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小説とエッセイ、より真実に近づくのはどっちだ?

今回の芥川賞作家、
市川沙央さんの小説
『ハンチバック』を読んで、
私はつくづく思った。
フィクショナルな部分を
削ぎ落とした、
心からの叫びを
日記やエッセイ等のジャンルで
市川さんの生の声を聴きたいと。

これは、小説がうまくいってない
と言うのではありません。
私のエッセイ好き精神が
そういってるんです。

思うば、創作家の9割は、
エッセイやシナリオより、
最終的には、小説家をめざしますね。

向田邦子さんも、
エッセイやテレビシナリオから 
最終的には小説に向かった。
橋本治さんも、やはり、
あれだけ時事コラムや古典翻訳と
取り組みながら、
実は小説家になるのが悲願だったと
担当さんから直に聞いて
ビックリ、拍子ぬけしました。
ブレイディみかこさんも、
やっぱり小説分野に来られたしね。
近年に惜しまれて他界した
漫画原作者・狩憮麻礼氏も
本音では、小説家になりたかったと
ひとづてに聞いたことがあります。

物書きはいつか
小説家になるのを夢見るのは、
もはや、定めなのでしょうか。

ところで、
私はエッセイが好きです。
というか、
今から読む作品のために、
チューニングする必要がないから。
エッセイや日記は、私と地続きだから。
でも、小説となると、
私の生活と地続きではないから
その作品に入るため、
高さや角度を見当つけて
チューニングする必要があります。
エッセイのように
簡単にはその書き手の懐には
入っていけません。

いや、簡単だよ、
チューニングなんて、
という方は、
生粋の小説好きなんでしょうね。
誰かが創った世界に入るには、
どうも異邦人な気分になるんです(汗)。

書き手がどんなスタンスで
どんな狙いで、どんなタイプか
ある程度わからないと
小説の世界に入っていけない。
よほど間口が広くて、
敷居が広くて、
中はご機嫌な音楽でも
かかっていてくれたのなら
入りやすいのですが。

ところで、神話って、
あれはフィクショナルな
語り口による自国承認欲求の物語ですね。

神話が読まれていた頃は、
人間はどの国も、どの地域も、
戦争につぐ戦争だったでしょう。
争いにつぐ争いだったでしょう。
だからこそ、
あまりに生々しい記録を
洗い流すためにも、
ユーモラスなフィクションで、
国や人間の始まりを説く必要が
あったんでしょうね。

話は冒頭に戻って、
芥川賞作家、市川沙央さんの
日記やエッセイを
それも忌憚なき叫び声を
そのまま、フィクションではなく、
聴きたいと思う私は、
マイノリティなのだろうなあ?
多数派は、やはり小説を
読みたいのでしょうね?

小説にすることで、
さらに普遍的な真実を獲得でき、
さらにたくさんの痛みや欲望を
伝え切ることができるという
言い分も十分にわかった上で。

フィクションによる言葉と、
エッセイや日記による言葉。
どちらが、より刺激的で、
より真実に近づけるのかは、
永遠の課題かもしれませんね。

追伸
ちょうどこの記事を書いて、
ネット記事を見ていたら、
市川沙央さんの、受賞エッセイが
載っていて、ビックリ。
それがまた、小説の時とうってかわって
ギクシャクしていて、
エッセイはどうも苦手らしい。
とりわけ、エッセイ的な「落ち」を
見つけられなくて苦労するんだと
書いてありました。
小説が自在に書けても、
エッセイが自在に書けるとは
限らないらしい。
エッセイと小説を安易に比較しても
ダメなのですね。反省。

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