「ほんらいの自分」とは?
おはようございます。
本日のお題は、「ほんらいの自分」とは?について。
ある意味高尚なテーマで、
人生ずっと追いつづけるテーマなのかもしれませんが、
でも、そもそも「ほんらいの自分」って、
どんな状態のことをいうのでしょうか?
どういう状態をもって、
「ほんらいの自分」を生きているといえるのでしょうか?
これは主観ですが、
また「ほんらいの自分」を探しつづけた身だからこそ言えるのですが、
「ほんらいの自分」を探す前に、そもそもの言葉の定義、
「ほんらいの自分」とは、そもそもどういう意味?
何をもって、「ほんらいの自分」といえるのか?
を見つめてみることも、とても大切。
ここの定義があいまいで、またあいまいのまま
「ほんらいの自分」を探す旅に出ても、
最初のスタート(種)があいまいだから、ずっとゴールもあいまいなまま…
雲がずっと分厚いままで、ただただ同じ地点(スタート位置)を
ぐるぐる、旋回しつづけるだけになりやすいのですね。
(…これは本当に、自身の経験からいえることです;)
でも、そうではなくて。
本当に「ほんらいの自分」を生きはじめるのならば、
この「ほんらいの自分」という言葉への定義が、まずおのずと
しっかりしてくるもの。
他の誰でもない、ほかの誰とも違う答えでいいから、
いやむしろ、誰とも違う答えの方がいいから
自分なりの、「ほんらいの自分とは?」のアンサーを見つめてみること。
静かに、大事なことだと感じています。
今日は、私自身のアンサーを述べることは、書き控えて。
その答えさえも、「枠」になるかもしれないのなら
ぐっと書くことをガマンして。
ぜひ、お一人おひとりご自身なりの、
「ほんらいの自分」とは?の定義 を洗い出されてみてくださいね。
意外と、「他の誰か(のように)」になろうとしていたり、
「なにかが増えれば」「~になれたら」と、外からの評価によって
得られるもので、「ほんらいの自分」が成り立つ
という定義を無意識にもっていたりするもの。
ほんとうは、私自身のアンサーもとても書きたいのですが、
あえて、日を置いて… またどこかのタイミングで
“ふっ” と綴れたらです。
誰かのアンサーが、なにかお役に立てるのかもしれない…という気持ちと。
それが逆に、その人自身のもつ無限の可能性(アンサー)を阻害するものに
なってはいけないという思いから、
今日は思いきって“問い”だけ投げかけて。
続きはもしよろしければ、お一人おひとりの胸の中の“花”で
ことばで語り続けられてみてくださいね。
もしそれが「正解」なら、パッとこころが華やぐからスグわかるでしょう♪
どうぞ、ご自分のなかでの対話もときに大切に、
その“習慣”が、また自分を「ほんらいの自分」に近づけることも
感覚的に知っているから…
よかったら、このシリーズもときどき楽しんでいただければ幸いです。
では、長くなりましたが、
今回はあえて「問い」だけですが、答えはきっとすでにあることを信じて
お読みくださり、ありがとうございます♪
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