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カラヴァッジョについて|西洋美術史に革命を起こした生涯・代表作品を紹介

「画家」にどんなイメージをお持ちだろうか。天才、破天荒、繊細、やばい奴、変わり者、気まぐれ……ぜんぶ正解だ。画家の感性はやはりマイノリティなので他人にはあまり理解されないことが多い。一言で言うと奇人なのである。

今回、取り上げるバロック期の画家、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは、まさにそんな「ヤバい画家」の代表格だ。とにかく天才すぎて当時のパトロンですら彼には「へへ……いつもお世話になってますへへへ」ゴマをすった。私生活は荒くれ者で暴力的だったが、作品は非常に繊細で当時はまったく主流じゃなかった自然主義を発明している。

今回はそんなミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの生涯を追いながら「西洋画に革命をもたらした」とまでいわれる作品を見ていこう。

カラヴァッジョ0から20歳まで ~流行っていたマニエリスムへの反発~

カラヴァッジョは1571年にイタリア・ミラノで生まれた。本名はミケランジェロ・メリージ。父は富豪のカラヴァッジョ侯爵家に勤めており、母もまた地主の娘という、超金持ちのボンボンの子だった。

カラヴァッジョは5歳までをミラノで過ごすが、当時のミラノでは「ペスト」という流行り病が広がっていた。ペストに襲われたミラノは治療法がない状態。推測によると、このイタリア地方での流行によっておよそ5万人が亡くなったらしい。西洋史のなかでもペストは衝撃だった。

ミラノでの感染を受けて一家はカラヴァッジョ地方に移る。しかし引っ越しをするものの1577年、6歳のころに父が他界。また同時期に祖父や叔父もペストで亡くなった。さらに1584年、13歳で母も他界した。

名家に生まれたカラヴァッジョだが、ペストという理不尽な理由で少年期にいくつもの死を経験したわけである。これがのちの人生に大きな影を落とすことになるのは間違いないだろう。

このころに身寄りがなくなったカラヴァッジョは「絵で生計を立てること」を決心してシモーネ・ペテルツァーノのもとで修行を始めめた。当時のパトロンは「王家」か「キリスト教会」なので、宗教画や祭壇画などを学ぶ。

カラヴァッジョはそのころにジョルジョーネの宗教画やダヴィンチの「最後の晩餐」などの名画に触れたと言われている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

この時代だって、やはり最初は基本から学ぶのだ。そう、みんな公文式から始めるように、カラヴァッジョもダヴィンチから始めた。

当時のローマの画家たちの間で流行していたのは「マニエリスム絵画」だ。これは「ミケランジェロの芸術手法(マニエラ)こそが芸術の頂点である」という考えである。ミケランジェロはルネサンス最盛期の画家・彫刻家だ。マニエラは観ている人の感動を呼ぶために、人体を過剰にかっこよく描くものである。今でいうとSNOWで撮った顔とか、強制的に八頭身になるプリクラみたいな感じ。

カラヴァッジョももちろん、10代からマニエリスムに触れていた。しかし惹かれたのは「自然主義的な表現」だったのだ。「自然主義」とはあるがままの姿を描く表現のこと。「飾らない姿こそが美しい姿である」という思想である。これはマニエリスムとは真逆の思想ともいえるものだったわけだ。まだ若かりしカラヴァッジョは「嘘ついてんじゃねえ!」と思ったわけである。

カラヴァッジョ21歳から28歳まで 〜「自然主義」と「写実性」で若くして成功者に~

美術に対して真摯に取り組むカラヴァッジョ。しかし21歳のころ喧嘩でミラノの役人を負傷させてしまい、ローマに逃げることになる。

当時ローマで最高のマニエリストの画家ともいわれていた「ジュゼッペ・チェーザリ」のアトリエで働き始めるも、やはり素行が悪く、8カ月で解雇されてしまった。そもそも苦手なマニエリスムの先生の元では熱が入らなかったのだろう。

それで極貧生活が始まる。絵のモデルを雇うお金もなく、自身をモデルに絵を描き始めた。このころの代表作として有名なのが「果物籠を持つ少年」「病めるバッカス」など。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「果物籠を持つ少年」

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「病めるバッカス」

20代のカラヴァッジョの絵で注目なのはモチーフとして果物や草花などをよく用いていて、しかもめっちゃ強調していることだ。日常的な静物を使った絵は宗教画や肖像画ばっかりのローマにおいて画期的だった。    

不幸中の幸いだが、役人を殴って逃げ込んだローマは、カラヴァッジョにさまざまな出会いをもたらした。当時すでに力のあった画家とも交流ができたのである。その友人たちは有名な収集家をカラヴァッジョに紹介するなどポジティブな影響を与えた。しかし残念だったのは、友人たちが総じてヤンキーだったということだ。彼らはカラヴァッジョにローマの裏世界の情報を教えるなどネガティブな影響も与えた。カラヴァッジョは半グレから暴力団っぽくなっていく。

しかし当時のマニエリスムに対抗するような絵は顕在だった。23歳のころに「女占い師」「トランプ詐欺師」を描く。


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「女占い師」

このシリーズはカラヴァッジョの最初の傑作だ。特に「トランプ詐欺師」は西洋美術史のなかでも超重要な作品である。

その理由は2つ。1つ目が「日常の風景を描いた自然主義」ということだ。「うら若い青年が騙されている」という、サザエさんレベルで日常的なモチーフは、マニエリスム全盛のローマでは斬新だった。あまりに画期的だったため、この後のローマでは「カラヴァッジェスキ」といわれるカラヴァッジョのパクリ画家が増えたほどである。

2つ目が「緻密でレベルの高い写実性」だ。「トランプ詐欺師」の3人の表情を見てほしい。左が「客」で右が「詐欺師」、真ん中が詐欺師のグルだ。詐欺師の「大丈夫かなぁ……負けそうだなぁ……」みたいな腹立つ顔がたまらない。こいつはこの後真ん中のグルから客のカードの情報をもらえることを知っているのに! そんな空気感までが漂ってくるほどの写実レベルだ。

「トランプ詐欺師」は有名な美術鑑定家のデル・モンテから評価され、彼はカラヴァッジョのパトロンになる。その後、デル・モンテの取り巻きなどから絵の発注が増えていき、カラヴァッジョは若くして富と名声を掴むようになったわけだ。

ちなみにこのころ、宗教画「懺悔するマグダラのマリア」も描いている。娼婦であったマリアが懺悔するさまを描いており、豪華絢爛でオーバーなまでに理想を追い求めるマニエリスムとは程遠い。初期のカラヴァッジョの「マニエリスムへの反抗」は当時のローマでは「めっちゃ新しいやん!もっとやれ!」と高く評価された。

カラヴァッジョの宗教画は「イエスやマリアの暗い部分もありのままに描く」というのが特徴だった。もちろん信者を増やしたい教会としてはイエスやマリアの崇高さを描いてほしいに違いない。しかしカラヴァッジョはあえて空気を読まず、ありのままを描いた。彼はめっちゃ正直で忖度のない画家だったのである。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「懺悔するマグダラのマリア」

カラヴァッジョ29歳から35歳まで 〜テネブリズムの発明と大スキャンダル~

その後もカラヴァッジョの勢いは止まらない。29歳のころには、コンタレッリ礼拝堂の室内装飾画である「聖マタイの殉教」「聖マタイの召命」を描いた。ここでまたも宗教画の描き方に革命を起こす。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「聖マタイの殉教」

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「聖マタイの召命」

この作品では極端なまでの光と闇が効果的に使われている。このコントラストは「テネブリズム」と呼ばれる表現だ。テネブリズムはその後、レンブラント、ルーベンスなどが採用しているが、先駆者であり代表者はカラヴァッジョである。

「おいおい暗すぎて顔が見えねぇよ!」と当時のローマでは否定する意見もあったが大多数が絶賛した。「なんじゃこりゃ革新的過ぎる」「写実がうますぎてもはや奇跡だろ」との声もあったらしい。「お、俺も俺も!」と若い画家はこぞって、モデルに強い光を当てて絵を描くようになったほどだ。しかしカラヴァッジョのレベルにはほど遠く、大量の模写がローマに溢れた。

その後、カラヴァッジョのもとには写実画の依頼が殺到。特に暴力や拷問、死などの暗いモチーフが多かったようだ。その理由は「暗いテーマの宗教画を描ける画家がカラヴァッジョ以外にいなかった」ことが挙がるだろう。彼の明暗の「暗」の部分に惹かれたメンヘラ収集家が多かったのかもしれない。

その後、三十路になったカラヴァッジョはあくまで自然主義的な視点で宗教画を描きまくる。しかしその正直すぎる絵画はたまに批判の的になった。特に「ダマスカスへの途中での回心」と「聖アンナと聖母子」の当時のリアクションはひどかったらしい。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「ダマスカスへの途中での回心」 

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「聖アンナと聖母子」

「ダマスカスへの途中での回心」は後にサウロが天啓を受けてキリスト教の教えに目覚めるシーンを描いた1枚。右上の天啓の光は控えめに描き、パウロよりも馬のほうが大きく描かれている。そりゃ人より馬のほうがデカいので正直に描くとそうなる。しかし「いや馬の尻のアップやめて!キリスト教を冒涜だろこれ!」と非難されることもあった。

また「聖アンナと聖母子」は、幼児期のイエスが悪の象徴である蛇を踏んでいるシーンを描いた。これも「ちょとストレートに描きすぎやろ!下品だわこれ!」と炎上。2日で撤去されてしまった。

この他に当時のカラヴァッジョを象徴する作品には「キリストの捕縛」「聖ペテロの磔刑」「聖母の死」などがある。暴力的で正直すぎる宗教画が多かったことが分かるだろう。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「キリストの捕縛」

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「聖ペテロの磔刑」

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「聖母の死」

この作品を象徴するかのように、カラヴァッジョはプライベートでも「けんかっ早さ」で有名になっていく。20代前半のころに知り合ったヤンキーのせいで、裏社会ともつながりが深く、次々に暴力事件を起こしてしまうのだ。

ついには裏社会の住人たちも「あいつキレたら手に負えねぇ」と引くようになった。そしてカラヴァッジョは35歳のときに喧嘩の末、若者を殺してしまう。殺害した理由は諸説あるが「ギャンブルブルでの金の貸し借り」「テニス賭博の争い」「痴情のもつれ」など、どれもしょうもない。ここからカラヴァッジョの人生は急落していくわけだ。

カラヴァッジョ36歳から49歳まで 〜懺悔懺悔の晩期~

殺人犯としてローマにもいられなくなったカラヴァッジョはマルタに移る。助けを求められたマルタの騎士団は有名な画家を抱えることに喜び、迎え入れた。これはすごいことだ。たとえ殺人犯でも国としては「天才・カラヴァッジョが来た!ゆっくりしてってね!」と喜んだわけだ。それほどまでにカラヴァッジョの絵はイタリア中のみんなが憧れていたのである。 

しかしカラヴァッジョはマルタでも暴力事件を起こしてしまう。さすがに荒くれ者過ぎる。この男、口がないのか? もちろんマルタからも追放され、古くからの友人であった画家のミンニーティとともに次はシチリアに逃げる。しかしシチリアでも問題を起こし続ける。地元の画家をバカにして他人の作品を眼の前で破ることもあったらしい。

こうしてシチリアでも敵を作り続けたカラヴァッジョは敵対者から狙われて、39歳にしてナポリに逃げる。しかし安全だと思っていたナポリで何者かに襲撃され顔に重傷を負ってしまうのだ。「ハーレイ・クインかよ」ってくらい敵が多いのだ。カラヴァッジョはこのころ各地での暴力がアダとなり、イタリア中のどこにも安住の地はなかったとも言われている。

40歳にしてカラヴァッジョはいよいよ観念した。「もう反省してますから……いろいろ殴ったり蹴ったりしてすみません」とマルタの騎士団長やローマ教皇に絵を贈る。マルタの騎士団長には「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」という絵を捧げた。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」

皿に載った生首はカラヴァッジョ自身がモデルだ。またローマ教皇の甥で罪人の恩赦の権利をもつボルゲーゼには「ゴリアテの首を持つダビデ」を贈る予定だった。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「ゴリアテの首を持つダビデ」

この作品の生首もまたカラヴァッジョ自身がモデル。当時のカラヴァッジョは反省の意を示すために、絵のなかで自身を殺害していた。坊主とかそんなレベルじゃないのだ。「昔の私はもう死にました」という意思表示をしたわけである。

一方、そのころローマではカラヴァッジョのファンたちが殺人を犯してしまったカラヴァッジョの恩赦を求めていた。ファンが根強すぎる。チャゲアスの飛鳥に「いつまでも待ってます!」と言っていた女性を思い出す。

ファンの署名活動が実り、1610年にカラヴァッジョは許しをもらえることになったのである。ファンもすごいが、カラヴァッジョの才能が恩赦を勝ち取ったのかもしれない。

カラヴァッジョはさぞ嬉しかっただろう。直々に恩赦を受けるために、意気揚々とナポリからローマに向かう船に乗り込む。しかし残念なことにその船のなかで亡くなってしまうのだ。死因は「熱病」や「鉛中毒」といわれる。

最後の最後で医者のいない船内で亡くなってしまったのは、運が悪いとしか言いようがない。キリストの自然な姿を描き続けた男は神に見放されてしまったのである。こうして「画期的な絵画の手法」と「暴力的な奇行」によって常に注目の的だったカラヴァッジョの生涯は幕を閉じた。

カラヴァッジョがいなければ西洋美術史はまったく違うものになっていた

彼の「自然主義的なモチーフ」や「強烈なコントラストを描く手法(テネブリズム)」などは完全に独自の発明だ。彼がいなければマニエリスムはもっと長く続いたことだろう。

そしてその後、めちゃめちゃ膨大な画家がカラヴァッジョの手法に影響を受けることになるのも注目したいところだ。

例えばルーベンスレンブラントフェルメールマネドラクロワクールベなどの有名な画家はカラヴァッジョの影響をめちゃめちゃ受けた。カラヴァッジョがいなければ、彼らは存在しなかったのかもしれない。

だからこそ「カラヴァッジョはミケランジェロの次に西洋美術史に影響を与えた画家」とまで評価されているわけだ。

その後、イタリアの10万リラ紙幣にもカラヴァッジョの肖像画が採用された。殺人を犯した人の顔が紙幣に印刷されるのはもちろん異例中の異例。それほどまでにカラヴァッジョがイタリア芸術にもたらした功績は大きかったのである。

もしカラヴァッジョが常人であれば、カラバッジョにはなれなかった

カラヴァッジョを表すキーワードとしては「自然主義」や「暴力性」といったものがある。

若くして家族を病気で失うという「現実」を突きつけられたカラヴァッジョには「理想」を描くマニエリスムは共感できなかったのかもしれない。だから人やもの、神のありのままを描こうとしたとも考えられる。

「暴力性」も両親を亡くしたことで心が荒んでいたのかもしれない。そりゃグレるに決まっている。また若くして裏社会に馴染んでいたことも大きいだろう。もしくは暴力的なモチーフを描き続けて、現実と絵画が融合したのかもしれない。

カラヴァッジョは革命的なパワーを持った画家だったのだ。その矛先が暴力になってしまったのだろう。もちろん暴力は全力で否定する。しかしいつだって革命を起こすのは、こうした変わり者だ。

「まさに画家」という人生を歩んだカラヴァッジョ。あらためて、その作品をぜひ見返してみてください。そのうえでレンブラントやフェルメールの絵を観てみると、彼の功績がよりはっきり分かってくるだろう。

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