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「本名で発信する覚悟」の中にみえる「自分の意見への姿勢」は、私の中の何かを研ぎ澄ます。

noteに顔写真や本名を載せている人の「覚悟」について考えることがある。


顔写真や本名を載せるということは、
仕事など社会的な立場での自分と、
このnoteの世界の自分をちゃんと結びつけて
その上で、自分の率直な意見や
自分らしさを発信しているということだ。

自分がなにものであるか。

自分のリアルな周囲の人にも
知られるかもしれない可能性を引き受ける覚悟。

それが、
「自分の発信について自分で責任を持つ」
覚悟に見えて、私はその姿勢を心底、尊敬する。


そして、私には出来ないとも思う。
少なくとも今の私には。


もちろん、
個人に関わる事を載せない選択の自由があるし、
載せていない結果、生み出される作品が
魅力的なクリエイターが
ごろごろいるのがnoteだ。


個人が特定できるような情報を載せることを
良いとか悪いと決めつける話ではない。
載せていない人だって、
自分の発信に責任を持っている人も
たくさんいる。



ただ、私にとっては
顔写真や本名を載せる決断をした人は英雄たちに見えている。


じゃあ、なぜ英雄にみえるのかな?


英雄たちは、
自分の意見と反対の意見とか、攻撃的な意見が来た時に
「意見をぶつけることと、人同士がいがみ合うことは別ですよ。」
と、意見は意見と流せて、人との関係に持ち込まないよう
ちゃんと割り切れているのではないか?とか。

意見と自分の間にちゃんとバリアを持っていて、
例え攻撃されたとしても
「受け流す」「距離を取る」「反省する」「刺激を受ける」
なんてことがきっと上手にできるのではないか?とか。

少なくとも、人からの意見を怖がり過ぎていない。とか。


そんなイメージが膨らむ。
どれもとても素晴らしいことに思える。

それだけではない部分もあるかもしれないけれど、私からみたら、

そんな姿勢がかっこよすぎると思ってしまい、
私にとっての本名や写真を載せた人々は
やっぱり英雄たちに見えている。


自分を守るバリアをちゃんと自分自身の中に持っている。
そういう人にわたしは憧れる。




今のインターネットは



匿名で著名人など相手に意見をし、
その意見が共感を生んだ時、集まった意見たちが
大きな力となり、時には人を傷つけ、
その人が受けた痛みによって悲しい事件が起きてしまう。


こんなことへの恐怖感がある。
発信する人は、自分の意見が誰かに叩かれる可能性を
多かれ少なかれ、感じながら
それでも、表現する喜びや表現の自由を大切に
発信している。



だから、発信した後の情報を
「受け取った情報をどう料理するかはあなた次第」と
相手にゆだねて割り切る勇気を持ちきれずに
怖くなってしまう、書けなくなってしまう
気持ちがあってもおかしくないと思う。



だからこそ、
本名や顔写真を出す英雄たちは、
「受け取る情報をどう料理するかはあなた次第」と、
覚悟した上で、自分の意見に対して言われたことに対して、
一線引いた距離を取れる己の強さを感じるのだ。


今、私はこのnoteのために、別メールアドレスを作り
アカウントを作り、twitterのアカウントもnote用に作った。

正直、ほとんど機能していない。


そして、作られたアイコンと作られた名前で、
もう一人の私を作りだし
今「これでもか!」と自分の
気持ちを書くことで、気持ちの整理をしている。


そこには、いざとなったら
この世界から逃げることができるよう
「自分の意見の責任は自分で取る」覚悟もないままに、
この環境をお借りしているような気持ちの私がいる。


お借りした場所だからこそ、
私にとって、noteを書く瞬間は、
どれだけ多くの人の目に触れる可能性があるのか、
あまり深くは考えもせずに、
最初に発想が浮かんだ時の瞬発力でしか
持ち合わせることのできない熱量で
愛情をこめて書くことが出来ている。


でも、英雄たちは英雄であるがまま、
私がお借りした場所でしていること以上の
愛情とパフォーマンスで、
文字を使って、絵を描くように
自己表現をしている。


その在りようが、ただただ、かっこいいと思うのだ。
そして、その気持ちが、
英雄に憧れる私を
少しだけ成長させてくれるようにも感じるのだ。

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