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つげ義春をまとめ|ねじ式などの作品紹介・波乱に満ちた人生など

以前、好きな漫画ベスト5を書いた。

このときにパッと出てきたのが、つげ義春の「ねじ式」。パッと出てくる理由は「ねじ式」を読んだときの衝撃を今でも覚えているからだ。「メメクラゲ」に腕を噛まれて治療したいけど目医者しかなく、最終的に産婦人科医に嘘みたいな治療をされる、みたいな話だった。おもろすぎる。

完全にツボなのである。珍しいかもしれないが、個人的にこの話は涙出るくらい笑える。どんな思考をしてたら、このわっけわかんない話を描けるのだろうと、あれこれ想像した。つげ義春ってどんな人なんだろう、と。

そこで今回はねじ式の作者・つげ義春について、生涯を振り返りながら代表作をいくつか紹介してみる。

つげ義春の生涯について ~波乱の小学生時代~

つげ義春は1937年に東京都葛飾区で生まれる。父親は皇族御用達の旅館の料理長だった。彼は4歳までを伊豆大島の自然のなかで過ごす。この時期はつげ義春にとって、唯一と言っていいほど、めちゃ平和な時期で幸せに溢れていた。

5歳で弟の忠男が生まれる。彼も後年、つげ忠男としてガロなどで連載をする有名漫画家となった。この年に家族は千葉に移住。父親は単身赴任で東京の旅館で働くが、アジソン病を発症。指定難病の1つで副腎皮質に異常をきたすことで鬱症状やショックによる死もあり得る病気だった。

結局のところ、父は5歳の時に亡くなる。その後つげ義春は裕福な生活を失い、貧しい母子家庭のもとで暮らすことになった。当時の彼は非常に内向的で、人見知り全開だったため、保育園にも馴染めず、即座に退園。家で兄弟と過ごすことが多かったそうだ。

1944年に小学校に入学するも、当時は第二次世界大戦のまっただなか。空襲が来るたびに休校になっていたが、もともと学校嫌いだったつげ義春は毎日空襲だったらいいのにと思っていた。無邪気だ。このころ、義春は漫画を描いて遊び始めたころで、学童疎開などを経た小学3年生ごろから手塚治虫に夢中になったという。

しかし家が貧乏で買ってもらえない。だから万引きをしようと本屋の周りをうろつくほどマンガ好きだった。一方、母親が再婚し、義父のDVを受けていたという悲しい家庭事情のなかにいた。

ここからは、非常に書くのがつらいほどの暗澹たる小学生生活だ。赤面恐怖症で人見知りだったため、友だちができず、家では義父の暴力を受け、さらに貧乏がゆえにつげ義春自身も闇市でおもちゃやアイスキャンディーを売っていた。小学六年生のころの運動会では、かけっこで人の注目を集めるのが怖くて、カミソリで足の裏を切ったほど、人との交流が怖かったのである。

当時、つげ義春が好きだったマンガは手塚のほか、横井福次郎の「プッチャーシリーズ」や、田中正雄など。冒険ものが好きだったそうだ。居場所がない生活のなかで、鬱屈した自分を解放していたのかもしれない。

小学校を卒業したつげ義春はメッキ工場で働き始める。非常に残念な職場で徹夜は当たり前、また化学薬品を使いすぎて、癌などで悲惨な死に方をする人も多かったらしい。嘘みたいなブラック企業に13歳から勤め出したのだ。

つげ義春の生涯について ~人に会わずに済む仕事=漫画家という選択~

14歳になったつげ義春は幼い頃育った伊豆大島の経験から海への憧れを強くし、船乗りを夢みる。まさかの密航を企てて横浜にいくほどの熱があったが、船員に見つかって補導され、家に帰るのが気まずくて、唯一の友だちがバイトをしていた蕎麦屋で働きはじめた。

その後、16歳になった義春は蕎麦屋を辞めて帰宅。また工場に戻り、兄と工場を立ち上げることを思い立つが、人と接するのが苦手すぎてとうとう実現しなかった。そして誰とも会わずに1人で空想をしながら生きていける職業は何か、と考えたときに「漫画家」を思いつくのである。

つげ義春は密航の件もそうだが、好きなものに対しての行動力が素晴らしく、すぐにトキワ荘の手塚治虫を訪ねた。そして原稿料の額、仕事の取り方などの漫画家事情を聞き出すと、メッキ工場に勤めながら漫画を描き、「犯人は誰だ!!」「きそうてんがい」で17歳にデビューを飾る。

この作品をポートフォリオにさまざまな出版社をまわり、10社目の岩木書房で見事採用。正式なデビュー作である「白面夜叉」を描いた。

この作品で漫画家として認められたつげ義春は貸本漫画家となり、後年ガロで同時連載を持つことになる永島慎二らと親交を深める。このころはトキワ荘大活躍の時代だった。

トキワ荘メンバーでは赤塚不二夫のみと仲良しで、よくお互いの家に泊まりに行っていたらしい。1956年、18歳の頃は探偵ものをよく描いており、「生きていた幽霊」や「罪と罰」「四つの犯罪」「七つの墓場」「うぐいすの鳴く夜」「おばけ煙突」「ある一夜」など次々に作品を出す。

しかしつげ義春の漫画は暗く、当時の主な読者層である少年たちからは不人気で出版社からも「もっと明るいの描いてくれ」と注文が来ていた。その結果19歳のころにはもうつげ義春はマンガを描けなくなってしまった。

他の漫画家のアシスタントをしつつ、コーヒーやクラシックをよく聴いていた時期で、少しでも明るい作風になろうと、風俗店(当時の赤線)に行ってみたが、本気で相手を好きになってしまい、失恋を経験する。カウンターパンチを食らったわけだ。またちらほら作品を描き出すが、女を覚えたつげ義春は20歳になっても漫画をサボり、お金がなくなり、血液銀行で売血したこともあった。

21歳から22歳まではまた漫画を描き始めるが、締め切りに遅れそうになったので編集者から「補償金よこせ」と脅され、そのショックから雑誌への連載をすべて辞めてしまう。

つげ義春の生涯について ~ガロデビュー!そしてねじ式ブーム到来~

23歳で恋人と同棲。つげ義春の代表作の1つ「チーコ」はこの頃の経験がもとになった。

しかし貸本漫画だけでは食えず、しかも翌年に懇意にしていた出版社が倒産。アパートの家賃を2年も滞納し、便所を改造した1畳の部屋に住んでいた。そんな極貧生活のなか、ついにつげ義春は自殺未遂までをしてしまう。

しかし周りの貸本漫画家の支えもあり、27歳の頃にはまた漫画に向き合うようになる。そして28歳でつげ義春にとって最大の出会いがあった。

白土三平、水木しげるといった当時の貸本漫画界の王様と出会うわけである。この2人はすでに「ガロ」を創刊していた。

白土はもともと、つげ義春の漫画のファンであり「ガロで描いてくれ」とスカウトしたわけだ。つげは28歳からガロで描き始めた。当時の看板は白土三平の「カムイ伝」だったが、つげ義春の暗いテイストの漫画は一部のファンからカルト的な人気を得た。

今まで書いていた雑誌と違って、ガロの読者層は青年だった。なので、つげ義春のテイストも受け入れられたのだろう。このころは「李さん一家」や「紅い花」など、つげの代表作となる名マンガを次々と発表する。

日本初、夢を題材にした「ねじ式」というマンガ

そして1968年、29歳にして大傑作の「ねじ式」を発表する。つげ義春自身は「ラーメン屋の屋根で見た夢」という通り、この作品はまさに夢みたいな世界の話で、それまでのつげ義春のテイストとはまったく違った。こちらの解説は以下の記事で。

偶然にもシュルレアリスト(例えばダリ)と同じ手法で書かれたマンガだったのである。夢を基本にして描かれたマンガはこれが初めてだった。

このころは全共闘時代。学生運動の真っ最中のなかで青年はガロを読んで「マンガというある種、俗っぽい大衆メディアが、はじめてアートの領域に入ってきた」と騒ぎ立て、ねじ式はインテリサブカル界でめちゃめちゃ批評される。メディア学はもちろん、美術学、心理学など、あらゆる分野で「ねじ式」は話題を呼んだ。

当時は自分の存在意識を見失い、絶賛メンヘラモード全開だったつげ義春は、このヒットで元気を取り戻した。しかし安心して1970年、33歳からマンガをサボる。このころは唐十郎の状況劇場で主役級の女優だった藤原マキと交際していたが、あまりに描かないのでお金もなくなり、藤原はバイトをしたほどだった。

そんなギリギリで生きているなか、1975年、38歳にして子どもが生まれ、同時に結婚。しかし子どもの誕生はつげ義春にプレッシャーをかけてしまい、彼はより精神が不安定になっていく。

また30代の頃は「ねじ式」のせいでもはや一般誌では描けず、発表の場が限られてしまった。彼はノイローゼになり、治療法として夢日記をはじめる。そこで次々に夢を"原作"にしたマンガを描いた。「アルバイト」「コマツ岬の生活」「必殺するめ固め」「ヨシボーの犯罪」「外のふくらみ」「雨の中の慾情」など、このときの作品によってシュルレアリスム漫画家の烙印が完全に押された。

そんな弱っている1977年、40歳にして妻の藤原マキが癌になる(手術は成功)。ノイローゼが進行して、つげ義春はいよいよ自殺を決意するものの、妻子を思って踏みとどまった。

つげ義春の生涯について ~漫画家を辞めて完全に表舞台から消える~

その後、つげ義春は43歳から完全にマンガをやめて古本や中古のカメラなどを売って生計を立てた。また同時にエッセイを描くようになる。

50歳を迎えると体に不調が現れ始める。このときのつげ義春一家は家賃2万円の団地で暮らしていた。あれだけ話題を呼んだのに、まだ極貧生活をしていたのだ。

一方、1990年代はつげ義春作品が次々に実写化されるようになり、多少の収入も入ってくる。ただつげ義春自身はまったく表舞台に立たなかった。

1999年に悲劇に襲われる。母と妻をほぼ同時に亡くしたのだ。つげ義春はショックのあまり、幻覚を見るようになり、いよいよ表舞台に上がらなくなってしまう。2000年に入って、さらにつげ義春の評価は高まり、実写化も続いた。

また海外での翻訳もされるようになる。最初は「面倒だ」と断っていたつげは「断るのも面倒だ」と許可をし、いよいよ世界のつげ義春となった。

それから10年、現在でもほぼ毎年「つげ義春特集」が何らかのメディアで組まれるが、本人は全く顔を出さない。2017年には日本漫画協会大賞を受賞するが、本人は授賞式当日にいなくなった。感想としては「もうこのまま死にたい」「どうでもいい」という、どうしようもないものだった。

また2020年には漫画界のカンヌといわれる「アングレーム国際漫画祭」で特別栄誉賞を受賞。この授賞式には出ている。めっちゃ笑顔だった。ほっとひと安心したのは私だけではないだろう。

つげ義春は(2021年2月)現在83歳でまだご存命である。こうして彼の人生を振り返ると、まったく生きてるのが不思議なくらい波乱万丈だ。

つげ義春という王様の「弱者ゆえの優しさ」

芸術家は元来、内向的でお豆腐メンタルの持ち主だが、つげ義春は83年間ず〜っとメンヘラだ。ここまで長い間、あらゆるコンプレックスに苛まれ、メンタルに異常をきたしている人を見たことがない。今のサブカル界隈に蔓延る「ファッションメンヘラキャラ」とはわけが違う。

ただメンヘラというのは往々にして優しいものだ。つげ義春が結婚するときのエピソードで好きなものがある。

彼が結婚を発表した際に「周りの漫画家が一斉に嫉妬した」という話だ。「こんなに優しい人は他にいない」と口々に漏らし、祝福したという。彼は誰からも愛される人だった。

つげ義春が小学生のころから、赤面恐怖症を患っていたのは「自分を弱者に感じていたから」だろう。そしてそれは後年まで続く。つげ義春はこんなにもブームになったのに貧乏であり続けた。少し稼いだらすぐ怠けてしまうのも、常に弱者であるための装置だったのだろう。

また後期に入って自分のマンガが主役になった際に「俺アングラなのになぁ~」と戸惑ったらしい。ここには赤面恐怖症だったつげ義春の少年時代が色濃く反映されている。彼はとにかく注目を浴びることを恐れているのだ。

つげ義春ほどの優れた漫画家であれば、少しばかり傲慢になっても仕方ないと思える。しかし彼は現在まで弱者である。それがつげ義春のやさしさの根本である。メンヘラはめんどくさいが、元来は真面目で優しい。これはいつの世界も変わらない。

つげ義春の「夢を元にしたマンガ」をぜひご一読あれ

さて今回はサブカルマンガ家の王様・つげ義春について紹介した。ここまで書いた通り、彼は「ねじ式」で知られるものの、作風はかなりころころ変わっている。超普遍的な日常を描いた話もあれば、日本古来のの伝承を描いたものもある。探偵ものや歴史ものも描いた。

ただしここはぜひ「自身の夢を原作にした作品」から入っていただきたい。「ねじ式」はその代表格だが、その他の作品も素晴らしい。

読んでいて頭がぽわぽわしはじめ、上下左右の概念が分からなくなって、最終的に思考が完全に停止し、焦点の合わない目でページをめくるに違いない。だから覚悟が必要だ。おすすめはしたいが、くれぐれも気をつけてほしい

例えばメッキ工場時代の自分をモチーフにした「アルバイト」。テレビの中に入って妙に細長いカニを取る話「コマツ岬の生活」。レスラーがいきなり来て男にサブミッションをかける間にその夫人が強姦される「必殺するめ固め」。雑誌に載った美女を食べるヨシボーを描いた「ヨシボーの犯罪」。一つ目小僧から逃げるうちに細い通路に身体が挟まった男を描く「外のふくらみ」。

「何書いてんだこいつ」と思わないでほしい。マジのあらすじなのだから。つげ義春の夢ものはぶっ飛びすぎて笑えるのである。

これら「夢もの」は実際に見た夢をそのまま原稿に落とし込んだ作品だ。この手法はサルバドール・ダリと同じである。彼もまた夢の光景をキャンバスに描いていた。そしてダリも、幼いころからコンプレックスにまみれた人間である。

夢の作品の面白さは「無意識」という何の脚色も嘘もない人間の本性を、そのまま見られるという面にある。

ぜひあなたもつげ義春の人間性に溺れてみてほしい。鬱屈していて暗いが、とにかく理屈では説明がつかない展開は、令和の今読んでもとにかく新しさに満ちている。あっと驚くに違いない。

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