「アングルvsドラクロワ」という西洋美術史最大のライバル関係について
西洋美術史は思想のぶつかり合いの歴史でもある。「アート」という答えのないテーマを各々が必死に追い求めるのだから、そりゃ意見がぶつかり放題、火花散り放題なんですね。
「すげぇの描けたから見てくれ!」と作品を発表すると、必ず誰かが反論を唱える。しかしその反論にも反論があり、反論の反論にも反論があり……ともう止まらない。
金子みすゞの「みんな違ってみんないい」みたいな多様性を認める人間はあまりおらず、各々が哲学という盾で身を守りながら、表現という剣でバチバチにやり合う。だからこそ、キャラクターの強い画家が現れては切磋琢磨し、カルチャーを築いてきたわけだ。
なかでも西洋美術史界で最大のライバル関係にあったのが「ドラクロワvsアングル」だ。感性的なドラクロワと理知的なアングルという真逆のキャラクターとしても、観ていておもしろい。
アングルが「冷静に美を追求しましょう。ほらパースが崩れてますよ?」と余裕で眼鏡をクイっと上げるのに対して、髪の毛ぼさぼさでヒゲづらの男くさいドラクロワが「うっせぇ!バランスより表現だろうが!」とドラマチックに反論する。そんな光景が勝手に脳内変換されるんです。
そこで今回はこの西洋美術史界きってのライバル、ドラクロワvsアングルの関係をみてみよう。力を抜いて見やすいテーマなので、少年マンガを見る感じで楽しんでいきましょう。
「アングルvsドラクロワ」の前に西洋美術界で何が起こっていたのか
アングルvsドラクロワの対決は1800年代に勃発するんですけど、その前に、西洋美術界がどう推移していたのか。まずはぐいーっと1600年代のフランスまでさかのぼってみます。
1640年代のフランスでは太陽王・ルイ14世がフランスを圧倒的な国力まで成長させました。この人はホントに戦争好き。54年の在任期間のうち、32年は戦争していたくらいのバーサーカー。しかしこの大胆な戦略が功を奏してフランスはヨーロッパ随一の国家になるわけだ。
そんな彼はカルチャーでも世界一を目指そうと、1648年に「王立芸術アカデミー」を発足させるわけです。簡単にいうと「世界で始めて王が芸術家を支援する学校」を作るんですね。この学校を通称「アカデミー」という。
アカデミーでは世界で初めて展覧会(サロン)を開くなど、この後の美術の進化にめちゃくちゃ貢献するんですね。このあたりの流れは以下の記事でもっと詳しく紹介してますのでぜひぜひ。
で、だんだんと宮廷で美術が栄えていくなか、貴族たちがパトロンになって画家に作品を発注するんですね。このときアカデミーでは学校らしく「落ち着いた表現できっちり描くんだぞ」と教えられたので、ものすごく伝統的な技法で描いた優等生な絵が多かった。
ディエゴ・ベラスケス「ラス・メニーナス」
それに反発して貴族たちは「王家みたいに真面目な奴じゃなくて、もっと派手なの作ってよ~」と画家に依頼する。それで生まれたのがロココ美術というカルチャーなんです。
ジャン・オノレ・フラゴナール「ぶらんこ」
この「ブランコ」は貴族に「私の愛人をブランコに乗せて、脚が見えるところに私を描いてほしい」というど変態な依頼に応えたものです。当時としてはかなり下品なモチーフで、左端のクピド像も「シーっ」と唇に指をあてている。これは確実に2人が肉体関係を持っていることを指しているんですね。当時はスキャンダラスだったけど、今見ると表情豊かでかわいい絵ですよね。
ロココの絵というのは、アカデミーの絵とはえらい違いで、悪くいうとオゲレツ、良くいうと華やかな世界が広がっていた。ただこのロココ文化は1789年にフランス戦争が起こるとともに衰退する。市民が貴族・王族に「てめーらばっかり金をたくわえやがってこの野郎!」とキレて反逆する戦争なので、ロココなんてやってる場合じゃなくなったんです。
その後に、出てくるのが「新古典主義」という文化だ。これは「ロココとかケバ過ぎですから。いったん落ち着いてルネサンス時代の絵画に戻りましょう」という思想で生まれるんですね。
その背景にあったのが1738年の「ボンペイ古代遺跡の発見」。ローマで「壁画付きの古代遺跡が見つかる」という出来事があったんですね。それで民衆たちは大昔のギリシャ芸術や、それを復興させたルネサンス期の絵画に興味を持ち始めることになる。新古典主義はこうした民衆の興味の移ろいも味方につけるわけだ。
なかでも新古典主義では、ラファエロの表現を目指すことが理想だった。「左右対称で1点透視図法を用いた絵画」、「円形の構図」「むくむくしていて柔らかそうな人間の肌」などがラファエロの作品の特徴です。
ラファエロ・サンツィオ「アテネの学堂」
ラファエロ・サンツィオ「子椅子の聖母」
ダヴィッドとジェリコーという師匠の争い
さてそんな新古典主義をはじめたのがジャック=ルイ・ダヴィッドだ。彼は実際にローマでルネサンス期の絵画を見て「ロココなんてやってる場合じゃねぇ」と。「ルネサンスの落ち着きを見習え」と。そんな精神で旗揚げした。新古典主義の主な特徴は以下の通りだ。
新古典主義の特徴
・バランスの取れた構図
・高度な素描技術による写実主義
・決して騒がしくなく厳格な雰囲気
・色彩に重きはおいておらず、むしろ雰囲気が壊れるので明暗は抑えめ
・輪郭線をはっきり描くなど「線」による理知的な雰囲気
・歴史画、神話画、肖像画などの道徳的なテーマ
このダヴィッドの様式はフランスでメインカルチャーになるんですね。というのもフランス革命以降、実権を握った、皇帝・ナポレオンが新古典主義を支持していたんです。
ちなみにこの背景には明らかにプロパガンダ(政治利用)もあった。厳格な様式で戦争の様子や、国王の威厳などをかっこよく描くことで、支持者を増やそうという考えがあったわけです。
なので写実的ではあるものの、ちょっと盛ってるんですよね。いくらナポレオンとて、馬乗りながらドヤ顔でカメラ目線は無理ですよね。体幹どうなってんだ。
ジャック=ルイ・ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」
ジャック=ルイ・ダヴィッド「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」
しかし残念なことにナポレオンは1814年に転落。その後、王政が戻ることで協力者のダヴィットも亡命することになっちゃうんですね。
すると「もう戦争の様子とか描くのって古くね?」という考えになっていく。
そんな思考を反映して登場したのがテオドール・ジェリコーのロマン主義だ。彼は真っ向から新古典主義を否定。「神話とか、歴史とか表層的なのはもうええって。現実をみて、そこから人の内面を明らかにしていこうや」という考えを持っていたんです。
テオドール・ジェリコ「メデューズ号の筏」
例えば「メデューズ号の筏」は実際に起きた事件をもとにしている。軍艦が座礁して港に帰れなくなった147人が急遽つくった筏の上で13日間漂流。疫病や飢餓でばたばたと人が倒れていき、ついには食人までも起こって最終的に生き延びたのは15人しかいなかった、という痛ましい事故が原材料だ。
ジェリコーがつくったロマン主義は、新古典主義と同じく写実的ではあるが非常に色彩豊かなのが特徴だ。ダヴィッドのものに比べると光と影がはっきりしていますよね。ロマン主義の絵画はロマンチックかつドラマチックなんです。「絵を通して人の内面を伝えたい」から、大げさに描くんです。
ロマン主義の特徴
・歴史や伝説ではなく実際におきた事件などを取り上げる
・事件を描くことで人の内面世界を描き出す
・輪郭線より鮮明な色彩を重視する
・光と影の明暗の激しい表現を重視する
・理知的な考えを捨てて感性を最も大事にする
新古典主義を確立したアングル
前置きが長くなったが、こんな感じで新古典主義とロマン主義という二大潮流が1800年代はじめのフランスの美術界では主流になるわけだ。
さぁ、そこでまず出てくるのがアングルです。アングルは新古典主義のメンター・ラファエロについて「あれは人ではなく神に違いない」と崇拝し、ダヴィッドに弟子入り。この2人から徹底して新古典主義の基本を学んでいく。
ダヴィッドが新古典主義的な表現を生み出したとするなら、アングルはジャンルとして確立させた存在です。「色彩より線」という考えを追求した「線の巨匠」といわれるようになった。「感性(色)よりも理性(線)」を意識したんです。
ドミニク・アングル「グランド・オダリスク」
超名作のグランド・オダリスクを見ると、女性のお肌がすべっすべのたまご肌で、丸みを帯びている。また至るところに「円」が隠れており、シンメトリーではないにしろ、ラファエロの円形の表現を使うことで柔らかく静謐な印象を演出しています。
「あれ?ちょっとボディ長くね?」と気づいた方は非常に鋭い。この件に関しては後述します。
ロマン派を確立したドラクロワ
一方でアングルの約20歳年下のドラクロワは、友人のジェリコーからロマン主義の表現を引き継ぎ、本格的に確立させることになる。
彼がもろに影響を受けてるのはラファエロと同じルネサンス期に活躍したミケランジェロです。
ではドラクロワを一躍有名にし、ロマン主義の象徴的作品といわれる「民衆を導く自由の女神」で、その影響をみていこう。
ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」
アングルの描く女性は「女性の美しさ」を追求した、丸みのある落ち着いた筆致でした。いっぽうドラクロワの描く女性はもうムッキムキなんですね。
ミケランジェロは人体の筋肉を精密に描く画家・彫刻家でおなじみだ。「ダヴィデ像」もクリスチアーノ・ロナウドみたいな筋肉ですよね。
ミケランジェロ・ブオナローティ「ダヴィデ像」
そして「最後の審判」なんて、もはや男女問わず登場人物みんなボディビルダーです。ゴールドジムかここは。いまにも「15番の僧帽筋がデカすぎる!キレてるキレてる!」と声が聞こえてきそうだ。またラファエロとは違って乳房や太ももなどの比較的筋肉量が少ない部位はちょっといびつなんですよね。
ミケランジェロ・ブオナローティ「最後の審判」
このような筋肉の表現に加えて、やはりジェリコーと同じくドラマチックな演出も分かる。光と影がくっきりと出ているし、そもそも戦場で半裸なのヤバい。精神的にもムッキムキじゃないか。
ロマン主義のもとになった言葉は「ロマンス(騎士道)」。つまり騎士道精神に通ずる「英雄感」を演出したかった、というわけだ。
また構図にも新古典主義との違いがある。さっきのラファエロとアングルは「〇」でバランスを取ることで、絵に柔らかさを持たせてました。
対してミケランジェロとドラクロワは「△」なんですね。頂点に「最も見せたいもの」を持ってくることで、ドラマチックに見えてくるんです。
いよいよ開戦!ドラクロワvsアングル
さてさて前置きが長くなっちゃましたが、ここまでを描かないと対決を書けないので、しょうがないですな。へへへ。ここからは実際に「ドラクロワとアングルのバトル」を見ていきましょう。
さて新古典主義の画家として迎え入れられたアングル。彼は20代のころからフランスの画家グループでは「ダヴィッドがいない今、新古典主義はアングルが引き継ぐだろう」とみられていた。
しかし彼自身、心の奥底では「このまま古典の真似をしていていいのか」と思っていたんです。「今の保守的な画壇に革命を起こしたい」と野心を持ってたんですね。
さっきの「グランド・オベリスク」はたしかにラファエロの影響をうけてはいたものの、かなり独自の価値観がある。つまり写実ではなくアングルが「美しい」と感じるように身体を描いたものでもあったんですね。たしかにパッと見て分かる通り、身体のパーツがおかしすぎますよね。
彼は1819年、39歳でこの作品を「サロン」に出品する。心のなかでは絶対「よっしゃ!ここから新しい絵画の歴史が始まるぜ」と思っていたに違いない。しかし蓋を開けてみると評価は散々。「背骨が3つ多いだろ」とか「左手と右手の長さが違う」とか、人間解剖学的に怒られてしまうんですね。
この時のアングルは悔しかったに違いない。「いや分かってるわ!そのうえで表現してるからなこっちは!」と思っただろう。しかし世間はアングルに対して「新古典主義を極めてほしい」と思っていたので、彼の新しい表現を受け入れられなかったんです。
その後、アングルはもとの旧態依然とした表現に戻っちゃいます。そして新古典主義のリーダーとして、世間的にはエリート街道を突っ走ることになった。
さて、いっぽうのドラクロワがはじめてサロンに出てきたのは、グランド・オベリスク事件から3年後の1822年。彼はまだ24歳だった。その後、1824年のサロンではドラクロワの「キオス島の虐殺」が高評価を得て、新聞の見出しを飾るくらいもてはやされるんです。
それに対して17歳年上のアングルは良い気持ちがしていなかった。「ロマン主義」という新しいムーブメントには嫉妬していたんですね。
そこで、アングルはこれでもかとラファエロの手法を取り入れた新古典主義的作品「ルイ13世の誓願」を出品。徹底してドラクロワのロマン主義に対抗するようになる。見比べてみるとおもしろい。
ウジェーヌ・ドラクロワ「キオス島の虐殺」
ドミニク・アングル「ルイ13世の誓願」
1927年のサロンでは29歳のドラクロワが「サルダナパールの死」を発表。大胆な色彩感覚でロマン主義の代表的な画家として認知されるようになる。
一方で47歳のアングルは「ホメロス礼賛」を発表。シンメトリーで線のくっきりした表現はまさにルネサンス。
ちなみに、このころアングルはすでに新古典主義の権威として勲章をもらうまでの画家になっていたんですね。
ウジェーヌ・ドラクロワ「サルダナパールの死」
ドミニク・アングル「ホメロス礼賛」
さて、こんな感じで2人は対照的な作品を作り上げていくわけです。ドラクロワとしてはアングルに嫌悪感を抱いていなんですけど、アングルがやたら嫉妬しているわけですよ。
そしてこのアングルの悔しさが最高潮に高まったのは1931年。ドラクロワが「民衆を導く自由の女神」をサロンで発表した年だ。この絵画は政府買い込みとなって、国民たちからも大絶賛の嵐だった。ついにドラクロワのロマン主義が旧態依然としたアートの世界を変えたんですね。
そんななかアングルだけは面白くなく「あいつは絵が分かっちゃいない」と言った。本当であればアートに革命を起こすのは自分の「グランド・オベリスク」のはずだったのに。こんな急に出てきた17歳年下の若造が新しい表現を確立させたことに、ジェラってたんです。
ドラクロワはその3年後、1834年に「アルジェの女たち」をサロンに出し、これも政府が買い上げる。もはやここまでくると、美術アカデミーへの入会を許されるのが通常なんです。
アカデミーに入ることは「一流の画家として認められること」。機能的なメリットでいうと、国からの依頼が増えるほか、フランスの芸術の審査などを任されることになるんですね。
ウジェーヌ・ドラクロワ「アルジェの女たち」
しかしドラクロワは毎年のようにサロンで話題を呼ぶのに、アカデミーへの入会を許されていない。そうです。もちろんアングルが「あいつはだめだ!」と反対していたからなんです。
なんとアングルは20年間も、ドラクロワのアカデミー入会を拒否する。そしてようやくドラクロワの加入が決まったときにも「私はこんな奴を受け入れるアカデミーなんてもう嫌になった」と最後まで批判していたんですね。
そんなドラクロワがアカデミーに入れたのは1957年、61歳の時だった。そして1963年、67歳で亡くなる。しかし、もともと独自で新しいムーブメントを切り開いてきた彼にとって、アカデミーへの所属はおまけみたいなものだったのかもしれません。
権威なくとも、彼が構築した「ロマン主義」は当時のフランスの画家を大いに巻き込んでいった。彼は何も持たないところから、新しい表現を始めた。だからアングルのように「見ている側の先入観やイメージ」がなかったんですね。ある意味、身軽だったわけだ。
しかし先述したように、アングルもまた「古典に倣ってばかりで新しいことができない世の中」を変えようとしていたのは事実だ。
もしかしたら、ドラクロワが若いころの自分に似過ぎていたから、苛立ちを覚えたのかもしれません。ジェラシーって案外、そういうところから生まれるものですよね。
さて、この2人のライバル関係はフランス芸術の歴史のなかでも、最大級のインパクトを与えた。1955年のパリ万国博覧会では、新古典主義・アングルと、ロマン主義・ドラクロワとして2人だけの特別室が作られ、過去の作品が一同に展示される。
万博という国の威信をかけるイベントで特別扱いを受けるほど、この2人の残した功績はすごかったんですね。すぐ隣に価値観が180度違う別の正義があったからこそ、アートに大きな衝撃を与えられたのかもしれません。
2人のアート革命はのちのピカソにも影響
ドラクロワが立ち上げたロマン主義は、この後たくさんの画家に影響を与えた。のちに「黒禁止!とにかく色彩で勝負しような」という思想を持つ印象派にも影響をする。またピカソは「アルジェの女たち」の色彩表現を真似して描いている。
パブロ・ピカソ「アルジェの女たち」
また嬉しいのは、ピカソはアングルの「グランド・オダリスク」の革新的な表現にも気づいていて、模写をしていることだ。当時はほとんど誰にも知られなかったアングルの革命家としての一面に気付いていたんです。なんか「よかったねアングル」と嬉しくなるとともに、ピカソの観察眼、感性の鋭さにははーっと感服してしまう。
パブロ・ピカソ「グランド・オダリスク」
先ほど書いたように、アングルは「自分が美しいと思う人体を描くためなら常識にとらわれなくていい」と背中を伸ばしたり、左右の腕の長さを変えたりした。
ピカソはこの考えをもとに「人体の各パーツがいちばん魅力的に見える角度から描いたらどうなるんやろ」と「アビニヨンの娘たち」で「キュビスム」を発表するんですね。
パブロ・ピカソ「アビニヨンの娘たち」
ピカソは生涯でコロコロ作風を変えた画家だが、特に「キュビスムの発明」は最大の功績の1つだ。彼がいなければダダイズムやシュルレアリスムなど、現代アートはまた別の方向に進んだだろう。
そう考えると、やはりアングルとドラクロワの革命的な表現は、まったく異なるアプローチだったが、両者とも重要なんです。
そんな「グランド・オベリスク」と「民衆を導く自由の女神」は、2つともルーブル美術館に貯蔵されている。そしてモナリザと共に「ルーブル三大美女」とされているんですね。
「美女」というと「何をもって定義してんねん」とつっこみたくなるかも。美女の定義はもちろん千差万別ですよ。人によってタイプは違うので。それ以上に「美しさを自由に捉えた」ことが、2作品の果たした功績のように思えるんです。
決して表層的な「美」ではなく、もっと奥深い意味で、美しい女性を感じられるのがおもしろい。アングルとドラクロワのやりたかったことを知ってから見ると、その真の美しさが見えてくるはずだ。
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