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普通、でいることの恐怖

普通だね

こう言われることは恐ろしい。心底恐ろしい。
まるでこの世界に存在してないみたい。そう言った人間からの視点、だけではなく。実際にこの世界に、わたし、という人間がいないと思わされる。わたし、という人間ではなく有象無象、という一塊のブロックに閉じ込められるような。ブロックそのものみたいな、そんな感覚。
いつから、普通であることを恐れるようになったのだろうか。
考えると、もう物心ついた頃からそうだったのかもしれない。

群馬県の田舎で生まれた。父方の家系は、そこそこ裕福な家だったらしい。父方の広い敷地内に俺は住まわされていた。俺は長男だから、めっぽう可愛がられた。姉よりも遥かに。そして、父方の家系の親戚の子達も女の子ばっかりだったようで、それはそれはチヤホヤされていた。田舎の家では、男尊女卑が肩で風をきって歩いているから、男で、長男で、という武器は強力だった。

すごいね。偉いね。
俺を形容する言葉は色々あったが、凝縮するとこの二つでしかなかった。これ以外の言葉はなかった。
通わされていた公文式のテストの出来が良ければ、「すごいね」
幼稚園の運動会で、徒競走で一位を取れば、「すごいね」
ちゃんと公文式の宿題を家でこなしていれば、「偉いね」
所属するサッカークラブで活躍すれば、「すごいね」

偉いね、よりも、すごいね、の方が多かった気がする。
要は、「何か他人よりも優れている」ことが証明できれば、存在を承認される。
そして存在を承認された後に、「さすが、長男ね」なのだ。
それが俺を形容する言葉たちなのだ。
長男だからチヤホヤされていた、可愛がられていた、と書いたが。「駿」という存在そのものが有難い、素晴らしい、という感じは一切ない。「長男」が優れた振る舞いをしている、だから可愛い、偉い、すごい、なのだ。だから今考えれば、心の底からの安心感、というのは無かった。「褒められている」状態がデフォルト。そうでないと、存在を愛でられることはなかった。今考えれば、3歳の時には幼稚園に出されていたが、親から抱きしめられた記憶がない。「何か他人よりも優れている」という価値証明ができた時には、頭を撫でられたが、その時も抱きしめられたことはない。「親は俺を愛している」と感じとれたことは、一度もない。

俺が求めすぎ?
女々しい?
気持ち悪い?

普通、はそうじゃないの。
普通、親が子供に愛情表現なんて、しないんじゃないの。そんな小っ恥ずかしいこと、特に日本人なんだから、別にどこの家でもしないんじゃないの。こんな声が世間から聞こえてくる。

思うに、物心ついた段階で子供に「あなたは存在しているだけで素晴らしい」と刷り込んでしまえば、もう子育ては終了だと思う。あとは適当に飯を与えておき、妻との仲睦まじい関係を子供に見せておけば、子供は勝手に育つ。
ただ、植物も水をやらないと枯れてしまうように。時々子供に「愛されている」と思わせる、そのメンテナンスさえしてやれば、壊れずに普通の人間が出来上がると思う。

脱線してしまったようだが、そうではない。
要は、今30歳男性であるこのわたしは、ずっと3歳の頃から成長が止まっているということだ。
「すごいね」「偉いね」というドーピングを幼児の頃から受けてきたが、肝心の米を食せていない。栄養が与えられていないのだ。だから、愛着という土台のない体だけ30歳の幼児、のままなのだ。

30歳の俺が未だに何を欲しているかというと

・3歳の時。父と母と姉と俺の4人の食卓で。母親が作ったトマト入りの不味い味噌汁が出てきた時に。父が「こんなもん作りやがって」と言って戦争のような喧嘩を始めるのではなく。ただ食事を作ってくれた母親に「ありがとう」と言うこと。

・その日の夜に、一度だけでいいから、母親から「愛している」と言われ、抱きしめられること。

この二つ。3歳の時に、この二つだけしてもらえたら、それでよかったのだ。
それさえできていれば、もう子育ては完了。あとはちょこちょこ小さいメンテナンスだけしていれば終わり。
テストの出来が良くて「すごいね」と言われようが、
所属するサッカークラブで活躍して「すごいね」と言われようが、
俺は何も動じることがない。「何か他人よりも優れている」という価値証明をし続けなければ、という強迫観念に囚われることもない。

だってどうでもいいから。
俺は愛されていて、素晴らしいのだから。
他人より優れている必要など、ないのだから。

普通だね

そう言われること。
それはつまり、「他人より優れてないね」と言われること。
他人より優れてないと、関心を向けられない。
関心を向けられていないというのはつまり、愛されていない、ということ。
だから愛されるために、他人より優れていなければ。

そんな盛大な勘違いを抱えたまま、30歳になって壊れてしまった。

壊れた今も、恐ろしい。普通でいることが、何よりも恐ろしい。
普通じゃない成果を出せる、普通じゃない優れた人間でなければ。
その強迫観念に、今も囚われたままだ。

これが完全に消え去らない限り、またいつか死にたくなるだろう。
まだまだ、俺には人生の課題がたくさん残っている。

じゃあどうすれば良いのか?
今からでも母親に泣き叫んで、「抱きしめて、愛していると言って!」と言うか?

鳥肌が立つ。

言っている自分の姿に鳥肌が立つのはもちろんだが。
それに加え、たぶん俺の母親はやってくれる。抱きしめて、愛しているよ、と言ってくれるだろう。まるで機械のように、体温のない表情と声色を伴って。
その光景に鳥肌が立つ。
そして、死ぬまで殴り続けたい、と思う自分にも。

どうしようもない駄々っ子である。
じゃあどうしようもねえじゃん。
愛着のない人間は、死ぬしかないのでは。
そういう声が聞こえてくる。

どうすれば、「普通の自分」を善しとすることができるのか。
それはまた後ほど。




2024/05/28
続きを、こちらのnoteに書きました。


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