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【文豪】芥川龍之介は一体どこがそんなに凄いのだろう?

芥川龍之介は
どこがそんなに面白いでしょう?

きのう、コメント欄で
マクおさんという方から
貴重なご意見を頂きました。
それで、私もまたしみじみ
考え込んでしまいました。

確かに、、、、、(汗)。

究極的には、
個人の好みやセンスによる、
としか言えませんが、
芥川龍之介は、私も、
実は凄いんだな、
と思えるようになったのは、
40歳くらいになったばかりでした。

たしかに、晩年の、
自分自身を投影した
私小説群は、ぼんやりした、
歯切れのない作品が多い。

それでも、
初期の「鼻」「芋粥」や
中期の「杜子春」「蜘蛛の糸」
「或日の大石内蔵助」などは
人間くさい哀歓と
クールなアイロニーが溢れています。

どれも、
何かしらの題材をもとにして
書いた小説ですが、
芥川龍之介は、
そうした取り組み方で書いた
作品のほうが光っているようです。

ちなみに、
これは坂口安吾のエッセイ
「文学のふるさと」に出てくる
エピソードですが、
芥川は、晩年、ある農民作家の
訪問を迎えいれています。

農民作家といっても、
世に出した作品もなく、
ただただ、水呑み百姓の
極貧な体験を小説ふうに書く
といった人なのでしたが、
芥川を訪れたその農民は、
ある自作を読んでくれと言う。
そこに描かれていたのは、
産んだ子供を養えない貧しさゆえ
赤ちゃんを夫婦で殺す。
今でいえば、間引き、ですね。

呆然として、返す言葉もなく、
原稿を農民に返す芥川。
これは、創作か?と尋ねると、
農民は、これは私の体験だと言う。
芥川はそれで更に言葉を失う。

芥川自身や周りでは
到底、起こり得ない地獄を見、
言葉を失ったのでしょう。
つねに反論の言葉を次々と
繰り出すのが当たり前な鬼才が
言葉を失ったというところに、
坂口安吾は意義の深さを
読みとっています。

この時期は、
初期や中期も過ぎ、
芥川はこの先、
どんな創作スタイルにして行くか
過渡期にあった時期でした。

マルクス主義文学が流行る一方、
また、私小説も人気を集め、
社会は、才気と漱石の門弟で
エリート街道を駆け抜けてきた、
ぼんぼんな芥川には
冷ややかな時代でもありました。

たぶん、芥川は
先ほどの農民作家のような
人間生活が世の中を覆っている、
という認識から
新たに創作を始めていたら、
もう少しちがった晩年生活に
なったに違いありません。

が、現実的には、
実母のような発狂の不安に覆われ、
苦しい自分自身の内面を
投影した創作に傾いていきました。

惜しい。実に惜しい。

とはいえ、私は
「芋粥」ひとつでも
文学好きとしてはもう充分です。

ぐうぜんながら、 
30代後半、仕事で「鼻」と「芋粥」を
漫画化する機会がありました。

その時に、芥川の
実に細やかな機微を描き切る
見事さを改めて痛感させられました。
編集の私も、
漫画家さんも、
芥川が書き込んだ短編の
見事さを、それまでは
知らなかったからです。
芥川をナメていました(汗)。

その苦労以来、
芥川龍之介の機微の細やかさに
うっとりするようになりました。

とはいえ、私は芥川は
あくまで初期、中期のものを
愛読するもので、
晩年の作品は、凄いかどうか
今はまだ、判断保留、
ペンディングです。

純文学の凄さなんて、
わかろうが、
つまらなく感じようと、
どちらでも、
人生はそれでも続くもので、
決して大問題ではありません。

ただ、もしも、
価値がよくわからない作品に出会い、
なんじゃこりゃあと感じた時は、
良かったら、
わら半紙に、簡単に、
漫画みたいにコマワリしてみると
いいかもしれません。

ただ読むだけでは気付かない、
読者も参加型のこの創作をすれば、
作者が込めたものが、
より一層、何倍も何百倍も
明らかになるからです。

読むという行為は案外、
表層をあっさり
通過してるだけなんだなあ。

コミカライズ、漫画化は
実により一層深くインプットを
させてくれます。

別に絵なんか書かなくて良いんです。
ただただコマワリするだけで。
まあ気が向いたら、ですが。
意外とハマるかもしれません。
コマワリしてみる楽しさに(笑)。

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