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【戦後作家の肖像③】遠藤周作は好奇心の怪物だった?!

戦後作家の肖像、
今日は第3回は遠藤周作の
話をしたいと思います。

遠藤周作は戦後作家?
ちょっと違和感を感じますが、
第三の新人と言われたグループの
一人ではありました。

生きていたのは、
1923年から1996年です。

敗戦を迎えた時には22才ですね。
大正12時代に生まれ、
平成3年、73才で亡くなりました。

73才とは、意外と若くして
亡くなったのですね。

1945年には、
22才だったから、
健康な体だったなら、
軍隊に入隊していたでしょう。
ただ、遠藤は肋膜炎で
胸を病んでいて、
なかなか出兵できなかった。
結果的には、1945年、
入隊直前のなか、敗戦を迎えた。
これは幸運だったのか?

戦後は、1946年以降、
執筆活動を始めたのですから、
やはり、遠藤はまぎれもなく
戦後作家ですね。

なお、遠藤周作は、このあとも
一生、重い病気の連続に苦しみ、
それが遠藤文学には欠かせない
土台になっていたのは確かです。

さて、本題に。
遠藤周作といえば、
キリスト教をテーマにした作家、
代表作は『沈黙』というのが
一般的でしょう。

でも、遺作となった『深い河』は
仏教的な死生観がテーマです。
インドのガンジス川に行く人々は
みな死について迷い、答えを探し
旅をする、そんな話でした。

ただ、純文学的な作品とは別に
明るい青春小説やミステリー、
それから時代小説など、
様々な作品を書いている、
しかもどれも一級レベルなんです。
『彼の生き方』『砂の城』や
『真昼の悪魔』など。
遠藤ワールドの懐の広さは、
他作家には真似ができない特徴でした。

それから、
狐狸庵というペンネームで、
明るい人生論を書いている。
多様な好奇心をそのまま実践した
ユーモラスな作家でした。

さて、キリスト教的な
神や愛や罪の問題は、
遠藤周作をどれくらい
翻弄していたのでしょう?

もともと少年時代に、
母親にぜひにと請われて
洗礼を受けた遠藤少年。

真面目に自分から洗礼を受けた
わけではなかった。
だからこそ、
キリスト教とは何か、
自分の力で考えぬいたのでしょう。

ですが、大学時代に文学活動に
本格的に打ち込みだした遠藤は、
フランス文学を中心とした
カトリック文学に進むようになる。
また、1943年前後、
「風立ちぬ」の作家堀辰雄と
知り合えたことが
遠藤周作の将来を決定しました。

それから、1956年に
『白い人・黄色い人』で
芥川賞を得るまで、
遠藤周作の下積み時代は
案外、長いんですね。

この「白い人」「黄色い人」は、
戦後すぐにフランスに留学した
体験が大きな土台になっています。

白い人は西洋人を指し、
黄色い人は日本人を指すのですが、
これは、日本人とは何か?を
追求していた研究の成果ですね。

このテーマは、
キリスト教と並ぶ、
遠藤周作の大きな問いかけでした。
これが無ければ、
遠藤周作の文学は、
懐の狭い世界観になったでしょう。

私たち現代人だって、
たまには、日本人って何だろう?
って考えたりしますが、
戦後作家あたりになると、
もう毎日、何度も何度も考えるんですね。
それはやはり、
太平洋戦争で負けたから?
アジアを踏みつけたからでしょう。 

肋膜炎などの病気、
10代のカトリック洗礼、
戦後すぐのフランス留学、 
こうした体験が、
遠藤周作の世界を形作ったのは
まちがいありません。

遠藤周作といえば
隠れキリシタンの悲劇『沈黙』か、
死について惑う人々のインドへの旅
『深い河』も有名ですが、
私は『イエスの生涯』と
『キリストの誕生』が好きです。
こんなに目から鱗がおちまくる読書は
したことがありませんでした。

イエスは何をしようとしたのか??
キリストは死後、弟子たちにより
どんな風に復活していくのか?
この2冊は、文学というより、
イエスの歴史学、社会学です。

聖書には、あり得ない奇跡が
たくさん出てきますが、
本当のところはなんだったのか?
聖書をリアルにあぶり出した2冊。

他にも、
遠藤周作はホスピス普及活動を
呼びかけていた人だから、
死にまつわるエッセイも
忘れがたいですね。
遠藤周作『死について考える』は
色んなことを考えさせられた。

また吃音で人見知りな少年が
ゴリラ学に生きる道を見つけた
『彼の生き方』もユニークな名作。
たしか、これはモデルにした実話が
あったような。
遠藤周作の好奇心は、
限界がなかったんですね。

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