傷つけられたことを、その傷つけた対象に突きつけ、気持ちを理解させる」ことを徹底させる。己が犯した罪を認識させ、謝罪させる。「親も大変だったから」「自分が悪い子供だったからしょうがない」といった、「親に歯向かう恐ろしさから逃げるための嘘」を、ラナンは認めない。人間にとって最も恐ろしい存在が親である。その親から受けた傷は、同じ傷を親に突きつけて謝罪させることでしか癒せない。ラナンはそう判断し、その理論を国民に強制した。だが、一見暴挙とも思われるこの理論が革命的な成果を上げることとなる。傷を負った大人たちは皆が嗚咽し、涙を流す。そして何十年も腹の底に溜まっていた膿を掘り返し、我を忘れるほどの怒りと共に存命の親たちに膿を突きつける。突きつけられた親たちは自分の罪を自覚し、謝罪し、そしてその親自身もまた、自分の課題に目を向ける。そういった、地獄絵図であり、心の強制浄化でもある絵図が全国的に広がった。
 結果、「心に傷を負った、大人になりきれてない子供」から真に大人に変わる人たちが急増。心が浄化されることでラナン数値も安定した大人たちは、ラナンが設けた「子供が育てられる大人」としての基準項目を次々とクリアするようになった。ちなみに項目とは、柔軟性、ストレス耐性、問題解決能力、視点取り(相手の目線で物事を捉える)等、多岐に渡る。
 この施策に味をしめたラナンは、機能不全家庭を殲滅し、真に精神的に成熟した大人だけで構成される家庭づくりを加速させる。2055年時点では、ラナン数値50以上の精神健常者の親が1名以上・かつ政府の定める「子育て認可研修」を受けた者であれば、子供を育てる認可を与えられていた。しかし、2061年から政府は、子育て認可が受けられる家庭の基準を「ラナン数値55以上の精神健常者の親が1名以上」に引き上げた。さらに2070年にはその基準は、「ラナン数値60以上の精神健常者の親が1名以上」に引き上げられる。国家は民の軍隊化に余念がない。世界はどんどん精神に優しくなり、己の過去の傷を放置しておくことを許さない。傷の癒えた、強くしなやかで、優しい大人しか生きることは許されない。
 俺はとうの昔に、人として生きる権利を剥奪された。未来犯に人権はなく、それは公安局の刑事になっても変わらない。もちろん結婚も、銀行口座の開設も、住居や個人用リングの契約も、何もかもが許されない。
 人としての権利が剥奪される。柚菜もまた、その波に呑まれてしまった。昨年の2073年、刑事であった柚菜の旦那、杜原が殉職してしまったのだ。杜原は焼死体で見つかり、本人と判別がつかないほどの消し炭のような惨たらしい姿で発見された。仲睦まじい夫婦。柚菜は魂が抜かれたように衰弱していった。さらに追い打ちをかけるように、杜原との間に生まれた、当時2歳の我が子を国家に奪われたのだ。理由は柚菜のラナン数値の低下。両親を奪われ、旦那と我が子まで奪われた。柚菜の絶望を思うと、四肢が引き裂かれる感覚を覚える。
 壊したい?
 不意に、少女の声が聞こえた。12歳の、その小さい体に懸命に反社会的思想を蓄え込もうとしていた女の子の、あの雨の日の声。
 壊したい。そう応えようとすると、そこには吸い終わったタバコを灰皿に押し付ける女性の姿がある。女性はメガネを外しデスクに置く。座っている椅子の向きを変え、大きな窓の外に広がる景色を見つめている。
「オメラスから歩み去る人々、って知ってる」
 由希子の問いに、いや、と応える。
「100年ぐらい前の本なんだけど。オメラスっていう架空都市の話。オメラスには戦争も飢餓も身分制度もなくて、皆が平和に暮らしてるの。でも、その平和には代償があった。オメラスの地下牢にはね、閉じ込められた一人の子供がいるの。一筋の光も届かない、暗く、固く閉ざされた部屋。下水道のような地下室に、ずっと閉じ込められている。その子はろくな食べ物も与えられず、体は汚物に塗(まみ)れて、およそ人間とはいえない生活を強いられている。実はね、その子の存在を、オメラスの人々は全員知っていたの。知っていながら、見て見ぬふりをした。それで平和が保たれるなら。今の幸せな暮らしが実現されているなら、それはしょうがないわ、と」
 情緒が抜け落ちたいつもの声、ではなくなっている。細いが、低く、感情が乗った声。由希子は眼下に広がる景色から目を逸らさない。いつの間にか太陽は山々の向こうに姿を消していた。空はコバルトブルーと赤とオレンジが混ざった、魔法のような彩りを見せている。山々は、その荘厳な姿はぼやけてしまい。曖昧な、今にも消えそうな弱々しい様を晒している。それを嘲笑うかのように乱立する建物たちは灯りを放ち、その集合体は一つの芸術の域に達する。
「どうすればよかったんだろう……」
 由希子の痩せた頬が強張り、筋が浮き出ている。唾を飲んだのか、痩せた首元が大きく動いた。
 公安刑事になったこと。このラナンという怪物を太らせ、子育て認可制度という縄で国民を縛り上げる。オメラスという理想郷(ユートピア)の門番。その立場が、柚菜への後ろめたさを醸成しているのかもしれない。最近会いに行かないのは、ただ忙しいだけではないのかもしれない。
 由希子はどうして、刑事になったんだ。
 それが首元まで出かかった時、コンコン、とドアがノックされた。由希子が返事をすると、失礼します、と言い池澤陽菜が入ってきた。
「ごめんね陽菜ちゃん」
 急遽同行を代わってくれた部下に、由希子が礼を言う。
「いえいえ。大牙さん、よろしくお願いします」
 愛嬌溢れる笑顔で、ぺこりと頭を下げる。いや、頭を下げるべきはこちらです。
「柚菜のこと、いつもありがと」
 由希子は俺にそう言った後。会食のために着替えるのか、デスク横のクローゼットを開けた。


 東京都千代田区。地上60階、高さ275mの日本を支配する魔の巣窟を抜け出す。地下駐車場から公用車に乗り、東京都新宿区西落合にある柚菜の自宅に向かう。運転席に座る陽菜。だがハンドルを握ることはない。バーチャルAIに目的地を伝え、この鉄の塊がナビ通りに走っているかどうかを監視するのが、運転席に座る者の仕事だ。運転手がアクセルを踏み、ハンドルをクルクルと回す車両は、ラナンが姿を現してから跡形もなく消え去った。飲酒運転、よそ見による事故。ラナンは人間の能力を見限り、国民から運転するという権利を剥奪。昔存在した「交通事故」という言葉は、その耐久年数を終えたかのように消失した。代わりに、年に数件起こる事象は機械事故(マシンエラー)と呼ばれる。
 旧姓、藤原。現姓、杜原。夫の殉職後も復氏届を出しておらず、苗字はそのままになっている柚菜。新宿区の杜原柚菜の自宅に着いた。陽菜は、「じゃあ、終わったら連絡してください」と言い、車に乗って去っていった。普通の刑事は未来犯が脱走しないために同行先で待機する。だが陽菜は、「見張られているみたいで嫌ですよね」と言い、いつもその場から離れてくれる。また初めて同行してもらった際「業務時間外に申し訳ない」と言ったら「いえいえ」と穏やかに返してくれた。99%の刑事が言う「仕事ですから」と言う台詞を、この陽菜は言わなかった。16歳の代で、高度専門学校の国家公務員養成コースに入学。18歳で卒業し、厚労省公安局に配属。現在3年目になるこの人は、能力的にはもちろん人格的にも尊敬しかない。どういう親御さんに育てられ、どれほどの愛情を注がれればこのような人間が出来上がるのか俺には想像もつかない。
 車の外に出ると7月の茹だるような暑さに晒される。快適な公用車内との差を、うんざりするほどの湿気と共に思い知らされる。時刻は18時56分。すっかり暗くなっているのに、どこからか蝉の声が響く。蝉は昼行型の昆虫、朝から夕方までが鳴く時間帯である。にもかかわらず聞こえてくるのは、この極めて人工的な街のせい。夜でも一晩中明るく、そのせいでセミは昼夜の区別がつかなくなり、一匹が勘違いして鳴き出すと他の仲間たちも釣られて大合唱を始める。光の届かない地下牢にいた身分としては、昼夜の区別がつかなくなることに関しては共感しかない。
 三階建の低層マンションの入り口に着く。柚菜の家の共有権限を与えられており、オートロックは指紋で開く。指紋で開けられたことは通知されるため、家の中にいる住人は、誰がオートロックを潜り抜けたのか知ることができる。エレベーターには辟易しているため、三階まで階段で登る。303号室の柚菜の部屋。こちらも共有権限が与えられており、虹彩認証で扉が開いた。
 部屋に入ると、自動照明で玄関の天井から照らされた。だが、廊下の先にある扉。扉の向こうのリビングは、灯が点いていない。最近はよくあることだが、やはり嫌な感覚、恐ろしさを覚える。はやる気持ちと共に廊下左手に見える浴室を過ぎて、扉を開ける。
 よかった。
 夜なのにカーテンが開いたままの窓。外の微かな街灯の光だけが差し込む、暗い部屋。リビングの奥、ソファに座っている黒い影の背中を確認する。
「柚菜」
 そう言うと、柚菜はビクッと体を硬直させた。
「ああ、大牙……ごめんね」
 振り向いた柚菜はソファから立ち上がり、部屋の灯をつける。カーテンを閉めて、再びソファの上に座った。
 ブラウンの床に、淡いベージュ調の天井、カーテン、ソファ、テーブル等の家具たち。観葉植物が部屋の隅にいくつか置いてあるが、葉っぱが数枚、床に落ちたままである。木製のベビーベッドや子供のおもちゃたちが、部屋の隅に見える。柚菜の息子が好きだった鉄道・プラレールのおもちゃたちが、リビングのスペースを広めに占領している。
 柚菜は綺麗好きである。聖慎学園で一緒に過ごした部屋は、柚菜と由希子の両巨頭により、さながら高級ホテルの様相を完璧に保っていた。自分の部屋なのに、その点においては落ち着かなかった。下手に汚したら怒られる、という緊張感が常にあったから。だから今、食卓用のテーブルに散乱するインスタント食品、ペットボトルの残骸たちが、柚菜のこころの状態を雄弁に語る。
 柚菜には申し訳ないが以前、戸籍情報や経歴を見た。高山慶介を脅し、キャリア組刑事の権限で公安のファイルを見た。
 2055年、子育て認可制度元年。柚菜が9歳の時に、母親が宗教家による千代田区無差別殺傷事件に巻き込まれ死亡。父親はラナン数値が急激に悪化し、数値が50を下回る。父親は子育て認可が剥奪され離別。ここまでは聖慎学園にいた時に知っていた。だがその先、離別した父親は自殺したと公安のファイルには記載されていた。ファイル上の「父親」と言う単語には関連リンクが貼られておらず、父親が誰なのか特定できなかった。
 なんとか離別した父親を公安の権限で探し出し、柚菜が嫌でなければ引き合わすことができないだろうか。そうすれば少しは柚菜の心の膿が解消され、父親の愛を再び受けて回復してくれないだろうか。そう思って動いたが、既に父親は亡くなっていた。柚菜は、天涯孤独になっていたのだ。
 ソファに向かい、座る。奥側に座る柚菜を、天井の所々に設置されている暖色照明たちが照らしている。痩せている。由希子の痩せた感じとは違う、明らかに最低限のカロリーを摂取できていない痩せ方。たぬき顔で健康的な、「かわいいお母さん」の柚菜の面影がない。この暑い季節にゆったりとしたシルエットの長袖を着ており、余計に体の線の細さを感じさせる。
「何か作ろうか」
「ううん、大丈夫。ありがと」
 俯きながら、絞り出すように言う柚菜。
 どことなくテーブルの面という面を見つめている。だがテーブルを見ているようで、何も見ていない。意識は「いま、ここ」に在らず、追憶の中にある。そんな柚菜の顔が、次第に16年前の自分の顔に見えてくる。あの晴れた夕方、海辺の公園にいた少年。活路を見出せず「別にどうなってもいいや」と人生を諦めていた少年の顔。今の俺の視点は、昔の柚菜の視点なのだろうか。何を言っても、この人の救いにならないのではないか、という無力感。自分が想像もつかない心の暗部。それの一部でもいいから引き受けられないかと思考すればするほど、己の力量の無さに絶望する感覚。
 いくら相手を大切に思っていても、違う身体を持つ人間同士。どう足掻いたところで、その身体と精神に入り込むことはできない。そして、本人も重々承知している。昔の自分がそうだったからよく分かる。自分は自分で、懸命にもがいている。いつまでもこのままでいいなんて、本気で思っているわけじゃない。どうにかしようと思っているが、現状を打開する腹の底からのエネルギーが、まだ湧き上がってきていない、ただそれだけなのだ。
「由希子、忙しいのね」
 不意に柚菜が呟く。
「ああ……局長のお気に入りだからな」
「すごいなぁ、由希子は」
 テーブルから目を離し、顔が上がる。微かに頬が緩んでいる。
「でもね、3日に一回ぐらい、電話くれるの」
「……」
「忙しくて大変なはずなのにね。電話してると最後の方は、私よりも元気がなくなってるの。たまに、ごめんなさい、っていうの」
 柚菜の声が震えている。
「あの子らしいわよね……そんなこと、思わなくていいのに。私に会いづらいのに、でも電話はくれて……」
 一筋の涙が柚菜の頬を伝っている。体が熱くなってくる。
 二人の姉たちの間にある温かいものに触れた。思えば俺よりも、二人は二人でいた時間の方が圧倒的に長いのだ。家族の愛を知らずに苦しむ由希子と、家族の愛を知っているからこそ苦しむ柚菜。幼少期から支え合ってきた二人の姿が鮮明に浮かび上がり、視界が潤み、ぼやける。
 隣でゆっくりと、静かに息をはく柚菜。気持ちが落ち着いてきたようだ。虚だった瞳に、若干の生気が戻っている。
「ごめんね、せっかく来てくれたのに。今日は何時までいれるの?」
「20時半まではいれる」
「そ。お腹空いたでしょ、ちょっと待っててね」
 柚菜は立ち上がり、キッチンに向かう。その動作には、こころが無理やり身体に力を送り込む様が見て取れる。
「大丈夫だよ、ゆっくりしてて」
 そう言っても、柚菜は聞かない。大丈夫よ、と。弟がそんな気遣いするんじゃないの、ということか。キッチンに向かう柚菜。俺に背中を向けて、腕を捲ろうとしたのか長袖の袖口に手を添える。だが一度添えた手は止まり、離れた。
 この部屋に入った時から感じていた違和感。いくら空調が効いているとはいえ、クソ暑いこの夏に長袖を着ている。
 自分は自分で、懸命にもがいている。いつまでもこのままでいいなんて、本気で思っているわけじゃない
 だから、見逃そうと思った。でも、無理やり身体を動かそうとする柚菜の様子を見ていたら、抑えられない。
「野菜炒めでいいかな。どうせお野菜、摂れてないでしょう」
 リビングと一体化した、居間との間に仕切りのないキッチン。水を出し手を洗いながら、柚菜が言う。その優しい表情に何故か苛立ちを覚えた。
 ソファから離れ、キッチンに向かう。返事をせずに近づく俺を見る柚菜。何かを感じたのか、俺から目を逸す。キッチンの水回りまで来たが、俺の方は見ず、俺から離れた。フライパンを戸棚から取り出そうとしている。
「長袖」
「ん?」
「暑くないのか」
「え、ああ……寒がりなの、知ってるでしょ」
「先週来た時は半袖だった」
「……なんでそんなこと」
 そうはぐらかしたくなる気持ちも、痛いほど分かるが。
 左手で、柚菜の左肘を掴む。柚菜の強張る表情。肘を上にあげると、袖口の広い服は、自然と捲れて手首が露わになる。
 細いミミズが磔にされたような、そんな生優しい絵ではない。太い赤紫色のムカデが二匹、横たわるような。痛々しい縫合の跡がムカデの足のように、鮮やかに描かれている。刺青のような生々しさに、言葉を失う。包丁の切先で軽く引っ掻いたものではない。肉を抉ろうとした、確かな意志が見て取れる。最低限の処置は施されており、傷口は塞がっているが、根本は何も解決されていない。
 柚菜の顔を見つめる。彼女は俺と目を合わせようとしない。
「バレちゃったか〜」
 可愛い笑顔でヘラヘラしている。その心境に、余計に心が痛い。
「処方された薬は飲んでるのか」
 あれだけうんざりしていた意味のない言葉を、今度は自分が吐いている。
「……」
「柚菜」
「大丈夫よ」
 冷たい声。柚菜から聞いたことのない、強く低い声に刺された。俺と目を合わせない。見たことのない棘を見せる女性に、一瞬怯む。だが、ここで引いたら柚菜を失う気がした。
「……数値、いくつだった」
「……」
 口をキュッと閉じる柚菜。昔から、何も変わっていない。何があっても本当のことは教えてくれない時に見せる表情。
 通常、精神に不調をきたしていると思われる者は、定期測定日を待たずその場で医療機関にて強制的に精神測定が行われる。手首の縫合をされた際に、柚菜も測定を受けているはずだ。その数値は誤魔化せない。己のこころの健やかさを、丸裸にされる。今の柚菜が最も怖れていること。
 もう捨てられてもいい。そう思った。
「ごめん」
 そう言った後、返事を待たずに公安局支給リングの内蔵カメラを、柚菜に向ける。それは公安が犯罪者を取り締まる際に見せる、お決まりの動作。日本国民なら誰もが知っている、公安が手の甲を対象者に向ける動作。嵌めた指輪が向けられる、それはすなわち処刑されることを暗示させる。数値によっては拘束され、人権を奪われる。その数値が9以下を叩き出した場合、更生見込みなしと判断される。つまり、永眠保護。その場で公安の銃によって射殺される。指輪を向けられる意味を、全国民が厚生省のプロバガンダにより刷り込まれている。いくら信頼関係が強固な間柄でも、その行為が意味する恐怖は変わらない。
 柚菜の顔が引き攣っている。そんな顔をさせてしまったことに、更に心苦しくなる。だが、そんな気持ちはリングに浮かぶ数値に吹き飛ばされた。
 22
 20を下回ると未来犯認定。模範国民であったはずの柚菜が、未来犯に堕ちる寸前。信じられなかった。8年前杜原と結婚し、あんなにも幸せそうだった柚菜が。息子を宝物のように慈しみ、見ているこちらまで心を温めてくれていた柚菜が。凶暴で、国家に牙をむく犯罪者であるというのか。あるいはこの精神至上主義社会では御法度とされている、自殺に手を染めようとする精神異常者だと言うのか。だが、目の前で震えている腕に刻まれた深い切り傷が、22という数値の何よりの証拠である。
「入院しよう……荷物をまとめて、今すぐ」
 無意識に、小さな身体を痛めつけるほど強く引っ張ってしまった。しかし、か弱い女性から信じられないほどの力を感じ、振り解かれる。
「イヤよ……!」
 大きな瞳を開き、こちらを睨みつける。痩けた頬を強張らせ、顔を真っ赤にして。
「嫌……入院したくない……」
 入院したら最後。薬漬けになって、もうこちらの世界には戻れなくなる。そう思っているのだろう。実際柚菜が見てきた世界で、ラナン数値が急激に悪化したが入院や投薬によって回復し、無事に、安定した娑婆での生活ができている者は一人もいない。目の前の弟が最たる例だ。
 腕を胸に押し付け、震えている。自分が人間として生きられなくなる。その恐怖に、小さな身体が犯されている。
 だが。数多の人間の数値を見てきた。これほどの自傷行為をしていて、数値が留まるわけがない。確実に、まもなく数値は20を下回る。あるいは、下回る前に今度こそ命を絶つかもしれない。であれば、目の前の延命措置に縋るしか柚菜を生かす方法はない。
「柚菜。入院して、投薬治療しないと、」
 言い終わる前に柚菜が顔を上げ、叫んだ。
「大牙だって良くならなかったじゃない!」
 柚菜から感じたことのない怒気が、空気を震わせている。怒気に貫かれ、思考が止まる。柚菜の優しい眼はその片鱗もなく、弟ではなく敵を見る眼がそこにはあった。
 数秒だろうか。凍った空気は、柚菜から溢れる大粒の涙で溶けた。敵を見る眼から、再び弟を見る眼に戻る。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 小さな口から絞り出すように言い、その場にしゃがみ込んでしまう。両手で顔を覆い、涙は止まる気配がない。誰にも見せたくなかったものを無理やり溶解させられ、声も抑えられずに泣いてしまう。
 怖い。惨め。なぜ、自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。その不条理と、怒り。あらゆる負の感情が押し寄せ、自分を壊していく。6歳の時、そして10歳の時。自分が味わった絶望を、愛する姉に味わわせてしまった。
 あの雨の日に、柚菜が抱きしめてくれたように。しゃがみ込む柚菜を抱きしめた。泣く声が、さらに大きくなる。柚菜は顔を覆っていた手を俺の背中に回し、胸元に顔を埋めた。
 あの時の柚菜姉の想いが乗り移ってくる。大切な家族に対して、何もできない。抱きしめることしかできない。まだ少女だった柚菜姉がどれほど辛かったか、この歳になって思い知らされた。
 ひく、ひく、と少女のように泣く柚菜。まだ呼吸が落ち着かないまま、言葉を絞り出す。
「わたしね……前に、由希子に聞いちゃったの。なんにも考えないで……由希子は結婚しないの、って」
「……」
「そしたらね。わたしはしない。大牙が回復して、パートナーが出来るまで。あの子が今も苦しんでいるのは、全部わたしのせいなの。だからあの子がもし回復できなかったら、わたしは死ぬまで一人でいるわ、って……」
「……」
「なんてバカだったんだろう。大牙の気持ちも考えないで、婚約者と面会に行ったりして。わたしだけ勝手に生きた、バチが当たったんだわ……」
「何を言って……」
 何を言っているんだ。だが再びごめんなさい、ごめんなさいと謝り、泣き続ける柚菜に掛ける言葉が見つからない。そんなこと思わないでくれと、より強く抱きしめて、伝えることしかできなかった。



2章:讐

 厚労省庁舎の地下4階フロアの宿舎エリア。4階より下は、未来犯刑事の独房になっている。独房といっても60平米ほどあるため、一人で暮らすには十分すぎるほどの広さだ。ここではカメラも盗聴器も一切なく、完全にプライバシーが守られている。と一応、言われている。グレーのタイル張りの床に、コンクリート剥き出しの壁と天井だからこの時期は涼しくて快適だ。窓がないのが相変わらず苦痛だが。風呂・トイレ以外の部屋は二つ。一つはベッドを置いただけの寝室。もう一つはリビング。リビングといっても、テーブルと二人掛けソファ、椅子を置いてあるだけ。あとは部屋の隅にサンドバックとベンチプレス台を置いてあるだけの、雰囲気のかけらもない部屋。
 2074年8月27日。今日は非番。目覚めても特にやることもなく、どこかに連れ出してもらえるわけもなく。ソファに横たわり、煙を堪能する。天井のシーリングファン目掛けて煙は立ち上るが、ファンの稼動が遅すぎて煙を弾いているようには見えない。光が差し込まないため、今が何時ごろなのか、昼なのか夜なのか、油断していると分からなくなる。リングに目を遣ると、浮かび上がる拡張現実の画面には、16時13分と表示されている。
 あれから一ヶ月が経った。柚菜に何もできない自分に打ちのめされてから、あっという間の一ヶ月。由希子にお願いして、事件で駆り出されて帰れない日以外は、毎日柚菜の家に行った。当然、未来犯が単独で外をほっつき歩くことは許されない。だが、毎日同行できる精神健常者の刑事もいない。だからほとんどの日を、特例扱いで一人で柚菜の家に行っていた。由希子だから上司に通せた話なのだろう。また由希子に大きな借りを作ってしまった。今度彼女に何か買って、礼をしなくては。
 一ヶ月前のあの日、人に涙を見せまいと懸命に生きてきた柚菜は、今までの悲しみを全て放出するかのように泣いた。9歳の時に家族を大監獄によって奪われてからの19年分。それをぶつけてくれたのだとしたら、そんなに嬉しいことはない。放出した後の柚菜はしばらく、より一層抜け殻になってしまった。その瞳は作り物のように、血を抜かれた後の魚のように眼球の中に魂が宿っていなかった。
 もし柚菜の親が存命であれば全てが違っていただろう。せめて父親だけでも生きていてくれれば。きっと愛情深い親御さんだったはずだ。離別した絶望で自らを殺めるほど、その人にとっては柚菜が全てだったはずだから。もし柚菜に、父親に対して蟠(わだかま)りが残っているなら、親との対話を通じてそれを洗い流せるはずだ。だがそれもできない。
 本当に壊したくなったら言ってね。一緒に壊してあげる
 残酷なほど無垢な悪魔。俺の裡に住まうあの雨の日の少女が言う。
 彼女は、今も無垢なままだろうか。壊すどころか最後の番人として、異例の出世街道を走る彼女に、今更お願いしたらどんな顔をするだろうか。
 どうやって壊せばいいのかわからない。でも柚菜の空っぽの目、日に日に痩せていく身体を見ていると、その考えが頭を打つ。そしてそれは具体的な欲求に変わっていく。
 柚菜の子供を攫えないだろうか。
 壊すまでいかずとも、その膨れ上がった傲慢な身体に潜む、僅かな隙を突けないか。そんなことばかり考えている自分がいた。だが、攫った後どうする。この日本全土に張り巡らされた監視網を潜り抜けられるか。柚菜と息子を匿い続けるのは現実的ではない。だが、海外はより、現実的ではない。いつ柚菜と息子が殺されるかわからない場に、二人を連れていけるわけがないからだ。
 だが、二週間ほど前からそんな考えも弱まり始めた。8月の下旬、夏の終わりに向かうにつれて柚菜が少しずつ魂を取り戻していったから。何故なのかわからない。急に、虚なつくりものの瞳が、人間の生気を取り戻してきた。
 人間の身体は休ませていれば自動的にあるべき状態に、自発的に整う。そして無意識に思考し、結果、精神を健やかにしていく。だがそのサイクルが回るのは、こころに悪性腫瘍がない人間だけだ。あの手首の傷を作る柚菜が、そのサイクルを回せるはずがない。
 
 もう大丈夫よ。いつもありがとね。

 柚菜からそう言われた。今日は柚菜の家に行くつもりはない。明日はまた家に行くか、電話しようと思っているが。「もう大丈夫よ」。そういった彼女の眼は、俺の裡に住まう少女の眼に似ていた。澄んだ瞳が濁り始めた、あの頃の少女に。
 
 口に咥えたままで短くなったタバコに気付き、寝ながらテーブルの灰皿に押し付ける。天井に浮かぶ煙をぼんやり眺めていると、昔の映像が流れてきた。
 
 栃木県足利市。2054年、6歳の時。目が覚めると、ところどころに罅(ひび)の入った壁の、カレンダーが目に入った。あの雷が鳴っていた日の、畳の部屋、瓦屋根の家ではない。安物のトタン屋根の家。一瞬自分の家かと思ったが、匂いが違う。酒とタバコの匂いが壁全体に染み付いた嫌な匂いがしない。甘い香り。フローラル系、ローズを思わせる優しい香りがする。なぜ気づかなかったんだろう。顔の左側が、柔らかいものに支えられている。
「おはよう」
 女神の声。左耳は塞がれており、右耳が声を捉える。顔を上げると、由希姉がいる。汚れている窓の外が暗い。おはよう、って夜じゃん。と言おうと口を開こうとしたが、痛みを覚えた。
「痛かったね……」
 由希姉が頬を撫でてくれる。側にあった氷袋を手にもち、そっと添えてくれた。痛い。その時、あの由希姉の母親の男、あの居候にしこたま殴られたのを思い出した。
 由希姉が俺を見下ろして、頭を撫でてくれている。いつもと違う見え方の由希姉の顔が新鮮で、じーっと見てしまう。
「あんまり下から見ないで」
 頭を撫でていた手で視界を塞がれ、目の前が暗くなった。
 視界が塞がれたので、しばらく目を閉じてぼーっとしていた。だがふと思い至り、身体を起こす。あの野郎たちはどこへ行った。
「大丈夫よ。出かけたみたい」
 優しい声。いつも以上に細く、今にも消えそうな声。由希姉の顔を見るが、特に腫れているところはない。だがいつものように、頭をはたかれたのではないか。黒く、艶のある髪の上から、少し緊張しながら頭を撫でた。
由希姉の顔が近い。目を見つめてくる。目を逸らしてしまった。
「ありがとう」
 ふふ、と笑いながら言う。安心したが、また不安に襲われた。どうすれば、この人の境遇を壊せるだろうか。早くしないと、この人ごと失う。そんな気がした。
 悩んでいると、後方から音が聞こえてきた。ずっとついていたはずのテレビの音に、今更気づく。壁に寄りかかってテレビを見ている由希姉に倣い、俺も並んで壁に背をつける。
 テレビの映像は、ある紛争地域の取材映像だった。広大な地面に、それを埋め尽くすように大量のグレーのテントが設置されている。女性のナレーターの声で、この映像はマレーシアの難民キャンプの映像です、という説明が流れている。東南アジアの国一体に広がる紛争。宗教、民族対立、政治への不満。様々な理由で祖国を追われた人たち。そこでは、新聞紙と思われる紙に火をつけて寒さを凌ごうとする小さい子供たち。大きな桶のようなものを持ち、重たそうに、ヨロヨロと中に入った水を運ぶ女性たち。そしてブルーのジャンパーを着た、おそらく医師と思われる人間の前に行列を作り、傷口の手当てを受けている人たち。この国では考えられない映像が流れている。我々が生きるこの国では、皆が屍のような力のない目で、悶々と日々を過ごしている。だがこのテレビの中の人たちは、皆が険しい表情をしながらも、「生きること」に執着している。日本人とは違い、皆が力のある眼と引き締まった表情をしている。
 チャンネル変えようか。
 そう言おうと思い由希姉を見た。だが由希姉はテレビに釘付けになっている。再び画面に目を戻すと、親娘と思われる二人が映し出されていた。背が高く肩幅の大きい父親に、少女が肩を抱かれている。父親は、菓子パンだろうか。袋に入ったパンのようなものを、娘に渡している。受け取る娘。だが娘は、渡されたパンをちぎった。その片割れを、父親に渡す。父親は受け取るが、そのパンは娘が持っているものより少し大きかった。父親はそれを娘に返し、娘の持つ小さい方のパンを受け取る。そして二人は、アハハ、と屈託のない綺麗な笑顔で笑っている。
「しにたい……」
 か細い声。見ると、由希姉の頬を涙が伝っている。何が起こったのか、何と声をかけていいのかわからない。固まっている俺に気付き、由希姉は細い指で涙を拭う。
「冗談よ」
 ふふ、といつものように笑う。苦しすぎる嘘。
 テレビの映像はその親娘以外にもいくつかの家族を映し出した後。何人かのコメンテーターの声を拾い、天気予報に変わった。
 再び由希姉の顔を見る。涙は流れていないが、その澄んだ美しい瞳はいつの間にか黒く淀み、濁りを帯びていた。冷たく、弛緩した低い声で何かを決意したように言った。
「でもね。最期は、好きな男に首を絞められたい。嫌な記憶を、全部上書きしてほしいの」
 
 弱く、情けない。みっともないものが目からこぼれていることに気付き、現実に戻された。20年前の断片的にしか残ってない記憶が繁殖するように、最近新たに蘇ってくる。まだその断片たち同士が繋がることはないのだが。
 由希子はなぜ、俺に昔の話をしないのか。断片的な話は何度かしたことがあるが、その核心については何も話そうとしない。
 自分の左手に嵌められたリングの内蔵カメラを、自分に向ける。ラナン数値:14という表示が出る。一ヶ月前は15だった。柚菜の息子を攫いたいと思い始めたのが、数値が下がった原因か。ちなみに、昨年の今頃の数値はたしか17だった。ずるずると、足が地面に引き摺り込まれていくようだ。この緩やかな煉獄から、本物の地獄に引き摺り下ろされていく。あと数値が5つ減点されれば、殺処分。
 由希子は知っているのだろう、徐々に俺の数値が悪化していることを。そして、核心を突かれたら俺が狂い、数値が10を下回るとでも思っているのか。それとも俺に知られたくない、何かがあるのか。
 この歳になってようやく由希子の闇に、少しずつ近づけている。もう遅過ぎるかもしれないが。たった一言、「昔何があったのか」聞けばいいのに、なぜそれが聞けないのか。
 記憶が蘇り、余計に頭が混乱している。あの日殺した男。血の海に埋もれていた男は、ずっと由希子の家の居候だと思っていた。だがはっきりと思い出した。わざわざ由希子の母親が、金に余裕がないのに養うような男。目鼻立ちのはっきりした俳優のような、体の引き締まった男だった。あの目の窪んだ汚らしい肥満男とは正反対の男。俺が殺したのは、一体誰だったんだ。
14。この数値が頭から離れない。こんなことを考えている今、数値はたちまち13になっているのではないか、そんな強迫観念に囚われる。笑ってしまう。こんな状態の男から「入院しよう」と言われても、そりゃあ説得力がないよな。
 明日も柚菜の家に行く。だが行ったところで何ができる。口にはしなくても、「入院してくれ」と顔に書いてある俺に、会うのもうんざりなのでは。そう思うとやるせなく、無性にイライラしてくる。さっき吸ったばかりなのに、また新しいタバコに火をつけた。
 
 今思えば、柚菜の手首を見たあの日。どれだけ恨まれようとも、無理やり病院に連れていくべきだったのかもしれない。奴らを殺した今も、そんな考えが頭を支配する。
 
 翌日の夜、柚菜は家にいなかった。珍しい紙のメモ書きが机の上にあった。
「本当にごめんなさい」
 そう、書かれていた。


 2074年9月3日。東京都港区西麻布。厚労省庁舎を出て、都道412号線上を公用車が走る。六本木方面に向かい、ただひたすら道なりに進んでいる。やがて「西麻布」と信号機の横に表示されている交差点をまるで意思を持っているかのように、この鉄の塊は自発的に軽やかに右折する。右折した後すぐに細い路地に入るために左折した。眼前には、低層マンションや一軒家が建ち並ぶ住宅街が姿を現す。時刻は21時48分。街灯たちが仄かに通りを照らしているが、そこに照らされる人影は一切ない。閑静な住宅街をそのまま進むと寺が現れる。大都会、現代的な建物の中にポツリと聳える寺には違和感しかない。その寺の手前で公用車は止まった。俺は高山慶介を置いて、一人で目的地に進む。俺が戻るまでの二時間、高山は車内で一眠りするのだろう。車は走り去らずに停車したままである。
 木々の緑に覆われた、3階建ての大きな一軒家。放置された汚らしい覆われ方ではなく、人工的に整えられた緑に覆われている。その緑の間を潜り抜けると、銀のメタリック調の壁が現れる。壁は俺の姿を映し出す。壁の手前まで近づき左に顔を向けると、やはりそこも壁。だが、壁の右隅には穴が空いている。穴の中に手を入れれば、拡張現実の画面が浮かぶ。1から9までの数字が並ぶ画面。事前にリングに送られていた4桁の数字を入力し、エンターキーを入力。壁は開き、真っ暗な室内へ誘う真っ赤な絨毯が姿を現す。絨毯に導かれながら進むと、「いらっしゃいませ」という声が聞こえる。短髪にポマードを塗りたくった光沢のある、清潔感溢れる男性が出迎えてくれている。名前を告げると「お待ちしておりました」と頭を下げ、さらに奥に案内してくれる。進むにつれ、ピアノ、サックス等の楽器が織りなす色っぽい音色が聞こえてくる。やがて眼前には暖かみのある薄暗い照明に照らされたソファ、テーブルが並ぶ空間が現れる。高級なスーツに身を包む中年男たちの集団。胸元を大きくあけ、幾重にも巻かれた緩やかな髪を揺らし笑う女性たちと男たち。奥のカウンターに目を向ければ、若い男女が静かに、楽しそうに酒を飲む姿も目に入る。日中の忙しさから解放され、違法のアルコールと煙に身を預ける場所。精神至上主義社会で忠実に生きる市民が見たら眉を顰めるような光景。倫理的に乱れたこのエロい空間は、仕事の話をするにも、あるいはいかにも、という目的にも適した場所。昔は実業家たちのステータスが高く、そういった人種が集っていたらしいこの港区界隈も、この大監獄社会では政治家・官僚たちのステータスが再浮上し。見かける男は皆お堅そうな、つまらない顔立ちをしている。
 そんな一階のフロアを奥まで進むと階段が現れる。「足元お気をつけください」と言い、案内人の男性は階段を登る。二階に上がると、一階とはまた違ったジャズの音楽が流れている。先ほどよりも更に穏やかな音楽に包まれ歩みを進めると、誰もいない空間の中に一人、カウンターに腰掛ける男の背中が見えた。明らかにガタイの良い男は、楽しそうに目の前のマスターと喋っている。案内人は「失礼します」と言い、恭(うやうや)しく頭を下げる。カウンターに近づくと、マスターがこちらを見て小さく頭を下げる。それに気づいた男が振り返る。
「よぉ不良息子、なんだか久しぶりじゃの〜」
 初老のヤクザ刑事が笑いながら言う。約一ヶ月前、氷の女王に叱られてから親父と関わることが減った。一緒に組むことがなくなると途端に会うことがなくなるのだな、と思った。この一ヶ月は厚労省庁舎内で一度も親父を見かけなかった。俺も柚菜の件があったから、今までは毎週飲んでいた親父とも連絡をすることがなく。こうやって酒を飲むのは、それこそ一ヶ月ぶりではないか。久しぶりに会いたくなったから連絡した。「今日空いてるか?」と聞いたとき一瞬沈黙があったが、快くOKしてくれた。
 久しぶりの再会を祝った。LAPHROAIG. 独特の香りと塩っぽい後味のウイスキー。ロックで飲むそれは、今の憂鬱な気持ちを殴って麻痺させるように重たく、苦い。タバコで口直しする。隣の親父は葉巻を燻らせている。プレミアムシガー、パルタガス。以前試しに吸ってみたが、喉が痛くなるほど煙が重く、苦かった。よくこんなもん吸ってられるな、と来る度に思う。
 ここは親父の行きつけのバー。マスターとも長い付き合いのようだ。俺も何度か来たが、いつ来ても雰囲気が良い。
「全然出勤してなかったな」
 葉巻を咥えている親父に問う。
「あぁ、まあの。ベテラン刑事様は忙しいんじゃ」
 この人とは8年の付き合いになる。秘密が多いこの男。仕事に関しては特に、このようにはぐらかすことが多々ある。この老神という刑事は、公安の中でも異質な存在だ。同じく未来犯刑事であるにも関わらず、精神健常者組の同行無しに外をほっつき歩ける。係内、刑事課全体の会議いずれにも、時々出席しない。この一ヶ月のように、全く庁舎に出勤しなくてもお咎めなしだ。何より、庁舎内の宿舎に閉じ込められていない。精神健常者のように、一般社会で普通に暮らしているのだ。いくら親父がベテラン刑事だからといって、ここまで優遇されているのは異常だ。
 親父が話題を変える。
「そういや、あの小僧はどうなったんじゃ」
「白豹会の?」
「ほうじゃ」
「刑務所突っ込まれたよ。たしか青森、だったかな」
 ほうね、と親父が言う。
「結局俺が取調することになったんだけど。何にも収穫なかった」
「やっぱ末端のチンピラじゃあ、何の役にも立たんのう」
 親父がロックを飲み干す。次は山崎の12年もらおうかの、とマスターに告げる。俺よりも早く呑み始めていた親父が、だんだんと仕上がってくる。
「ああでも、白豹会がどっかに吸収されるかも、とか何とか言ってたな」
「ほう、どこに」
「知らんけど。あのガキが言うには、たぶん極東会じゃないか、って」
「……」
「なんか知ってるのか」
「いや、初耳じゃ」
「そうか」
 俺もロックを飲み干す。マスターにビールを頼む。
「あとはもう、何にもなかった。週刊記者みたいなことしか言ってなかった」
「ほう、どんな」
「公安にスパイが入り込んでるだの、皇海組の幹部を非公式に殺した奴がいるだの、公安が電波傍受システム運用してるだの。バカみたいなことしか言ってなかったな」
 タバコに火をつけ煙を補給する。違和感。親父ならガッハッハ、と笑うかと思ったんだが。
 隣を見ると、親父は一点を見つめている。だがそれも一瞬だった。
「……やっぱあのガキ、シャブ喰らってたんかのう」
 そう言って、ハハハ、と笑った。
 色黒で、鷹のような鋭い目。真っ黒なシャツの上に、真っ黒な上下のスーツを着た刑事。いつもの眼光鋭い眼は酒のせいなのか、その光が微弱に思えた。
 もうすぐ刑事生活40年。断片的にしか聞いていないが、この刑事はラナンが猛威を振るう前から、叩き上げの刑事として活躍していた。ラナンが支配する前の日本では、よっぽどのことがない限りは刑事が犯人を射殺することなど無かったという。どんな極悪人に対しても一応は人として扱い、取調室では時に熱い人間ドラマが繰り広げられることもあったらしい。いわゆる、落とし。犯人の心を包み込み、泣きながら自白させるような人間ドラマ。だがそれもラナンが出現してから姿を消した。極悪人は自白させるまでもなく、リングを向ければ数値が教えてくれる。刑事はただ数値に従って、罪人を射殺すれば良い。
 腹が立った。以前、親父はそう言っていた。自分が信じてきた刑事という仕事、そして自分という人間を全否定された気がした、と。刑事は誰かを守る仕事だったはずだ。だが今では極悪人をただ殺し回るだけの、殺戮マシーンに成り下がっている。
 そんな親父の微弱な光を見て、何だか寂しい気持ちにさせられた。マスターからビールを受け取り、グラスの半分まで飲む。
 8年前。俺が18歳の時にこの人は、由希子と一緒に青森まで迎えにきてくれた。今も溌剌(はつらつ)としているが、あの頃は今以上に力に満ちていた。仕事おわりは年中飲みに連れていかれ、この辺りのキャバクラやラウンジには一通り連れ回された。「わしのこと、親父と呼んでもええぞ」と、しつこく言われた。
 刑事一年目の時。街中で起きた殺人事件の犯人を、親父の指示を無視して深追いしてしまった。思いの外屈強な犯人に返り討ちにされ、馬乗りでナイフを振り下ろされた。首元は避けられたが犯人の腕を止めきれず、口の左側、頬にかけてを切られた。殺されかけたところを助けてくれたのも親父だ。親父は指示を無視した俺を叱ることなく、ただ、無事で良かったと言ってくれた。
 もう56歳だ。肉体的に激務な現場刑事。そろそろ引退を考えてもいい年齢である。はっきりと話してくれたこともないし、あえて聞いてこなかったがこの人には昔、家族がいたのだろう。酔っ払うときに発する単語や雰囲気から、容易に察することができる。子供がいたとすれば。今も生きているのであれば息子なのか娘なのかはわからないが、俺と同じぐらいの年齢だろうか。
 わしのこと、親父と呼んでもええぞ
 親父の半生を思うと、この言葉の意味が変わってくる。臓腑の奥が熱くなるような感覚。同時に、嬉しいと思う気持ちも倍増した。
 何だか酒が飲みたくなる。9月の、まだ暑さが嫌というほど残る季節に北風が吹くような寂しい感じ。酒に弱いくせにアルコールで誤魔化したくなる。グラスに残ったビールを飲み干し。マスターに、親父と同じ山崎の12年を所望する。
「なんじゃい、大丈夫か」
 ガッハッハ、と親父が笑う。人の気も知らないで。
 柚菜。アルコールで誤魔化そうとすればするほど、彼女のことが頭を擡げる。なぜ消えた。そんなに俺が鬱陶しかったのか。普段使わない紙などというデッドメディアにあんな書き置きを残して。由希子にも何も言わずに。
 柚菜の自宅周辺の監視カメラは全て洗った。先週の2074年8月26日夕方、おそらく買い物帰り柚菜を、家の近所のカメラが捉えている。その後、柚菜の自宅で俺と会っている。だがそれ以降、自宅周辺のカメラのどこにも、柚菜の姿が映っていない。この監視社会で、街中に張り巡らされた監視カメラを掻い潜って逃亡するなど不可能だ。ましてや、一般市民である柚菜が。
 殺されたのか。いや、そんなはずはない。柚菜の自宅の隅という隅、全て調べた。争った跡も、家具が動かされた形跡も微塵もない。トイレや流し、風呂の排水溝も調べたが血液反応も死体の断片も見つからなかった。柚菜が部屋の中で殺され、細かく刻まれて流された、という線もないはずだ。
 攫われた? だが柚菜の低層マンションのカメラ映像を見たが、8月27日の夜、俺が柚菜の部屋を出て以降、誰も柚菜の部屋を出入りした映像はない。まぁ、犯人がその映像を、架空の映像にすり替えたのかもしれないが。それにあの書き置き。柚菜の筆跡など数えるぐらいしか見たことがないが、なぜか確信している。あれは柚菜が書いた字だ。攫われる者が、書き置きなど残せるだろうか。
 柚菜は息子を妊娠する以前、建設系の中小企業で総務担当をしていた。職場の同僚、上司にあたったが空振り。柚菜の人柄で、誰かから恨みを買っていたなどの情報は予想通り皆無だった。業務内容的に人事業務も担当していたため、不特定多数の人間と面接し合否判定に関わる立場だったが、殺されるほどの恨みを買うとは到底考えられない。
 友人関係も当たったがダメだった。柚菜はこの一年、杜原が殉職してから友人との関わりはほとんどなかった。柚菜が思い詰めた様子であることは友人は皆知っていたが、希死念慮や、失踪につながる情報などは皆無。なんの進展もないまま、一週間が過ぎた。
 捨てられた。
 柚菜が今どうなっているかもわからない、もしかしたら拉致されて拷問されているかもしれない中で、こんな情けない想いに支配されるなんて。本当に自分が嫌になる。
 生きていてほしい。謝りたい。柚菜の苦しみを何一つ理解できず、逆に追い詰めてしまったことを。同じ目線で、一緒に苦しめなかったことを。
山崎の12年、ロックを下品に一気に呑み干す。頭がクラクラする。
「もうやめちょけ」
 親父が俺からグラスを没収する。朦朧とする意識の中で、親父がマスターに目配せするのが見えた。応じたマスターが水と氷の入ったグラスを俺の前に置く。酒というのは恐ろしい。この朦朧とした気分のまま人生が終わらないかな、と思ってしまう。政府がアルコールを違法とする理由が実感を持ってよくわかる。
 ぼやける意識の中、覚束(おぼつか)ない手でタバコを取り出し火をつける。口から煙が出る感覚が心地よい。
「のう、大牙」
「……ん?」
「人を殺したこと、後悔しちょるか」
 今まで刑事として、大量の犯罪者を殺してきた。ただの仕事なのだから、後悔もクソもないだろう。やさぐれたくなる気持ちが湧いて出てくるが、しょうもなくて余計惨めになるからやめた。親父が聞いているのは、20年前の話だ。
「全然」
 後悔するわけがない。あんな汚い豚、殺されて当然だろう。親父も昔、言ってくれたじゃないか。「きっと、お嬢を守ったんじゃろうな。お前は素晴らしい男じゃ」と。
「……ほうか」
 親父はいつの間にか葉巻を吸い終わっており。胸ポケットから、薄い青色のパッケージのハイライトを取り出している。なんだ。何が聞きたかったんだ。
「後悔してる、って言った方がよかったか?」
 ふん、と親父が鼻で笑い、タバコに火をつける。そういうことじゃないわい、と。
「親父は、後悔してるのか」
「……」
 ゆっくりと煙を吸い、吐く。微弱な眼光でぼんやりと、前を見ている。親父が誰を殺したのか知らないが、初めて会った時からわかってた。見ればわかる人殺しの眼。仕事以外での、激情の結果としての、殺人。
 親父と俺は同じ人殺しだ。仲間だな。
 昔そう言ったら、ふん、と鼻で笑われたことを思い出す。
「わしも後悔しとらん。じゃがの、結局それは独りよがりじゃったと、年をとるほど思わされる。最近、特にな」
「……」
「結局どうすりゃよかったのか、今でもわからん。ほいじゃけどな……残された人間は、たまらん。殺された人間もきっと、復讐なんかせんでくれと、そう思っとるんじゃろうなぁ。とかなんとか、色々意味もなく考えるんじゃ。わしももう、じいさんじゃのう」
 ガッハッハ、と笑い。マスター、もう一杯山崎くれや、と言っている。
 親父がなぜ、こんな独り言を俺に聞かせたのか。だんだん頭が痛くなってきて、考える余裕がない。俺は何かを諭されたのか。酔っ払っているせいか、親父らしくない物言いになんだか腹がたつ。
「そんなこと言って。今大事な人間が殺されたら、絶対復讐するだろ」
 睨むように、親父を見てしまった。親父は笑わなかった。ハイライトを吸い込み、ゆっくり吐き出す。その眼になんの感情が浮かんでいるのか、俺には読み取れなかった。
 ほうじゃのう。
 同意とも否定とも取れない。抑揚のない声で言った後、再びガハハ、と笑った。


 頭が痛い。親父のせいで変な酔い方をした。何より、二日酔いなのに早朝から四係長に叩き起こされたから、余計に頭が痛い。もう少し寝ていたかったのに。
 2074年9月4日、7時54分。同様にあまり寝ていない高山慶介と共に、指示された現場に来ている。酒の抜けきってない憂鬱な時に限って、雲ひとつない秋晴れの空に、余計にうんざりさせられる。
 東京都渋谷区広尾。六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、恵比寿ガーデンプレイスにも近いこのエリアは、都内屈指の高級住宅街である。駅前には下町情緒のある商店街があり、そこから奥へ入っていくと閑静な街並みが現れる。名門私立学校や広大な緑に囲まれた有栖川記念公園もあるこの街は、利便性、街の静けさ、美しさ、建築物のデザイン性、あらゆる項目において完璧といえる。こういった街は落ち着かない。そんな上品な街に似合わない刑事二人は、紫藤(しどう)邸の門を通された。
 紫藤家。都心の超一等地に8000平米近くの敷地面積を保有する一族。白塗りの城のようなデザインの4階建ての邸宅。広い庭園には樹木が生い茂り、その間を清らかに流れていく川やその終着点の池が見える。手入れが隅々まで行き届いた芝生の庭を、白く映える煉瓦の通路に導かれながら歩く。使用人の方は、明らかに来客ではない相手に対しても丁寧な所作で、邸宅の入り口に向かって案内してくれている。側から見れば上品そのものの家だがその実態は極めて血生臭く、その落差に笑ってしまう。
「噂通りの家ですね……すごいな」
 後ろから歩く高山慶介が呟く。170cm前後、メガネ、肥満。陽菜と同様にエリート街道を走ってきたガリ勉の、精神健常者・キャリア組刑事。まだ23歳なのに30代に見える、童貞。かどうかは知らないが、絶対にそうだと思う。常時どこか落ち着かない所作は、女性と対峙するとそれが倍増する。「自分だって女ぐらいいますよ!」と以前言っていたが、その言い方や雰囲気がもはやそれだ。いい奴ではあるのだが、腹が出ているから少し嫌い。あの豚男を思い出すからだろうか。成人男性の1日の基礎代謝量、1500キロカロリー。日々の摂取カロリーをこれ以下に抑えるだけ。どんなバカでもできることが、なぜできないのか理解に苦しむ。未来犯丸出しの認知の歪みであることは重々承知しているが。可哀想なことに、陽菜はこの肥満男に好かれている。高山は陽菜に気付かれてないと思っているのが更に痛い。「陽菜に言うぞ」という小学生のような脅しで大体の要求が通るから、それは有難い。
 使用人の方が黒い鉄に金の装飾が施された大きな玄関を開けると、光沢のある白一色の空間が広がる。昔見たディズニー映画の音楽が聴こえてきそうだ。二本の大きな柱に出迎えられ、そこを通過すれば螺旋階段が立ち上っている。だが階段は使わず、その奥に設置されたエレベーターに乗る。エレベーターで4階まで上がると、目の前には居間と思われる空間が現れた。フットサルコートがすっぽり入りそうな広さのこの空間で、ゆっくり寛げるイメージなど微塵も湧かない。天井に散りばめられたガラスのシャンデリアたちを見れば、蹴ったボールが直撃して粉々に割れるイメージはありありと描ける。
 居間を抜けると、また螺旋階段が現れた。今度はここを上るらしい。階段の足場には、少し黒く深みのある艶やかな紅色の布が敷き詰められており、踏む感触が心地よい。ただ、ここが紫藤家の階段であるため、どうもその色が血液に見えてならない。
 階段の途中で、使用人の方がリングの拡張現実に浮かぶ何かのボタンを押した。すると階段の途中で行く手を阻んでいた天井が、ゆっくりと開いていく。開いた先には、先ほどうんざりさせられたどこまでも青い空が広がっている。屋上庭園。樹木などはないが、隅々まで手入れされた芝生が現れる。その芝生の真ん中。白い柱に支えられた屋根の下には、10人ほどが座れるテーブルと椅子がある。遠目にも分かる、物々しい雰囲気。小柄な爺さんの周りを、紫藤家の人間と思われる7人が囲んでいる。うち6人は40〜60代の男。たった一人、若い女性がいて浮いている。爺さんの背後には、190cmを超えているであろう屈強な熊二匹が、サングラスをかけて手を後ろに組み立っている。
「うわ、本物だ……」
 ミーハーな高山が声を漏らす。まるで幻の生物を発見したかのように。まぁ、幻の生物であることに変わりはないが。
 紫藤義嗣(しどうよしつぐ)。御年84歳の小さい爺さんは、日本の政財界を代表する人物である。初代社長の紫藤武義(しどうたけよし)が1894年に当時の帝国新聞を発刊する帝国新聞社を創業。初期は純粋な新聞稼業を営んでいたが、三代目の紫藤義男(しどうよしお)の代から異変が起きる。紫藤義男は表向きは実業家でありながら、裏の顔は大物右翼活動家であった。昭和13年、1938年。紫藤義男は海軍航空本部中将、山中正(やまなかただし)中将から「これからは航空第一主義でいかなくては戦争で勝てない。だが現在、我が海軍航空本部は、必要資材の不足に頭を悩ませている。そこで国内生産ではとても間に合わないから、早速上海その他の外地で、わが本部の必要とする資材を大量に獲得したい。その業務を一切担ってもらえないか」と依頼される。
 紫藤義男は二つ返事で承諾。秘密裏に商社を設立し、戦争物資供給を一手に引き受ける。この法人は当時の政界では「紫藤機関」と呼ばれた。これをきっかけに、紫藤義男は政財界へのフィクサーとしての道を歩み始める。1945年の敗戦後、当時の総理と連合国軍最高司令官を引き合わせたのも、この紫藤義男であると言われている。
 戦争資材供給の傍ら、中将と対立する一派の主要人物暗殺を引き受ける中で、任侠の世界とも昵懇になっていくのも想像に難くない。以降、日本ではいくつも汚職・経済事件が発生するが、裏には常に紫藤家が絡んでいると言われている。
 日本政治・経済史の膿である、紫藤家の代々当主。七代目当主の紫藤義嗣閣下は巧妙な印象操作の結果、世間では慈善事業家というイメージが定着している。帝国新聞社は現代では3社しかないテレビ局の筆頭、日本国テレビの主要株主。マスメディアによる大衆煽動は意のままである。自身の財団法人の社会貢献活動である難病児の医療支援、紛争国へのボランティア派遣、知的・身体障害者の奨学金事業など、数十個の社会事業の運営状況をその煽動力で宣伝し、紫藤は日本の一つの顔とも言える大企業であり名家である。だがその裏側で、今も三代目の「紫藤機関」は残っており、政財界の汚れ仕事を引き受けている。それは今も国内だけでなく海外、特に東南アジア圏でも影響力を強く持っている。
 160cmほどの小柄のくせに、見事な殺し屋の風格。遠目からでも、禍々しい気を放っているのが分かる。まだ会談が終わってないらしく、我々は屋上庭園の入り口で使用人と共に待機させられている。今週はこいつをこういう手順で殺しましょう、という話でもしているのか。
 なぜ、こんな場所に来ているのか。それは早朝に四係長から「紫藤家の子供が拉致された」という報せを受けたからだ。今は柚菜の件で気持ち的にはそれどころじゃないんだが、仕事だから仕方がない。現代は子供の希少価値が高く、子供を攫う事件はちらほら発生する。だが、攫われるのは大体が児童養護施設の子供など、攫うリスクが低い子供たちだ。一般家庭の、しかも日本のフィクサーの家から子供を攫うなど、正気の沙汰ではない。犯人の目的はなんだ。常時使用人、ボディガード、監視カメラで固められているこの紫藤家の屋敷で、どうやって拉致を成功させたんだ。誘拐されたのは紫藤義紅(よしき)くん、2歳の男の子。何人いるか分からない紫藤家の奥様方のうちの一人、のご子息。苛烈な世襲競争にさらされるであろう男児たちの一人だ。
 数分待たされたが、やっと会談が終わったようだ。爺さんは杖をついてよっこらしょ、と立ち上がり。その他全員もすぐさま起立した。爺さんがゆっくりと歩く後ろを、二匹の熊と取り巻き達がついていく。浮いていた若い女性は、取り巻きたちの少し後ろを、俯きながら歩いている。爺さんはまだ遠くにいるのに、後ろの高山があわあわしているのを背中で感じる。
 紫藤が近づいてきた。こちらに関心を向ける様子はない。一応、我々は芝生上の、太陽に照らされて反射している眩しい白レンガ通路を空けている。その通路を、のろのろと通り過ぎようとした時。
「あ、ご、ご苦労様です」
 と、バカ丸出しの挨拶をする高山。お前は昔の極道か。
 熊たちと取り巻きに睨まれる高山。あ、すみません、と言っている。なんで関係のないお前が挨拶する必要があったんだ。素通りするかと思いきや、紫藤閣下は高山を見る。そして俺の顔を見た後、あぁ、と言った。
「皇(すめらぎ)くんのところの子たちかな」
 爺さんが応じる。皇京伽(すめらぎきょうか)、厚生省公安局局長。
「はい、そうです!」
 構ってもらえて喜ぶ高山。紫藤家は公安とも関わりが深い。今回は曾孫が拐われた件で一応公安に世話になるから、受け答えぐらいはしてやろう、ということか。爺さんは高山から目を逸らした後、出口に向かって歩き出した。
「そうか。紫藤の看板に泥を塗る輩だ、速やかに殺処分してくれたまえ」
 飛び回る蠅でも殺す、かのように。こともなげに言った。人の命を心の底から、虫の命とでも思っている言い方。そもそも、曾孫が拐われたことについて、心配、という温度感が微塵も伝わってこない。「自分の面子が汚された」ということしか頭にないからこその言葉。それに、たかが実業家のお前に、「速やかに対応しろ」などと言われる筋合いはない。
「物騒な物言いですねぇ。慈善事業家の言葉とは思えない」
 ひっ、という情けない豚山慶介の声と共に、場の空気が凍る。取り巻きたちの睨みが一点に降り注がれる。絵に描いたようなコメツキバッタ共。北朝鮮の軍隊行進の如く、所作が揃っていて笑ってしまう。そしてゆっくりと、通り過ぎたはずのジジイが止まり、こちらを振り返る。泥沼のように濁りきった、黒い瞳。そこには何の感情も乗っていない。「この世を監視し、支配するために生まれてきた」と自惚れている年寄りは大嫌いだ。
 ジジイは俺の眼を見た後、首元を見つめた。そして何かを思い出したように、ああ、と呟いた。
「皇くんがぼやいていたな。ヤクザ気取りのチンピラ刑事が二匹いる、と。なんでも、取調中に被疑者を殺そうとするような、碌でもない輩たちだそうだが」
「閣下に知られているなど光栄ですね」
 ふん、と鼻で笑うジジイ。今頃高山はどんな顔をしているのか。
「やれやれ……今や権力が掌握するのは命そのもの、という時代に、こんな精神異常者が生まれてしまうとは。せっかく、民が民同士を監視し律し合う社会を作り上げたというのに」
「生権力、ですか。あなたがフーコーを持ち出すなどタチが悪い」
 ヘコヘコするしか脳がない中年の側近Aが、おい、と割り込んできた。
「お前、いい加減にしないか」
「コメツキバッタは黙ってろ」
 た、大牙さん、と高山が斜め後ろであわあわする。俺の間接視野に入り込む側近Aの怒りが露わになるその時、紫藤が笑って制す。
「チンピラのくせに学があるのか、おもしろい」
 爺さんの口元が緩んでいるが、目が笑ってない。
「なぁ、犯罪者。お前のような異常者を生み出さないためには、どうしたらいいと思う」
「フランス絶対王政の時代に戻るべきでしょう。生権力が現れる前、死と恐怖による権力」
「精神の拘束ではなく、直接的な身体の拘束、か」
「殺し屋一族にとってはその方が得意でしょう」
 爺さんから笑みが消えた。背後にいる熊二匹が銃口を向けてくる。豚山は声にならない悲鳴をあげる。流石に調子に乗りすぎたか。ジジイの「射て」の二文字で、俺は死ぬ。
 だが。数秒、泥沼のような澱んだ眼で捕えられた後。爺さんは手を挙げて熊たちを制す。かろうじて、殺す方が割に合わないようだ。先ほどまでの84歳らしい嗄れた声から一転。太く、対象を威圧する強さを帯びる。
「威勢がいいのは結構だが。お前も、あのヤクザ刑事の二の舞にならないといいな」
「……どういう意味だ」
「いずれわかる。お前ら木端役人は所詮、主人が右手で何をしているのか知らないまま左手でこき使われているのだと、気づいた時にな」
 ジジイは再び口元を歪め笑った後、背を向けてよろよろと歩き出した。熊と側近達も一人を除いて傀儡のようにジジイに倣い、ゆっくりと目の前から消えていった。
 左後方を見ると、高山の顔が真っ青になっている。銃口を向けられる免疫が全くついていないこのエリート。股間はかろうじて濡らしていないようだ。
 高山から眼を前方に戻すと、ジジイ一向が去った後も側近の一人が深くお辞儀をしているところだった。やがて顔をあげたその人は、側近達の中でも浮いていた若い女性。女性はすぐにこちらを向き、再びぺこりと頭を下げた。
「先ほどは祖父が申し訳ありませんでした…朝早くからお越し頂きありがとうございます。義紅(よしき)の母の、紫藤莉音(しどうりおん)と申します」
 
 使用人の方は離れ、莉音が案内を変わった。先ほどの物々しい会談が行われていた、その芝生の真ん中。白い柱に支えられた屋根下のテーブルに着く。爺さんの件があったから、引き続き頭が痛い。
 事件のいきさつは莉音から大体聞いた。朝6時過ぎにベビーシッターの人が義紅くんの部屋に行った際に、義紅くんが不在であることを発見。すぐに莉音や紫藤家の者に報告が入るが誰も義紅くんの行方を知らず、拉致されたことが判明。通報された情報が我々の元に入り、今ここに駆り出されている、ということらしい。最後に義紅くんの姿を見たのは別のベビーシッターの方と莉音。昨日23時半頃に、寝ている義紅くんの姿を見たのが最後。最近はすっかり夜泣きもなくなり、一度寝たら朝まで起きないとのこと。つまり、23時半頃から翌朝6時前の間に連れ去られている。ちなみに監視カメラは、門の入り口から義紅くんの部屋への導線を映すものは破壊されていた。端末保存ではなくサーバに常時転送されている映像は、4時16分で途切れている。つまり、4時16分から6時前の間に犯行に及んだ。
 これで警備員の人間が失踪していたりしたら、捜査的には単純で有難い。そう考え始めた時に、使用人の方があったかいコーヒーを持ってきてくれた。本物の豆を使っているらしく、めちゃくちゃ濃くて美味い。ぼーっとする頭が覚める。高山は大量にミルクと砂糖を投入していた。心身ともに凍っていた高山が溶解していくのを隣で感じる。
 事前にここに向かう公用車内でファイルには目を通してきた。紫藤莉音、29歳。7代目当主紫藤義嗣の孫娘。こちらで把握している情報では孫は11人いるが、実態はおそらく20人以上いるのではないか。それにしても、目の前の女性からは先ほどの爺さんと同じ血筋とは思えないほど物腰柔らかく、人格者の雰囲気を感じる。ダークブラウンのショートカットが似合う、童顔でかわいらしい背丈の小さい女性。
「昨日の23時半から本日6時前の間に、義紅くんは何者かに連れ去られた、ということですね。ちなみに、こちらの警備体制はどのようになっていたのでしょうか」
 莉音に問う。
「えーと……敷地の入り口に警備員1名と、あとは玄関に1名。他には敷地の門の横に警備員室があって、そこに1名。基本的に3人体制で回しています」
「室内の巡回警備は」
「二時間に一度、実施するようです。警備員の方が配置を二時間に一度変わるのですが、その交代のタイミングで、休憩に入る警備員室の方が、休憩前に実施します」
 なるほどな。最低限の警備体制はあった。
「ただ……その……」
「なんでしょう」
「シフトに入っていた警備員3名のうち2名が、連絡が取れない状況なんです」
 ビンゴ。金に目が眩むバカはどこにでもいる。
「では警備会社に当たります。どちらの会社かご存知ですか」
「たしか……アセナセキュリティです」
 警備会社大手。どうせ紫藤と繋がりの深い会社なのだろう。問題は、警備員を買収した奴が誰か、だ。そいつが特定できれば終わる話。思ったよりも単純そうな事件で助かる。いや、そういう言い方は被害者の方に失礼だな。
 目の前の苦くて最高なコーヒーを口に運ぶ。次のアクションが明確になったから次に行こうか、と思ったが目の前の莉音の表情は暗い。目線は合わずに俯き加減。愛する息子が攫われたのだから当然だ。今も犯人達に囲まれて、震えて泣いているに違いない。あるいは……と、最悪な結末を浮かべているかもしれない。だがそれ以上に、何かまだ言えてないこと、抱えている想いがあるような気がした。
 何か、ありますか。そう聞くよりも、彼女の想いを整理してもらった方がいいかもしれない。そう思い黙ってコーヒーを頂いていると、彼女がゆっくりと口を開いた。
「あの……犯人は義紅の実の母親、かもしれません」
「え?」
「実は、義紅は私が産んだ子ではないんです」
「……」
 莉音は時々こちらと目を合わせるようになった。が、ただでさえ小さい体が余計に小さく見える。テーブルの下で、両手を握りしめているのだろう。
「厚生省さんが推進されている、子育て認可制度がありますでしょう。義紅が産まれた家庭は、途中で認可が剥奪されてしまったようで……それで私どもに、厚生省さんから紹介頂いた経緯がありまして」
 ラナンが推し進める子供略奪政策。最も嫌いな制度。高山に目配せをする。義紅くんが産まれた家庭について、人材開発局に照会してほしい。了承した高山は離席する。
「昔は特別養子縁組制度がありましたが、今はもうないので……それで認可制度の事務局に登録していたんです」
 ラナンは、柚菜から人権を奪った。人が家族を作り、騒がしく幸せな無数の瞬間を築き上げていく権利を否定した。昔は人間が国家という単位に所属していれば普遍的に与えられていたその権利は、今ではその国家が意気揚々と権利を奪いにくる。人間が子孫を作り家庭を営みたいというのは、人間の本能に基づく欲求。それを否定された人間の絶望を、俺は理解できていないことによる絶望を味わっている。
 柚菜をはじめ、当たり前に享受するべき幸せを奪われた人たち。それを奪って、幸せな暮らしを営んでいる人間たちを、意外にも初めてこの眼で見た。柚菜の気持ちを思うと、目の前の人格者に少し怒りが湧いてくる。だがそんな感情はおくびにも出さず、話を先に促す。
「本当は自然に子供ができたら良かったのですが……私は、その、授かるのが難しかったみたいで。お祖父様には失望されていたと思います。あの方は以前、子を成さない女に価値はない、と仰っていたので」
 改めてジジイに殺意が湧いた。だがそれよりも、先ほどの見当違いな彼女への怒りは一瞬で薄らいだ。この人もまた、華麗なる一族の中で地獄を味わってきたのだろう。彼女が小さく震え始めているのが、何よりの証拠だ。
「紫藤の家の女として失格。私はこの家にいていい人間じゃないから、家を出ようとしました。でも、母と夫が、あなたにいてほしい、と。でもどうしても出たかったら、一緒に家を出るからね、と言ってくれて……」
「……」
「認可制度登録の件は、母が勧めてくれました。最初はすごく抵抗があったのですが、受け入れ家族として登録をしてしまいました。昔の特別養子縁組とは違って、双方の合意のもとでの制度ではないから……私が家庭を成せるというのは、誰かから幸せを奪い取っているからなんだと、頭ではわかっていました」
「……」
「職員さんから義紅と会わせてもらった時、あの子は泣いていました。2歳でしたが、ご家庭ですごく不安が強かったのかちょっと言葉の発達が遅かったみたいで。でも、産んでくれたお母さんから離された、違う家に連れて行かれると言うのは当然わかるのでしょうね……必死に顔を真っ赤にして泣いていました。私はこの子を無理やり誘拐する、犯罪者になった気持ちでした。自分で言い出しておきながら、勝手ですよね……」
 莉音の小さい震えは収まらず。その瞳からは罪悪感が溢れて、頬をつたう。
「でも、この子は誰かが育てなくてはならない。誰かに無上の愛を貰わなくてはならない。誰かがやらなくてはいけないことなんだ、と小綺麗な理屈を並べたてて、この家に来てもらいました。最初は私が抱きしめても大声で泣いて……泣き止まなくて。この子を不幸にしているのは自分なんだ、この子を産んだ母親から子供を奪い取って、私はなんてことをしてしまったんだろう、って。罪悪感で死ぬことばかり考えていました」
「……」
「でも、人間は本当に勝手な生き物ですよね……義紅がきて半年ほど経った頃、ようやく言葉を話すようになりました。そして私のことをママ、ママ、って呼んでくれるようになったんです……」
 涙は一筋で収まらず、その後も流れ出る。
「ひどい女ですが、もうその時には罪悪感なんて消えていました。私はこの子に会うために、今まで生きてきたんだって。変な話ですが、この子はわたしが産んだ子なんだと、なぜかそう思っている自分がいました」
「……」
「これは親が子供を見つけるための制度ではない。子供が親を見つけるための。健やかな精神を育み、幸せに生きるための制度である、と。厚生省さんの謳い文句を鵜呑みにして、私は世の中に貢献している、良いことをしていると。どんどんどんどん、都合の良い思想を自分に吹き込んでいきました。こうして、義紅がいなくなるまで、自分が泥棒だってことを忘れてしまっていました。ごめんなさい、捜査に関係のない話ばかりして」
「……いえ」
「あの子が生きてさえいてくれたら……あの子を連れ去ったのが本当に、あの子を産んだ母親なのだとしたら、たぶんラナンはそれを許さないですよね」
「おそらく」
「そしたら、あの子はわたしのところに戻ってくる。でも義紅が大きくなった時、あの子を産んだお母さんの数値が安定して、認可を取り戻せていたら。義紅に、どちらの母親がいいか選んでもらいたいと思ってます。あの子を苦しめることだとは分かっていますが……」
「……」
「あ、まだ義紅を連れ去ったのがあの子の産みの親だと決まったわけではないですよね……すみません」
 莉音の震えが収まっている、相変わらず両の手はぎゅっと握りしめたままだろうが。涙も収まっている。
 おそらくこれは紫藤家への脅迫。経済的か、政治的なものかはわからないが。義紅くんは紫藤家、つまりあの爺さんから何かを奪いたいなんらかの組織による犯行に巻き込まれた、と考えるべきだろう。本件は一個人が遂行できる犯罪ではない。大体、「我が子を連れ戻したい」という個人的な動機だとしても、「我が子がどこにいるか」など、そんな情報は手に入らない。厚生省によって完全に秘匿されているからだ。だから「紫藤義紅」が狙いの犯行だとは思えない。
 だが、それを彼女に言うのは憚られた。自らを滅ぼそうとするほどの罪悪感から、そう思い込んでしまうのも無理はない。それに、彼女が欲する言葉はそんな言葉ではない。だがそれが何かというのは、わからないでいる。
高山が戻ってきた。照会は終わったようだ。莉音もそれに気づき、口を開く。
「すみません、変な話してしまって」
「いえ、お話いただきありがとうございました」
「義紅のこと、どうかお願いいたします」
 そう言って、彼女は深く頭を下げた。一刻も早く義紅くんを助け出しますと伝えると、少しだけ安心の表情を浮かべた。
 使用人の方ではなく、莉音自身が帰りの案内をしてくれた。来たルートを遡る。天井に散りばめられたガラスのシャンデリアたちが目に入り、やはり粉々に割れる妄想が浮かんでくる。
 一階まで降りそこから庭園に出る。生い茂る樹木の間たちを、白く映える煉瓦通路を踏みしめながら、駐車場に向かう。僕もいつかこういう家に住みたいな〜と、呑気に高山が呟く。「一生無理」に全財産を賭けてもいい。
 大丈夫ですよ、と言ったが結局莉音自ら、公用車の前まで見送ってくれた。ナビ上の「行き先:厚生省庁舎」のボタンを押すと、車は自発的にクルクルとタイヤとハンドルを回しながら動き出した。再び目を遣ると、彼女は深々と頭を下げてくれている。
 これから、千代田区の棲家に戻る。下町風情と中世ヨーロッパが混在するような不思議な高級住宅街を、これから潜り抜けていく。
「どうだった、人材開発局からの返答は」
 高山に問う。
「さっき来てましたね」
 そう言い、高山がリングの拡張現実を呼び出しファイルを開く。
「あ、来てますね。いつ紫藤家に引き取られたのかとか、義紅くんが以前の家で育てられていた時のお名前とか色々、載ってますね」
「名前は何ていうんだ」
「えーと、何て読むんだろう……希矢(ときや)くん、かな。杜原希矢(もりはらときや)くん」


 こじんまりとした部屋。同じ厚生労働省の内部部局なのに随分雰囲気が違うなぁ、と思いながら部屋に入った。2074年9月4日、13時12分。
 本日午前中、広尾から厚労省庁舎に戻った後、緊急の捜査会議が開かれた。そこにいたのは一〜四係の刑事課メンバーと、刑事課長の由希子。通常は由希子が指揮を取るが、今回は様子が違った。なぜか公安部長の佐野がおり、佐野自ら指揮を取るというのだ。この力の入れ具合は被害者が紫藤家だから、ということか。そしていつも通り親父はいなかった。あれから依然として厚労省庁舎に出勤すらしていない。前から会議に出ないなどは度々あったが、これほど長期に、あからさまなのは初めてだ。
 捜査会議が終わった後、飯を食い仮眠を取ろうとしたが、全く眠れなかった。精神的に参っているはずなのに、変に覚醒してしまう。だが地下4階の未来犯宿舎の自室を暗闇にして一時間ほどぼーっと、タバコを吸っていたら、いくらかは冷静になってきた。
 厚生労働省本庁舎から出て国会通りを渡り、本庁舎と違った古臭い建物である別館に入る。そこの12皆、厚生労働省人材開発局子供管理課情報統括グループのフロアに、今は来ている。規則正しく味気のないデスクが並び、規則正しく職員が着席して業務に励んでいるその横を通り過ぎていく。まるで小学校の職員室のような、味気のないフロア。天井が低くて息が詰まりそうになる。そして、百席近くのデスクが並ぶ部屋の奥に、こじんまりと仕切られたブースがある。一応、天井まで壁は立ち上り、外部からは音は遮断されている部屋だが、視界的には外から丸見えである。だが話の内容によっては、外部から見えないようにするためのブラインドカーテンはあるようだ。同じ厚労省なのに、露骨に予算額が違うのが目に見えてわかる。案内されたグループ長の部屋は、デスクと簡単な応接用テーブルと椅子4つを置いたらもう手狭だ。由希子の部屋とは大違い、と思ったが比べること自体がズレている。だが、人材開発局子供管理課は子供認可制度を運営するセクションである。いわば政府の肝煎事業なのだからもう少し予算を入れればいいのに、と身の程をわきまえない考えが浮かぶ。四つの小さい椅子。入り口側の席に、子供管理課情報統括グループ長の田川が座り。奥側の席に俺と陽菜が座った。
「どうぞ」
 先ほどこの部屋まで案内してくれた、グループ長の田川の部下と思われる山下が部屋に入ってきて、お茶を出してくれた。朝はコーヒーだったから違う飲み物が出てきてホッとした。同い年ぐらいと思われる好青年の山下はお茶を出した後、そのまま田川の隣に着席した。
「改めて、この度は申し訳ありませんでした」
 40代ぐらいと思われる中年男性の田川が、深々と頭を下げた。普通官僚というのは縄張り意識が強く、他部署からの詮索を嫌う。ましてや自部署の汚点を晒すなどは自身の評価を下げることに繋がり、なるべく避けたいことだ。だが、目の前の田川はほとんどの官僚が気にするであろうことなどは全く頭にない様子だ。自身の非は認め、協力すべきは惜しまない。今時の官僚に珍しい誠実な人格者だな、と思う。おそらくはあまりよく知らない部下の誰かが、外部に義紅くんの情報を流した。それの責任を深々と謝罪されている。
「いえ、これは我々厚生省全体の問題ですから」
 田川につられ、柄にもない言葉遣いになってしまう。あぁ、そう言っていただけて有り難いです、と田川と山下が小さく頭を下げる。捜査中にあまり出くわすことのない、ほっこりする空間に調子が狂う。
 紫藤家への脅迫だと思われた事件は、その様相が一気に変わった。誘拐されたのは杜原希矢。犯人は間違いなく杜原柚菜だろう。柚菜は死なずに、生きてくれていた。刑事という立場で不謹慎すぎるが、本当に嬉しかった。
 だが。柚菜は俺と由希子から離れた。子供の頃からずっと一緒で、支えてくれた柚菜を犯罪者にしてしまった。事が起こった今でも信じられない。俺も思い至って、だが躊躇してしまっていた計画を、柚菜がやってのけるなんて。だが、柚菜は主犯ではない。あの温厚で、臆病な面もあるはずの柚菜がこのような絵を描けるはずがない。柚菜は誰かに唆されたのだ。紫藤に恨みを持つ個人なのか、組織なのか知らないが。そいつらは何かのきっかけで、紫藤義紅が実は杜原希矢であることを知った。そして柚菜に話を持ちかけ、柚菜がその話に乗った。柚菜は少なくない報酬をそいつらに渡して、犯人グループはそれを元手に、紫藤義紅誘拐に踏み切った。
 いや、違うか。紫藤義紅誘拐に成功すれば、柚菜が払える報酬とは比べ物にならないほどの金額が紫藤家から手に入る。わざわざ柚菜に話を持ちかける必要はない。だが、あのジジイの眼。人の命をなんとも思わず、義紅くんが攫われても「紫藤の看板が汚された」としか思わないジジイだ。代わりはいくらでもいる、として義紅くんを見殺しにするかもしれない。そうなれば紫藤家からは金は入らない。犯人グループはそれを見越していて、だから保険として柚菜からも報酬をもらうことにしていた?
 どれもしっくりこない。あの日本を代表する殺戮集団に挑むには、見返りが小さ過ぎる。自分が経済的、あるいは政治的な背景で紫藤を強請(ゆす)るとしたら、こんな方法はおそらく取らない。もっと直接的に、だ。ジジイ本人を攫うか、ジジイにとって「代えが効かない」人間、あるいは利権などを捕捉し、それを使って強請る。だから、「紫藤義紅誘拐」は手段として弱過ぎる。
 だから、やはり。「紫藤義紅に対して、代えが効かない価値を感じる人物」が主導でこの犯罪に及んだ、と考えるのが自然だ。だがそうすると冒頭に戻る。柚菜がそんな絵を描けるはずがない。であれば、柚菜と同等に紫藤義紅、ではなく杜原希矢に対して代えの効かない価値を感じている人物と協働した。だがそんな人間、他にいるだろうか。一番共犯像に近いのは、虎城大牙。だが俺はまだ正気を保っている、と思っている。だから俺なはずがない。であれば、司由希子か。由希子なら、この子供管理課の情報にもアクセスして紫藤義紅が杜原希矢であることなど容易に特定できる。そして、紫藤家の警備員を買収して攫うことなど造作もないことだろう。今問い詰めるべきは、由希子なのか。だが以前柚菜が言っていた言葉が引っかかっている。
左腕を陽菜につつかれた。ダメだな。こちらから捜査を依頼しているのに、陽菜が話を進めているのに甘えて、またぼーっとしてしまっていた。
「そうですか……ここ一ヶ月で、様子がおかしかったり、長期休暇を取ったり、連絡が取れなくなっている人はいない、ということなんですね」
 おそらくぼーっとしている間に田川たちが話したであろう内容を、陽菜が要約して大袈裟にオウム返しにする。これでキャッチアップしてくださいね、ということだろう。申し訳ない。
「はい。三ヶ月間、という期間に広げれば、確かに長期休暇を取った人間や、退職した人間もいるのですが…あとは、ラナン数値が悪化してしまって、療養に入った人間もいます」
 田川が丁寧に補足する。田川が山下を見た際に、山下もうなづいていた。が、若干表情が固い。言い方が難しいが、「頷ききっていない」とでもいうのか。
「わかりました。ではお手数ですが、今仰った人たちのリストを、後ほどお送りいただけますか」
 陽菜が丁寧に要求する。わかりました、と山下が応じる。
「ちなみに、そのラナン数値が悪化して療養された方というのはどんな人なんでしょうか」
 気になったので聞いてみた。え、ああ、えーと、と。田川と山下が顔を見合わせた。知られたくないことでもあるのか。それとも、目の前のぼーっとしていた男が急にやる気を出したことに違和感を覚えたのだろうか。山下が応じる。
「えーと、20代の女性職員なのですが……彼女は少し、その、鬱というんでしょうか。気持ち的に落ちてしまいまして」
「なるほど。元々鬱傾向があったのでしょうか」
「いえ、元々そう、ということではないです」
「では、職務についてから、鬱傾向が強くなった」
「はい……」
 歯切れが悪いな、なんなんだ。好青年だが、なんだろう。覇気のない感じ、というのか。なよっとした弱弱しい感じが気に障る。天然で歯切れが悪いのか、何か隠したい事があるのか。
「職務というのは」
「はい、問い合わせ担当です。国民の皆様から、子育て認可制度に関する質問を受け付ける担当を配置しているのですが、そのうちの一人です」
「そうなのですね。質問をしてくる人の中に、クレーマーのような、こちらを攻撃してくるような人間もいる」
「そうです。子育て認可制度が始まってもうすぐ20年になりますが、未だに自分の子供を返せ、ですとか、どこの家に引き取られたのか教えて欲しい、ですとか、そういう問い合わせをしてくる人が週に数人、いらっしゃいます」
「中には、泥棒、とかそういう明確な暴言を吐いてくる奴もいるでしょうね」
「おっしゃる通りです。ただ我々としても、やはりそういった方々の気持ちも無碍にはできず。それに、もし自分の愛する子供と離れ離れにならなければならない、と考えたら……そう言いたくなる気持ちも、分からなくはないので」
 とんだ聖人君主ではないか。俺が他人からそんな暴言吐かれたらうるせーなと言って電話を切ってしまうだろう。
「なるほど。それに一応納税者でもあるから、省庁としても問い合わせ窓口を閉鎖する、という対応もできない」
「はい。なので彼女をはじめ、問い合わせ対応をしてくれる職員の方々には申し訳ないのですが……」
「国民の攻撃を受け続け、自身のラナン数値低下とも戦ってくれる人たちがいないと回らない。そこの職務に就く人たちは、誤差はあるが療養に入る人たちが一定数、継続的に存在する、と」
「その通りです」
 山下は下唇を噛んでいる。どうにかしたいが、自分にはどうすることもできない、と。他人の苦しみを自分事として丸ごと引き受けて、喰らってしまう優しい人間。どうしてもなよっとしたところは気に障ってしまうが、それでもおそらくはラナン数値を健全に保てているのだろう。精神至上主義社会である今、本当に強い男というのはこういう男なのかもしれない。
 国民の攻撃を受け続ける盾。なんか、自分と似ていると思った。我々未来犯刑事も、キャリア組刑事の盾として、荒事を一手に引き受ける。精神健常者の健やかな人生を担保するための道具として。あまり自己憐憫に酔いたくもないがこういう至る所にオメラスの地下牢は点在していて、その上にラナン数値が健全に保たれ「人生の目的・やりがい」に取り組む、高尚な大多数の国民様がいるのだな、としみじみ思う。

 その後も話を伺ったが、これといった決め手に欠けていた。あとは後ほど山下から送られてくるリストに目を通し、そこから柚菜に近づいていくしかない。それよりも、由希子への疑惑をどう処理すべきかに脳内は囚われていた。
 意識の8割方をそれに持っていかれながら、かろうじて一階のエントランスまで送ってくれる山下について行った。多分、その間の山下とのやりとりも、陽菜が対応してくれていたのだろう。
「それでは、お忙しい中ありがとうございました」
 陽菜がエントランスでくるりと後方を向き、頭を下げていることに気づく。いつの間に。俺も倣い、一階まで送ってくれた山下に礼を言う。
「いえ、あまりお役に立てずにすみません……また何かございましたら、いつでもご連絡ください」
 そう言って、山下も頭を下げた。その後顔を上げた山下は再度軽く会釈をし、再びエレベーターに向かって歩き始めた。その横顔を見ると、下唇を噛んでいる。
「あの」
 少し大きな声になってしまった。一階エントランスに声が響き、受付の方や周りの人たちの視線を感じる。山下が止まり、はい、と応えて振り返る。山下に近づいていく。少し表情筋が固まっているのがみて取れる。
「まだ言うべきか迷っていること、ありますよね」

 日比谷公園に場所を移した。カモメの噴水、という名のちょっとした名所がある。都心にしてはかなり広い公園内の、広い噴水。まだ暑いこの時期には助かる。水の涼しさを感じ取れる、かつ陽の当たらないベンチが空いていた。真ん中に俺が座り、左に山下、右に陽菜が座る。犬を散歩させている老人や、コンビニで買ったおにぎりをベンチに腰掛けて食べている休憩中のサラリーマンらしき人などがちらほらいる。が、いずれもここから離れたところにいる。
「すみません、呼び止めてしまって。それにしても、あなたわかりやすいですね」
「はい、よく言われます……」
 印象通りの好青年は苦笑した。
「実は……本件に関係のない話だとは思うのですが。ここ一年間で、とある内部告発が、僕が知るだけでも数件寄せられているんです」
「内部告発?」
「はい。いくつかの児童養護施設の職員さんからなんですが。うちの施設では、子供の違法取引が行われている、と。どうも施設長が、厚生省から預かった子どもを全く別の子どもにすり替えている、という告発です」
 初耳だ。そんな大胆な犯罪がなぜ公安に知らされていないんだ。
「僕もびっくりしてしまって……すぐに警察に言うべきだったのですが、まずはグループ長に報告したんです。田川さんも驚いていて、すぐに課長に報告されていたのですが……」
「そこで情報が止まってしまった」
「はい。正確には、課長は人材開発局長に報告されたのかもしれませんが……ただ、本件が公になっていないということは、どこかで情報が止まっているから、ですよね」
「そうですね。ちょっと服、失礼しますね」
「え? ああ、はい」
 思ったよりでかい爆弾抱えていやがった。手遅れかもしれないが。スーツジャケットを脱いでもらい、ポケットなど確認する。シャツも、ズボンも、触って確認した。本当は全裸にしてやりたいが。盗聴器は仕掛けられていないようだ。
「ありがとうございました。で、あなたはその後どうされたんですか」
「私としては、子供たちが犯罪に巻き込まれているのは見過ごせないので、警察の方に言おうとしました。ですが、田川さんに止められてしまいました」
「多分、あなたのことを気遣ったのでしょうね」
「はい……田川さんは絶対に揉み消すような人ではありません。おそらく、田川さんの上司、あるいはもっとその上の様子を見て、これは黙っていたほうがいい、と判断されたのだと思います」
 いきなり消されることはないと思うが、念の為、か。ただでさえ、下手に動けば昇進への道が絶たれる動きには違いない。上への報告だけ、職務に準ずる動き方に留めよう、という。苦しいながらの田川さんの親心だろう。
「最近はそのような告発はないんですか」
「はい、ありません」
 犯人組織が大人しくなったのか。それとも何かしらの細工によって、内部告発自体が出ないほどの工夫。圧倒的な恐怖政治を現場の施設で強いているのか。それとも、内部告発されても問題がない通報ルートを新たに設置したのか。カラクリはわからないが、これは直感。何かしらの形で、柚菜の件と関わっているはずだ。だが犯人、あるいは犯人組織の狙いが浮かばない。なぜそんなマネーロンダリングの子供版のような、面倒なことをわざわざする必要があったのか。
 だが唐突に思い至る。本件が柚菜の件と何らかの形で関わっているのだとしたら。つまり、ロンダリングが目的ではない。「我が子を取り戻す」ことが目的の犯行だとしたらどうだ。たとえば、生後間もない愛する我が子を、子育て認可剥奪によって国家に奪われた親。その親が、おそらくは反社組織に奪還を依頼する。その反社組織は何らかの伝手があり、この厚労省子供管理局とのパイプがある。そのパイプを使い、「クライアントの子供がどこに輸送されるのか、あるいは輸送されたのか」を特定する。特定した先、おそらくは児童養護施設。その施設長と何らかの取引をし、その子供を引き渡してもらう。施設長はその反社組織、あるいは別の反社組織から、穴埋め用の子供を調達する。つまり、「厚労省・児童養護施設」の二箇所で、それぞれ裏切り者を作り上げれば、この子供奪還ビジネスは成り立つ。
 柚菜の件も、新たに出てきた子供犯罪も。厚労省人材開発局子供管理課内に買収されている奴がいるはずだ。
「ちなみに山下さんが把握している、告発のあった施設を教えてもらえますか」
「はい。えーと……ゆりかごの家と、唐澤学園と、あとは聖慎学園です」
つくづく縁のある施設だな。まさか我が家にガサ入れかける日が来るとは。
「ありがとうございます、お話いただいて。ただ、まだありますよね」
「え?」
「あなた、ここ最近で様子がおかしい人いなかったかという話の時、変でしたよ」
「あぁ……すみません」
 さっさと言えや。
「ただの噂なので……仲間を変に疑う、みたいなことはしたくなかったのですが……規定で禁止されているはずの副業に手を染めている、という人の話は聞いたことあります」
「ほう。誰が、どんな副業を?」
「佐々川(ささがわ)、という人です。同じ情報統括グループの。副業の中身は知らないのですが、また最近もすごく儲かった、と周りに自慢していたようです」


「久しぶりのデートね」
 抑揚のない、情緒が抜け落ちた声。文言と言い方が何一つ噛み合っていない。だが、目の前の表情は久しぶりに見るもの。俺も少し驚くほどに、緩んだ表情。普段の氷の女王からは想像もつかない、柔らかい表情。刑事課のメンバーが見たら皆が目を見開くだろう。氷解した女王だが、声は相変わらず冷たいまま、運ばれてきた白ワインで乾杯する。爽やかな柑橘の風味が、今日の怒涛の疲れを癒す。白身の刺身が体内に染み渡り、この世に生きる中であまり感じることのない、数少ない幸福感を味わう。
 東京都渋谷区。青山の路地裏を進むと、夜であれば誰も気づかない、知らなければ絶対に見落としてしまう細道がある。その細道を進むと、突き当たりに黒塗りの平屋の一軒家が現れる。表札すらない玄関は、天井に一つだけ設置された淡い光の照明に照らされていた。2074年9月4日、18時24分。佐々川の家に行ったが本人不在で収穫なしだった帰り道に、由希子から連絡が入った。わけもわからず厚労省庁舎で待ち合わせた由希子に連れてこられたのがここ。まるで自分の家に入るかのように、由希子は黒塗りの扉を左にスライドして、中に入った。「由希ちゃん、いらっしゃい」と、上品な女将さんが出迎えてくれ、奥の個室に通してくれた。3名ほどが座れるダークブラウンの壁付きソファが二つ、テーブルを挟んで設置されている。それぞれに座り、由希子と向かい合っている。由希子と二人で、外で飯を食うなど久しぶりだ。薄暗い照明は、彼女の雪のような肌の白さを際立たせる。そして近い距離。傍目にはデートに映るだろうが、実態は程遠いものだ。
 特に何を話すでもない。柚菜と違い由希子は俺といる時、他愛もない話を延々とするタイプではない。昔から何も変わらない由希子に安心感を覚えるが、その顔つきは昔と少し変わってしまった。子供の頃は細くても健康的ではあった。だが今はどうだろう。その暗く澱んだ瞳に変わりはないが無邪気な危うさ、とでもいうものがない。それは大人の女性だから当たり前か。そして何より、どことなく疲れが全身から感じ取れる。単なる業務負荷ではない、あまりにも大きな何かを抱え込んでいるような。それは超人的な由希子でも身に余るほどのもの。そう思わせるような何かを纏っており、それは年々膨らんでいる。
「紫藤家にずいぶんな挨拶をしたようね」
 白ワインを口に運びながら由希子が言う。やはり筒抜けか。そんなに仲良しなら、わざわざ末端捜査員を現地に派遣する必要などなかっただろうに。
「すいませんね。いつもご迷惑おかけしてしまい」
「思ってもないことを」
 こちらも見ずに、由希子はゆっくりとグラスを置いた。置いたあと、俺の眼を見るでもなく、どこを見るでもなく。感情を読み取れない表情。
「わたしは攫ってないわ」
「……なんだいきなり」
「あなた、疑ってるでしょう」
 いつの間にか、大きく鋭い眼がこちらに向いている。相変わらず恐ろしい。
「一番共犯像に近いのはわたしか大牙、だものね」
 眼は、俺を捕捉したまま。
「俺は攫おうか、考えていた。由希子がそう考えても不思議じゃない」
「……そうね」
 強い眼から解放された。そしてまた、どこを見るでもない由希子に戻る。この人は、目先のこと、自分の感情しか考えない俺とは違う。俺とは比べ物にならない、苦悩を抱えているはずだ。
「由希子……この捜査から外れられないのか」
 なんでこんな台詞を吐いてしまったんだろう。由希子の表情に微かに感情が浮かぶ。そして、ふふ、と笑う。
「上司にそんなこと言う刑事いないわよ」
 仰る通り、しかも刑事課長に向かって。捜査から外れるなどできるわけがない。だが。
「柚菜を捕まえて、裁けるのか」
「……」
「柚菜はじきに捕まる。捕まったら当然、希矢は紫藤の元に戻る。子供の誘拐は大罪だ。初犯でも、少なくとも5年は実刑を喰らう。その間に柚菜は自殺する。柚菜を捕まえるということは、柚菜を殺すということだ」
 俺はどんな顔をしているのか。由希子が相手では、それがわからない。その由希子の眼には、力が宿る。
「あなた、柚菜を逃すつもりね」
「……」
「柚菜を見つけて、希矢くんと3人で逃亡する。そうなんでしょう」
眼だけではない。表情には怒りが浮かんでいる。
「逃げ切れるわけがない。それに8月末の定期測定、あなたの数値は13だった。一ヶ月前は14。どんどん下がっていってる。柚菜と希矢くんを逃がそうとすれば、数値は10を下回るに決まってる。殺されるわよ」
 表情とは違い、淡々とした声で言い切る。事実を、淡々と。
 俺は殺されても構わない。なんて、そんなことを言える身分ではない。まだ小さかった頃から、この人に生かされてきた命なのだ。だから殺されたくない。由希子と柚菜と希矢と。親父は嫌がるだろうが、親父も連れて、皆で生きていきたい。それを由希子に提示したいが、以前柚菜が言っていた言葉が気になる。あと、その前に確認すべきことがある。
「由希子はどうして刑事になったんだ」
 以前聞けなかったこと。由希子の核に近づける問い。由希子が憎んでいたはずの世界の番人に、どうして。
 意図を察した由希子の表情から、怒りが一旦消えた。
「昔の話はあまりしない方がいいんだけど……あの日のこと、覚えてるかな。監獄の誕生、っていう本を読んでた日」
「ああ」
 無邪気さと絶望を秘めた目の少女。紙の本を貪っていた、あの日の少女。
この社会に張り巡らされた、一望監視的な監禁網。精神至上主義。ラナンという神による、理想的官僚政治。それを担保する土台である、民の裡に住まう監視員。己を含む相互監視が絡み合う地獄。ラナンを壊したところでまた別の誰かがより強固な監視網を築き上げる、終わりのない地獄。
 息苦しさから逃れるために倒す敵が自分だった場合、わたしたちはどうすればいいの。
 誰も正解を持たない問いに囚われていた少女。
「あの時のこたえが、結局わからなかった。正直今もわからない。でも、しにたくなかった。まだ、わたしだけ勝手にしんじゃだめだ、って思ってたから」
「……」
「息苦しさを感じた時、人間は二種類に分かれる。なんだかわかる」
「息苦しさに蓋をするか、息苦しさそのものを解消するか」
「そう。わたしだって、わたしなりに頑張ったよ。今も諦めてないけど……でもしにたくなかったから。一旦、蓋をしたの」
「……」
「わたしは生まれてよかったんだ、って。自分で自分を許せる理由。自己満足、ってやつ。自己実現って言った方が、棘がないかな」
 由希子の顔が、徐々にあどけなさを帯びる。目の前の強い女性が、あの日ソファに座りホログラムの暖炉を見つめていた少女に被る。
「大牙、好きだったよね。あの足利市で起きた惨殺事件の手記」
「うん」
「昔はね、世の中はああいう機能不全家庭って呼ばれる家で溢れていたの。わたしたちが生まれた頃もそう。大牙とわたしの親みたいな家庭で溢れていた。ラナンの調査では、9割の家庭がそうだったと言われているけど。みんながみんなわたし達の親ほど酷くはないかもしれないけど。でも、本当の意味でこころが守られて、安心して過ごせる家庭なんてほとんどなかった」
「……」
「でも今は違う。ラナンが現れて、子育て認可制度ができて。人が人を生み出す環境が人工的に整備された。50年ぐらい前までは児童相談所に年間20万件以上の虐待相談が寄せられていたのが、今では100件ぐらいしかない。殺人件数だって、当時は年間400件ぐらいの親族間殺人が起こっていたけど、今では年に数件。どの歴史を振り返っても、これほど安心して、心が健やかに育てられる社会は存在しないの」
「……」
「わたしたちの親が消えていく。そういう家庭が殲滅されて、わたしたちみたいな子供が消えていくの」
 あどけなさが、いつの間にか消えていた。再び大人の女性がおり、その顔には仄かな熱が灯っていた。
 たしかにラナンはこの国家に革命を起こした。厳然たる事実として、ラナンはその名の通り、国民に幸福をもたらしている。約50年前の2022年時点、人口10万人あたりの自殺者数を示す「自殺死亡率」は17・5%だった。だが現在は1%以下まで減少している。「心に傷を負った、大人になりきれてない子供」が真に大人になるためのセラピーは大多数の人の息苦しさを取り去り、「生きやすさ」という幸福をもたらした。それ以外の、俺たちのような精神異常者はこの先も減り続けるだろう。
 由希子だからこそ、できる仕事。由希子だからこそ感じ取れる、その必要性。
「監獄の誕生の著者は素晴らしい。今でもそう思うわ。彼の言葉には、人が本当の意味で人らしく生きるための希望が詰まってるから。でもね。肝心の、ではどういう社会をどう実装していくか。これについては、結局正解をくれないの。どういう法律や政策なら、人々が真に尊厳を持ち、生きていけるか。どういう国家の在り方なら、人々が幸せに暮らせるのか。それについては示せていないという批判も多い」
「……」
「ナチスドイツ、は知ってる」
「ああ、ユダヤ人大量虐殺の」
「そう。ヒトラーによる、一党独裁国家。警察権力の集約、出版・言論・結社の自由を含む個人の自由の剥奪。プライバシーの権利は失われて、警察官吏が令状なしで人々の郵便を検閲・電話傍受・家宅捜索、なんでもありの時代」
「……」
「どう考えても、人の尊厳なんて微塵もない。でもね。1951年、戦後初期の西ドイツで実施された住民意識調査で国民に確認したの。20世紀の中でドイツが最もうまくいったのはいつですか。あなたの気持ちにしたがって答えてくださいって。結果はどうだったと思う」
「ヒトラーが大人気だったのか」
「そう。全体の40%の人が、ナチス前半期に投票している。これはドイツ帝政期の45%に次ぐ高さ。ナチス前半期は、ユダヤ人大虐殺が起こる前の時期だけど、前半期には既に政府の政治弾圧や人権剥奪は行われていた。独裁政治に、95%の人が賛同している」
「……」
「結局ナチスは滅びてしまったけど、国民の満足度は滅んだ後も圧倒的に高かった」
 由希子の表情は曇っている。灯っていたはずの仄かな熱は消え失せている。俺の目を捉えていたはずの鋭い眼は伏し目となり、彼女の息苦しさを雄弁に語る。
 今のこの国は、そのナチスが更にひどくなった状態。だが怖いぐらいに、鳥肌が立つほどに成果が出ている。みんな洗脳された新興宗教信者みたいになっていて、暴動も一切起こらない。
「由希子は……頭ではそれを理解したいと思ってる。それが正しい、と。でもどうしようもない嫌悪感がある」
「……」
 伏し目だった眼が、こちらを見た。だがすぐに俯いた眼に戻る。表情は変わらず、暗い。
「嫌悪感があるなら、なぜそれに蓋をするんだ」
「……え?」
 弟から、おそらく初めての反抗。ずっと、何もできないと。わたしが守らなきゃ何もできない、と思っていた子からおそらく初めて、詰められている。
「こころが受けつけないなら、無理やり受け入れるべきじゃない。最近の辛そうな由希子を見ていると、いずれ俺と同じ側に来るんじゃないかって心配になる」
「……なに言ってんの」
 生意気に、と由希子が言う。あんた、どの立場でそんな偉そうなことを、と。
 人間は自分のことはよく分からないくせに、人のことは冷静に把握できるものだ。精神が堕ちていった人間だからこそ分かる、その前兆。それがありありと由希子にも出ている。
「俺は、由希子の気持ちも考えずに無神経かもしれないけど、由希子と柚菜と希矢と、嫌がらないなら親父も。この国から出たいと思ってる」
「……出るってどこに。この国以外、安全な国なんてないわ。飼い主の米国は一切日本人の受け入れはしない」
「ないかもしれないけど、ここにいたって殺されるだけだ。由希子もいずれ、この国の空気に締め殺される。この国よりマシな場所はあるはずだ。まずは柚菜を見つけてから、その場所は探す」
「……」
 由希子の視点が俺に向けて、一点に固定されている。冷静な由希子は相変わらず、感情が表情に出ない。が、乱されてはいるはずだ。問題点がありすぎてどうしよう、と。とにかく目の前の気が触れた、本当に頭がおかしくなったこの子をどうしよう、と。
「俺は気が触れたわけじゃない。少し考えておいてくれ」
 目線は外れ、眉間に皺が寄っている。涼しい顔を崩さない由希子の、あまり見られない顔が今日はよく見れる。想定外すぎる弟の発言に、今日の計画が完全に狂わされている、といったところか。なぜだろう。生意気にも由希子がいつもより小さく、か弱く見える。常に正しい、俺にとって絶対的な存在だった由希子が、今は人間のように見える。
「で、今日の本題はなんだ」
 あなたの今日の、その計画とはなんだったんだ。
 由希子は口を開かない。一瞬開きかけたが、またすぐに閉じられた。
「今日は紫藤家に行って、柚菜が犯罪者になったことがわかった。その後、厚生省内部でとある犯罪の内部告発が揉み消されている事実を知った。それで、クソ忙しいはずの由希子が急遽、時間を作ってくれた」
「……」
「公安は何か企んでる。由希子は何かを押し付けられて、結果俺が追い込まれようとしている。殺処分になるほどの何かが、これから起こる。それを知っているから、今日会ってくれたんじゃないのか」
 由希子は微動だにしない。大体の人間は目線や表情筋、肩などの筋肉の収縮反応で、なんらかのメッセージを発している。それをいかに掴むか。だが目の前の女王は、なんのメッセージも発しない。俺を嘲笑うかのように、寸分の乱れもない動作でゆっくりとグラスを取り、白ワインを飲んでいる。
「なんか、変わったわね……」
「……」
「そうよね。柚菜は放っておけば死ぬことになるものね」
グラスを置く。その動作も、何も語ってくれない。
「まさかあなたに心配される日が来るなんて。嬉しいけど、自分の置かれた状況が分かってない」
「……」
「人の心配してる場合じゃないの。でもあなたはもう、わたしの言うことを聞いてくれない。それがよく分かったわ」
 既視感。この女性の寂しそうな顔は二回目。一回目は、恐ろしい欲情を抱いたあの夜。目の前の寂しそうな表情は、今回は自惚じゃないはずだ。
 なんだか、由希子が離れていく気がした。もう、心を通わせてくれなくなるような。


 21年前

 2053年7月20日、21時02分。栃木県足利市。2045年からラナンが運用開始されたが、そのカバーエリアは2052年になっても日本全土、100%ではなかった。廃棄区画。運営されていない工場地や住宅街、商店街などが廃棄され、そのまま放置されている区画が日本中に点在している。そのうちの一つが、この栃木県一帯。昭和初期に逆戻りしたかのような時代。貧困と治安の悪化は極めて相性が良く、加速度的に人々の心を病ませていく。
 トタン屋根の木造の、台風が来れば飛ばされるような安っぽい家。家と呼ばれるものの中で最下層を誇るであろう小屋たちが軒を連ねる集落。小屋たちはよく見ればところどころ穴が空いており、隙間風が入り放題になっている。茶色で、長年の汚れが染みつききった、見ているだけで気持ちが暗くなる色。
 集落の入り口、自宅から100メートルほど離れた場所の、木が腐りかけた危ういベンチに俺は腰掛けている。家に入ったら父親に茶碗を投げつけられ、帰ってくるなと言われたから。お前が食う飯はない、と言われたから。立ち尽くしていたら、「こんなもん産みやがって」と、父親が母親を殴り出したから。だから、家から離れたここのベンチに座っている。
 目の前には、朝から晩まで酒浸りの、よく見かける腹の出た中年親父が寝転がっている。中年は、集落の入り口の家の玄関前で寝転がっている。ガタ、ガタ、と引っかかりながらも強引にその家の玄関の戸が開かれ、中から骸骨のような骨の浮き出た老婆が現れた。早く出ていけ、と傷み切った髪を振り乱しながら妖怪のように喚く。その様子を見て向かいの小屋で窓を開けて寝転がっているジジイが、ほぼ歯のない黒ずんだ歯茎を剥き出しにして下品に笑っている。歯茎剥き出しのジジイは、一緒に寝転がる犬の頭を撫でている。犬には右の前足がない。
 2日、飯をもらってない。2日前は俺の5歳の誕生日だったが、祝われるどころか飯すら出てこなかった。意識が朦朧としてきた。腹が減りすぎて、目の前の畜生たちの騒がしさに腹立たしいとすら思わない。何の感情も湧いてこない。残飯をもらいに行こうか。いや、もう罵られるのは嫌だ。いつも飯をくれていた婆さんも、今日、ドブネズミを見るような眼で罵ってきたから、もう嫌だ。視界も眩んできた。あんな眼で見られるぐらいなら、もうこのままでいい。
「隣の子?」
 声が聞こえた。暑い夜に心地よい、冷たい声。ぼやける視界に、ボロボロの白い靴と青ジーンズの短パンに、白いよれよれのTシャツが映る。自分と同じように、見窄らしい格好の女の子。だがなぜか雰囲気がある。歳は少し上ぐらいか。異様な大人っぽさがある。
 返事する気力もない。ぼーっとしていると、女の子がさらに近づいてきた。腹が減っているからだろうか。何かの花のようないい匂いがする。もう植物でもなんでもいいから口に入れたい気分になる。
「こっちおいで」
 大福のように真っ白な女の子に手を引かれた。ひんやりと冷たくて、人間じゃないみたいだ。女の子はふらふらする俺に構わず、ずんずんと集落の中に歩いていく。やがて俺の家の、一つ手前の家に入れてくれた。
 同じトタン屋根のボロ小屋なのに、随分と雰囲気が違った。ところどころに罅が入った壁は同じだが、酒の缶などのゴミが散らかっていない。酒とタバコの匂いも充満しておらず、ただ古い板の匂いがするだけ。うち、夜は親が仕事でいないの。女の子はそう言いながら、居間に座布団を二つ並べて寝かせてくれた。
「オムライス作ってあげる」
 そう言って女の子は冷蔵庫から色々取り出し、小さいキッチンで何やら作業を始めた。小さな女の子とは思えない手際の良さ。座布団で横たわっているからキッチンの様子が見えないが、女の子の作業音から十分にわかる。感じたことのない安心に包まれて、意識が落ちた。

 体が優しく揺らされている。左肩を、冷たい掌で押したり引かれたりしている。
「しんじゃったの?」
 女の子は縁起でもないことを言い、ふふ、と笑っている。できたよ、と言ったとき、ケチャップの香ばしい匂いが鼻を刺した。寝た後だからか、少し意識がはっきりしてる。座布団から体を起こすと、白い皿の上に黄色い食べ物が煌っている。
「どうぞ」
 女の子は銀色のスプーンを渡してくれた。
 夢中で、泣きながら食べた。
 食べている時、ずっと冷たい手のひらで頭を撫でていてくれた。
 
「ありがとう」
 いつの間にかオムライスは無くなっており。いきなり飯を食ったからか、幸福感と共に軽い眩暈がする。お礼をして、キッチンに皿を持っていく。洗おうとしたら、いいよ、と言って女の子が洗ってくれた。
 手際よくお皿を洗った女の子は、テレビでも見よ、と言った。座布団を二つ並べて、一緒に座った。
「なんでご飯くれたの」
 不思議だった。大人たちは誰もくれないのに、なんでこんな小さい子が。食べた後に、もしかしてなんか怖い目に遭うんじゃないか、と今更ビクビクしてきた。
 俺の顔をまじまじと見て、女の子はアハハ、と楽しそうに笑っている。
「さぁ、なんででしょう」
 いじわるな子だな。やっぱり怖いな。
「明日もいじめられたらおいで」
 そんな俺の気持ちを見透かすように、いじわるな顔で言った。ふふ、と笑っている。
「名前、なんていうの」
「……たいが」
「ふーん」
「きみは」
「ゆきこ」
「……なんて呼べばいい」
「ゆきこでも、姉ちゃんでも、なんでも」
 女の子はテレビを見ながら言った。
「じゃあ……ゆき姉(ねえ)」
 言った後、あれ、ダメだったかなと思った。心配になって隣を見た。
 こっちを見た女の子は大きな鋭い目を細めて、じーっと見つめてくる。
 ごめん。そう言おうと思った時、女の子は優しく微笑んだ。


 店内に入ると、黒服の若い男性が出迎えてくれる。店内は照明が落とされており、黒塗りで光沢のあるカウンターが広がる。席は10席ほど。流行りに疎いため、流れている洋楽がなんなのかわからない。アップテンポでもなく、かといってリラックスする感じもしない。店内に入ると、まだ客はいないようだ。目の前を通り過ぎる嬢と目があう。スーツ姿の男女で来る客などいないから、誰なんだ、ということだろう。だが興味はないようで、すぐに目は逸らされた。
 カウンターではなく個室に案内された。個室はさらに照明が落とされており、まさに、という雰囲気が漂う。壁につけられた控えめな間接照明が、室内を気持ち程度に照らす。個室内にもカウンターがあるが、奥に設置されているブラックのソファ群に座る。L字側の大きなソファ。8人ほどが座れるソファに、俺と陽菜が座る。壁には東京、シドニー、ニューヨーク、パリ、ローマなど、世界各地の都市の現在時刻を指す時計がいくつも掛けられている。海外旅行という概念が消え失せたこの時代に何の意味があるのかわからない内装。この会員制ラウンジは個室が5つほどあり、それぞれコンセプトと内装が違うようだ。そして大きなディスプレイと音響設備、カラオケ用のタッチパネルとマイクがある。夜な夜な、大きなストレスを抱えた大人たちが若い女性たちと呑んで騒いで現実逃避する、都会のオアシス。
 2074年9月7日、20時04分。20時から開店の、この会員制ラウンジ。早い時間帯には客は来ず、大体22時過ぎた頃から店内は騒がしくなる。この三日間は、毎晩この港区周辺のお店に来ている。柚菜に近づくための手がかりと思われる厚労省人材開発局子供管理課情報統括グループの佐々川が、年中こういった店に繰り出していると同僚から聞き出したからだ。いくら社会的ステータスと報酬が高い官僚でも、特に出世しているわけでもない佐々川がこういった店に年中繰り出すというのは違和感しかない。親父に頼んで紹介してもらい、佐々川が出入りしていると思われる店に片端からアタックしている。佐々川が誰に子供の情報を流していたのか。その佐々川のクライアントが、柚菜を匿っている可能性が非常に高い。
 なぜこんなまどろっこしい真似をしているのか。佐々川を捕まえて尋問すれば済む話だ。だが、一昨日の9月5日に佐々川は水死体で見つかった。東京湾に面した川崎の東扇島東公園で引き上げられた。東京湾に黒塗りのセダンが沈んでいたところを発見され、引き上げた際に車内で固定された三体の水死体が発見された。一体は佐々川の死体で、残りの二体はアセナセキュリティの警備員。先日紫藤家での勤務中に姿を消した二人。
 仕事が早い。9月4日に拐われて、その翌日には三人を見つけ出して殺している。素人の仕事じゃない。佐々川たちは口封じで殺されたのか。いや、口封じならわざわざそんな、高級車一台を無駄にして人目につく殺し方をする必要はない。つまり見せしめ。しかも、人を殺すのに車一台潰すなんて勿体無い。そんな贅沢な真似ができる奴らによる犯行。見せしめという傲慢さと贅沢な殺し方、紫藤家だろうか。だが、いくら紫藤家でも仕事が早すぎる。
 正面突破しても紫藤は口を割らないだろう。これが最善の策ではないかもしれないが、一旦はセオリー通り、被疑者の周辺を洗うことにした。9月4日、由希子と青山で飯を食った日の夜。由希子からとある通告をされ、時間に余裕がない。由希子と会った日から一週間以内に期限が設定されている。つまり9月11日までに柚菜に辿り着かなくては。
 ドアがノックされ、先ほどの黒服の男性が入ってきた。まだ未成年と思われるあどけなさがある。お茶とおしぼりを持ってきてくれた。
「すみません」
「いえ。どの子をお呼びすればよろしいでしょうか」
 どの子を指名されますか、のように聞かれた。
「この写真の男、佐々川というんですが、この男が指名していた子いますか」
 佐々川の写真を見せながら伝える。
「佐々川様ですね。かしこまりました。お連れしますので少々お待ちください」
「あの、女の子を呼んでもらう時、佐々川という名前を出さずに連れてきてもらえますか。疑っているとかじゃないんですが、名前を出した時の反応を見たいので」
「かしこまりました」
 黒服の男性はぺこ、と頭を下げ個室から出ていった。
 
 再びドアがノックされ、黒服の男性とともに小柄な嬢が入ってきた。それでは失礼します、何かございましたらお呼びくださいと言い、黒服の男性は退室した。
 嬢は澪(みお)、といった。黒髪ショートで愛想の良い子。一切金にならない時間だが、嫌な顔せずに協力してくれる。佐々川の件を伝えたら驚きの反応を見せ、そして故人を悼む表情を見せる。その様子に違和感はない。佐々川の話を聞くのは今回11人目。うち、澪を含む3名が指名嬢で、残りは佐々川たちの席に同席したことのある嬢だ。今のところ特に佐々川から迷惑を被った、という子はおらず。何かのトラブルを引き起こしていたことや恨みを買うような話、あとは反社の人間とのつながりなど、キーとなる情報は掴めていない。
「佐々川はこちらで、特に問題とかは起こしてなかったですか」
「そうですね……あ、佐々川さんは別に普通なんですけど、前来た時のお連れさんがちょっと、って感じでした」
「暴言吐くとか」
「いや、暴言とかはないんですけど。すごくネチネチした感じで、結構触られたって、卓についてた他の子が言ってました」
 佐々川自身が痛客だと思い込んでいたが、偏見だったようだ。
「そうなんですね。ちなみに、佐々川はシャンパンとか入れるような感じでした?」
「たまに、ですね。前こられた時は、アルマンド・ロゼ入れてくれました。なんか、すごく儲かったからって言ってました」
 提供価格30万円ほどのシャンパン。ただの官僚が入れるような銘柄ではない。そもそも「すごく儲かったから」という台詞自体がおかしいのだが。
「それはいつですか」
「えーと、たしか2〜3週間ぐらい前だったと思います」
 大体、8月16日から23日頃。希矢が攫われたのが9月4日だから、時期的にも合う。
「なるほど。佐々川は何で儲かったのか、とかは話してないですか」
「聞いてないですね。あまりお仕事のことは聞かれたくない、って感じだったので」
 同僚に副業を自慢していた男だ。酒の勢いでベラベラ喋っていると思ったんだが、案外ガードが堅いようだ。
「そうですか。我々は佐々川が反社の人間や後ろ暗い事情がある人間と関わりがあったと睨んでいるのですが、そういった人間とこちらに来られたり、とかもないですかね」
「そうですね……一緒に来られていたおともだちも、みんな佐々川さんみたいに見た目は真面目な感じだったので。特に反社の人ともつるんでる、とかは聞いたことないですね」
 すみませんお役に立てなくて、と澪が言う。いえいえ、こちらこそお仕事中にすみませんと返す。
「ちなみに前回澪さんが指名された時、同席してた女の子って覚えてますか」
「えーっと……たしか流花(るか)ちゃんですね。めっちゃキモかったーって、そのあと言ってました。あ、そうだ、そのとき弥羽(みう)ちゃんが助けてたんだ」

 澪が退室した後、黒服の方にお願いしてその二人にもきてもらった。先ほど澪が座っていた、俺とテーブルを挟んで対面に置かれた椅子に金髪の女性が座り。俺が座るL字型ソファの左斜め前に陽菜が座っており、その対面。俺から見て右斜め前に黒髪の女性が座った。先ほどの澪とは対照的な雰囲気の、対面の女性。高身長で切れ長の目、金髪ロング。周囲を威圧するような強さを持っており、どことなく由希子に雰囲気が似ている。おそらくこの子が弥羽、だろう。右斜め前、陽菜の対面に座る子がおそらく流花。おとなしそうな見た目で澪のような愛嬌の良さはないが、ダークブラウンの長く巻かれた髪、柔らかい雰囲気がある人だ。
 違和感。弥羽は俺の対面に座ったあと、俺の首元を見た。それは先ほどの澪もそうだった。そして彼女たちはこういう人間を見慣れているから、すぐに目線は外れる。だが、視線が首元から外れた後、弥羽の眼が微かに見開いた。何かを思い出したような表情。だがそれも一瞬。すぐに元の冷静な表情に戻り、俺と陽菜の顔を見る。さぁ、何のご用事でしょうか、と。
「お仕事中にすみません。ちょっと、佐々川さんのことでお聞きしたくて」
 弥羽の顔には、何も浮かんでいない。そして流花も同様に。
「佐々川さんというのは……」
 正しい反応。ただでさえ客の名前など全員覚えてるわけじゃないのに、自分を指名してない客など、いちいち覚えているはずもない。
「ああ、すみません。2週間ぐらい前に、澪さんを指名したお客さんです。厚生省の官僚さんで、その日はアルマンド・ロゼを入れたお客さんで。ただ、お連れさんが痛い客で、嬢の方を結構触るような奴で。覚えてませんか」
弥羽と流花に佐々川の写真を見せながら言った。
「……」
 弥羽は首を傾げている。口を開き、知らないとおそらく言おうとした後、あ、と隣の流花が言う。
「見たことあります。たしかに、すっごい触ってくる人いました。あれ、弥羽もいたじゃん。わたしと席変わってくれて」
 流花が弥羽に話を振る。
「……ああ、そうだったね」
「そうだよー。そいつ、弥羽が隣についたらすごい大人しくなってたじゃん」
 あー、そうだったかも。と、弥羽は流花に返す。たまにそういう客もいるから忘れてた、と。
「その佐々川さん、先日殺されたんです」
 流花が弥羽を再び見る。それに気づいて弥羽も流花をみる。ああ、そうなんですね、という反応。微かな驚きの表情を礼儀的に見せ、だが悼むのもなんか違う、というなんともいえない表情。これも正解。
「この人、官僚なのにだいぶ羽振りが良くて。殺されるような、後ろ暗い事情があったんじゃないかと思って調べているんです」
「……」
「あ、お二人を疑っている、とかじゃなくて。この佐々川という人間が、反社の人とか何か怪しげな人たちと繋がって悪さをしていたんじゃないかと考えています。で、こういう人間は酒が入るとベラベラと自分のことを喋る傾向があるので、それでお二人が何か知らないかな、と」
 はぁ、と二人はいう。
「うーん……確かにすごい自慢というか、自分のことを喋る人は多いんですけど。この人たちは別にそんな話、してなかった気がします。弥羽は?」
「わたしも特に聞いてない。というか、印象なさすぎて何も覚えてない」
「だよねー」
 アハハ、と流花は笑っている。
 まぁそうだよな。特に太客でもない、ましてや指名すらされてない奴のことなど覚えているわけもないか。今まで話を聞いてきた嬢たちと同様の反応を見て、少しばかり落胆した。
「あ、でも反社とのつながり、かどうかはわかんないないですけど」
 と、意外とおしゃべりな流花が口を開いた。
「わたしお手洗い行った時に、なんかこの人、マネージャーさんからおしぼりもらってて。普通はお客さんがトイレから出てきたら、指名されてる女の子がおしぼり渡すんですけど。で、なんかすごいマネージャーさんがペコペコしてました。あれ、意外と偉い人なのかな、って。いつもご贔屓にして頂いてありがとうございます、って言ってて」
「その時、佐々川はなんか言ってましたか」
「えーっと……なんか、八神(やがみ)さんにもよろしくお伝えください、とか、そんなようなことだったと思います」
「八神さんっていうのは、この店のスタッフさんですか」
「いや違います。その、マネージャーさんより偉い人で。多分運営元の人だと思います、見た目が明らかにそっち系なので。たまにここのマネージャー室に来てて、すごく偉そうにしている人です」
 そういえば、ここは極東会が経営する店だ。その八神というのは極東会のナイトビジネス部門の人間なのだろう。間違っても普通の客が関わる人間じゃない。思ったとおり、佐々川は反社と繋がっていた。極東会がそうなのかわからんが、厚生省絡みの何らかの犯罪に、極東会が絡んでいるかもしれない。柚菜につながる手がかりが得られ、少しホッとした。
「そうですか……貴重な情報ありがとうございます」
 いえいえー、と軽やかに流花が返す。その横でぺこ、と小さく頭を下げる弥羽。終始冷静で、興味のなさそうな態度。
 二人にお礼を言い、黒服の方を呼んでもらう。黒服の方はすぐに来てくれて出口まで案内してくれた。老神さんによろしくお伝えください、と案内しながら黒服さんに言われた。どんだけ親父は顔が広いんだ。
 ラウンジのテナントビルを出て、停めてある公用車に乗る。ナビ上の「行き先:厚生省庁舎」のボタンを押し、眠りから醒めたように車はクルクルとタイヤとハンドルを回転させ、ゆっくりと発進する。東京ミッドタウンの横を通り過ぎる。六本木交差点を左折し、都道412号線に車は乗って走っていく。窓の外に目を向ければ、昔は外国人だらけだったこの通りも、今は日本人で埋め尽くされている。時刻は20時46分。これから2時間もすればこの通りは、騒いで現実逃避できる都会のオアシスを求める中年親父どもで溢れかえるのだろう。そんな脳内イメージを、隣の陽菜が口を開き打ち消した。
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様」
「極東会、どうやって攻めましょうか」
 陽菜は早速、次の一手を思案している。
「そうだな……ちょっと繋がっている人間がいないか、知り合いに当たるよ。いなければ、直接あたる」
「え、事務所の場所知ってるんですか」
「知らない」
「じゃあどうやって」
「さっきのお店で騒げば、その八神ってのが出てくる」
「……なるほど。わたしも同席します」
 根性がありすぎる。高山に聞かせてやりたいよ。危ないから、同席はさせてあげられないが。
 それにしても気になる。あの弥羽という女性。
「てかさ、あの子変だったよね。金髪の」
「大牙さんの向かいの子ですか」
「そうそう」
「……なんか、大牙さんを見た時の反応が、普通の子と違かったような」
「だよね。あとは、これはわかんないけど。佐々川の写真見せたとき、隣の子が言わなかったら、知らないって答えようとしてた」
「たしかに。でも、本当に印象がなかったのかも」
「そっかー。触られるとかそれを助けるとか、そんなよくあることなのかな」
「……わたしに聞かれても」
「ああ、そうだよね」
 こういうのは親父に聞くのが一番か。紹介してくれたお礼もしないとな。リングで親父に電話をかける。コール音はなるが一向に出ない。取り込み中か。
 厚生省まで向かう道中、手がかりが見つかりホッとしたからか寝てしまった。近場だったせいで5分ぐらいしか寝れなかったが。
 
 その夜。何時になっても、親父からの折り返しはなかった。


 二週間ほど前。柚菜が失踪する前、柚菜に会った最後の日。
 
 2074年8月26日、19時12分。新宿区の柚菜の自宅。柚菜が自殺を図っていた頃から一ヶ月ほど経っていた。最近はようやく魂を取り戻したかのように、虚だった瞳に力が戻り始めている。精神健常者に比べれば遥かに弱い力だが、それでも大きな変化だ。最近は部屋に入っても、廊下の先のリビングに灯りが点いている。死んでいるのではないか、という恐怖に駆られることもなくなってきた。リビングに入れば、やはりソファに座ったままの柚菜がいるが、カーテンは閉まっている。ブラウンの床に淡いベージュ調の天井、カーテン、ソファ、テーブル等の家具たち。少し掃除をするようになったのか、それらの色合いが以前よりも鮮やかに見える。以前は食卓テーブルの上にインスタント食品やペットボトルが散乱していたが、それもなくなっている。部屋の隅に置いてある観葉植物たちの葉っぱも、床に落ちていない。だが、木製のベビーベッドや子供のおもちゃたちがなくなっていた。希矢が好きだった鉄道・プラレールのおもちゃたちが、リビングのスペースを広めに占領していたはずなのに、それらもない。いつもより広く感じるリビングに、強い違和感と寂しさを抱いた。柚菜の中で何かが吹っ切れたのか。柚菜の中で、希矢の存在を消え去った、あるいは薄めた……? 勝手に勘繰ってしまう。
 なぜ、瞳が生気を取り戻しつつあるのか。理由については聞けていない。勝手に、柚菜なりに前身しようと懸命にもがき、こころが整ってきたのではないかと思い込んでいた。いわゆる、時間が解決するよ、という。こころに悪性腫瘍がこびりついている人間がそんな自律的な調整サイクルなど回せるはずがないのに、その事実から目を背けてしまっていた。ちゃんと柚菜に踏み込み、柚菜と向き合えていなかった。大事な、かけがえのない姉だとほざきながら、本当に大事にするということを何も分かっていなかった。
「あ、大牙。おつかれさま」
 ソファに座り、背を向けていた柚菜が俺に気づいた。
 今日は何時までいられるの。21時頃まで大丈夫。じゃあご飯作るね。栄養取れてないだろうから、鍋でいいかな。うん、ありがとう。
 そんな普通の家族のようなありきたりな会話を交わし。二人で食事をし、なんの変哲もない時間が過ぎる。この上ない幸せであるはずなのに、これがいつか、まもなく失われるのではないかという不安が身体を覆う。だから、その幸せを感じ取れない。柚菜も同様に幸せを感じ取れていないだろう。柚菜にとっては、これは不十分極まりないはずだから。以前は、ここに旦那と希矢がいたからだ。愛する家族を失った柚菜が懸命に生きてきて、自分で作り上げた家庭。それこそがこの上ない幸せであるはずで、だから目の前の現実は明らかに見劣りしてしまう。
 柚菜も少し食欲が戻ってきたようで、以前のような明らかに最低限のカロリー摂取ができていない痩せ方ではない。たぬき顔で健康的な、かわいいお母さん、の柚菜に戻りつつある。その瞳以外は、今まで見てきた柚菜のそれだ。今はちゃんと半袖を着ており、左手首にはリストバンドをつけている。
 食事が終わり、食器類の洗い物が終わり。二人で並んでソファに座る。テレビはついているが、ただのBGMにすぎない。ニュース番組が映し出されているが、平和過ぎるこの世の中で流れるニュースなど下らないものばかり。政府支持率が82・4%を誇るこの国では、民のそれぞれが幸福であると信じて疑わない。その影には人としての尊厳が奪われ、「生きている方が辛い」と感じるほど追い込まれる人間がいるなど、ただの都市伝説だと思っている。意識の奥底では誰もが気づいているはずなのに、無意識に蓋をしている。そんなことを考えているとイライラしてきたから、テレビの映像を切った。
 子供の頃からずっと、柚菜といるときは会話が絶えなかった。それはお互いに大人になってからもそうだった。会話が絶えないといっても、8割方柚菜が喋り続けて俺がそれに合わせる感じだが。あの頃が懐かしい。あの頃のように、無邪気で騒がしい柚菜はもう戻ってこないのだろうか。
 細かいことだが、やはりどうしても気になった。
「片付けたんだな」
「ん?」
「希矢のおもちゃとか」
「ああ、そうね」
「あと、髪型も変わった」
「……言うの遅いわよ」
 ふふ、と笑ってくれた。
 いつまでもこのまま、ってわけにはいかないから。
 そう呟いた柚菜は前を向いたまま。だがテレビを見るでもなく、どこを見るでもなく。一点を見つめるでもなく、視線が散漫しているわけでもなく。その視界は何も捉えていないかのように、ただぼんやりとしている。
 バッサリと長さを変えたわけではないが、柚菜の髪型が変わっていた。ウルフレイヤーの丸みのあるショートボブは、ただでさえ小さい顔をより引き立てている。赤系の色が入ったブラウンの髪色は、主人をより明るい印象に仕立て上げている。
 だが。
 空気が変わった。右隣の柚菜を見ると、静かに涙が頬を伝っている。思わず、柚菜の手を握った。
「ごめんね……だめな姉で……」
「……」
 こういう時に、なんと応えたらいいのか分からない。より強く、手を握ることしかできない。
「大牙はさ。わたしを見ていて嫌悪感というか、そういうのは感じないの」
「え?」
「自分の親と、わたしが被らないの」
「何言ってんだ、全然違う」
「表面的にはね。でも、根本の問題は一緒」
「……」
「希矢は、2歳になっても言葉を話さなかった。9割ぐらいの赤ちゃんが1歳5ヶ月ぐらいまでに言葉を発するようになるのに。なんでかわかる」
 家庭での不安が強かったから。だが、そんなこと言いたくない。
「あの人がいなくなってから、わたしどう生きてきたのかわかんなくなっちゃって……希矢にはすごく寂しい思いをさせたと思う。抱っこしてても、あの子にどうやって愛情注いでたのか、わかんなくなっちゃって……」
「……」
「そういうのは、やっぱり子供には伝わっちゃうのよね。希矢は、どんどん夜泣きがひどくなっていったわ」
 柚菜の大きな目が再び潤み、それは収まらず。涙が溢れ、目はほの赤くなっている。
「あんなに可愛かったのに。あの子を抱きしめてた時が一番幸せだったのに。希矢のこと、見ているのも辛くなってきたの。母親がこんなこと思っちゃいけないって、ちゃんと愛さなきゃって。言い聞かせたけど、だんだん我慢できなくなっていった」
「……」
「希矢は、夜だけじゃない。昼間もよく泣いて、ぐずぐず言うようになった。今思えばあの子の、寂しいよ、辛いよ、ってサインだったのにね……おもちゃを口に入れようとして取り上げたら大声で泣いたり。床の上で暴れたり、頭を壁に打ちつけたりして。あの、耳がおかしくなるんじゃないかってぐらい甲高い声で泣かれて、本当に気が狂いそうだった」
 この社会では、祖父母が子育てを手伝うのが義務、という風潮がある。子育ては一人でさせてはならない、という政府の強い布教。俺や由希子の手伝い程度では到底まかないきれなかった、柚菜の地獄。
「希矢のこと、見ているだけでイライラして……もうすぐ2歳になるっていうのに全然希矢は言葉をしゃべらなくて。なんてだめな母親なんだろうって、ずっと思ってた」
「……」
「本当に、あの頃はどうかしてた。希矢が顔を真っ赤にして泣き叫んだ時、叩いちゃったの……一回叩いたら、もう止まらなくなった」
 柚菜の涙が止まらない。自分の手を俺の手ごと引き寄せて、両手できつく握りしめた。その手は震えている。
「叩いても、叩いても、希矢は泣き止まなかった。泣き止むわけないのにね……夜に、泣き声はどんどん大きくなって。隣の家からも苦情が来るんじゃないかってぐらいの声で。もう、耳鳴りがするようになって……お風呂の湯船に、希矢の頭を入れたの」
「……」
「その日は由希子が来てくれる日で……お風呂場に来て叫んで、わたしから希矢を取り上げた。あの子が助けてくれなかったら、わたし……」
 手の震えが強くなる。涙は止まらず、呼吸は浅く、乱れている。
「由希子は何も言わなかった。泣き叫ぶ希矢を、お風呂場でずっと抱いて。でも希矢を取り上げた時の、わたしを見るあの子の顔。あんなに怖い顔、初めて見た……」
「……」
「その月の測定日で、数値が信じられないくらい下がってた。希矢はわたしの元から離れていった。当然だよね……子供を殺そうとする親なんて」
 柚菜のいつもの、柔らかく心地の良い声が一向に戻らない。深く、沈んだ声。自分はひどい母親だという気持ちを帯びた声。
「自分を満たせていない。自分が大人になりきれてないのに子供を育てようとする親。結果、子供に一生残る傷を与え続ける。由希子の親と大牙の親と、わたし。根本の問題は一緒」
「違う」
 違う、という言葉の後が続かない。絶対に違うのに。それをちゃんと柚菜に理解してほしいのに。
 柚菜は力なく、微笑んだ。だがまた、自分を罰しなければいけないのに、という表情に戻る。手の震えはいつの間にか収まっているが、手はきつく握ったまま。
「だから、余計に由希子を苦しめてる。あんなことをしておきながら、希矢を失った今、希矢に執着しているわたしを見て物凄い嫌悪感があの子の中にあるはず。でもあの子は優しいから、それを押さえ込んでる」
 大切な相手を嫌悪しなくてはならない。そしてそれに気づいているが、でもどうすればいいのかわからない。幼少期から支えあって生きてきた二人の苦悩を、俺はまた何も知らずに、呑気に生きてしまっていた。
 自分が大人になりきれてないのに子供を育てようとする親
 それはつまり、親への怒りや、親との関わりの中で被った傷が癒えていない大人。柚菜は、父親への想いがずっと臓腑の奥に横たわっているのだろう。父親もラナンの被害者であるとはいえ、娘からすれば少なからず捨てられたという思いがあるはずだ。ちゃんと更生して、子育て認可を取り戻して、自分を迎えにきてほしい。だが、その想いは父親の自殺によって踏み躙られた。なんで私を置いて死んでしまったの。わたしのことが大事ではなかったの。あなたにとってわたしは、妻が死んだからもう育てられないと、その程度の存在だったの。その想いが柚菜のこころに、悪性腫瘍となって巣をつくり。それが希矢との関わりにも影響を及ぼしているはずだ。
 俺はなんて無力なんだろう。
 数秒か、数十秒か。お互いに口を開かない。俺は口を開けない。柚菜を見るが、柚菜は俯いたまま。涙は収まり、呼吸も整ってきた。ゆっくり吸い、少し大きく息を吐いた。やがて空気の流れが止まったかのように静かになった。だが唐突に、音のない空間に声が小さく響く。
「由希子はたぶん、わたしを許さない……」
 細く、息絶えるような。静かな声がその小さな口から響いた。俺の聞き間違いじゃなければ、たしかにそういった。
 ……どういうこと。俺は聞き返した。一点を見つめて呆然としていた柚菜はハッとしたように、大きな目を少し見開いた。そして、優しく握っていた俺の手を、少し強く握った。ううん、なんでもない。そう言った柚菜は、俺に作り笑顔を見せた。
 
 壁にかかる時計を見ると、20時56分と表示されている。
「そろそろ行かなきゃだね。いつもごめんね」
 こんな話ばかり。柚菜は俺を見て、そう言った気がした。俺には、柚菜の話を聞いてあげることしかできない。
 俺が立ち上がると、柚菜も立ち上がり。玄関に向かって歩くと後ろから小さい体がついてくる。リビングの扉を開けると、廊下は暗かった。暗い廊下を進むと、玄関にたどり着く。天井の自動照明が点き、暖色照明が視界を明るくした。靴を履く前に振り返り、柚菜を見た。
「明日、また来るから」
 柚菜は優しく微笑んだ。
「明日は非番でしょ。たまにはゆっくり休んで」
 いつもの柚菜の、心地よく温かい声で返された。でも、と言いかけたがそこは姉の方が強いようだ。今月はほぼ毎日来ているからたまには一人の方が柚菜もいいのかもしれない、と弱気になった。
 じゃあな。
 そう言おうとしたとき、一度しか見たことがない柚菜の顔があった。16年前、聖慎学園から刑務所に連行された日。数値が18を叩き出し、これから刑事が施設にやってくることが柚菜と由希子に知られた時の。俺を見上げる小さな女の子の顔。表情筋が強張り、俺の顔を焼き付けようとするかのように、強い瞳で見つめてくる。少女は右手を伸ばし、俺の左頬に触れた。頬の切り傷を癒そうとするかのように、細い指で傷口を優しくなぞる。なぜか、柚菜の瞳が潤んでいる。手は左頬から離れず、その感触を刻み込もうとするかのように、優しく触れたまま。
 だが、やがて手は離れ、柚菜が胸元に顔を埋めた。手は背中に回され、感じたことのない強さで抱きしめられた。
「大好きよ、大牙……」
 小さく、絞り出すように言った。顔は埋めたまま。息苦しさを覚えるほど、強く抱きしめられた。
 嬉しい。だが困惑した。このまま柚菜を一人にしたらだめだ。そう思ったが、今は何も言わずに柚菜を強く抱きしめ返す。頭を撫でていると昔に戻ったような、そんな多幸感に包まれる。
 しばらくして、柚菜は胸元から離れた。目元が少し赤くなっている。
 今日は、やっぱり泊まろうか。
 そう言うが、ううん、と小さく首を振る。そして優しく、嘘をつく時の笑顔で言った。
 
 もう大丈夫よ。いつもありがとね。


 厚労省庁舎43階、公安局フロアの講堂。200人ほどが収容できるこの場所で、緊急の捜査会議が開かれている。焦茶の四角形と淡い茶色の四角形が交互に並ぶカーペット。そのカーペット上には、200席ほどのデスクが並ぶ。一席二人掛けのデスクが、縦に10列ほど並ぶ。一列二十人が座れるデスクたちが一つのブロックを形成し、各ブロックごとに刑事課一係、二係、と並ぶ。今回は刑事課各係以外にも、科学捜査課の面々も並んでいる。いわゆる捜査会議というと、昔はヤクザぶった強面の男性捜査員ばかりが並び、男性向け整髪料のきつい香料と加齢臭が充満する、というイメージがあるが。今は男性比率が6〜7割ぐらいで、若者も多い。ただ張り詰めた空気だけが講堂を支配している。
 高低差のある段、階段状に並ぶデスクは前に行けば行くほど蟻地獄のように高さが低くなる。刑事課長の由希子が、その蟻地獄の最下点、最前列の席にいる。その席で、まるで映画館のスクリーンのような大きさのディスプレイを背に、我々と向かい合っている。講堂全体が10ブロックに分けられており、右から四番目のブロックが、我々四係が座るブロック。俺は四係の末席、入り口に最も近い席から由希子を見下ろしている。
 異様な光景だ。由希子だけでなく、その隣に公安部長の佐野がいるのは前回も同様に違和感だが。それに加えて今は公安局長の皇までがいる。確かに異例の事態が起こったが、それでもトップが現場に出張ってくるなど聞いたことがない。
 
 親父が殺された。
 
 ベテランの公安局刑事が殺された。その異様な事態は皇が出張ってくるには十分すぎる理由、ということか。そして異様なのは殺された、その事実に留まらない。親父の死に方は捜査の途中で犯人に返り討ちにされた、ではない。明らかに親父が標的にされ殺されたのだ。2074年9月8日10時36分。公安局長自らが事態の報告をしている。
 親父は、自分が殺されるのをわかっていたのではないか。
 5日前に会った時の、見たことない親父の様子。ヤクザものを生き生きと拷問していた親父からは想像もつかないほど、微弱な、淡い光の眼。自分の半生を悔いているような、俺を優しく諭すような親父の様子。すでにあの時、もう自分が殺されるとわかっていたのではないか。
 ショックだ。親父が殺されたというのに、発狂せずに冷静でいる自分に。実の父親として慕っていた恩人が亡くなったというのに、どれだけ俺は薄情なんだ。
 講堂のスクリーンに捜査資料が映し出されている。親父は2074年9月7日の深夜に殺された。俺が電話した時はまだ生きていたはずだ。拘束されていたのかもしれないが。場所は親父の自宅、赤坂氷川神社近辺の低層マンションの3階の部屋。親父は部屋のリビングで床に倒れた状態で発見された。遺体には激しい切り傷がいくつもあったが、首の頸動脈を切られたのが致命傷となったようだ。室内は血の海と化し、テーブルやリビングに置かれていた本棚までが血を浴びて赤黒く染まっている。機動捜査隊による初動捜査によれば、犯人は単独犯と見られ、梯子を使ってベランダから侵入。掃き出し窓をバーナーを使った焼き破りにより破壊し、親父に襲いかかった。建物に設置されていた防犯カメラを一つ残らず破壊し、周辺のパーキングエリアなどに設置されていた監視カメラのレンズも塗装スプレーで塗りつぶされていた。
 親父は年だが、それでも相当強い。そこらのヤクザ者では歯がたたないレベルだ。その親父を単独で殺せている事実。そして徹底した工作と遺留品の少なさ。間違いなくプロの犯行だ。ただの雇われの殺し屋ではない、高度な潜入と戦闘訓練を受けた何者かによるもの。
 親父と犯人と思われる人物が争った形跡があり、ソファや壁には刀痕があった。数秒か数十秒、あるいは数分。その間に、何かしらのやり取りがあったのではないか。リビング以外の、親父の書斎など全ての部屋が荒らされていた。犯人は親父の命以外にも、何かしらの目的があって侵入したのではないか。
 皇から話を振られ、科学捜査課長が事件の報告を始めた。親父の自宅と周囲に設置されたカメラが破損されるまでの映像の様子、行き交う人間の画像解析結果。山奥や都市圏外の田舎ならともかく、この東京で、この大監獄社会の中でその監視網を一般人がくぐり抜けるなど不可能に近い。だが犯人はそれをやってのけた。自宅マンションとその周辺の監視カメラは、犯行時刻の約10分前にはすべての回線が遮断されて不能になっていた。
 つまり、何の手がかりもない。科学捜査課長は、誠に遺憾ですという表情をしている。だが、なぜだろう。よく知った人物ではないが、どこか白々しいものに見える。そしてその報告を聞いている皇や佐野の表情も、同様だ。ラナンという神が治める安全国家で、殺人事件が立て続けに起こること自体が異様だ。ましてやこれだけ科学技術が発展した現代において、科学捜査課が何の手がかりもないというのも違和感しかない。しかもあれだけ荒らされた現場だ。いくらプロの仕事とはいえ、遺留品もほぼなく、手がかりがないなどあり得るだろうか。
 報告を終えた科学捜査課長の後ろには、宮田大輔(みやただいすけ)がいた。小柄で眼鏡のかけた科学捜査課の職員。理系の高度専門学校を卒業したエリート。学者肌で融通の聞かない宮田は、その知識と粘り強さで科学捜査課で重宝されている。科学捜査課の実態は、名前の印象とは裏腹にとてつもなく膨大な、地味な作業の連続だ。職人肌の人間が集う捜査課の中でも宮田はその仕事の腕を買われていた。在籍した8年間の中で、数えるぐらいだが会話を交わしたことがある。宮田はわかりやすい人間だ。融通が効かない分、自分の流儀とは曲がった仕事の進め方が許せない男。それに反する瞬間は、もろに顔にでる。今、捜査課長の報告を聞いていた宮田の顔には、明らかな動揺が見られる。浅黒いはずの顔は青ざめている。
 親父が殺された。何かの映画を見ているような気分だ。どこか知らない架空の人物が殺されて、それの捜査会議の様子が映し出されているような。あの破天荒な気のいい親父がこの世にいないなんて、まるで実感が湧かない。だが、ただでさえ恨みを買いやすい刑事という職種。それであれだけ無茶な捜査を繰り返していた男だ。殺したいと多方面から恨まれ、実行に移されたとしても不思議ではない。
 この数日で4人が殺されている。うち3人は、あまり利口とは言えない、高級車一台をおしゃかにした見せしめのような犯行。そして残りの一人はプロの犯行。裏で誰が糸を引いているのか。同一人物とは思えないが、だがいずれも柚菜の失踪と希矢の誘拐が皮切りとなって発生している事件だ。親父以外の殺された三人、紫藤家の警備員2名と佐々川は、柚菜と希矢に肩入れした人物・あるいは組織に買収された人間だろう。その柚菜と希矢側と相対するグループに殺されたと見るべき。つまり警備員二名と佐々川を殺したのは紫藤家が有力。だが、親父の場合はどうだ。時期的に被ってはいるが、柚菜と希矢、そして紫藤家との関わりは俺が知る限りはない。それに、殺され方も明らかに他の三人とは異質。親父の件は柚菜とは関連がないのだろうか。
 ふと気づく。己を支配していた「柚菜の心配」という意識が消えかかっている。一連の事件の背景を考えて、柚菜に辿り着きたいと冷静に考えようとしている今、猛烈な不快感を覚える。金属に爪を立てているような不快感。そうじゃない、もっとシンプルに、親父を殺した奴に地獄を見せてやりたいという気持ち。それに想いを馳せていると、不快感は消えてくれる。
「大牙さん」
 前の席にいる陽菜が振り返り、俺の手をはたいている。皇局長の退屈な話のせいで意識が飛んでしまっていた。そして陽菜だけでなく、講堂に座る捜査員たちが一斉に俺の方を見ている。なんだ。
「人殺しのような顔をしているな」
 皇閣下がこちらに顔を向け、睨んでいる。皇京伽(すめらぎきょうか)、御年67歳。高齢者とは思えぬ覇気を纏う。いまだに現役を退かずにいる老人の更なる野心が、その濁った瞳に浮かんでいる。美容医療に余念がなく、見た目は40代後半に見える怪物。ラナン導入前の日本では、海外テロリストグループによる国内事件が後をたたなかった。当時公安局の外事課にいた皇は、東南アジアを拠点とする軍閥組織の調査を担当。現地での捜査活動中、現地ゲリラの襲撃に遭い拘束された。東南アジアに派遣されていた外事課捜査員のほとんどが拷問され殺害された中、生き残った猛者。スーツと手袋で隠れているが、右肩からその指先までが義手である。
「飼い主の話を無視して殺害妄想に囚われているとは、猟犬の鏡だな」
 閣下は、自分の話を熱心に有難く頂戴しない下々を、さぞ気に入らないらしい。
「なんでしょう」
「なんでしょう、じゃないだろお前」
 まずは謝れ、と側近の公安部長の佐野が噛み付いてくる。佐野冬彦、56歳。皇とは対照的な、いかにも公務員という感じの中年。高山よりもさらに腹が出ており、ハゲ散らかしている不潔な男。こんな人間によく公安部長など務まるな、と刑事課一同が疑問を抱いている。
 噛み付くチワワを、皇が制す。
「老神から、何か聞いてないか」
「何か、とは」
 いちいち噛み付かずにはいられないのか、と。老人たちと同じレベルに下がってしまう自分が嫌になる。しばし、視線が衝突する。皇がわざとらしく大きなため息をついた後、口を開いた。
「お前は老神とは随分親しくしていたようじゃないか。殺される前に、何か不穏な行動や発言はなかったのか、と聞いているんだ」
「聞いてないですね」
 皇は再び、使えない奴だな、という意思表示の大きなため息をつく。聞いていても、お前如きに教えるはずがないだろう。
「まぁいい。お前には元々、捜査から外れてもらう予定だった」
 皇は淡々と言う。9月4日時点で、青山からの帰りに由希子からとある通告を受けていた。捜査から外されるのは由希子の差金か。それとも、皇発起の話なのか。
「ただでさえ人員不足なのに、捜査員を削る。あなたが指揮した事件の解決率はかなり低いようですが、大丈夫でしょうか」
「おい!」
 佐野が怒鳴る。ふと右斜め前を見ると、仲良しの三係の未来犯刑事が笑っている。もっといけ、と俺に笑顔を向けている。
 皇は、もはやため息すらつかない。こんな精神異常者をなぜ採用してしまったんだ、と眉間に深い皺を寄せている。年中ボトックスをしているはずなのに、顔も筋肉がすごいのか。よくそんなに皺が寄せられるなと感心してしまう。
 よほど俺が気に入らないのだろう。皇はリングを俺に向ける。公安が手の甲を対象者に向ける動作。犯罪者を取り締まる際に見せるその動作を、皆が集まる場で見せる、明らかなパワハラ行為。捜査員を人として看做さない行為は、それを目にしている全捜査員から「どうしようもない人間だ」と見限られるということが、67歳になっても分からないらしい。
「お前の数値は12だ。一週間前は13だったのにな。こんな数値でまともな捜査ができるとは思えない」
「心配には及びません、閣下。あなた方とは比べ物にならない成果を、上げてきていますから」
「おい」
 老婆が醸す空気が変わる。
「そのくらいにしておけよ。これは命令だ。お前のような犯罪者が社会生活を営めているだけでも、有難く思え。お前は捜査から外れしばらくは謹慎だ。地下室で大人しくしていろ」
「そもそも、局長自らお出ましになって、末端捜査員の俺に捜査から外れろ、なんていうこと自体がおかしいですよね」
「なに?」
「いくら刑事が殺されたとはいえトップが出張ってくるなど、この力の入れ具合はおかしい。それに、あなたは人としての器は確かに小さすぎるが、それでもまがりなりにトップを務めている人間だ。面識もない末端の俺に意味のない質問をして、こんな公開の場でわざわざ挑発をする理由がない」
「……」
「俺が短気であることを知っていれば、挑発されたら失言をすることもわかっていたはずだ。そしてそれを理由に、今のように罰することができる」
 皇の口元が歪み、汚らしい老婆の笑みが浮かぶ。余裕を醸そうとしているのが逆に余裕のない証拠。
「お前には元々捜査から外れてもらう予定だった、とあなたは言った。この人員不足の中で、しかも末端の俺をわざわざ捜査から外す予定をトップ自らが組んでいたのなら、それはおかしな話だ。それとも、あなたのお気に入りの部下に裏で踊らされているのでしょうか」
「お前は老神のようにめちゃくちゃな捜査をする。元々クビにする予定だった」
「めちゃくちゃな捜査をされたら困る、何かがある。だから俺を捜査から外して、何かを掴ませないようにしている。先日、人材開発局の職員から聞きました。厚生省がとある内部告発を揉み消していると。あなた方は何を企んでいるんです」
「虎城」
 空気が凍る。講堂全体の時間が止まる。氷のように冷たく、刺すような声。静かに、参列する者たちを制圧した。全員が息を呑む気配だけが場に漂う。右斜め前の三係の友人の顔も、そして声の主の隣に座る佐野の顔も強張っている。
「口を慎みなさい」
 由希子の目がいつも以上に冷たく、鋭い。その目はしばらく俺を捕捉した後、再び目の前のデスクモニターを見た。
 俺を睨んでいた皇も目を逸らし、その視線は由希子に向かった。
「たしか、あれを推薦してきたのは司くんだったな。躾がなってないようだ、きみらしくもない」
「申し訳ありません」
 由希子は頭を下げている。
 じゃあ佐野くん、あとは頼むよ。皇が佐野にいう。顔が強張っていた佐野はハッとなり、慌てた様子で捜査方針について指揮をとり始めた。この場への参加権が剥奪された俺は、講堂を後にした。


10

 2074年9月8日11時33分。厚労省庁舎43階の公安局フロアの講堂から、刑事達が続々と出てくる。険しい顔をした者もいれば、やっと終わったよ、とかったるい顔をしている者もいる。様々な感情が浮かぶ顔の中に、終始顔が青ざめたままの男がいた。男はエレベーターに乗らず、階段から自分の城に降りて行った。42階の刑事課フロアを過ぎ、41階の科学捜査課が拠点を構えるフロアに入っていく。男は業務に戻る前に一息つきたかったのか、執務室ではなく給湯室へと消えた。講堂から出て給湯室に入るまでの間、後ろ姿を観察していたが、緊張して筋肉が収縮している小さな肩と背中は男の苦悩を雄弁に語っていた。決してバカにしているわけではなく、実直で信念を持ったこういう男は好きだ。一息つきたい気持ちもわかるが、生憎こちらも余裕がない。
 給湯室に入ろうとすると、視線を感じた。後方を振り返ると、科学捜査課の執務室から科学捜査課長が出てきたところだ。先ほど茶番劇を披露していた奴。おそらく同様に給湯室に向かおうとしたのだろうが、俺と目が合うと体を硬直させた。そして方向転換し、階段に向かった。不快な野郎だ。
 給湯室に入ると、実直な男がそこに一人でいた。マグカップを手に持ったまま、ぼんやりと佇んでいる男の姿に、不躾に声をかけた。
「顔が真っ青ですね〜」
 何度か顔を合わせたことがある、見知った顔。あまり関わりたくない相手と思われているのか、落ち着こうとしていた顔が再び動揺している。
「どこか、具合でも悪いんですか」
 自分でも嫌なやつだな、と思いながら言葉を続ける。先ほどの講堂での捜査会議にて、科学捜査課長の報告を青ざめた顔で聞いていた宮田大輔。
「あ、お久しぶりです。いや、全然そんなこと」
 明らかに年上なのに、俺のような者にも丁寧に接してくれる。宮田の誠実な人柄に、やりにくさを覚える。
「あまり余裕がないので率直に言いますね。あなたが関わっているのに何の手がかりもないなんて、そんなわけないですよね」
 小さな宮田に迫り、見下ろしながら言う。一切目を合わせない宮田。お手本のような動揺。
「あなたは手がかりを見つけた。だがそれは、公安にとって知られると都合が悪い何かだった。だから課長、いや違うか。公安部長あたりから圧力がかかって口止めされている」
「……」
 黒目が細かく動いている。黙秘しているつもりでも、正解ですと教えてくれている。その手がかりとは何なのか。実直な男にあまり意地悪をしたくないんだが。
「あなた、上司にへこへこするために科捜課に入ったんですか」
「……」
「あなたの仕事ぶりにはいつも、鬼気迫るような何かを感じていました。ただ向いているから、性に合っているからやっている、だけではない。この仕事に人格の一部を委ねてしまっているような、そういう人間の狂気がありました」
 嘘ではない。ただ事実を突きつける。目が合わなかった宮田が、こちらの目を一度見た。口元が微かに震えている。口は一度開きかけたが、また閉じてしまった。元々俺が威圧しなくても、今にも告発しそうな人間の顔だった宮田。もう少しか。
「一度妥協した人間に、もう狂気は戻らない。宮田さんが仕事人として守るべきは、あの無能達の権威ではないはずです」
 どの口が言うのかと思いながら。だが言い終えた時に、給湯室の扉が開いた。
「権威を守るのが公務員の仕事だよ、宮田くん」
 汚らしい肥満男が、憎たらしい顔と声で宮田に向かっていく。こちらを一瞥することなく。宮田の顔はさらに青ざめており、貧血で倒れるのではないかと心配になる。
「こんな犯罪者の言うことを、君のようなキャリア組が聞いていたらいかんじゃないか」
 油臭い公安部長の佐野が続ける。宮田にじりじりと近寄り、肩に手を置いている。その佐野の様子を、給湯室の入り口から科捜課長が顔を覗かせて見ている。先ほど階段を駆け上って行ったのはこういうことか。捕まえて縛り上げておくべきだった。
「ずいぶん早いお出ましだったな、豚野郎」
「やはり数値が12になるような奴は、口の聞き方すらわからんようだな」
 深い皺と、顔中に散りばめられたシミ。不潔を絵に描いたような顔を歪めながら、一生懸命嫌味を言ってくる。
 おい、と佐野が科捜課長を見る。はい、と奴隷のように機敏な動きを見せ、宮田は科捜課長に連れられて給湯室を出て行った。佐野は鼻下の無精髭に手を当てて、何かを思案し。やがて口を開いた。
「お前……老神と最後に会ったのはいつだ」
「9月3日。それがどうした」
「……」
 鼻下の無精髭では落ち着かないのか、より広範囲の顎の無精髭をしきりに撫でる。問い詰める側のお前がそんなに動揺していてどうする。
「老神は……何か変なことを言ってなかったか」
 皇と同じことを聞いてきた。
「なぜ」
「あ?」
「なぜそんなことを」
「口答えするな。黙って聞かれたことに答えろ」
 現場に出てない雑魚に凄まれても何の迫力もない。
「天下の公安部長が、わざわざ末端に聞いてくることがそれ。親父はよっぽど重要な、お前らに関する何かを知っていたのか」
「……」
「親父だけじゃない。宮田さんは、お前らの何らかの犯罪の証拠でも見つけちまったんじゃねえのか」
「……統合失調症の典型症状だな。早急に入院の手配をしてやろう」
「お前ごときの権限で何ができる。全部皇のママに許可取らなきゃ何もできない奴が調子に乗るなよ」
「……」
「公安部長が、こんな給湯室の会話にまで介入してくる。それがもう自白してるってこともわからん奴が、よく部長職が務まるよな」
「貴様」
 豚の顔が赤くなっている。普段から各所で無能と言われ、気にしていることなのだろう。
「まぁいい。お前が何か隠してるのはわかった。最悪、拷問してでも吐かせてやるから覚悟しておけ」
「おい! いい加減にしろよ」
 口角泡を飛ばしながら、佐野が迫ってくる。
「貴様……クビにしてやるからな。犯罪者が調子に乗りやがって。今に見ていろ」
 佐野が小さい目をひん剥いている。臭い息が室内に充満する。皇ママに相談しろよ。そう言うと、佐野は背中を向けて立ち去った。


11

 厚労省庁舎の地下4階、未来犯刑事の宿舎エリア。広く、快適な独房。都内で60平米の広さの賃貸であれば、月額賃料は25万円をゆうに超える。普通に働くよりもずっと素晴らしい暮らし。窓がないのが苦痛だが。
 自室のコンクリート剥き出しの天井を見つめている。グレーのソファに横たわりただただ煙を吸い、吐くだけの時間。2074年9月8日16時18分。捜査から外され、外にも外出できない。何もすることができない。何をする気も起きず、屍のように横たわっている。タバコの灰を落とすことも忘れ、大粒の灰が左頬に落ちた。それの処理も面倒だ。右手で左頬を払い、床とソファに灰が落ちる。久しぶりだ、この鬱々とした気分は。最近は色々ありすぎたからかその反動がきている。柚菜を心配する気持ちは臓腑にこびりついているが、その上に無力感と憂鬱が覆い被さっている。動く気持ちすら湧いてこない。親父のことを考えると、ただ怒りしか湧いてこない。なぜ、悲しい、寂しい、というあるべき感情が湧いてこないのだろうか。親父のことを考えると頭がぼーっとしてくる。ぽっかり開いた穴に墨汁を垂らされるように、こころがドス黒いもので埋め尽くされていく。子供の頃に味わっていた、懐かしい感覚。
 もうすぐ解雇される、間違い無く。あれだけ上司に舐めた口を聞いたのだ。どれだけ突っ張ろうが所詮は雇われの公務員、それも未来犯。だが一番の理由はそれではない。由希子なら本当にやるだろう。もうすぐ期限の一週間。今日の由希子の、氷のように冷たく刺すような声。空気を呑み込む、参加者全体を威圧する眼。4日前、青山で飯を食った日に見せた表情を思い起こさせる。
 
 2074年9月4日、20時07分。青山の店を出て、公用車が厚労省庁舎前に着いた。
 人の心配してる場合じゃないの。でもあなたはもう、わたしの言うことを聞いてくれない。それがよく分かったわ
 そういった由希子は、寂しそうな顔をしていた。だがそれも一瞬。すぐに冷静な、何の感情も浮かんでない冷たい表情に戻った。そしてそこからは無言の時間が続き、それは店を出た後の車内でもそうだった。地獄の空気だが、それも通常のギリギリ範囲内だ。今までもこの人とは何かあったとき、こういう空気になる。そもそも他愛もない話をする間柄でもないし、わざわざ空気を和らげようとする必要もない。
 公用車が目的地に着いて止まったが、由希子は降りる気配がない。公用車の窓を開け、ジャケットの内ポケットからタバコを取り出し、火をつける。一応禁煙車両だが、そもそもタバコは違法なのだが、関係ないようだ。窓の外を見ていた小さな顔が、何かを思いついたようにこちらを向く。ゆっくりと、大きく煙を吸い込み、俺の顔に向かって大量の煙を吐きかけた。臭い。煙は大好きだが、人が吐いた煙というのはなぜこうも不快なのか。
「……なんだよ」
「ムカつく」
 白く透明な肌の女性は、ふふ、と笑った。喫煙者とは思えない肌艶。いきなりこういうことをする、わけのわからない女。
 いや、わけのわからないことはないか。これがこの人なりの優しさなのだろう。優しさと、何かを切り出したい時の自分のこころを、一瞬和らげたい時のそれ。一瞬見せた柔らかい表情は、すぐにそっぽを向き。開けた窓の外に顔を向け、煙を吐いている。
「沖縄は知ってる?」
「聞いたことはある」
 昔は日本国の領土で、観光名所だったらしい。だが今は米国の土地。それがどうかしたのか。由希子が続ける。
「沖縄に行きなさい」
「……は?」
 話が見えない。
「米国はね、沖縄を軍事基地だけでなく、未来犯を丸ごと収容する島にしようとしているの」
「……」
「米国でラナンが稼働してもうすぐ40年が経つ。治安が良くなってきた米国の人口増加は著しい。国内のセラピーの成果も上々のようだけど、それでもどうしても、ラナンに弾かれてしまう人はいる。その人たちを今までは一望監視型の更生施設に閉じ込めてきたけど、なかなか更生治療の成果は上がっていなかった」
「……」
「よくよく考えてみれば、犯罪傾向の強い人間というのは精神病質者である、という考えからラナンは生まれている。であれば、精神病質者を密室に閉じ込めていたら、それは精神衛生上良くないわよね、って今更気づいたみたいね」
「……だから、自然豊かな沖縄で放し飼いにしようってことか」
「そう。もう3年ぐらい稼働しているんだけど、ラナン数値が改善して、本来の生活に戻れる人も結構いるみたい」
「でも、米国は日本人を受け入れないんじゃないのか」
「そこの沖縄に関しては、日本人の受け入れもするみたい。日本も既存の更生施設から社会復帰する人がほとんどいないからね。米国としては、植民地の更生施設の回転率も上げていかないと。じゃないと昔の刑務所みたいに、高齢者が大量に居座る老人ホームになっちゃうでしょ。意外と収容コストもバカにならないの」
「……」
「まだ公式運用ではないけど、日本人特区が作られている。そこに、今50人ぐらいがテストケースで送られている。今のところ暴動も起きてないし、すでに4人、数値の改善が見られている。その4人は、来週にも元の生活に戻れるらしいわ」
「刑事を辞めてそこに行って、数値を改善しろということか」
「そうよ」
「……」
 素晴らしい話じゃないか。俺がその50人中の4人のように回復できるかわからないが、ただ刑務所にぶち込まれて殺処分を待つより遥かにマシだ。だが。
「有難いけど。さっきの話の、何の解決にもなってない」
「……」
「柚菜は大罪人だから、そんな日本人特区に連れて行けない。公式運用じゃないから厚労省の裏ルートに乗らなきゃいけないのに、そこに乗れるわけがないよな。柚菜がどのみち、死ぬことに変わりはない」
「思い上がらないで」
 空気が凍りつく。低く、強い声。大きく刺すような眼。弟だからといって容赦のない、慈悲のない眼。思考は止まり、思わず息を呑む。
「あなたは人の心配ができる状態じゃないの。何度も言わせないで」
 最近、この人を怖ろしいと思うことが増えた。子供の時はここまでじゃなかったのに、何がこの人を変えてしまったのだろうか。こんな顔をする人じゃなかったはずだ。
 希矢を取り上げた時の、わたしを見るあの子の顔。あんなに怖い顔、初めて見た……
 柚菜の言葉が頭に浮かぶ。自分でも明らかに顔が強張っているのがわかる。寒がりなのに、額に汗をかいている。
 そんな俺の様子に満足したのか、由希子は俺を解放した。目を逸らし、携帯灰皿にタバコを入れた。
「あなたも柚菜も、本当にどうしようもないわ」
「……」
「一週間以内に決めなさい。沖縄に行くかどうか」
 冷たく言い放った。こちらに考える余地はないようだ。
 目の前のモニターのボタンを押し、運転席の扉が開かれる。長い足を車体の外に放り、席を立った。由希子が俺を見下ろしている。
「言うことを聞かないなら……覚悟しておきなさい」
 黒黒と淀み、据わった瞳がそこにはあった。


12

 酒をあおる。アルコールで意識を朦朧とさせなきゃやってられない。東京都港区西麻布。毎日入口の暗証番号が変わる親父の行きつけのバー。穏やかなジャズの音楽が流れるバーの二階で、誰もいない空間の中一人でカウンターに腰掛けている。見世物としても成立するような滑らかな所作で、マスターはグラスを拭いている。謹慎中だが、高山にいつもの脅し文句で協力してもらいここにいる。当の高山はいつも通り、バーの前に車を停めて寝ている。
 親父が好きだった山崎の12年、ロック。俺にとっては十分に酔える重さのお酒。だんだんと意識が茫々(ぼうぼう)としてきた。いい気分だ。ぼんやりとマスターのグラス拭きを眺めていると、マスターは微笑んだ。グラスを置き、奥に引っ込んでしまった。と思ったがすぐに出てきて、何やら木の箱を手に持っている。
 老神さんが好きだった銘柄です。吸われますか。
 初老のマスターは穏やかに言った。美しい男だな、こういう大人になりたいな、と思わされる。
 木の箱から焦茶の厚紙のようなもので巻かれた葉巻をマスターが取り出す。プレミアムシガー、パルタガス。マスターはハサミで葉巻の吸い口を切り、渡してくれた。タバコで使っているライターとは別のガスライターで、一ミリほど灰ができるまで火を当てる。いつもの癖でタバコのように肺にいれず、ふかすように注意する。口の中に煙を溜めて、その香りを楽しむ。とはいうものの、親父のように優雅に楽しむなどできるわけもなく。口の中に苦く、喉が痛くなるほどの重たい煙に我慢できず、ゆっくり吐き出すべき煙を一気に吐き出してしまった。一気に吐き出したせいで余計に喉が痛い。ゲホ、と咽せてしまう。
 なんじゃい大牙、まだまだ若いのう。
 隣の親父に背中を叩かれる、そんな幻覚と妄想が浮かぶ。佐野の豚野郎が言っていたように、統合失調症を自分でも疑う。ガッハッハ、と、豪快な笑い声。幻聴が聞こえる。親父はなぜ、何も言ってくれなかったんだろう。理由は何となく想像がつくが、そんなもの納得できるわけがない。自分が逆の立場だったらどうなんだ、とあの熊を問い詰めてやりたい。
 もう由希子の言うとおりにしようか。
 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。何だかイライラする。柚菜は、結局俺を裏切ったのだ。あれだけ寄り添おうとしたのに、柚菜は応えてくれなかった。自分の無力さを棚に上げて、柚菜への苛立ちが募る。小さい頃からあれだけ優しく、大事にしてくれていたのに、そんな日々も俺の妄想だったんじゃないか。
 親父にしてもそうだ。大事なことは何一つ、教えてくれなかった。
 お互い数値、もうギリギリじゃからのう。うまいことやっていかんと。
 以前、親父がこんなことを言っていたのを思い出す。なぜ、大事なことを親父は何一つ教えてくれなかったのか。それが俺の数値を気にして、俺を殺処分にしないため、だとしたら。そんなに腹立たしいことはない。つまり、俺はどうせ事実を知ったらそれに耐えられず呑まれてしまう、と思われていた。所詮はガキだと軽く見られ、舐められていたということだ。もう、柚菜のことも親父のことも、考えるだけ馬鹿らしい気持ちになってきた。やっぱり酒は危うい飲み物だな。なんだか死にたくなる。
 あなたは人の心配ができる状態じゃないの。何度も言わせないで。
 由希子の言うとおり、俺は自分のことを自分でどうにかできるような人間ではないのかもしれない。だったら、ずっと命を守ってきてくれた姉の言うことを、聞くべきなのかもしれない。でもアルコールを入れた今も、最後の最後で引っかかる感情がある。
 4杯目の酒を空にした。もうだいぶ仕上がっている。情けないが、俺の限度に近づいている。だが5杯目をマスターに所望した。マスターは止めることなく、何も言わずに5杯目の用意をしてくれている。
 後方、階段のところで「失礼します」という恭しい声が聞こえる。おそらく男性の案内人の方。その後、ヒールが床を突く音が小気味よく響く。嫌いじゃない音はだんだんと大きくなり、近くで止まった。マスターの、いらっしゃいませという声が聞こえた。葉巻の苦すぎる匂いとは対照的な、バラを連想させる甘い、それでいて爽やかな香り。香りの主は厚かましく、隣に座ってきた。暗がりの中でサングラスをした、気取った女。女性はお久しぶりですとマスターに言い、このお兄さんと同じやつで、と言った。女性はサングラスをとりカウンターに置く。バッグを反対側の席に置いて、こちらを見た。
 由希子。
 一瞬体が硬直したが、別人だった。だが高身長で切れ長の目、周囲を威圧するような雰囲気はよく知っている人のそれだ。長い金髪を幾重にも緩く巻いており、そこに関しては柔らかい雰囲気があるが、全身から醸し出される波動の前では意味を成さない。
「どーも。昨日は無愛想でごめんね」
 にっこりと、印象とは真逆の笑顔を見せる。声も温かみのある、女性らしい声。誰だ。と思ったが思い出した。
「ああ、ラウンジの」
 終始冷静で退屈そうにしていた、何の情報もくれなかった嬢、弥羽。昨日会ったばかりなのに、色々ありすぎたせいで随分昔のように感じる。
 マスターが弥羽に山崎のロックを出した。かんぱーい、と弥羽が言う。こっちは乾杯どころじゃない。この子は俺がここにいるのを知っていて、会いに来ている。何しに来た。
「そんな警戒しないで」
 ロックを飲み、うぇ〜と口を歪めている。小さなカバンから口直しのセブンスターを取り出し、火をつけた。
「てか、いきなりあなたが来てびっくりしたんだけど。将ちゃんも言っておいてくれればいいのに」
 煙をたっぷり吸い、優雅に吐き出す。タバコの吸い口にはグロスが付着し赤色が付いている。頭がグラグラする。こんな時に、こんなややこしい人に対峙する余裕などないのに。
「……将ちゃん?」
「あなたの父親。老神将矢ちゃん」
「……」
 なぜ弥羽が親父を知っている。それだけじゃない、なぜ俺が親父の息子だと知っている。そもそもなぜ俺がここにいるとわかった。だが最後のは、マスターが多分弥羽に言ったのだろうな、と気づき解決した。酔っ払った頭にはきつい。ぐるぐる考えていると、弥羽が俺を見てアハハと笑っている。意地の悪い奴なんだろう。
「何から話してほしい?」
「結論からお願いします」
 ふーん、つまんない男。と弥羽は言った。
「はい、これあげる」
 弥羽は真っ白な小さいカバンから、今時珍しい紙を取り出した。映画で見たことがある、手紙、というやつか。もらうのは初めてで感動した。
「……親父から?」
「そ」
 弥羽は俺に渡した後、再び前を見て酒を飲む。う〜、マスター甘いのちょうだい、と言った。
 手紙という代物には感動したが、全く封を開ける気にならない。やはり疑問点を片付けなければ。
「なぜあんたがこれを」
「頼まれたから」
「いつ」
「うーん、いつだっけ」
 弥羽は首を傾げ、リングの拡張現実画面を呼び出す。カレンダーアプリを開き、9月の予定を眺めている。
「あった。9月2日。将ちゃんが初めて同伴してくれたの」
 俺が親父に最後に会ったのが9月3日。その前日に、親父はわざわざ弥羽の店を訪ねている。
「あんた、同伴してもらったからそのお礼に、手紙を渡してくれたわけじゃないだろう」
「もちろん。てか、別に同伴してもらわなくても普通に会ってたからね。まぁ、将ちゃんの優しさ、だよね」
 死んだ今になって、あの男の素性に少しずつ近づけている。
「どういう関係なんだ」
「恋人」
 マスターは弥羽にファジーネーブルを出す。印象とは真逆の、オレンジの可愛げのある酒を受け取り、満足そうに飲んでいる。
「……本当は?」
 ぶふ、と酒を吹き出しそうになり。あははと笑っている。
「恩人よ」
 今度は冗談ではなさそうだ。恩人、というのは、過去に親父が弥羽に何かしてあげたということで。その後も会っている、というのはどういうことだろう。
 弥羽の雰囲気が変わった。今までの仮面を脱ぎ去り、本来の彼女が裡から顔を覗かせる。
「親父はあんたに何をしたんだ」
「わたしの代わりに人殺しになってくれたの」
 事も無げに言った。切れ長の目によく合う、無機質な強い声で。グロスのついたタバコをゆっくりと吸い、煙を吐く。柔和な笑顔は完全に消え去り。伏せ目になり、視線は黒塗りカウンターの光沢に向く。力の宿った目は一点を見つめている。目は据わり、この人の核に触れる何かが現れようとしている。
「2年前の抗争は知ってるでしょ」
「ああ」
 2年前、東日本一帯に拠点を構えていた皇海組と、現在玉座に君臨する極東会の抗争。多くの死傷者を出したこの抗争は公安が介入し、双方トップの逮捕・殺処分により収束した。
「うちの旦那、極東会の組員だったの。で、皇海組の黒岩に殺された」
「……」
「なのにあの男、平気な顔してうちの店に現れて。わたしを個室に連れ込んで、犯そうとした」
 弥羽の顔が紅潮している。目は開かれ、口元が震えている。
「わたし、あの男が店に来た時、殺してやろうと思ったの。だからバーテンダーの人が使う果物ナイフをカバンに入れて。あの男、擦り寄って胸当ててたらデレデレして。私をステイさせたの」
「……」
「それで個室とって、私を連れ込んで。もうわたし、刑務所でも殺処分でもどうなってもいいと思った……」
 弥羽の声が震え、眼球は潤んでいる。
「すぐに将ちゃんに電話したわ。そしたら将ちゃん、こんな外道のために刑務所に行かせるわけにはいかん、って。わたしの母親、その時もう病気で余命三ヶ月って医者から言われてた。かあちゃんの死に目に会えんくなるって言って、全部処理してくれたの……」
 我慢できず、涙がこぼれた。
 あの男の偉大さを、俺はまだわかっていなかった。どれだけ愛情の深い男なのだろう。人殺しの身代わりになりそれを処理するなど、普通の人間にできることではない。それは心の器量然り、現実的な能力然り。能力でいえば、それを裏で処理できるだけの武器が親父にはあったということだ。あの男の底知れなさに、死んだ今も驚かされる。
「だから、手紙を渡すことぐらい、同伴してもらわなくても当然なの」
 細い指で涙を拭い、口元を緩めている。
「将ちゃんね、いつもあなたのこと話してた」
「……」
「首元に蛇のタトゥーなんか入れてるけど、真面目な奴だから似合ってないって」
 あはは、と目をほの赤くしている弥羽が笑っている。
「繊細でいい奴すぎるから、刑事には向いてないって。何とかしてやりたいんじゃが、未来犯の俺にはどうすりゃええのかわからん、って。将ちゃん、ずっとあなたのことばっかり」
 苦笑するしかない。もうすぐ殺されると分かっていても、そんなことばかり話していた親父が目に浮かぶ。こんなに愛に溢れた男が、なぜ殺されなくてはならなかったのか。
「話してくれてありがとう」
 いえいえ、と弥羽が言う。
「俺も親父には、一生かかっても返しきれない恩がある。だから、親父を殺した奴をどうしても見つけ出したい」
「……」
「あんた、この手紙を渡すこと以外にも、親父に何か協力していたんじゃないか」
 弥羽の顔から表情が消えた。
「あんたは多分、誰かにしてもらったことを絶対に忘れない人だ。そして、大事な人には自分のできることを惜しまない人」
「……」
「親父は明らかに、普通の刑事にはないものを持っていた。いくら刑事でも、人殺しの裏処理などできない。上司の目は誤魔化せない。何か知らないか」
 弥羽は由希子に似た波動を持っているが、あくまで雰囲気の話だ。自分の隠したいものを隠し切る、その能力はない。由希子とは違い、自分の抱えているものを、ちゃんと表情に出している。だが、それを素直に差し出してくれる人でもないようだ。
「……わたしはただのラウンジ嬢。そんな協力できることなんてないし、将ちゃんのその、普通の刑事にないもの、が何かなんて知らない」
 タバコを取り出し、火を点ける。何かを考えている様子だ。多分それは、この目の前の刑事をどう出し抜こうか、ということではない気がした。それに多分、親父から口止めされているのだろう。それを無理やりこじ開けるのも宜しくない、か。
 彼女の思考が整理されるまで、俺も待とうと思った。葉巻はとっくに火が消えており、まだ吸える部分を多く残している。が、残りを吸う気にはなれない。俺もタバコを取り出そうと思った時、弥羽はゆっくりと口を開いた。
「……そもそもそんな大事なこと、なんで将ちゃんはあなたに言わなかったのかな」
「俺がそれを知ったら、怒り狂うとでも思ったんだろう。それで犯人を見つけて、殺すと思っている」
「ちゃんと分かってるじゃない」
 弥羽は、弟を諭すような口調に変わっている。年上のお姉さん感を出してくるが、その手に持つファジーネーブルがそれを打ち消す。
「分かってるなら……将ちゃんの親心を汲んであげるのが、息子の役目なんじゃないの」
 弥羽はまだ葉が多く残っているタバコを灰皿に押し付けた。マスター、ご馳走様。そう言って、カウンターから去っていった。
 
 弥羽のような女は嫌いだ。大事な人間の想いを絶対に無碍にしないし、周りにもそれを守らせる。正しいことを言い、その想いを貫く強さを持った女性。じゃあお前の旦那は、お前が黒岩を殺すことを望んだのか。
 気持ちが落ち着かない。苛立ちが収まらない。右足と右腕が特に、気持ち悪い。力を入れないと、何だか勝手に痙攣しそうな感覚。タバコに火をつけ、煙を肺に入れる。もう箱の中身が空になっている。酒は何杯目かわからない。
 灰皿に灰を落とそうとすると、灰が皿から外れた。だいぶ酔いが回ってきている。灰は白の厚紙の上に落ちた。何だこれと思ったが、すぐに弥羽がくれた親父の手紙だと思い出した。上品な厚紙。豪快な親父らしくもない。しばらく紙をぼんやりと眺めていると、マスターが俺の前で立ち止まっている。
「3階の個室、使われますか」
 初老のマスターはにっこりと笑い、穏やかに言った。


13

許してくれ
 
俺はお前に、何一つ父親らしいことをしてやれなかった。
結局、お前には怒りだけを残してしまったと思う。本当にごめん。
 
最初、お嬢と青森に迎えに行った時。大牙は今にも死にそうな目をしていた。昔の自分を見ているようだった。妻を殺された時の自分。この先の人生に、生きる理由を何一つ見出せていない眼。ただ家族を失った、その寂しさを埋めたかったから、お前に「親父と呼べ」としつこく迫ったわけじゃない。お前は俺そのものだった。俺は勝手に、お前に自分を押し付けて見てしまっていた。だが、それは間違っていた。
 
お前は昔、「親父と俺は同じ人殺しだ。仲間だな」と言って笑っていたな。
全然違う。お前は俺と違って、素晴らしい男だ。愛する女を守ったんだからな。俺はただ、自分の感情だけを優先させた男。自分の意地を通すためだけに、妻を殺した奴に復讐しただけの男だ。残された者の人生を何も考えられなかったゴミ屑。だから「親父と同じだ」と思ってくれているのなら、それは大きな勘違いだ。
 
復讐は地獄。死者のために生きるという選択は、己を現世から葬り去る行為だ。存在もしない人間に振り回されて、今目の前にいてくれる人間を捨て去る行為。復讐をしたら最後、あとは細い糸の上を、綱渡りで歩き続ける人生しかない。歩みを止めたらあとは落ちるだけ、地獄が待っている。だが歩き続けるのも地獄。
 
俺はお前に、地獄以外の選択肢を用意できなかった。だがお前には、それ以外の選択肢を用意してくれる存在がいるはず。お前が人生において大事にすべきは、その存在以外無いはずだ。
 
お前はいつも、最後は俺の頼みを聞いてくれる優しい息子だったな。本当にありがとう。
 
生きてくれ。これが最後の頼みだ。


14

 視界が滲む。もう怒りしかない。発狂するようなそれではなくただ臓腑の奥を静かに蠢くだけの、それ。偉大な男の愛も、もう眼球から洗い流されてしまった。
 3階では穏やかなジャズの音楽は聴こえず、ただただ無音が広がる。天井も壁も、床も、黒に包まれている。今の気分を表すかのような内装。天井にはガラスのシャンデリアが吊るされている。ぼんやり見ていると、人が首を吊っているようだ。40平米ほどの個室は一人で使うにはあまりにも広すぎる。
 そして今目の前には、現代ではどこの店にも置いてないデッドメディアが置かれている。USBメモリ、という70年前ぐらいによく使われていたもの。キャップを外し、それをPCなどに差し込んでデータを読み込み、再生する。ただでさえ胡散臭いこの代物には、さらに胡散臭い添え書きが置かれていた。「老神を殺した奴の情報」とだけ書かれている。
 マスターが置いたものだろう。そのマスターに頼んだ奴はおそらく、親父の同志だろう。何の目的かは知らないが、今もその目的達成のために動いている。そしてそのために俺を巻き込んで、協力者にしたいと思っている。そんなところではないか。このUSBメモリを見たら、多分後には引けない。親父の目的が何だったのかを、俺は知ることができる。
 親父は、このUSBメモリを俺が見ることを望まないだろう。おそらく天から、俺とその同志を怒りの目で見ているに違いない。だが俺は、あんたの何百倍もの怒りを抱えている。あんたに対してな。
 親父は、復讐は地獄だと書いていた。今目の前にいたら、自分の目でもう一度声に出して読み上げてみろと言いたい。顔が別人になる程殴り飛ばして、この記載を訂正させたい。「復讐は地獄だ」という部分だけ、あんたの体温が乗っていないんだよ。取ってつけたような、上っ面の綺麗事。この部分だけ、俺には何も響かない。あんた自身が綺麗事だとわかった上で書いているからだ。
 家族を殺された者に、選択肢はないんだよ。復讐しようがしまいが、地獄しかないんだよ。
 人間は感情を抑えこもうとした瞬間に、生きる力が奪われていく。抑えこみ続けた結果、人は鬱となり自殺していく。家族を殺された者は、その感情に従って生きていくしかないんだよ。あんたが一番よくわかっていることだろう。
 USBメモリを、個室の隅にある据え置き型のPCに差し込む。メモリのフォルダを開くと、.mp4のファイルが一つだけ置かれていた。ファイルのタイトルは「xxx」となっており、何だかわからない。ファイルを開くと、動画が再生された。中年男の汚い背中と尻が映し出されている。その男の下に、おそらくは10歳前後と思われる少女が裸で仰向けになっている。少女の目は作り物のように虚だ。シングルパイプベッドの白いシーツには、赤色で滲んだ箇所が見える。男の奇怪な、聞くに耐えない声。それはよく知った声だった。天井は見えないが、壁や床はコンクリートで埋め尽くされている部屋のようだ。窓はなく、拷問部屋を連想させる。様々な器具が、部屋中に散乱している。男のものが出し入れし少女を貫き続け、やがて男は痙攣した。そのまま少女に覆い被さり、口を口で覆っている。少女は指一本動かさず、生気を感じ取れない。
 映像の視点が切り替わった。男の顔を斜め前から捉えている。男はカメラの存在に気づいていないようだ。その顔にも当然、見覚えがある。男は鼻息荒く涎を垂らし、恍惚な表情を浮かべている。

 もう頭には、由希子も柚菜も親父も。誰の顔も浮かばない。 



3章:悟

 頭が痛い。蚊の羽音のような、モスキート音のような甲高い音が脳内を刺し続けている。あの汚い男が女の子を犯している映像。脳内のゴミ箱に追いやっていた何か、その蓋が開きそうな感覚だ。自分の核が意識下に炙り出されそうな、そんな感覚。
 東京都江東区青海。昔はお台場と呼ばれる人工島が隣接していたエリアにいる。娯楽施設が集い、ガンダムと呼ばれる巨大な戦闘ロボットや屋内型遊園地などに多くの観光客が訪れたと聞く。だが第三次世界大戦を経て、人口の大激減のためにその影はない。かろうじて、レインボーブリッジは残っているようだ。殺風景なこの青海エリアから見る景色に華を添えている。そして右を見れば、遠い彼方に巨大なテーマパークが見える。ディズニーランドは当時の不況も超えて、何とか生き残っている。今から己が行う行為が彼方に広がる夢の国とは対照的で、妙な高揚感がある。2074年9月10日、21時42分。日中の暑さが嘘のように、涼しい夜風が東京湾から流れてくる。周りの景色は高層ビルが立ち並び、あまり開放感はない。今目の前を不躾に埋め尽くす倉庫群によって、本来であれば息苦しさを感じるはずだが。頭は痛いがそれでも人生で久々に感じる、清々しい気持ち。由希子と過ごした、足利での最後の一年間を思い出す。自分を縛り続けてきたものから解放されたせいだろう。ようやく首輪の鎖が取れたおかげで、身体中から力が漲ってくる。一仕事前の一服もそろそろ終了だ。足元のアスファルトにタバコを捨て、踏み消す。
 目の前の倉庫群は、運送会社などが運営していたものだが、それらの会社は軒並み倒産した。今は管理が行き届いておらず、本来は白地の倉庫たちが茶色のシミで汚れ切っている。後ろ暗い連中が行き交うエリアとなったこの地に来るのは久しぶりだ。
 東京湾沿いの倉庫。獲物が待つ倉庫に戻る。昔通っていた小学校の体育館を彷彿とさせる、こぢんまりとした倉庫。500平米ほどの広さだが、ただ一人を拷問するには十分すぎる。20メートルほどの高さがあり、声がよく響く。倉庫の中央で拘束されている獲物は逃げようとしているのか、俺の足音を聞いてガチャガチャと動き出した。天井から吊るされている鎖に両腕を固定されており、その鎖を引っ張る音が倉庫内に虚しく響く。獲物の足は床に固定された錠で拘束されており、身動きが取れない。足元は自由が効かないが、上体については天井から腕を吊るされているだけなので、首を捻ったり、腰を動かしたりなど、微々たる体の自由は効く。麻袋を被せているため視界を奪われており、こちらが誰なのかはわからない。攫う際には顔を見せず聴覚と視覚、そして口の自由も奪ったが、今は麻袋を被せているだけ。
 獲物は最近、太り過ぎを気にしているのか毎晩ジョギングをしている。今晩も勤務終了後、田町の自宅に戻り。Tシャツに短パンという出立ちで自宅から出てきたところを捕獲した。公安部長ともあろうものが、危機感という単語を知らないらしい。相棒と共にワンボックスカーに乗せ、この倉庫まで拉致した。ちなみに、相棒といっても親父の仕事仲間だ。この拷問用倉庫のオーナーで、一度親父の拷問に立ち会った時に知った仲。倉庫の貸し出しだけでなく汚れの清掃はもちろん、追加料金を払えば攫う際のバディも務めてくれる。公安部長を攫い、この天井の鎖と足元の錠で拘束した後、「では終わったらまた教えてください」と言い、今はいなくなっている。
 獲物は足音が聞こえた当初はガチャガチャと鎖を鳴らしていたが、足音が目の前に来ると途端におとなしくなった。空調は効いているが夏であるから暑いことに変わりはないのに、肥えた汚らしい皮膚に鳥肌が立っている。足は内股になり、全身は小刻みに震えている。今は目の前で、荒い口呼吸に変わっている。恐怖で口内が渇ききっているのだろう、ただでさえ臭い息が吐き気を催すレベルに昇華されている。全裸にしており、脇からドブのような匂いが漂い。下半身にぶら下がる下品な竿は、恐怖で縮み上がっている。
この男は、大して痛めつけなくてもすぐに口を割るだろう。本当に、こんな男が公安部長とは。日本がそれだけ平和だということか。
 麻袋を外した。佐野の小さな目が見開く。
「おまえ……」
「拷問してでも吐かせてやると言っただろ」
 佐野は顔が凍りついている。開いた口が塞がらない、を絵に描いたような顔。
「……頭おかしいんじゃねぇのか」
「犯罪者だからな。お前がいつも言っていたことだ」
「こんなことして、ただで済むと思ってんのか」
「今から殺されるっていうのに、俺の心配してくれるのか」
 呑気な奴だな。そう微笑むと、佐野の顔から血の気が引く。黄色の豚が白豚に変わる。口元が震え出し、内股にしていた膝が諤々と笑いだす。
 誰か。助けてくれ。剥き出しのコンクリートで埋め尽くされた天井と壁、床に、醜い男の叫びが響く。窓一つないこの監獄内で音が反響し合い、不快なことこの上ない。つま先で鳩尾(みぞおち)に蹴りを入れると、佐野は胃液を盛大に吐き出した。大量の胃液と、直近の食事を撒き散らす。親父の凄惨な拷問に付き合った時の映像と感覚、そして匂いが想い起こされる。
「誰も助けに来ない。叫ぶ暇があったら己の罪を吐け」
 佐野は口から胃液の糸を引き、呼吸を乱している。目は嘔吐時の影響で充血している。骨のあるチンピラなら、ここで歯を剥き出しにして睨みつけてくるところだが、飼い慣らされた家畜にその根性はないらしい。先日までの高圧的な態度はその片鱗もなく。主人に命を乞う畜生のような弱い目をしている。
「頼む……命だけは、助けてくれないか……」
「俺の言葉が聞こえないのか」
 股を蹴り上げる。靴の上から陰嚢(いんのう)の柔らかな感触がする。豚は短い悲鳴をあげる。陰嚢を蹴り上げられた衝撃で再び体内で競り上がるものがあるようだ。男なら誰もが共感するその気持ち悪さのため、再び胃液を口から撒き散らす。その中に食物はもはやなく、ただ酸味のある臭いだけが空気に加わる。精巣は球状で可動性があり、白膜という強靭な膜に包まれているため、まだ破裂はしていないだろう。破裂するときの痛みは、胃液を撒き散らすぐらいでは済まない。だが、まだ序盤だ。佐野が思いの外手強ければその時のカードとして使う。
「聞かれたこと以外喋るな。お前の罪を吐け」
 佐野は、うぇ、と残りの胃液を吐ききっている。はぁ、はぁ、と息が乱れている。心なしか、この短時間で少し痩せたように見える。
「……老神を殺したのは、俺だ」
 目に生気がない。頭はガックリと項垂れ、薄く清潔感に欠けた頭頂部がこちらを向いている。想像通りの雑魚で助かる。以前親父の拷問を見た時は戦慄した。躊躇なく眼球を刃物で切り付け、素手で眼球を抉り取っていた。ぶつ、ぶつ、という眼球を抉り取る時の音。眼球にこびりついたピンク色の鮮やかな脈絡膜。それらが糸をひき、血液と共に親父の手を汚している映像。思わず顔を顰めてしまったが、親父の口元は緩んでいた。改めて、あんたに復讐がどうのこうの説かれる筋合いはない。
 佐野は、雑魚ではあるがまだ抵抗がある。
「嘘をつくな」
「……」
「お前のような傀儡が意志を持って行動することなどあり得ない。皇の指示だな」
 佐野は項垂れたまま。頭を振る様子も、ましてや口を開く様子もない。
 一度佐野の目の前から離れ、倉庫の入り口に向かう。倉庫の入り口に置いてあるカバンから、五発入りのスミス&ウェッソンM360Jを取り出す。昔ながらの古臭いリボルバー。ラッチを押してシリンダーを横に振り出す。レンコンと呼ばれるシリンダーには五発の弾薬が入っている。銃口を上に向け、弾薬をシリンダーから出した。薬莢(やっきょう)が床のコンクリートに落ちる甲高い金属音が、倉庫内に冷たく響く。
 項垂れていた佐野の顔が上がっている。小さな一重瞼の目は、俺が右手に持つリボルバーに釘付けになっている。
「おまえ……官給品だぞ」
「それがどうした」
 一発分だけ弾薬を詰め、シリンダーをルーレットのように回転させる。
「皇も殺す。お前が黙っている意味はない」
 シリンダーを嵌め直し、リボルバーの撃鉄を起こす。銃口を佐野に向け、再び倉庫の入り口から佐野に近づいていく。近づくごとに佐野の体が仰け反っていくが、足を拘束されているため意味がない。おまけに腕も天井から吊るされているため、床に倒れ込むこともできない。
「もう一度聞くぞ。お前は誰の指示で、何をした」
 佐野は5メートルほど離れた距離にいる。さらに近づいていく。
「……」
 弾薬をシリンダーに入れたのが見えなかったのか。空砲だと高を括っているのか、本気で打つ訳はないと舐めているのか。佐野は銃口を見たまま、頑なに口を閉じている。
 引鉄を引く。発砲音が倉庫内に響き渡り、鼓膜が微かに痛む感覚は、いつになっても慣れない。硝煙の匂いが鼻につき、銃口から白煙が立ち上る。だが佐野の吐瀉物の匂いをかき消してくれるから、これは有難い。
「思ったより早かったな」
 五分の一の確率だったが、一度目で当たりくじを引いた。
「……狂ってる……」
 空調は効いているが、佐野の額からは汗が噴き出ている。顎が傍目に見ても異様なほど震え、奥歯がガチガチと噛み合う音が明瞭に聞こえる。撃たれた衝撃に圧倒されているからか、左耳が吹き飛ばされている痛みを感じていないようだ。耳たぶを含む耳介のほとんどが削り取られ、血が吹き出している。
「次は当てる」
 再びシリンダーを振り出した。広い倉庫だが音が反響し、鼓膜がやられている。水中にいるかのように、自分の声がくぐもって聞こえる。銃口を上に向けても熱によって空薬莢が膨張し、シリンダーに貼り付いてしまった。エジェクターロッドを押して空薬莢を排除する。再び弾薬を詰め、回転させてシリンダーを嵌める。目の前の佐野の眉間に銃口を押し当てる。
「おまえ……なんで、そこまで……」
 佐野は浅い呼吸を繰り返し、過呼吸のようになっている。目には涙が浮かんでおり、余計に腹だたしい。
 撃鉄を起こし、引き鉄を引いた。撃鉄が降りたものの、鉄同士があたる音だけが虚しく響く。弾が出なかった。
 ヒュー、ヒュー、と季節外れの北風が吹くような音が、佐野の口から漏れている。指先は痙攣し、アンモニア臭が漂う。薄黒い竿から尿がもれ、危うく足にかかりそうになった。死を全身で感じているようだ。
 失禁したものを避けるため、佐野の右側に体を移す。右のこめかみに銃口を押し付け、撃鉄を起こした。
「し、し、しど……」
 声が裏返り、半狂乱に陥っている。喋ろうとしているが、うまく言葉にならない。
「し、ど、しど……しどう」
 顎の震えを懸命に抑え、声を絞り出した。しどう。紫藤。
「あのジジイが黒幕なのか」
 佐野は鳩のようにカクカクと、必要以上に首を縦に振っている。自分が漏らした尿が溜池を作り、広がっている。それは佐野自身の足にも到達し、痙攣している足の指が尿を踏んでいる。しばらく忘れていた名前。あのジジイが動く理由は、俺が知る限りでは希矢、いや紫藤義紅が誘拐されたことだ。
「親父が紫藤義紅を誘拐したのか」
 佐野は項垂れたまま、首を縦に振る。なぜ紫藤義紅を誘拐したのか、もはやそれは愚問だ。
 親父は希矢を誘拐して、ラナン数値が10を下回った、だから公安が殺処分した。これが公のストーリーとして語られそうだが、そんな訳はない。
「親父は、もうとっくの昔にラナン数値は10を下回っていたはずだ」
「……」
 どう考えてもあの拷問を笑ってできる人間が、数値が正常なはずがない。それに、親父には怪しい点がいくつもある。健常者のキャリア組刑事の同行なしで外をほっつき歩けること。庁舎に出勤せず、刑事課全体の会議にも気まぐれでしか参加しないこと。そして庁舎内の独房ではなく、一般社会で健常者のように一人暮らしができていること。何もかもが異常だ。そして、子供の違法人身売買に手を染める反社組織の壊滅数も気になる。
「お前らはなぜ、親父を今まで殺さずに生かしてきたんだ。なぜ、あれほど異常な優遇を親父は受けていた」
「……」
 佐野は項垂れている。だが瞳には一抹の力も残っていない。どうはぐらかそうか、ではなく単純にどう説明しようか茫々とする頭で考えているのだろう。だが、そんなことは問い詰めるまでもないことに気づいた。その答えは、二日前にマスターから受け取った情報で知っている。
「……親父は、お前らを脅していたんだな」
 ぴく、と佐野の頭が反応した。
「親父は、お前ら高級官僚の悪事を握っていた。それを公表しないかわりに、親父の要求をある程度呑んでいた。そうだな」
 ネタを掴んで役人を脅す、さながらヤクザのやり口。佐野は観念したように、小さく頷いた。
 あの男が纏っていた異様な雰囲気の裏付けが取れた。父親として慕っていた男は、改めてとんでもない男だった。だが気になることは山ほどある。そもそも、その程度の自由が欲しかったから、そのためにこれほどのリスクを犯すとは思えない。釣り合いが取れない。
「なぜ親父はお前らを脅していたんだ」
 佐野の黒目が幾許か動いている。逡巡していたが、やがてそれは収まった。呼吸も若干落ち着き、言葉を喋れるようにはなっている。
「……娘に会いたかったからだろう」
 ゆっくりと、佐野は口を開き始めた。
「老神は妻を殺され、娘と引き離されてからラナン数値が急激に悪化していった。未来犯刑事に降格したあいつは、いつからか厚労省の上官たちを脅すようになった」
「娘の居場所を特定するためにか」
「そうだ。特に人材開発局と公安局の上官たちをな。奴はキャバ嬢やラウンジ嬢とえらく繋がっていたから、それでネタを取ってきたんだろう」
「お前と違って、大人の女性を魅力に感じるジジイどもに、美女をあてがって接待する。その時に不祥事を起こさせて、それをネタに強請る」
美人局(つつもたせ)、実に親父らしい手だ。佐野は驚くことなく、自分の罪も俺に筒抜けであることを自覚している。
「ああ。奴はそれ以外にも、大手企業と役人の現金授受だの、建設会社に自宅を提供させた議員の証拠だのを大量に掴んでいた。それを使って、奴はやりたい放題だった」
 上級国民たちは、叩けば埃しか出ない奴らだった、ということ。それを逆手にとって、親父は自分の要求を貫き通した。それだけの武器があれば、柚菜の親族データを改竄することなど造作もない。
「それで人材開発局の奴らは、娘の情報を親父に流した。奴らは聖慎学園の施設長に圧力をかけて、その娘と親父が会うことに目を瞑らせていた」
「そうだ。皇局長も、それぐらいだったら好きにやらせてやろう、というお考えだった」
「だが、親父はそれで止まらなかった」
「ああ。あいつは何をとち狂ったのか、極東会の連中とつるみ始めた」
「極東会は親父を盾にして、膨れ上がっていった訳だな」
「あいつがなぜ極東会に肩入れしていたのかは、結局今もわからない。だが奴は、公安の捜査を妨害していた。極東会の事務所にガサ入れされないように、あいつは局長を脅していた」
「上長たちの不祥事を守り切るためだけじゃない、皇自身にも後ろ暗い事情がありそうだな」
「……」
 佐野は押し黙る。まぁ、皇も拷問して吐かせればいい。
「子供管理課情報統括グループの職員が言っていた、児童養護施設からの内部告発の揉み消しの件。あれも親父が関わっているのか」
「ああ。あれも老神たち、極東会の仕業だ」
 何のために。親父は死んでも、子供を横流しして粗利を稼ぐような男じゃない。であれば、誰かに頼まれてやったことなのか。自分と同じように、我が子を取り戻したい親から依頼を受け、厚労省と児童養護施設の施設長を脅す。それで子供を取り返す。あるいは、希矢を攫うための予行演習として、何かを確認していたのか。だがそれは佐野に聞いてもわからないだろう。極東会の連中に聞けばいいことだ。どうせ、柚菜と希矢を匿っているのも極東会だ。
「これほどのことをされても、お前らは親父を泳がせていた。よっぽど、上の連中はエグいネタを掴まれていたんだろうな。お前の女児レイプがかわいく見えるほど」
「……」
「だが、お前らは親父を殺した。それほどに紫藤のジジイはお前らにとって絶対なんだな」
「……俺も詳しくは知らん。9月4日の朝、局長から緊急で呼び出されたんだ。紫藤様から老神を殺せと命令が来たわ、と局長は仰っていた」
「それで、お前らは実行に移した。殺害は首尾よく進んだはずだった。だが有能な機捜隊と科捜科の宮田によって、その暗殺の証拠が見つかってしまった」
「……」
「お前が暗殺を指揮したのか」
「いや、俺じゃない」
 では誰だ。局長自ら、か。だがそれは重要ではないと気づく。
「誰が殺したんだ。宮田は何を見つけたんだ」
「……髪だ」
 佐野はなぜか躊躇している。今さら何を隠すことがあるのか。
「老神のズボンのポケットから髪の毛が見つかった。それを宮田が照合してしまったから、彼に圧力をかけたんだ。俺も驚いたよ、殉職したはずの杜原純希のデータと合致していたからな」


 杜原が生きていた。昨年死んだはずの男が。公安、いや厚生省上層部の闇深さに改めて驚かされる。俺が18歳の時に、青森まで会いに来た柚菜の婚約者。目鼻立ちのはっきりした精悍な男、健全な精神の持ち主。柚菜は杜原の隣で、いつも幸せで満たされた表情をしていた。その柚菜の旦那が、柚菜の父親を殺した。
 杜原は焼死体で見つかった。が、あれはダミーだったのだ。裏の事情は知らないがもう一年前、あるいはそれよりも前から親父は、厚生省上層部に狙われていた、ということなのだろう。
 柚菜が一生懸命生きてきて、ようやく掴んだ幸せ、家庭。柚菜は杜原を愛していた。だからこそあの惨たらしい死体を見せられた時の絶望は、柚菜の魂を狂わせるには十分すぎた。柚菜と、親父の人生を愚弄した杜原とその飼い主達には、必ず地獄を見せてやる。意識にはもう暗い喜びしかなく、自己憐憫にも似た濃厚な陶酔を味わう。
 佐野は俺の表情を見て気が緩んだのか、若干の落ち着きを見せている。
「俺は全部話したぞ」
 さぁ、俺は誠意を見せた。俺を解放してくれ。小さい目が語りかけている。確かに、こいつはもう全て話しただろう。大枠の事情は知っていても、親父を殺す件については深く知らされておらず、何も任されていないに等しい。所詮はその程度の存在なのだ。もうあとは、杜原と皇と紫藤を殺せば済む話だ。
「頼む、命だけは……」
「俺が殺さなくても、お前は皇に殺される」
 バカ過ぎて笑ってしまう。国家権力を地に堕とす情報を漏らした愚図を、奴らが生かしておくわけがない。だがそんなことにも頭の回らなかったこの哀れな豚は、再び顔を凍りつかせている。
 リングに取り込んだ映像を佐野に見せる。汚い中年の背中と尻が映し出され、少女が犯されている映像。頭痛が酷くなり、吐き気を催す。
「お前は……何人の女の子を犯したんだ」
 佐野は今にも再び失禁しそうな顔をしていたが、映像を見せられて様子が変わってきた。どのみち殺されるのだ、と観念したような。己の死が確実となり、恐怖が閾値を超えて穏やかな絶望に包まれた、そんな顔に変わっている。四肢の震えも、口元の震えも収まっている。嘔吐物と涎が渇いた、これ以上なく汚れた口元を歪ませて、笑い出した。
「さぁな。そんなもん、いちいち覚えてねーよ」
 乾いた笑い声が倉庫内に響く。それが余計に頭痛と吐き気を強化し、気分が悪い。
「まさか撮られていたとはな。わざわざ栃木の温泉街まで出張ってやっていたのに。極東会の息がかかっていた連中だったか」
 佐野は聞かれてもないことを、ベラベラ喋り出した。死を悟った時、人間の本性が出る。佐野という畜生の本性は、意外性の欠片もないが。
「お前は女の子の魂を殺した。その子たちは、どう生きようとも地獄しかない。中にはその後、自殺している子もいるだろう。お前は殺人以上の大罪を犯した」
 撃鉄を起こしたままの銃口を向ける。だが佐野は銃口を見つめ、高らかに笑っている。眼球をひん剥き、その表情は狂乱に満ちている。
「お前は女でもないくせに、何を知った風な口を聞いている。大体、俺はあのメスガキたちの雇い主にちゃんと金を渡してんだぞ。その金があるから、ガキ達は飯を食えているんじゃねぇか。むしろ感謝してほしいぐらいだ」
 引き鉄を引いた。撃鉄が降りただけの音が虚しく響く。佐野は目を瞑ることもなく、眼球をかっ開いたまま喋り続ける。
「ガキによっちゃあ、善がっている奴もいたぜ。どうしようもねぇスケベな雌豚もいた」
 すぐに撃鉄を起こし引き鉄を引く。だが弾は出ない。佐野は気が触れ、半ば叫びながら喋り続けている。
「この映像のガキは覚えてる! こっちは金払ってんのに、全然声も上げねぇマグロ女だった。ムカつくからあの後、もう一回犯してやった。そんときは顔を殴って、首を絞めてやったんだ。そうしたらよ、あのガキ、こっちを睨みつけてきやがって。首絞めてんのに全然マンコも締まらねぇしよ、どうしようもねぇガキだからそのまま締め殺してやったんだ」
 身体中から悪心が込み上げる。それは明確な吐き気となり、十二指腸から胃に向かう逆蠕動運動が起き、胃の筋肉が緩む。右手のリボルバーに力が入らない。
「賠償金100万も取られたよ。あれは痛手だったなぁ。だがあのガキが死んでいく様は爽快だった。首を絞めるとな、顔全体が赤くなって、鬱血してちょっと膨れ上がるんだよ。血が顔に滞留するんだ。でな、赤みがかった顔が、だんだんどす黒くなっていくんだ。比喩じゃない、人間の顔が黒みを帯びていく。映画で見るような、あんな綺麗な顔じゃないんだよ。人が死んでいく時の顔は、生々しくて最高だ。頬に溢血斑が出来始めた時には、とっくに呼吸が止まってた。眼球が死んだ魚みてーに、なんの光も無くなるんだ。ぐりん、って白目剥いてよ。最後、口の中に出してやろうと思ったんだが、そいつのベロも黒いんだよ。なんか汚ねぇ黒の粒だらけになっててよぉ、病気もらいそうで気持ち悪ぃから普通に中に出して終わりにした。なんだか呆気なかったなぁ」
 そう言って、猿のような奇声をあげて笑い出した。倉庫中に悪魔のような下劣な喚き声が、いつまでも木霊する。佐野の黒ずんだ陰茎は膨張し、脈を打っている。
 我慢できず、食道下部の噴門が緩み、蠕動の波が押し寄せた。反射的に息が深く吸い込まれ、胃液が食道を駆け抜ける。リボルバーは床に叩きつけられ、大量に吐瀉してしまった。酸味が空気中に漂い、鼻腔を指す。視界は滲むだけでなく、なぜか涙がこぼれている。
 吐き気は一向に収まらず、床に蹲ってしまう。あの夏の夜、激しく打ち付ける雨、雷鳴、青白い光に照らされる血の海。由希子が今まで語ってくれなかった全ての映像が、脳内に滝のように流れ込んでくる。胃の中は空で何もないのに、嗚咽の音だけが口から漏れ続ける。
 顔を上げると、頭上から佐野が形勢逆転とでも言いたげな表情で見下ろしている。顔の皺が中央にくしゃくしゃに集まり、醜い顔でゲラゲラ笑っている。
「なんだおまえ。もしかして、尻でも犯されたのか」
 体が勝手に動いた。胸の内ポケットからフォールディングナイフを取り出す。佐野に近づき右手で黒ずんだ硬い竿を引っ張り、左手のナイフで裂いた。鼓膜を劈くのは己の発狂音なのか佐野の断末魔なのか、もう分からない。切り裂いた根元には尿道が露わになっており。切り口から血が大量に溢れ出す。竿は血が抜かれてみるみる縮んでいき、ホルモンのような脂肪の白い光を放っている。根元に再び目を向ければ、尿道の上には二つの陰茎海綿体があり、明太子のような赤い粒が大量に浮かび上がっている。佐野は白目を剥いており、口から涎を垂らしている。意識はないようだ。幸せなことではないか、死ぬ時の痛みを感じずに逝けるのだから。
 床に転がったペニスを拾い上げ口の中に放り込む。顎を掴み口を開けて、しっかりと咥えさせる。天井からの鎖で腕は吊るされたままで、佐野は倒れ込むことができずに顔だけが頭上に向いている。まるでフェラチオをしながら天に向けて両手をあげ、赦しを乞うような姿。撃鉄を起こし、右のこめかみに銃口を押し当てて引き鉄を引く。だがまたしても、撃鉄が降りただけの音が鳴る。
 最後に運の強い奴だな。
 五度目の撃鉄を起こし引き鉄を引く。頭が揺れ、銃口の先に空洞ができた。


 20年前

 2054年8月。栃木県足利市。辺りはすっかり暗くなっている。雲行きは怪しく、湿気でアスファルトの匂いが鼻につく。これから雨が降るのは間違いないだろう。先ほど、春日井神社近くの駄菓子屋で万引きをした菓子パンを口に放り込む。神社で食べてから家に帰ろうとしたが、そんな余裕はなさそうだ。最近は腹が減ったら、よく駄菓子屋でお世話になっている。店主の婆さんは俺が来ると、いつも奥に引っ込んでしまう。おそらく盗んでいるのはバレているが、6歳の腹を空かせたガキは見逃してやろう、という優しさなのか。
 春日井神社から自宅の集落まで、歩いて5分ほど。ところどころヒビが入った、長年舗装されてないアスファルトの上を歩く。小さい菓子パンはすぐに溶けて無くなってしまった。まだ腹が減っているから、今日も由希姉の家にお邪魔しよう。
 遠くの空で、天を揺るがすような音が聞こえる。夕立がもうすぐ来る。日中は優しげな緑に包まれている山々は、今はただただ冷たく、暗い要塞のようだ。気持ち程度のしょぼい街灯が照らす道を急ぐ。前方に集落の入り口が見えた時、入り口から人が二人出てきた。遠目でもわかる美貌、由希姉だ。なぜかいつもと違い、白く綺麗目のワンピースを着ている。フリル袖から白く細い腕が出ており、丈が異様に短いせいで長い足が露わになっている。艶かしい感じに変な気持ちがする。由希姉の顔は俯いており、男に手を繋がれて歩いている。男は少し焦るように、早歩きで由希姉を引っ張るように歩く。由希姉の母親の新しい男だろうか。だがそれにしては、遠目でも明らかに太っており、髪も薄い汚らしい男だ。
 変だな。
 あの俯いた、憂鬱そうな由希姉の顔が気になる。何より、変なおじさんに手を握られているの見て、すごく嫌な気持ちになった。
 二人は山の方に向かって歩いて行った。奥には何もないはずなのに、なぜだ。後をつけようとすると夕立の音が大きくなり、空が光った。空気を揺るがす音と共に、ポツポツと雨が降ってきた。前方の二人は小走りになり、俺も走って追いかける。
 集落の奥の、山に向かう道は入ったことがなかった。進めば進むほど街灯の数が減り、辺りは暗くなってくる。廃工場や、屋根が陥没した屋敷などが道の脇に現れ、今にも幽霊が出てきそうだ。怖いが、由希姉を放っておくわけにはいかない。走り、二人の後を追いかける。中年男は焦っているのか、後をつけられていることにも気づいていないようだ。雨足がいよいよ強くなり、先を走る二人は手を繋いでいない側の手を頭上に添えている。そのなんの意味もない対応を見ながら走っていると、沼が現れた。沼の看板には「釣り禁止」と書かれている。こんなところで釣りをする奴なんかいねーよと毒づいていると、二人は道路を挟んで沼の反対側の屋敷に入っていった。広い屋敷、2000平米はあるだろうか。先ほど乱立していたお化け屋敷のような部屋ではなく、ある程度手入れされている様子の屋敷。雨でぬかるんだ地面を、中年男は由希姉を引きずるように走り、玄関を開けて中に消えていった。
 怖い。その思いが込み上げてくる。大人の男は、いくら腹が出て情けない風貌をしていようが、その力は圧倒的だ。自分の父親で嫌というほど思い知らされている。だがそれ以上に、由希姉が殺されるんじゃないかと思った。
 玄関に手をかけるが、鍵がかかっていて開かない。屋敷の周りを彷徨くが、中に入れる隙が見当たらない。だが屋敷の裏側まで回り込むと、古臭い排気ダクトがあった。さびれた脆い網がかかっていたが一部に穴が空いており、子供の手でも容易に引き裂くことができた。長方形の管路は、子供なら余裕に入れるほどの大きさ。匍匐前進で管路内を進む。中はカビ臭く埃まみれで、蜘蛛の巣がところどこに張ってある。ネズミの死骸もあったが避けきれず、肘でふんずけてしまった。柔らかく気持ち悪い感触に思わず声をあげてしまう。
 やがて管路は行き止まりになった。頭上の蓋を開けて管路外に出ると、そこは厨房のような場所だった。広いキッチン。暗がりでよく見えないが、外の街灯や月の光が差し込み、朧げにその様相をつかめる。銀色の流しが外部からの光に反射し、微かに光っている。キッチンの戸棚を開けると、包丁が6本ほど入っていた。中年男に襲い掛かられた時の武器が必要だ。その中の一本を取り出し、両手で柄を掴む。手と足が震えるが、立ち止まっている場合じゃない。
 厨房を出て廊下を進むと、中年男の荒い息遣いが聞こえた。外は時々雷鳴が響き、爆発音のような音と共に青白い光が屋敷内を照らす。頭上の瓦を、大雨が激しく打ち付ける。廊下を進めば進むほど、男の息遣いが大きく聞こえてくる。廊下の左奥の部屋が、どうやらその発生源のようだ。包丁を左手で持ち、右手でゆっくりと、少し襖を開けた。
 
 由希子は裸にされ、男にのしかかられていた。


 目の前の映像が切り替わった。20年前から意識が戻され、頭蓋から血を流す豚が吊るされている。ただ、目の前の死体を見つめる。防音の倉庫内には、ただ換気扇が回る音だけが静かに聞こえる。しばらく思考停止していたが、ようやく頭が廻り始めた。これからどうする。親父の復讐を考えれば、今すぐ紫藤と皇を殺しに行くべきだ。だが、ふと気づく。まだ親父の宝物は生きている。親父の娘と孫を生かさなければいけない。
 そのためには、と考えたところで倉庫の扉が開いた。重たい扉がゆっくりと、軋む音を立てながら二人の男によって開けられる。その男たちが開けた通り道を、一人の大男が歩いてくる。2メートルほどあるのでは、と思われる黒人の大男。黒いシャツがはちきれんばかりの筋肉と、明らかに外国人の顔つき。シャツ袖を肘元までまくっており、右腕の鋼鉄の義手が露わになっている。髪が全て刈り上げられた頭に、整えられた濃い顎鬚。軽く数十人は殺してきたであろう波動を放つ男は、真っ直ぐに俺を見つめて歩いてくる。
黒人の男に相対し、左手のフォールディングナイフと左足を前に出す。紫藤たちが放った殺し屋か。だが大男は微笑み、その大きな手で拍手を始めた。乾いた拍手音が倉庫内に響く。
「いい暴力だ。さすがは老神さんの息子」
 流暢な日本語を発しながら、大男は近づいてくる。だが俺の正面には来ず、死体の左側に近づいて止まった。俺と大男に、佐野の死体が挟まれている。
「いい暴力?」
「ああ。容赦も、慈悲もない。それに愛がある」
 愛とはなんだ。それに応えるように、大男は天井を見上げている死体の顔を掴んだ。左手で、血を流す陰茎を咥える口を、顎ごと掴む。
「この屑に犯された女の子たちへの、愛だ。老神さんの暴力もいつだって、根底には人への想いがあった。だから俺はあの人の暴力が好きなんだ」
 屈強な大男からは想像もつかない、柔らかい表情。口元は緩み、目を細めている。何か、親父とのやりとりを想起しているような、そんな表情。
「暴力だけが暴力の痕跡を消滅させうる。植民地原住民はコロンを武力で追い払うことにより、自らの手で植民地特有の神経症を癒すのだ。怒りが爆発する時に、彼は自分の失われていた意識の透明を取り戻す」
「……ファノニズム、か。ヤクザにうってつけの思想だな」
 大男は口を開けて大きく笑った。屍の顎から手が離れ、こちらの顔を見る。
「老神さんの言っていた通り、真面目な男だな」
 満足げな表情を浮かべている。
「極東会のグルモア・テュラムだ」
 大男は義手ではない左手を前に差し出してきた。ゴリラのような大きい手、本気で握られたら手の骨が全て砕けそうだ。だが柔らかく、しかし力強く握手を交わす。
「あんたが会長さんか」
「ああ。老神さんには本当に世話になった」
 グルモアは再び微笑んだ。おそらくこの男がマスターに、あのUSBメモリを渡したのだろう。
「俺はあんたの試験に合格したのか」
 グルモアは口元を緩ませ、丸太のような太い首に据えられた顔を、小さく横に振る。
「すまなかった、だが気を悪くしないでほしい。俺たちも必死でね」
 親父が握っていた情報の一部を俺に見せる。そして俺が、極東会が望むような行動を取る人間かどうかを試した、そういうことだ。
「親父はあんたたちに、俺のことは喋ってないはずだ」
「当然。あの人は愛に溢れた男だからな。だが言った通り、俺たちも必死なんだ。あなたのことは調べさせてもらったよ」
 親父は間違っても、極東会の連中と俺が接触することは避けたかったはず。あの人はそういう人だ。だが、この男は接触してきた。
「あんたは親父の思いなど関係ない、という男か」
 そう憎まれ口を叩くと、グルモアは親父のようにガッハッハと笑った。
「あなたに言われたくない。高級官僚を攫って、こんな殺し方をして。老神さんが見たらどう思うだろうな」
 今度は俺が笑ってしまった。こういう男は嫌いじゃない。
「大牙さんも俺も、自分の思想に生きる男だ。いくら大切な人が願うことでも、それが己に反することなら躊躇いなく退ける」
「そうだな」
 俺は思想ではなく、ただ感情に振り回されているだけだが。
「それにこの計画は老神さんの悲願だ。親の悲願を叶えてこそ息子、じゃないか」
 グルモアは挑発的な笑みを浮かべ、俺を見下ろす。身勝手さと典型的な認知の歪み。心地よい同族嫌悪を感じる。
「計画というのは。公安と紫藤を潰すのか」
「少し違う。この国とラナンを壊すんだ」
 平然と言ってのけた。弛緩した表情で、淡々と。
「老神さんはこの大監獄社会を憎んでいた。精神至上主義を掲げ、人間の尊厳を奪い去るこの社会を。それは我らSEAUF(Southeast & East Asia United Front)も同じだ」
「……それが、極東会のケツを持っている組織か」
「そうだ。元々俺はそこの人間だったんだが、2年前の抗争で兄弟が殺されてね。その穴埋めで日本に来たんだ。もともと極東会は老神さんの世話になっていたからな、彼には随分助けられた」
「ラナンは米国から押し付けられたものだ。米国が黙ってない」
「我々の首領はそこを潰そうと思っている。中華人民共和国の主席閣下はな」
「……」
 米国に肉薄する軍事大国の中国。それが裏で糸を引いている組織。途方もない話だが、親父はそこに加担していた。どおりで極東会の組織力が異常なわけだ。その資金力と親父の武器があれば、拡大するのは当然か。
 その途方もない絵を描く奴らが、俺に接近してきた。
「俺を使って何がしたい。俺は公安部長を殺したんだ、親父のようには動けないぞ」
「あなたには素質がある。この国以外にも、ラナンが猛威を振るい上層部が腐っている国はいくつもある。そこで、老神さんのように我々を助けてほしい」
「それを呑まなきゃ、柚菜と希矢を殺すのか」
 俺は真剣に聞いた。だがグルモアの眉が僅かにあがり、親父のように大笑いした。
「たしかに、ヤクザならそうすべきだな」
「……」
「だが俺は、正しい人間を殺すのが嫌いでね。それに恩人の娘と孫を殺すほど、落ちぶれちゃいない。我々の仲間になるのが嫌ならそれで構わない」
 グルモアはそう言って、倉庫内の入り口に向かって歩き出す。
「親父は……柚菜と希矢をどうするつもりだったんだ」
「我々が治める都市、コタキナバル諸島に連れて行く予定だった」
 大男は歩みを止めずに、続ける。
「そこは当然、ラナンの統治もない。我々が治めているから、内戦も飢餓も身分制度もない。この見せかけの平和な国と違って、人間として生きることができる場所だ」
「どこかの架空都市みたいだ。そこには下水道のような地下牢はないのか」
ははは、と大きな背中をゆすってグルモアが笑う。
「強いて言えば、俺たちだな。その平和を維持するために己の命を組織に差し出している」
 まさに軍事国家。だが力がなければ他国と対話をすることすらできない。正しい国家の運営形態。
 グルモアは倉庫の入り口で立ち止まり、こちらを見た。
「あなたは老神さんの娘と孫を生かしたい。それしか今は見えていない」
「ああ。俺にはあんたのような高尚な思想はない」
「問題ない。大牙さんならすぐに気付くはずだ。人間にとって真に必要なものが何か」
 由希子との約束の期限は明日だ。由希子が言ったように、この日本は正しい。明日の命を心配することなく、科学の叡智によって治安が守られ。ラナンが導くままに歩みを進めていれば、人生を迷うこともない。自分の存在価値を国民同士が強固に担保し、規律を守り合う。家族や友人との関わり方も徹底的に磨き上げられ、不用意な言葉や暴力で傷つけあうこともない。機能不全家庭や家庭内暴力、虐待という言葉は死語になりつつある。ただ、ラナンの導きに拒否反応を示す、ごく一部の精神異常者を地下室に閉じ込めておけば、大多数の人間にとってこれ以上ない理想郷(ユートピア)が実現されている。何より由希子がそれを望み、その世界で俺に生きてほしいと願っている。
 あらゆる観点で考えても、正しい決断は目に見えている。刑事をやめて沖縄に行く。そこで己の精神を癒し、数値を回復させる。真人間になり、由希子と一緒に生きていく。柚菜とは袂を分かち、意識からその存在を消す。これが理性的な人間として正しい判断。それを由希子も望んでいる。もう数値は10を下回っているはずだが、多分由希子ならなんとかしてくれる。
 自殺するだろうな、間違いなく。今、湧き上がっている殺意を無理やり抑え込めば、それはやがて自分の首を刺すだろう。
 入り口に目を向ければ、グルモアが微笑んでいる。
「では行こうか。老神柚菜さんのところへ」


 夏の夜更け、晴れた空に星が輝いている。都会から離れれば離れるほど、その光は無数に、より強く輝いて見えてくる。車内のスモークガラス越しで見る分その感動は薄れるが、それでも見ずにはいられない。隣のグルモアから、あんな殺し方をするのに少年のようだなと言われた。
 黒のワンボックスカーで青海から極東会の拠点に向かっている。本部は伊豆にあり、支部の一つが熱海にある。柚菜をはじめとした、極東会が攫った子供の親子たちはその熱海拠点に匿われている。ワンボックスカーの運転席と助手席にはグルモアの部下たちが座る。二人とも東南アジア系の人種とのこと。グルモアよりも少し年下の30代後半に見え、二人ともボスに劣らないほど筋骨隆々とした肉体。身長は俺と同じぐらい。名はジェレミーとタンといった。タンは陽気で、運転席からよく喋ってくる。助手席に座るジェレミーは紹介された時、ぺこ、と頭を下げたが全く喋らない。こういうやつなんだ、とグルモアは言っていた。ジェレミーは日本人のような顔をしている。
 親父が絡んでいたこともあり、車は監視カメラ網を避けて進む。川崎の廃棄区画を経由し、そのまま海沿いを走らずに一度町田方面に出る。横浜エリアは監視網が張り巡らされているためだ。町田あたりまでくるとほとんど人は住んでおらず、廃棄区画が広がる。長年舗装されていないアスファルトの上を、ガタガタと車体を揺らしながらワンボックスカーが進む。自動運転ではない車を見るのは、およそ20年ぶりだ。まだ栃木にいた頃には見かけていたが、アクセルを踏んでハンドルを操作するタンを見ていると、昔の映画の世界に迷い込んだ奇妙な感覚を覚える。
 相模川を渡ったところで、国道129号に乗る。そこから南下し、平塚の海沿いに着いた。眼前に広がる相模湾を見ていると、鎌倉の聖慎学園時代を思い出す。海沿いの国道134号線沿いを、ただひたすらに進む。9月11日0時23分、ただでさえ過疎エリアでこの時間帯では人一人見当たらない。もちろん車もすれ違わない。
 気持ちが悪い。廃棄区画の道路は凹凸が激しく車体が酷く揺れる。都内の舗装道路に慣れていたから酔ってしまった。だが、それだけではない。親父の武器である議員・官僚たちを脅すネタの全貌を、グルモアから見せられたせいだ。ラナンの影で蠢く上級国民達の腐敗ぶりに吐き気を覚える。特に皇は酷い。ホテルの一室で皇が全裸の東南アジア系の少年の上に跨っている映像がいくつもある。少年は尻に木の枝をいくつも刺され、尻穴から大量の血が滲んでいる。口には切り落とした、おそらくはなんらかの動物のペニスを突っ込まれている。皇は、細くナイフのように先端が尖った医療用ハサミを手に持ち、醜悪な笑顔を浮かべている。ハサミをひらき、少年の陰茎にあてた。刃先が触れ、少年は涙を浮かべながら、覆われた口でくぐもった声で必死に叫んでいる。だが悪魔には人間の声は届かない。皇はハサミを閉じ、陰茎を切断する。人間とは思えない奇怪な声が画面越しでも痛烈に響き渡る。皇は高らかに笑いながら少年の乳首も切断した。少年は泡を吹き白目を剥いている。皇はしばらく金切り声で喚き散らしていたが、やがて興醒めしたようだ。ナイフで少年の原型を留めないほど切り刻み、部屋を後にした。
「性欲を暴力的に処理する気狂(きちが)いだ。マレーシアでゲリラに拷問された時に狂っちまったらしい。今でも定期的に性欲を処理しないと禁断症状が出るから、海外から少年を仕入れているそうだ」
 映像を見ている俺の隣で、グルモアが言った。
 暴力は伝染する。戦場から帰ってきた兵士が家庭内で壮絶な暴力を振るうのはよくある話だ。己の傷を癒すように、囚われたように暴力を振るい続ける。だがその傷は治るどころか悪化し、死ぬまで己を蝕む。刺さった刃は、刺した相手にそのまま返さなければ癒えることはない。
 吐き気に耐えながら、グルモアに問う。
「あんたたちはこの国を壊すと言ったな。日本に核爆弾でも落とすのか」
「そんなことはしない、この国の民は好きだ。腐った上層部を全員殺すのさ。来週には、SEAUFからの援軍が伊豆に集まる。そこで奴らを鏖(みなごろし)にする」
「その前に、極東会が保護している親子たちをコタキナバルに連れて行く、という段取りか」
「そうだ」
 グルモアは前を見たまま、冷たい怒りを瞳に宿している。この男もまた、親父のようにラナン、あるいは国家から何かを奪われたのだろうか。
「佐野は、児童養護施設から子供を誘拐していたのは極東会の仕業だと言っていた。あんたたちに関係のある子供の誘拐を親御さんから依頼されて、攫った子供たちとその親を匿っている。そういうことか」
「ああ。老神さんは、自分と同じ境遇の人たちを放っておけなかった。政府関係者ってのは、埃まみれの奴ばかりだからな。脅すのは簡単だった」
 親父は、どこまでも真っ直ぐな男だった。不器用すぎて国家転覆まで見据えてしまうほど。死んだ今になって、ようやく本当の親父を知ることができた。玖珠森が言っていたことはただの与太話でもなかったわけだ。親父のことを知れば知るほど、誇らしい気持ちになる。今、グルモアの隣にいる俺を天から親父が見ていたら、きっと笑って許してくれるのではないか。そう思うのは俺の身勝手さと認知の歪みだろうか。
 テロリストになろうとしているのに、心が穏やかな自分がいる。隣にいる大男が、どことなく親父に似ているからか。だが今は、皇の映像と跳ね続けるこの車のせいで本当に吐きそうだ。
「すまん……10分だけ休憩させてくれないか」
 ん、とグルモアがこちらを見る。そうして、笑って俺の背中を叩いた。
 
 大磯の照ヶ崎海岸沿いに車を停めた。大いなる相模湾が眼前に広がる。よくこの海を、由希子と柚菜と一緒に眺めていた。左の遠方を見れば、小さく江ノ島が見える。だが一緒に過ごした鎌倉の姿は見えない。砂浜の上に立ち、タバコに火をつける。風は穏やかで、吐く煙を無粋にちりじりにすることなく、ゆっくりとたゆらせてくれる。目の前で煙が静かに消えてくれると、より美味に感じられるのだ。街灯もなく極めて暗いが、月が出ており仄かに海岸を照らす。その光は白く、月の下の海が己に向かって白い線をつくっている。それはまるで、一本の道を示すかのようだ。迷うことなく、ただ進め、と。だが月の下には暗く大きな影が一部映る。おそらくは伊豆大島の影。進む先をまるで妨害するかのように、月光の白い道を遮っている。
 穏やかな凪の音、潮の香り。昔よく居座っていた坂ノ下地区の鎌倉海浜公園を思い出す。柔らかく生温かい海風を感じて頬を緩ませていると、いつも騒がしい女の子に妨害されていた。トコトコと走り、遠くから俺の名前を叫び。後ろから肩に手を置く。お姉さんぶって、いつも俺の世話をしてくれた。数値は大丈夫かな、薬は飲んだかな、そんなことばかり気にかけてくれていた。その横で、背が大きく雪のように白いもう一人の姉が、俺たちを揶揄う。
 いつから歯車が狂ってしまったのか。一年前までは全てが上手くいっていたと思っていた。柚菜は杜原と希矢と三人で平和に暮らしていて、親父は国家転覆を企みながらも、時折柚菜と会って親子の時間を過ごしていたはず。そして由希子は順調に出世街道を駆け上がっていた。
 だが、その認識が全て間違っていたのだ。柚菜は本当に何事もなく平穏無事に暮らしていた、のだろうか。表面的にそう見えるだけで、心はずっと不安定だったのではないか。いくら愛しているとはいえ、旦那がいなくなった途端にあそこまで崩れるのは、どう考えても健全な人間のそれではない。親父は親父で、ヤクザに肩入れする時点で正気じゃない。
 何より。由希子が順調に出世街道を走っているだなんて、なんでそんなに無神経だったんだろう。全てを思い出した今、俺がしてきたことは全て過っていたのだ。なぜこれほど狂った国家を支持するのか、その病巣を取り除くべきだった。どれだけ由希子が拒否しても全てを打ち明けてもらって、由希子に愛情を注ぐべきだったんだ。自分の境遇に勝手に絶望していたから、家族が皆、俺から離れようとしている。
 死にたい。
 こんな、全てを飲み込んでくれそうな海を見たら、以前ならそう思っていただろう。だが今は目の前を流れる穏やかな波のように、心が落ち着いている。自分の足で立つ、その覚悟と快感を覚えてしまったからか。姉たちや父親にいつまでもぬるま湯で甘やかされていた頃よりもずっと、人間らしく生きている。由希子の願いにも親父の願いにも背を向けて、裏切ったはずなのに。罪悪感に押しつぶされるどころか、生きる力がみなぎってくる。佐野を殺した時の快感は、今も引き金を引いた人差し指に残っている。
「いい波動だ」
 グルモアが後ろから歩いてきた。タバコを咥えているが、図体がデカすぎてタバコがマッチ棒のように見える。
「表情もいい。もう既に、真に人間に必要なものが何か、気づいてそうだが」
 色黒のせいか、暗闇のせいか、やけに白く見える歯を剥き出しにして微笑んでいる。その表情を見て、思わず苦笑してしまう。親父がなぜ極東会と、そしてこの男とつるんでいたのかが、なんとなく分かる。
「あんた、フランス人だろう」
 この男に興味が出てきた。不躾に切り出す。
「なぜそう思う」
「なんとなく、名前的に」
「そうか。まぁフランス人っていっても海外県生まれだけどな。マルティニーク島生まれ」
「ポストコロニアル好きがそこの出身なんて、出来過ぎだな」
 たしかにな、とグルモアは鼻で笑った。
「なぜSEAUFに」
「もともとフランスの軍人だった。だがあの国も御多分に洩れず、ラナンのような精神管理に乗り出してね。お国のために散々人を殺してきたってのに、最後は精神異常者のレッテルを貼られて国から捨てられた。家族も取り上げられたよ」
「……」
「そこからはもう、ただの根無し草だ。傭兵として、武器として買ってくれる戦場を彷徨った。で、たまたま東南アジアに流れ着いた時に、ボスに拾われた」
 なぜこの男が形成されたのか、その一端を見た。家族を取り上げられた、その点についてこの男と親父は深く共鳴する何かがあったのだろう。今、こうしてテロリストとして動く理由を、否定できる人間などいるのだろうか。もっと早く、親父とこういう話をしたかった。そしてこの男も含め三人で話したら、死ぬほど楽しい場だったろうな。
 そんな思いに駆られた時、銃声が鳴った。乾いた爆発音が空気を揺らした。べっとりと大量の血が顔に降りかかる。生臭さに顔を顰めたが、すぐに意識から消えた。
 隣の大木のような男が砂浜に倒れ、ただの肉の塊に変わっている。後頭部から大量に出血し、砂浜を血で黒く染めている。後ろを振り返ると、助手席に座っていたジェレミーが近づいてくる。右手には俺が持つリボルバーよりも銃身の長い銃を手に持っている。硝煙の匂いが鼻を刺す。東南アジア系の男は無表情のまま銃口を俺に向け、口を開いた。
 
「久しぶりだな、大牙くん」


 流暢な日本語。それはグルモアのように成人後に外国人が身につけたようなものではない。子供の頃から当たり前に触れてきた者が操るそれ。日本人のような顔をした目の前の男は、よく知っている男だった。低く太い声、懐かしい声で名を呼ばれた。だが、顔が別人だ。目鼻立ちがくっきりとしていたはずの男は、確かに鼻筋は変わらず綺麗だが、目は一重で細く犯罪者のような人相の悪い顔になっている。頬も口元も顎も、あらゆる箇所が手を加えられており、もはや別人だ。全く気づかなかった。
「……義兄さんか」
 杜原はそれに応えるように腕を下げ、銃口が下に向く。天上の白い月光が、杜原の持つ銀色のリボルバー、コルトパイソンを照らす。
「あの親父を殺せるなんて、意外と強かったんだな」
 杜原は口を開かない。ただ体温のない顔をこちらに向けている。この男は、紫藤か皇の小飼いなのだろう。ただ命令に従い、国家に仇なす犯罪者を殺しただけ。今歴史の教科書が編まれるとすれば、杜原は正義そのものとして描かれるだろう。
「一年前から、もう殺す計画を立てていたんだな」
「……ああ。殉職したことにして、極東会に潜入していた。老神個人が狙いというよりは、武装化していた極東会そのものを潰すために、だが」
「お前の妻は気が狂って、息子を殺すところだった。妻自身も、自殺してもおかしくない状態だった。家族をボロボロにした気分はどうだ」
「……」
 ただでさえ暗がりで表情が読みにくいのに、細い一重の眼のせいで余計に読めない。ただの感情のない殺戮マシーンなら、俺は既に殺されているはずだ。
「君は本当の飢えを知らない」
 杜原は機械のように、淡々と言葉を発した。
「本当の飢え。そこから助け出してくれたのが、紫藤か皇、ってところか」
「そうだ、紫藤様とは面識がないが。皇局長は、私にとっては母同然だ」
「皇はたしか外事課にいた時に東南アジアに派遣されていたな。そこでお前は奴に拾われたのか」
 無言で、杜原はこちらを見続けている。何かを考えているのか、何かに想いを馳せているのか。
「当時のマレーシアは内紛に次ぐ内紛。人が毎日、家畜のように殺されていた。俺は敵のゲリラに捕えられて、ただの奴隷として起きている時間は全て働かされた。農作業の合間、死体を埋めるための穴を掘りつづけた。ろくな飯も与えられずにな。だが作業ができなくなったら殺されるから、働き続けるしかなかった」
 機械のように平淡に話していた杜原の言葉に、体温が乗り始める。
「大牙くんも、昔ろくな食べ物を与えられなかったそうだね」
「……」
「きみは、ネズミを食べたことがあるか」
 ただ、杜原の顔を見つめる。その様子を見て、ようやく杜原が顔に表情を浮かべた。口角を片方だけ、纔かにあげている。
「爆弾で焼けた野原の上を駆けずり回る、小さなご馳走だよ。太ったご馳走ほど足が遅くて捕まえやすかった。4本の足が泥まみれのネズミを捕まえると、大抵周りの捕虜のガキどもに気づかれる。ネズミを奪おうとするガキの頭を、スコップの角で割るんだ。同胞の死体を見ながら、ネズミを火で炙って食うんだよ」
 海外出身のただの真面目な好青年かと思っていたが、とんだ間違いだった。一年前まで柚菜と希矢にあんなにも暖かい眼差しを送っていた男と、目の前の異常者が同じ人物だとは。
「あのお方は、地獄から救い出してくれた。この天国のような国に連れてきてくれた」
「犯されるのは地獄じゃなかったのか」
「あの方は、お気に入りには手を加えない主義のようでね。嗜癖については、最近まで知らなかったんだ」
「さぞ崇拝していたんだろうな」
「ああ。ずっと、この国を守る人徳者だと、そう思って尊敬していた」
 また杜原の表情が変わる。俺から目を逸らし、砂浜を見つめている。
「過去形だな。今はもう辟易しているんだろう」
「……」
「捨ててしまえよ」
 砂浜を見つめていた杜原が、俺を睨んだ。地獄を生き延びてきた人間の眼差しは、あの佐野とは比較にならない凄みがある。今目の前にいるのは親父を殺した男。油断していると、気づかぬうちに頸動脈を切られてしまう。
「きみは……なぜ司さんに背を向けた」
 杜原は俺から目を逸らさない。この男が何を欲しているのか、なんとなく分かる気がした。
「あの人の言うとおりに動いていれば、少なくとも殺されることはなかったはずだ。なぜ」
 この哀れな男は、最後に自分を苦しめる呪いから解放されたいのだろう。親という絶対的な圧政者による、呪いから。
「由希子の言う通りにしていたら、結局死にたくなる。それは由希子に殺されるということだ。今のお前と同じだ」
 俺の言葉がどこまでこの男に届くのかわからないが。人相の悪い人殺しの目は、少し瞼が上がった気がする。
「この言葉の意味がわからなければ、お前は死ぬしかない。だが分かったとしても、俺がお前を許すと思うなよ」
 杜原は再び口を歪めて、鼻で笑った。
「大牙くんこそ、何も見えていないようだな。どれだけの思いで、司さんが今まで生きてきたか。彼女は心を焼き尽くしながら、私にこの一年間、指令を出し続けてきた」
「……」
「結局きみは、自分の恩人のことを何も分かってないんだよ。その程度の想いだから、捨ててしまえ、なんて簡単に言える。本当に感謝していたら、こんな身勝手な行動は取れない」
 眼球にこれ以上ない力が宿っている。杜原の信念が表出し、俺を砕こうとする。おそらく大体の人間が、そう思うのだろうな。特にこの国で生きているような人間は。自分のことを大事にしてくれる人間の意に背くな、恩に報いろ、と。そうやって手を差し伸べ続けてきた人間の、奥底の本音に気づくこともなく、その圧政に押しつぶされて死んでいくのだ。
 やはりこの哀れな男には、何も響かない。本質を見ようとする強さがない、臆病で弱い男。
 笑ってしまった。鼻で笑う、ではなく声に出してしまった。真剣なところ悪いが、可笑しいものは笑うしかない。
「じゃあその感謝に死んでいけ。お前は所詮、幻想の中でしか生きられない人間だ」
「……」
「皇からなのか、由希子からなのか知らんが。柚菜と俺も殺すように言われているんだろう」
 杜原の顔に動揺が浮かんでいる。細く鋭い目は見開いたまま、俺を睨み続ける。殺しの指令が図星だから、ではない。自分が今まで信じてきたものを、この若造に笑われたから。その笑いを、ただの気が触れたガキのそれだと片付けることができないから。
 俺も杜原と同じ人間だったから、この男も気持ちも分かる気がする。それに支配されているうちは、本当に苦しくて辛いだろうに。
「柚菜に近づいたのも、皇の指令だったのか」
「違う」
 太く、強い声。傀儡としてではなく、杜原純希としての声が俺に応える。
「お前は柚菜を愛していたはずだ。じゃなきゃ、柚菜のあんなに幸せそうな顔を見ることはできなかった」
「……」
「お前はその柚菜から父親を奪った。どんな気分だ」
「知らなかった」
 殺戮マシーンの面影が徐々に消えつつある。目の前の人間は何かが瓦解し、その顔から絶望を覗かせている。
「知らなかったんだ、彼が柚菜の父親だったなんて……」
 杜原は40歳手前の、年相応以上の皺を眉間に寄せている。目は怒りを帯び、コルトパイソンを握る手が力み、震えている。
「今日の君たちの会話でわかった。俺はとんでもないことをしてしまったのだと」
 冷たく、暗い感情がより強くなってくる。あの女には、殺してくださいと泣き叫ぶ拷問をしてやろう。だがそれ以上に、目の前の情けない男が自分と被り、余計に腹がたつ。
「もう答えは出ているじゃないか。皇というのは、そういう女なんだ。全部幻想だったんだよ。何がお前を縛りつけている」
「……」
 杜原は伏せ目で、ただ砂浜を見つめるだけ。もう見込はなさそうだ。あとはただ、絶望に全身を飲まれるのを待つだけ。顔は強張ることも紅潮することももうなく、ただ潮が引くように感情が消えていっているのだろう。途端に、意識から消えていた波音が耳に侵入してきた。波が波を飲み、砂浜に穏やかに打ち付けられる音。本来なら心身を癒すこの音は、今は虚しさをただ助長させるガラクタと化している。
 茶番は終わりだ。リボルバーを取り出し、撃鉄を起こす。その間にコルトパイソンをこちらに向ければ良いものを。杜原は微塵も俺の動作に反応せず、ただ己の罪に覆われている。銃口を向けられていることに気づいているはずだが、意に介していない。
「柚菜に伝えておきたいことはあるか」
 右手の人差し指を引けば、終わる。自我を排し、愚直に親を敬い恩返しをしてきた男の人生が。この男は、いったいなんのために生まれてきたのだろう。死を悟った男は、静かにこちらを見た。そんな問いに意味はない、生まれてくることに目的などないと、そう応えるような虚無に満ちた顔。だってそうじゃないか、雄と雌の気まぐれ、あるいは社会の相互監視のせいで作られただけなのだから。心から望まれて生まれてくる命など、ほんの一握りの人格者のもとだけだ。
「……愛していると、伝えてくれ」
 杜原は頬を緩めて、言った。一つだけ聞いてみたいことが増えた。
「義兄さんを殺したと言ったら、柚菜は俺をどうすると思う」
 口元の緩みが止まらない。口角が上がり、醜悪な笑顔を浮かべているのが自分でも分かる。それをみた杜原は、口をあけて笑った。一年前にみた、柚菜と希矢と一緒にいた時の笑顔で。
「きみが自殺するまで、罵ってほしいね」
 良い答えだ。
 紛れもなく、この男は英雄だ。国家転覆を企む逆賊のトップ2人を見事に殺してみせた。愛する妻と息子に背を向けて。

 引き鉄を引き、脳天に風穴をあける。


 西湘バイパス上を走る。海沿いをただ真っ直ぐ、ひたすらに。何キロ出そうがこの過疎地域では警察に捕まることもない。メーターは時速120kmを指している。一刻も早く辿り着かねば、というよりは道が真っ直ぐ過ぎて退屈だから。人が誰もおらず、車一台すれ違わないから快適すぎて自然とスピードが出てしまう。左手には暗い海がどこまでもひっついて離れてくれない。この世界から人類がいなくなったような、家族たちと過ごした今までの日々が全て嘘だと言われているような、そんな気分にさせられる。
 運転席は、座席はもちろんハンドルやフロントガラスなど、あたり一面には血液がべっとりとこびりついていた。タンの血だろう。杜原を殺して車に戻った後、車の外に喉元を裂かれたタンの死体が放り投げられていた。運転席で杜原に切り刻まれ、その血が飛び散ったのだろう。車内は大量の10円玉が溶解したような、銅と生臭い鉄の匂いが充満しており強烈な吐き気に襲われた。ずっと窓を開けてタバコを吸いながら走っているが、陽気な男の臭いは一向に消えてくれない。二宮町、国府津、小田原と町を越えていく。昔は小田原城があったとされる場所は、今はその面影もないただの荒れ地になっていた。さらに車を進めると真鶴岬を通り過ぎ、目的地が見えてきた。
 2074年9月11日、1時24分。柚菜はもう寝ているだろうか。であれば辿り着いても起こさず、朝になったら再会しよう。だがそんな呑気に考えている場合か。グルモアとの会話に興じてすっかり杜原の存在を忘れていたことを反省しなければ。紫藤たちが極東会に刺客を放たないわけがないのに。だから、もう公安が先回りして熱海や伊豆の拠点を潰しているかもしれない。そうなると、もう柚菜は殺されているだろう。希矢は貴重な国家資源だから殺されることはないと思うが、そうなるとまた紫藤莉音のもとに帰らされるのか。
 今この瞬間も、呑気にタバコを吸いながら車を転がしている場合ではなかった。上空から戦闘機で撃ち落とされる可能性もあるのだ。そう考えると、ちゃんと急いで熱海へ向かうべきだと思い直した。
 だがそう考えているうちに、もう眼下には熱海の風景が広がっている。海辺にはテトラポッドが所狭しと並び、凪のような海の波を必要以上に打ち砕く。左手には相模湾に浮かぶ小島が見える。今は無人島となっている初島。そして眼前には聳える山々が要塞のように立ちはだかり、気安く訪れる者を威圧する。足を踏み入れれば生きて帰さないと、大自然が威嚇してくるようだ。
 所々に灯が見えるが、あれは極東会の連中がシフトを組んで外敵を警戒しているのか。昔、ここは温泉街で栄えた場所。ホテルや旅館が立ち並ぶが、今となっては暗闇の中でも廃墟と化しているのがわかる。その廃墟から警備兵が銃を構えて警戒しているはずだが、遠慮なく突き進んでも狙撃される気配がない。このワンボックスカーによる敵味方認証がされているからか。あるいは。
 潮風による塩害で、腐敗した建物が立ち並ぶ。やがて「独立行政法人国立病院機構 熱海医療センター」という記載の廃病院の看板が現れた。この看板も周辺の建物同様に劣化している。ここが極東会の拠点の一つだ。おそらく柚菜たちはここに匿われている。
 病院の敷地内に入るには、急勾配の坂道を登らなければならない。ただでさえ小回りの効かないワンボックスカーで、しかも思わぬ敵から狙撃されるかもしれない中で、車で侵入するのは危うい。道路に車を停めて、外に出る。一際強い潮の香りを味わう。
 その時、空に銃声が響いた。
 南国を思わせるような、椰子の木のような大木たちが立ち並ぶ坂の上の病院から。明らかに誰かいる。極東会の組員と紫藤側の人間が殺し合っているのか。しばらく車の影に隠れて様子を伺ったが、銃声は一発だけ。撃ち合う気配はない。紫藤側の人間が熱海拠点の組員を制圧した後なのか。あるいは、極東会の組員たちが返り討ちにしたのか。分からないが、とにかく確かめる必要がある。
 罅が入り中の土や砂利が剥き出しになっているアスファルトの坂道。身を伏せ、坂道に生い茂る樹木たちに身を隠しながら坂を登る。坂を登る途中、全身を迷彩柄に包んだ東南アジア系の、おそらくは極東会の警備兵が首から銃を下げながら倒れていた。心臓部から大量に血を流した死体を通り過ぎ、ゆっくりと、だが迅速に病院に近づく。
 相変わらず、銃声は鳴り響かない。先ほどの空を裂く乾いた爆発音が幻聴だったように、辺りは静寂に包まれている。上空を都度確認するが、誰も監視している者はいない。監視カメラはあるが破壊されている。その監視カメラの奥に目を向けると、上空一面に星空が広がっている。暗い廃棄区画ではこうも星が綺麗に見えるものかと、戦場にいながら呆けた感想を抱く。希望がどこまでも広がる天と違って、この地上は緩やかな煉獄だ。煉獄の炎は地獄のような永遠の苦しみではなく、罪を浄化するための炎だという。その煉獄の炎にさらされている間、人間は「今苦しいということはその罪が浄化されている証だから、もう少し頑張ろう」と自分に言い聞かせる。人はフィクションを生み出し、人々を支配する天才なのだ。であれば、なぜか刑事でいた頃よりも苦しみが軽減し心が晴れやかな今の俺は、その罪が浄化されつつあるということか。今日だけで二人も殺しておきながら、笑ってしまう。
 もうすぐ坂道を登り切る。右手の黒いリボルバー、スミス&ウェッソンM360Jを強く握る。坂道を登り切れば、病院の入り口だ。そこには殺し屋か極東会の組員がおそらくいるはず。紫藤側の人間だった場合は戦闘になる。自分の挙動ミスひとつで頭が飛ぶ。弾薬が顔に触れた瞬間にその衝撃で意識は飛ぶから、「痛い」だの「恐ろしい」だの感じるそもそもの主体がなくなるのに、どうしてもその光景を思い浮かべると、じっとりと汗をかいてしまう。
 長く続いた坂道に生い茂る、緑の茂みたちが終わろうとしている。上り坂が終わろうとしたところで、硝煙の匂いが鼻についた。花火の火薬が燃えるような匂い。人の命を粉砕する嫌な匂いが、それと対照的な緩やかな風に乗り、辺りに充満している。
 誰かいる。人間の気配がする。目を細めて、病院の入り口に目を遣る。ガラス戸の扉の上には、塩害で錆びた4階立ての建物が並ぶ。その奥には7つほど病棟が控えており、大人数を収容できる構えだ。ガラス戸の入り口の上には、再び「熱海医療センター」という大きな文字が記されている。その文字の下に、黒い影が二名。一人の人間が、誰かを抱きかかえている。
 ガラス戸の辺りには、灯りがない。だからその黒い影のシルエットもぼやけてしまう。だが、それが醸す雰囲気だけで十分だった。一番見たくない光景が広がっていると、思い知らされた。黒い影は銃口をこちらに向ける気配がない。だがそれも関係ない。たとえ銃口を向けられても、俺は銃を今のように降ろしていただろう。眩暈がした。心に一滴垂らされた墨汁が、じわじわとその領域を広げている。俺は何のためにこの数ヶ月、苦悩してきたのだろう。何のために殺処分対象に堕ちて、人間を殺してきたのだろう。その答えを聞いた後、俺は何に、生きる意味を見出せばよいのか。
 それを教えてくれ。その思いだけが体を動かした。目の前には再び極東会の警備兵が現れた。兵は頭蓋を撃ち抜かれて倒れている。骸を避けてふらふらと入り口に向けて歩く。影は微動だにせず、だが顔を真っ直ぐにこちらに向けたまま佇んでいる。もう一人を抱えながら。
 暗闇の中で目が慣れる。黒い影に、人間の輪郭が浮かんでくる。情の欠片もない恐ろしい顔。眉間に皺が寄るでも、頬が力むでもない。ただただ、無がそこにある。対象を睨むでもない、怒るでもない、ただ眼に映るそれを認識しているだけの、冷たい眼。それは近づけば近づくほど背筋を凍らせる。かつては高級な猫を連想させた、鋭くもどこか愛らしさを感じさせた眼は、今は微塵の面影もない。空腹と屈辱に犯されていた地獄から救い出してくれた女神は、もうどこにもいない。身体中に返り血がこびりつき、雪のような顔にも血痕がべっとりと付着している。
 美しい。この26年間で、これほどこの想いに駆られたことはない。不健康さを湛えていた痩せ細った姿は、いつの間にかなくなっている。最後に見かけたのは3日ほど前なのに、もはや別人だ。そして、これほどその姿を見て、哀しい気持ちに駆られたこともない。
 その悪魔に抱えられた天使。赤系の明るい色が入ったブラウンの髪色、生気に溢れた印象のショートボブが浮いている。その主がもうこの世にいないからだ。たぬき顔のかわいらしい彼女は、心臓から黒い液体をどくどくと、流し続けている。天使は、何かを悟り、そして全て受け入れたような安らかな顔で眠っていた。この一年間、ずっとその顔が見たかった。でももう、こんな形でしか見ることができなかったのだと、失った今になって気づく。
 柚菜が最後に呟いていた言葉は、こういうことだったんだ。
 石階段を10段ほど上がった先に、二人がいる。その一段目を前にして、踏み上ることができない。ガラス戸の入り口前のベンチに座っている二人に近づいてしまったら、自分が正気を保てる気がしない。そんな様子を見かねて、悪魔が天使をベンチに横たわらせた。そして立ち上がり、10段上から俺を見下ろしている。
「安心して。邪魔者は来ないわ」
 蒼白く透明な姉は、無表情のまま言った。冷たく、雪のように消え入りそうな声で。間近で見る姉は余計に哀しく見えた。人間が生を全うする上で不可欠な、ひとつの糸が切れている。あらゆる状況を想定しても、もうこの人を見るのは最後なんだと、現実を突きつけられる。
「全員殺したのか」
「組員だけ。保護されている親子たちは生きてる」
「その親たちも殺すんだろう」
「当然。大罪人だもの」
 辺りを見回すが、由希子以外に刑事らしき姿はない。
「私だけよ。邪魔者は来ないと、言ったでしょう」
 眼球に殺気が浮かぶ。暗闇に鋭いナイフのような眼光が二つ、猫のように浮かんでいる。由希子の身体にこびりついている何十人もの血の匂い、生臭さに鳥肌が立つ。この悪魔は、たった一人で拠点を潰したのか。
 大量の返り血に圧倒されていると、撃鉄を起こす音が聞こえた。蒼白い悪魔が銃口を向けている。刹那、弾薬が眼前に迫り視界が真っ黒になるが、すぐにまた由希子の顔が映った。生温かい空気を震わせる銃声が、左耳の鼓膜を劈く。右耳の感覚はない。目眩と吐き気に襲われて、前屈みに倒れてしまった。アスファルトに血が滴っている。空気の音が変に木霊する。右耳に手を当てるが、あるはずのものがない。心的な衝撃が強いのか、痛みはあまり意識に上ってこない。
 顔を上げて由希子を見る。視界は歪んでいるが大枠は捉えている。引き続き、由希子は銃口を俺に向けているが撃つ気配がない。何を期待しているのか分かりかねるが、この26年間、ずっとそれを考えても無駄だったことに気づく。
 立ち上がることができない。歪む視界の中、血だらけの白い女性が銃口を下ろしながら、口を開く。
「柚菜もあなたも、本当にどうしようもないわ」
 眠りに誘うような細い声で言った。幼少期から互いを支え合ってきた家族を殺す。その後でこうも無機質に言い放てる、その神経とはどのようなものだろう。
「柚菜が殺される程の罪を犯したとは思えない」
 揺らぐ意識の中で、掠(かす)れた声を絞り出した。由希子の姿がぼやけ、余計に表情が見えない。一番近くにいた存在が、見たことのない怪物に思える。
「人間の不幸は全て家庭から始まるの。あなたなら分かるでしょう」
「……」
「その温床を産み出そうとする存在は、死罪に値する」
 それが例え家族であろうとも、国家運営に例外は許されない。由希子の考えは、どこまでも正しい。この女性はこの世界に嫌気が差していたはずだ。だが彼女の核を知った今、この女性を救う道が見えない。自分の感情を容易く凌駕するほどの魂の病巣は、遂に取り除かれることはなかった。
 何を他人事のように言っているんだろう。だから俺は最愛の女性を、これから失うのだ。自分の可愛さに酔い、この女性に依存してきたから。病巣に手を突っ込む勇気がなかったから。
 息苦しさから逃れるために、倒す敵が自分だった場合、わたしたちはどうすればいいの
 俺の裡に住まう12歳の少女が、涙を浮かべながら呟く。この子は、もう限界をとうの昔に超えていたのだ。聖慎学園で再会した時に、少女の病巣を取り除かなければいけなかった。
 徐々に右耳がない状態での平衡感覚を身につけつつある。ぼやけた視界は輪郭が定まり、由希子の顔が鮮やかに浮かぶ。氷のような冷たい表情で、手の甲をこちらに向けている。リングの内蔵カメラで捉え、数値を見ているのだろう。そして無機質な表情でこちらを見つめる。
「やっぱり、全部思い出しちゃったのね」
 本当に、バカな子。そう呟いた。
 一生懸命見守って生かしてくれた最愛の女性に背を向けて。由希子の愛を、尽く踏み躙って生きてきた。
「無理矢理にでも、再会した時に全部聞くべきだった」
「……」
 無機質な表情が崩れた。眼が一点を見つめた後、ふふ、と笑い出した。
「そうね……バカだったのはわたしなのかも」
 久しぶりに見た微笑み。
「あなたのことをいつまでも子供扱いして……それがそもそもの間違いだったのかな」
 子供扱いさせてしまったことが、根本の原因だ。心の膿を全て吐き出させてやれる、甘えさせてやれる強さがなかったこと。導ける強さのない男は、全てを失う。
「俺の数値が下がると思ったから、黙っていてくれたのか」
 彼女は微笑みを崩さない。氷を纏ったままぎこちなく、微笑みを保っている。やがて眉尻が下がり、困ったように笑う。
「どうだろう」
「……」
「本当は……そういう女だって、思われたくなかっただけなのかも」
「思うわけない」
 その否定は、何も生み出さない。それを教えてくれるように、力無く由希子は微笑んだまま。
「母親は弱い人だった。身も心も。顔は悪くなかったみたいだけど、だんだんと商品価値が無くなっていった」
 由希子の眼の角が、微かに削れている。目を細めて、ぼんやりと意識が栃木の地獄に向かう。
「あなたは綺麗に産んであげたんだから、私を助けてよ。私だって子供の時、そうやって親を助けてきたんだからって。そう言われたわ」
「……」
「10歳以下の女児は希少価値が高い。毎日のように、男たちはわたしを買った。死臭のような息を吐きながら、わたしの上に乗るの。帰還兵の保護施設も近くにあったから、暴力的な男も多かった」
 由希子は微笑を顔に貼り付けたまま、淡々と話す。にこやかなに、爽やかささえも帯びて。目頭が沸騰するように熱い。涙で由希子の顔が滲む。
「殴られたり、首を絞められたり。帰還兵の中には、持ち帰ってきた拳銃を口に入れてくる男もいた。わたしに繰り返し突き入れながら、これが男だ、女はただ従えと叫んでいた」
「……」
「本当に、殺されるかと思った。でももういつ死んでもいいやって、そう思ってた」
 情けない。もう顔がぼろぼろになっている。
「でもあなたが助けてくれた時、本当に嬉しかった……わたしは生きていてもいいんだって、あなたに言ってもらえた気がしたの」
 由希子は俺を見下ろしながら言葉を編む。顔からは微笑が消え、体温が露わになっている。
「母親は自殺に見せかけて殺したわ。あなたに勇気をもらったから。わたしはわたしを大事にしていいんだって。でも、ただ殺したのは間違いだった」
「……」
「母親もわたしと同じ目に、殺されるって思わせるほど凌辱させて。わたしと同じ気持ちを味わせた後に、泣きながら、謝らせるべきだったのかも。でも、それが怖かったからただ楽な方に逃げて、殺しちゃったんだね……」
 どこでボタンを掛け違えたのか。どうすれば目の前の現実が現れなかったのか。それに想いを馳せながら、言葉を絞り出している。俺の裡に住まう12歳の少女は今、目の前にいる。これほどの地獄に、何も気づいてやれなかった。四肢を引き裂かれるほどの苦しみに、何一つ寄り添ってやれなかった。申し訳なさといとおしさが身を焦がす。
 再び銃口がこちらを向く。リボルバーが、今までの罪を償えと、そう語りかけてくるようだ。
「どうして言うことを聞いてくれないの……」
少女の眼球が潤んで煌っている。
「由希子が間違っているから」
「……」
「間違っている人間の言うことは聞けない」
 少女の目には殺気が宿っていない。顔には再び微笑みさえ浮かべているが、撃鉄が起こされた。由希子はもう、今までのように感情を隠すことができないでいる。だからそれが指す意味がよく分かる。
 銃口はこちらではなく、由希子のこめかみを捉えた。案の定の動き。右手に握ったリボルバーで由希子の銃を弾き飛ばす。流れ弾は後方のガラス戸を貫き、ドアを粉砕した。
 あはははは、と、少女は見たことのない満面の笑みで高らかに笑っている。細く、氷のような冷たい季節外れの声が、生暖かい空間に響き渡る。銃を弾き飛ばされた衝撃で、だらんと下ろされた右腕が小刻みに震えている。顔を星空に向けて高らかに笑っているが、それはやがて収まった。
「本当に、狡い男ね……」
 少女がこちらを見下ろしている。かつてないほどの幼さを顕にし、地にへたり込んでしまった。顔は両手で覆われた。
 楔を打たれるように身動きが取れないでいたはずが、今はもう何もない。足は動き、石階段を一段ずつ上がっていく。男たちの生臭い返り血の香りが強くなるが、その中にはいつも俺を救ってくれていた香りも混じってくる。近づけば近づくほど、由希子の体が小さく見える。小さな体が病巣に蝕まれ、その全身は小刻みに震えている。
「来ないで」
 顔を顕にしこちらを睨みつけ、上擦った声で少女が叫んだ。講堂で刑事課一同を凍らせた女性の影はどこにもない。階段を登りきり、少女はこちらを見上げている。
「俺と逃げよう」
 屈み、少女と目線を合わせる。少女もこちらを見つめている。
「これ以上この国にいたら、由希子は死ぬ。俺と逃げよう」
「もう遅いの」
「……」
「あなたを殺せなかったわたしは、奴らに取り込まれる」
「……取り込まれる?」
「もういいの」
 俺を遮り、伏せ目になった。
「疲れた」
 俯いていた由希子は、ゆっくりと顔をあげた。眼球は潤み、決意した表情で真っ直ぐ、俺を見つめてくる。糸は完全に断ち切られていたことを思い出させた。
「もう、疲れた。あなたに依存して、自分に監視される生活には、もう疲れた」
 大粒の涙が、由希子の頬を伝う。
「柚菜も、あなたが父と慕っていた人も殺してしまった。もう、息をするのも苦しいの」
「……」
「死なせてください……もう、消えてください」
 ひく、ひく、と少女は泣く。最後の灯のように、儚い声。何が間違いなのか、何が正解なのか、もう分からない。
 由希子は虚な目で、よろけながら後方を向く。そして弾き飛ばされたリボルバーに向かって、体を動かそうとする。
 由希子の左腕を掴んだ。脱力しきった腕は、抵抗する気配がない。左腕を引っ張り、由希子を引き寄せた。背中に手を回して全身で由希子を抱きしめるが、それに応じる気配はない。
「ごめん。今までずっと、独りで戦わせて……」
「……」
 抱きしめた由希子は、遺体のように全身に力がない。魂が抜け落ちたような体。抱擁を解き、背中に回していた手を由希子の両肩におく。目の前の由希子は、虚な目で涙を流し続けている。20年前、自宅で静かに涙をこぼしていた少女の残像が浮かぶ。
 肩に置いた手を細い首に移す。10本の指で首を包む。虚だった由希子の眼に生命が戻り、何も写していなかった眼球に、俺の顔が映った。
「言ってたよな。最期は、嫌な記憶を上書きしてほしいって」
 眼球は乾くことなく、由希子の頬を伝い続けている。生命は眼球以外にも広がり、表情に体温が戻った。
「……そうだったね」
 由希子の頬が緩み、柔らかい表情に変わっていく。その顔を見たら、もう堪えることができなくなった。視界が滲み、由希子の輪郭が曖昧になる。
「大好きよ、大牙……」
 由希子は、細い指で俺の腕を掴んだ。掴み、自分の首元へと俺の腕を促す。細い指から、強い力で握り締められた。10本の指にその力が伝わったように、俺の腕が反応し。骨ばった手の甲に、大きな太い筋が何本も浮かび上がる。10本の指が生き物のように力を帯び、由希子を締め上げた。
 氷のように透明な、儚い体が強張る。まるで血が通っていないみたいに、顔色に変化がない。朧げな視界のせいで、由希子がよく見えない。だが掌の中で、その生命が薄らいでいくのが分かる。身体は強く震えはじめた。
 
 痙攣し脈を打った後、由希子は雪のように溶けていった。


 薄黒さを伴った、赤色の蟹。円状に並べられたフグの刺身。茶色の雲丹、赤海老、ベージュの活鮑、白のスルメイカ等が豪勢に並べられた舟盛り。その周りには、真昼間にも関わらず違法の酒類が並ぶ。中でも漆黒の瓶に「零響」と書かれた日本酒は、国内で100本ほどしか流通していない、極めて希少性の高い日本酒だそうだ。精米歩合50%以下で高級酒と位置付けられる日本酒において、精米歩合0%台を実現していることが特徴のこの酒。キレのある味わいと口の中に残る余韻を楽しめる逸品だとかなんとか、取り巻きのコメツキバッタたちが忙しなく解説している。
 2074年9月14日、12時19分。伊沢圭吾(いざわけいご)はいつものように主人である紫藤義嗣の背後について行動している。現在は少し予定時刻を遅れ、大聖堂のような会食会場を訪れている。こんな厳かな聖堂に、こんな豪勢な食事や違法な酒類を置くのは如何なものか。だがそんな発言をした瞬間には、己の首が飛ぶ。
 会食会場の入り口に直立し、主人の警護にあたる。紫藤は厚生労働大臣と、年齢不詳の義手の女性と、中年男性に手厚く出迎えられ、席についた。豪勢な食事を紫藤、厚生労働大臣、義手の女性、中年男性、そして紫藤家側の側近二名の計6名で囲んでいる。その食事の様子を、伊沢圭吾は外敵の気配に最大限の気を張り巡らせながら見守る。入り口を挟んで反対側には、身辺警護にあたるもう一人の男、桑元康二(くわもとこうじ)が眠そうな顔で佇んでいる。こんなボンクラと同じ給与であることが、伊沢を更に苛立たせる。
 伊沢から見て最も奥の遠い席。最奥の後陣側の、5メートルほどあるのではと思われる巨大なガラス窓には、太陽光が差し込み、その窓に描かれた絵を鮮やかに映し出している。そのガラス窓に背を向け、入り口側に顔を向ける形で紫藤が義手の女性と話している。義手の女性は何度か見かけたことがあり、公安局長らしい。
「司くんは残念だったね」
 紫藤が口を開き、年齢不詳の公安局長が応じる。名は皇、というそうだ。
「ええ、紫藤様にもお世話になっていたのに、申し訳ありません」
「まぁ、しょうがないね。将来有望な女性かと思っていたが、あんなつまらん死に方をするとは」
 紫藤はいつも通り、機械のような、なんの感情も湧いてないであろう顔で蟹を貪っている。伊沢の目からは、公安局長は背を向けた席に座っており、その表情は見えない。だがペコペコと頭を下げている様子から、少なくとも弛んだ表情ではなさそうだ。
「それで。極東会の拠点は潰したのですか」
 紫藤の取り巻きの中年Aが偉そうに口を開く。皇が再び頭を下げて、応える。
「はい。本部と思われる伊豆と、熱海拠点は制圧しました。その他都内の事務所も、全てこちらで押さえております。あとは都市圏外に潜伏していると思われる残党狩りを、速やかに遂行いたします」
「わかりました。それで、義紅(よしき)様を攫った男の足取りは」
「はい。虎城大牙は熱海港を抜け出したあと、マレーシアに潜伏している模様です」
 皇はそう応えた後、隣の中年男性を見た。彼も公安側の人間のようだ。皇の視線に応え、彼も口を開く。
「虎城が義紅様と共に、現地ゲリラの拠点に出入りしている姿を公安調査部の者が確認しております」
 緊張した抑揚のない声で、中年男は紫藤義嗣と取り巻きAに向かって話した。
「早急に現地ゲリラ共々殲滅し、義紅様をお連れします」
 公安局長が、部下とは対照的な覇気のある声で紫藤と取り巻きAに話した。取り巻きAは紫藤の顔を見ている。紫藤は数秒思考したあと、手を軽く振って否定した。
「いや、今手を出すと面倒だ。下手に巣をつつくと中国側が出てくるかもしれん。代わりはいくらでもいる」
 曾孫をあっさりと切り捨てた。そんなことはどうでもいい、と紫藤が続けて口を開く。
「米国側から言われていた件はどうなってる」
 紫藤が皇に問う。
「はい、来月には電波傍受システムは再稼働させます。都内の監視カメラにはスキャナーを搭載し、常時ラナンにデータを転送できる体制も整います。これで毎月の測定に関係なく、国民の挙動と会話内容を捕捉して、数値管理できます」
 皇が得意げに答えた。だが紫藤は満足していない様子だ。
「結構。だが、司くんの代わりは見つかったのか。あれは貴重な意識要員だったからな。喪失したとなると、彼らも代わりを欲しがるだろう」
「……かしこまりました」
「そう考えると、改めて惜しい女だったな。幼少期に売春させられて親を殺しておいて、最後まで数値70を保っていたなんて信じられん。よほど罪悪感とでも言うべき、人間を人間たらしめる感性が欠落していたのだろうな。ああいう数値を高く保ったまま、人を殺せる人間というのは今でも数年に一人は現れるのだろう」
「はい」
「そういう人間の数値も正しく裁定するためには、やはり同類の意識構造をラナンに取り込ませる必要があるのだろうな」
「ええ。米国側からは、現時点で最も優先順位の高い意識要員として要求されています」
「他には?」
「残りの、ラナン数値3以下の凶悪犯罪者枠はあと4名となっております。老神が死に、虎城が逃亡した現在、候補はおりません」
「ふむ。じゃあ君が意識要員になるか?」
「え……」
 皇の顔から血の気が引いている。その顔を見て、珍しく紫藤が口を開けて笑った。
「冗談だよ。まぁ、来年になっても状況が変わらなければ現実になるが」
「……」
「でも、悪くないんじゃないか。殺処分にされるぐらいなら、ラナンの一員となってこの国の支配者に格上げしてもらうのも」
 皇は何も言えずにいる。頭を下げているが、それ以外に挙動の選択肢がない。
「それ以外の意識要員体制は、米国のものと近い状態なのか」
 はい、と皇が返事をしながら、リングの拡張現実画面を呼び起こす。画面を見ながら、回答を始める。
「歴代首相2名、宗教家3名、各業界の実業家それぞれ3名ずつ、慈善事業団体長8名、ラナン認定作家4名、認定外作家12名、ラナン数値10以下の犯罪者20名、ラナン数値3以下の犯罪者11名、政治家15名、事務次官クラスの官僚30名、音楽家・芸術家は認定、認定外でそれぞれ8名ずつ、アスリート14名、防総省管轄の軍将校40名、反社会性精神病質者19名、が現在の日本国ラナンの意識要員体制です。あとは数値3以下の凶悪犯罪者4名と、反社会性精神病質者1名を追加できれば、全てポストは埋まります」
「そうか。じゃあ引き続き頑張ってくれたまえ」
「はい」
 後方から見る皇が、いささか小さく見える。だが、伊沢も他人事ではない。紫藤家の、それも当主の身辺警護を勤めた時からとうに人権は剥奪されている。この国家を牛耳る裏側を外部に少しでも漏らせば、命はない。
 皇よりも更に縮こまっている公安の中年男が、もごもごと口を開いた。
「あの……当面はラナンの実態については、『米国の巨大IT企業が開発したAIに、米国精神・心理解析研究所で構築された精神分析理論データを掛け合わせたシステム』という前提で万事進めればよろしいでしょうか」
 あ、公安調査部では諸外国の国家運営システムについての調査結果も随時国民に公表しているので、我が国の運営システムの説明も今まで通りで宜しいでしょうか、という確認をしたくてですね、と無能丸出しの空気を読めない発言を続ける。言い終わったあと、懸命に蟹を食し全く会話に参加していなかった厚生労働大臣が、おい、と低く太い声を発した。それで公安の、おそらくは公安調査部長の中年男が申し訳ありません、と口を閉じた。
「すみません、こいつは最近昇格したばかりの者で」
 厚生労働大臣が紫藤に向かい、頭を下げる。それを見て紫藤は、口を歪めて不気味な笑みを浮かべている。
「構わんよ。だが、ラナンの実態は永久に秘匿せねばならん。君、マックスヴェーバーを読んだことは」
 紫藤は新参者の公安調査部長に向かって問う。調査部長は、いえ、と心底申し訳なさそうに回答する。
「読むといい。官僚制的行政は、知識によって大衆を支配する。専門知識と実務知識、そしてそれを秘密にすることで優越性を高める」
「……」
「秘匿こそが優越性を支える土台なのだよ。間違っても、大衆に向かって必要な情報を必要なだけ届けよう、などと思い上がらないことだ。無事にその生を全うしたいならな」
「……かしこまりました」
「秘匿という土台が崩れたら、再び暴動が起きる。まさか国民も、この国を統べる理想的官僚行政システムが、まさか特定の人間の意識の集合体だとは夢にも思ってないだろうからな」
「……」
「米国もよく開発したものだ、こんな怪物を。君、多くの脳科学者は機械に意識が宿ると考えているのだが、これについては聞いたことは」
「……いえ、ありません」
「脳というのは電気回路に過ぎない。だから必要十分な形で脳の構造を電気回路として再現してやれば、そこには意識が宿る。まず最初に、誰にものでもないニュートラルな意識を持つスーパーコンピューターを用意してやるんだ。そして取り込む人間の脳内にスキャナを入れ込んで、ニュートラルな意識にその人間の意識を転送させる。その転送した意識の集合体が、ラナンなんだ」
「……」
「民主主義、合議制ほどくだらない運営形態はない。責任の所在を細切れにして、何一つ成果物を生み出さないからな。だから、あらゆる分野で突出した才能と知能、思考力を掛け合わせることで、今の『神の信託』とも呼ばれる意思決定主体を創り上げた。一個体としての人類を超越した意識によって、情や偏見に流されることもなく、人間の精神を正しく俯瞰し裁定することができる。だからこそ、正しい政策の意思決定ができ、人類史上かつてない平和な国家が実現されているのだよ」


 4年後

 2078年7月13日、9時42分。小鳥遊弥羽(たかなしみう)は横浜市中区山手町の自宅で朝食を済ませ、身支度を整えた。10時に自身が経営するカフェに到着するために、10分前の9時50分頃に自宅を出れば良い。だからそれまでの8分間、どうしようかと思い倦ねる。出発する前に、旦那の顔でも見ておこうか。彼の拘りを張り巡らせた和モダンテイストの自宅は、横浜湾や市街地を一望できる丘陵地にある。高級住宅街で知られるこのエリアには、歴史的な背景から外国人が多く住んでいたこともあり洋風建築物が多く並ぶ。だが彼は常に和服に身を包む男であるため、彼が建てた自宅はこの山手エリアでも若干浮いている。
 階段を登り、2階に行く。彼の書斎兼寝室。物騒なタイトルの本が床に散乱しており、踏まないように気を付ける。普通書斎というと、広い机と壁一体に広がる本棚、その棚を綺麗に埋め尽くす本達という内装をイメージするが、彼の部屋はただ机と椅子とベッドがあるだけ。本棚に本を並べていると、それらに余計な圧力をかけられるから嫌なのだ、とのことだ。結婚して2年ほど経つが、彼の感覚は未だに理解できない。作家にありがちな、癖と拘りが異常に強い人。
 机と椅子を通り過ぎると、白いキングサイズのベッドの上に転がっている彼がいる。寝室は別にしているから一人で寝るだけなのに、余裕で3人は寝れるサイズのベッド。寝相の悪い彼はシーツをぐしゃぐしゃにし、髪の毛もボサボサだ。ベッド横の大きな窓に目を向けると、ベイブリッジが見える。その周りは、港湾操業会社の事務所や倉庫が立ち並ぶ。空には雲がところどころ浮かんでいるが、快晴と言って良い天気だろう。夏の暑い日差しが降り注ぎ、太陽光が彼の顔を襲っている。カーテンを少し閉め、太陽光を遮った。夜行性の彼は夜中の3時ごろまで執筆し、寝落ちして11時ごろまで寝ている、という生活サイクル。弥羽がカフェを閉じて帰宅する19時頃に、起きている彼と会うことができる。
 ラウンジ勤務時代の友人の流花(るか)の紹介で、彼と出会った。168cmで、体格は普通、髪の毛がロングのスパイラルパーマという外見の彼。弥羽のタイプは自分よりも身長が高く、筋骨隆々で逞しいアスリートのような男だったから、正直なぜ流花が紹介してくれたのかわからなかった。だが最初に会話を二、三かわした時に、明らかに異様な男だと分かった。彼の醸す波動は普通の男のそれとは違い、揺るぎない一本の太い柱を連想させるような強さが感じられた。この人は、人間としての本当の強さを持った人。自分の膿を全て吐き出させて、軽々と飲み込んでしまうような。そんな底知れなさを感じた。
 弥羽は子どもが欲しくなかった。小さい子供は可愛いとは思うが、あくまでそれは外野の立場だからそう思うのだ、という感覚が今も手放せない。弥羽の家庭は、現代の子育て認可制度が適用されている時代なら、認可が降りない家庭だった。父親が不倫して家を出て行った後、母はひとりで弥羽を育ててくれた。現代では、片親の家庭では認可が降りない。
 母親から暴力を振るわれるなどは一切なく、人格者の母だった。母のことは大好きで、人間としても尊敬している。だがどうしても、母親のような生き方をしたいとは思えないでいる。自分を犠牲にして身を粉にして働き、子供に尽くす生き方。髪の毛は傷み、肌の潤いやハリはなく。そんな姿が、弥羽の眼に焼きついて離れないでいる。
 病気もなく、心身ともに健全な男女。その夫婦が子供を作らないというのは、相互監視員で埋め尽くされるこの国家では許されない事態だ。罰せられることはないが、無色透明・空気のような思想という名の首輪を、皆が懸命に嵌めようとしてくる。
 こども産むのは早い方がいいわよ
 子供はやっぱり3人は欲しいわよね
 女の幸せはやっぱり子供よ。これだけは産んだ人間にしかわからない
 悪気がないという免罪符をぶら下げた、想像力のかけらもない駄人たち。それらが懸命に国家の洗脳代理人となって首を絞めてくる。自分の感情や、望む活動を犠牲にする生き方は絶対にしたくない。身体が受け付けないのだ。だから流花のような、本当に価値観が合い、そして思考力と想像力のある友人以外は、全て関係を切った。不要な人間を全て切った今、人生でこれ以上ない安心感に包まれている。
 旦那は、わたしが発する言葉の節々から、わたしの感情を汲み取ってくれる。旦那といると、わたしという個人ではなく、旦那と一体になった「わたしたち」という新たな主体に生まれ変わったような、そんな多幸感に包まれる。なんだか小さくて頼りなさそうに見える目の前の寝ている男は、一緒にいればいるほど敬意を増す存在。
「行ってくるね」
 小さく囁くように言ったが、彼は微動だにしない。寝言で、うーんと応えることすらない。疲れきった柴犬が寝ているように見え、思わず頬が緩んでしまう。
 
 家を出て10分ほど歩き、自身のカフェに着いた。11時からの開店までに、準備を済ます。横浜の景色や東京湾を一望できる立地にあるオーガニックカフェ。地域のマダム達が贔屓にしてくれており、客足は途絶えない。だが特段忙しい、ということもなく、程よく採算もあう平和な事業運営ができている。いつもカフェに着いて10分ぐらいは、自分で淹れたコーヒーを飲みながらテレビを観るのが習慣。今日も何を観るでもないが、ワイドショーをつけてぼんやりと眺めている。
 帝国新聞社が筆頭株主の、日本国テレビの番組。平日の昼前の時間帯のニュースは、働きに出ていない中年・高齢者をターゲットにした番組構成となっている。中年男性の人気タレントが司会を務め、その脇をこれまた中年のコメンテーターが脇を固める。中には若者の芸人も混じっているようだが、コンプライアンスでガチガチに固められた現代では、芸人さえも言葉遣いが上品で、失言をすることは一切ない。いわゆるお上品な笑い。放送作家が詳細に作り込んだ流れをただ踏襲するだけの、もはや演劇のような、舞台のような番組が世の中には溢れている。
「番組の途中ですが、臨時ニュースをお送りします」
 白く明るい内装に、さまざまな温かいテーマが並んだボードの画面から一転。時間帯に合わない暗めの照明に、背景がブラック、ダークブラウンの煉瓦が敷き詰められた壁の画面に切り替わった。柔らかい穏やかな空気が一転、画面上には厳かな雰囲気が張り詰めている。整髪料で整えられた短髪、ネクタイを締めたスーツ姿の男性アナウンサーが、重々しい雰囲気を纏いニュースを伝えている。
「株式会社帝国新聞グループ本社代表取締役会長 紫藤義嗣88歳、厚生労働大臣 竹田洋平72歳、厚生労働省公安局長 皇京伽71歳の3名が他殺体で発見されました。同局は国際テロ組織マルダバトの指導者 虎城大牙30歳による犯行と断定。マルダバトからの犯行声明は出されておらず、同組織の狙いの特定を急ぐとともに、」
 明瞭なアナウンサーの声で、知った名前が出てきた。アナウンサーが原稿を読む姿から画面が切り替わり、その名前の主の画像が映し出された。4年前に見た、真面目で実直な雰囲気はその片鱗もない。左頬の切り傷、首元の蛇のタトゥーは以前と変わらないが、右耳が失くなっている。そして額から左目の下瞼にかけて、刃物で切り刻まれたような太い傷跡がある。その線を遮るように、左目には義眼が埋め込まれている。エメラルドグリーンの眼球が、その顔面の醜悪さを引き立てている。右の眼球は黒々と淀み、なんの光も見出していない。弛緩しきった頬と、口角が左側に吊り上がった笑みを浮かべている映像。家族への愛に満ちていたはずの過去の人格を、自身で嘲笑うかのような表情。
「……将ちゃんが見たらどう思うのかしら」
 弥羽はしばらくテレビ画面を見つめていたが、時刻が10時10分を過ぎていたことにふと気づく。映像を消し、開店準備のためにエプロンを腰に巻いた。





参考文献

 「監獄の誕生 監視と処罰」ミシェル・フーコー 田村俶翻訳 新潮社
「地に呪われたる者」フランツ・ファノン 鈴木道彦、浦野衣子翻訳 みすず書房
「ガリバー旅行記」ジョナサン・スウィフト 山田蘭翻訳 角川文庫
「ヒトラーとナチドイツ」石田勇治 講談社現代新書
「脳の意識 機械の意識」渡辺正峰 中央公論新社
「風の十二方位」 アーシュラ・K・ル・グィン 小尾芙佐翻訳 早川書房


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