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【文豪対決?】夏目漱石VS村上春樹!類似項は、孤独とセックス?

前回、思い付きで
文豪対決『太宰治VS芥川龍之介』
なる趣旨不明(笑)な記事を
書かせて頂きました。

今回は、夏目漱石と誰かで
やろうと思って、相手作家を
アレコレ考えてました。

普通というか従来なら
森鴎外とか、島崎藤村?
志賀直哉?谷崎潤一郎?
あたりが漱石の相手イメージ
なんでしょうか、
私にはどうもしっくりきません。

というか、
夏目漱石は、
よく二流評論家あたりからは、
漱石は結局、死後にお弟子さん達が
伝説の文豪にしただけで、
生前は文壇のかたすみ的な存在だったし、
取り組んだテーマもなんだか
三角関係がやたら多くて通俗だし、
後世に『則天去私』とか
言われてるのも
漱石か生前にきちんと書いた経緯は
ないと言われてるんですよ、と
ドヤ顔の評論家はいう。

私は意味がわからない。

ええやん、それで!?
それでもこんなに日本一
有名な作家であり
『こころ』は日本一読まれてる
作品なんだから、と
夏目漱石の肩をもちたくなる。

夏目漱石は、たくさんの
弟子も持っていたけれど、
しかし、孤独にさいなまれた
非業の小説家だったことも、
間違いないと思うんです。

漱石は孤独。
漱石のしたことも孤独、
というか、孤立、いや孤高。

だから、ライバル作家を
見つけるのが難しかったんですね。

軍医であった森鴎外は
世俗に生きる場所があった。
島崎藤村も
志賀直哉も文壇や文学の世界に生きた。

でも、夏目漱石は、
文学の中にいながらも、
文学の世界でも孤独であった。
実人生の中にも何かを探し続けた。
ここが夏目漱石が一番私たちに
共感をくれる理由でしょうね。
彼は実人生の曖昧模糊とした世界にも
頼りがいのある答えを求め、
鴎外のように古典主義に満足しなかった。

そりゃあ、古典主義にハマり   
ひたすら道を極めるのだって    
大変だし、凄いことでしょう。
でも、そういう凄い人は
まあ、世の中にはいますね。

でも、夏目漱石みたいに
文学を極めようとしながら、
そのゴールと、世俗の幸せを
どこかで結びつけようとするのって
案外いないですよね??

あ、あれ? 
そういえば、村上春樹も、
この生き方と似てるなあ。

最初は孤独な創作作業に
打ち込みつつ、
文壇の中には入るまいとした。
作家になればなるほど、
孤独な世界に突き進む人でした。

孤独を癒すために
筆をとって小説を書いたのに、
書けば書くほど、孤独になった。

誤解もたくさん受けたのも、
不器用な漱石と春樹の
共通項でしょうね。

しかも、憮然として
あまり釈明したり、
誤解を訂正しようとしないのも
漱石と春樹の同じところだ。

私の独断では、
二人の共通項は、
まず、父性の弱さ。父性の欠如。
異様なほど、女性世界での
満ち足りた充足と、
そこからの自立がテーマに。

漱石作品では、まぶしいくらい
勝ち気でいたずらな女性が
マドンナとして登場し、 
男性はただ彼女らを追いかけ、
振り回されていく構造が多い。

これは『三四郎』から
遺作『明暗』まで続く傾向で、
漱石には性、性愛、セックスが
大きな障害物だったように
思えてならないんです。

村上春樹は、逆に、
初期三部作や『ノルウェイの森』で
やたらと身近な女性と
セックスする男性を書いていく。
これも、春樹にとって
父性を欠いた世界にいて、
自己実現を目指すための手段として
セックスを求めていくよう…。

孤独やセックスについては
真逆になりましたが、
西洋と日本についての関係にも、
漱石も春樹も
オリジナルに取り組んでいったのは、
二人の共通項?類似項?
なのかもしれませんね。

本当はもっと比較文学論として、
頭からしっかり
初期から晩年まで
書いて行ってみたいですが、
こういう無手勝流で
とりとめもなく書いてくのが楽しく、
いや、整理するのを怠けてるだけ?(笑)
かもしれないですが、
今日のところはひとまずこれで。

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