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近代私小説は、まだ滅びてはいない?

今日は、年に1回は読みたくなる、
近代私小説の魔力について。

明治の田山花袋『蒲団』から始まり、
戦前から戦中、それから
敗戦時代まで、
日本文学のメインストリームは、
2つあり、ひとつは自然主義。
もうひとつは、
暗く閉鎖的で、物語性が余りない
私小説でした。

近年では、
西村賢太が、
最後の砦と自認して
ひたすら私小説を書いていた。

自分のみじめなどん底の境遇を
事実ながら、自虐的に描き、
くすぶる読者や悩む読者に
奇妙な「救い」として刺激する。

まるで悪魔のささやきのようだ。

だめな不運な、だが
一厘の魅力がある人間に、
読者はなぜだか惹かれていく。

でも、前向きな趣味ではない。
私小説を読みふけり、
自分が社会で冴えない、
破綻した存在 である根拠に
酔いしれるのは、余りに怖い。

娯楽として、私小説にハマるには、
強靭な心とユーモアが必須(笑)。

いやあ、日本近代文学の
本流になってしまった、
暗くて物語性がない私小説は
現代ではどんどん絶滅しつつある。

今は、読もうとしても、
講談社文芸文庫など往年の名作を
抱えるレーベルに一部があるばかり。

でも、もう今の自分をむちゃくちゃに
破壊してしまいたい時、
前向きさの欠片もない
暗い自棄になった主人公の吐露を
なぜか、たまには読みたくなる。

どん底にもがく人の自意識の
うらみ節を読むと、
かえって自分の健全さを知らされ、
また、自分はとうてい、
波瀾万丈な私小説作家には 
絶対なれない、ならない事を
確認させてくれるからだ。

しかし、あくまで年に数回だ(笑)。

葛西善蔵
上林暁
川崎長太郎
嘉村礒多
安岡章太郎
小山清
車谷長吉
西村賢太。

これは、今も本屋さんで手に入る
私小説作家たち。
本当はもっとたくさんいる。
ユーモア抜群な戦後作家は
もっといる。

しかし、みな事実を事実として、
狭い人間関係や世界観として
描かれる私小説。

もっと分厚い物語性や
伽藍のような広がりを持ち、
世界の意外性を教えてくれる、
物語がやっぱり読みたいなあ。

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