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やっぱり詰めこんじゃう長野バスツアー記⑤善光寺大本願

 去年の七夕はひとりで神田明神の平将門展に行ってたじゅんぷうです、こんにちは。
 おひとりさまで参加した長野バスツアー記、前回noteからの続きです。

善光寺詣り後半〜ずっと刀自古がスキなんだ

善光寺の宿坊の方に案内されて
回向柱に触れ
御印文頂戴を受け
それぞれの祈願の法要をしていただいて
ご本尊、阿弥陀如来さまとご縁を結んだ
バスツアー一行。

ここからしばらく
自由参拝&昼食タイムなので
わたしは善光寺大本願へ参ります。

前日、戸隠の火之御子社きっかけで
お話しするようになった
ヒノさん(仮名)は
御朱印の手配をしていただくというので
のちほど大本願で合流することに。

ひとりでぶらぶら歩き始めます。
平日というのにみるみる人出が増え
山門を振り返るともうこんな…!!

浅草寺の仲見世と違うのは食べ物屋さんが多い

さて、わたしが善光寺に行きたかった、
中でも大本願に行きたかった理由ですが…

この方とご縁があることを知ってしまったから

山岸凉子『日出処の天子』より。崇峻天皇との縁談を拒否る蘇我馬子の娘、刀自古

昨年、聖徳太子の1400年御遠忌で
特別展を鑑賞した際に
聖徳太子の妃・蘇我刀自古郎女
(そがのとじこのいらつめ)

善光寺大本願を開山したという史実を
初めて知ったのです…!

え、え、ええー?
聖徳太子が刀自古より先に
亡くなっているのは知っていたけど
たしかに、刀自古のその後は…
あの大化の改新にいたる
なんやかんやよりも前? 後?
飛鳥からこの地にひとりで?

長年の『日出処の天子』ファン、
刀自古ファン代表として
必ずや訪れたい!!
これがわたしの
「遠くとも 一度は参れ 善光寺」
だったのです。

それで、善光寺の縁起も
よくよく調べてみると

✤一光三尊阿弥陀如来像が百済から欽明天皇に贈られる

✤蘇我氏(崇仏)VS物部氏(廃仏)の
なんやかんやで
物部氏によって阿弥陀如来さま難波の堀江に
捨てられる

✤物部守屋を倒した聖徳太子は
沈んでいる阿弥陀如来さまに
自分に祀らせてほしいと祈願するが
「ほかに待つ人がいる」とつれないお返事

✤しばらくのち、信濃国司のお供で上洛した
本田善光が難波の堀江を通りかかると
「お前を待っていた」と阿弥陀如来さまが現れ、
拾い上げて信濃に持ち帰りお堂を建て安置
(浅草の観音さまの縁起とも少し似ている)

✤皇極天皇が寺院として建立を発願
善光の名をとり善光寺とする

といったわけで、
まさかの聖徳太子とつながっていたんですね!

聖徳太子が阿弥陀如来と交わしたという
文を収めた箱「善光寺如来御書箱」は
法隆寺の寺宝として、昨年の特別展で
公開されていました。

また父・用明天皇の供養として
南無阿弥陀仏を7万回も唱えたとか、
太子信仰のお寺があったりとか
太子と阿弥陀如来、信濃とのつながりが
なんかもういろいろ出てくるんです。

信濃は戸隠といい諏訪といい
古代から何やら王権といわくがあって
重視されていた地だとは思いますが
蘇我大臣の娘に生まれ
蘇我と近い関係の王子(聖徳太子)に嫁ぎ
上宮王家と称される山背大兄王を息子に持つ
刀自古のような女人が
赴かなければいけない場所なの?

無宗派の善光寺を
浄土宗の大本山・大本願と
天台宗の大本山・大勧進が運営していると
前回も書きました。
大本願の公式サイトのトップにはこうあります。

善光寺大本願は、642年皇極天皇の命により蘇我馬子の娘・尊光上人によって開かれ、約1400年の歴史を経て今日に至る尼僧寺院です。

刀自古の名前こそ出ていないけど
出家して尊光上人となった刀自古以来、
1400年に渡って代々「尼公上人」
(皇室ゆかりの方が継ぐらしい。これも刀自古が
皇室ゆかりの女性ってことですよね)
が継承してきた女人救済の聖地が大本願。

そういえば仏教伝来の折、仏教を広めようと
蘇我馬子によって出家させられた
日本最初の出家僧も3人の尼僧でした。
つまり日本の仏教は女性から始まったんですね。
『日出処の天子』にも登場し、
最初に得度したのが「善信尼」。
(いま思えば善光寺の善に信濃の信だ)

3人の尼僧は馬子の庇護のもと
仏道に励んでいたので
刀自古とも近しい関係にあったはず。

近年は聖徳太子の存在を疑問視する論説が増え
この信濃とのつながりも
聖徳太子をどう受け止めるかで変わってきます。

聖徳太子が亡くなったのは622年ともいわれているので
本田善光の伝承とは年代が開くのですが
とにかく太子亡き後、蘇我蝦夷・入鹿親子
(刀自古にとって兄と甥)が政権を握り、

642年 刀自古は皇極天皇の命で信濃へ
(阿弥陀如来も現在の善光寺の地に遷座)

643年 山背大兄王(聖徳太子と刀自古の息子)
一族、蘇我入鹿に攻められ自害し滅亡

644年 皇極天皇の発願で善光寺に伽藍が建てられる

645年 乙巳の変で入鹿は殺害され蝦夷自害

ねえ、これ普通におかしいですよね?
もし刀自古が出家せず都に残っていたら
643年あるいは645年に確実に命を落としてたし
伽藍の建立は上宮王家の、そして蘇我本宗家の
鎮魂というか怨霊慰撫って思うのが自然。

これが皇極女帝の慈悲なのか弔いなのか
または誰かの思惑なのか
聖徳太子とつながる阿弥陀如来を
お守りする存在として刀自古が唯一無二だったのか
もはや想像するしかないけれど
自分以外、一族もろとも消されて
遠い信濃から祈りを捧げる残りの人生。
どうか善信尼とも交流があってほしい。

命と引き換えに
女人救済のアイコンとなった刀自古は
どんな人だったのかな…。

あ、すみません
大本願に着いてます、もう着いてます!!

仁王門近くにありました。何となく、あたたかく開かれたムード。ヒノさん(仮名)とも無事合流
なんだかいちいちグッとくる。親子の獅子が乗る香炉

本堂である本誓殿には
歴代お上人の位牌が安置されているのだとか。
刀自古のもあるのかしら…

お線香や散華が入った「心願セット」、
かわいい福だるまなどを
参拝の記念に買いました。
こちらも御朱印は大行列。

わたしの心願とは…これからじっくり考えようと思う

乳児院や特養、ケアホームの運営など
社会福祉事業にも力を入れている大本願。
御開帳が終わって涼しい季節にまた来たい。

あとはどこ行こう?
仲見世通りから一本入ると
毘沙門天を祀る釈迦堂があり
こちらにも回向柱が立てられていて
お参りしました。

ガイドさんと宿坊の方に遭遇し

かなりの人出だからお店は厳しいかも
食べ歩きするか
あの辺りのお店ならまだ余裕かも

などランチのアドバイスをいただきます。
一応、ネットで見たせいろ蒸しのお店に行ってみて
ヒノさん(仮名)もいい感じ!と
入店しようとしたら、
何やら悲しいインフォメーションが…
お店の方にも聞いてみたら今日は
団体さまのご予約のみだそう。

ヤバい、御開帳期間ってこういうことなんだ!
俄然焦り気味でお店を探し始めますが
どこも並んでいるorご予約…
だよね~浅草もいつもどこも並んでるもんね~
この炎天下に食べ歩きもしんどいし…

ランチ難民のわたしたちでしたが、
ヒノさん(仮名)が
「あそこ何かありそう!」
と、仲見世通りから少し入った場所を指しました。
行ってみると
一見わかりにくい白壁に
「COFFEE 薫蔵 KAGURA」という
プレートとフラッグが掲げられています。

塀から小さなお庭を進んで行くと
蔵の入口があって、中はカフェ。
なんと築100年の蔵をリノベーションしたお店。

急な階段を上がっていく2階席で
びっくりするほど心地よい時間を過ごしました。

わたしたちを救済してくれた御開帳ブレンドのアイスコーヒーとケークサレ

予想外におしゃれなランチになって
心は満足、お腹はちょっぴり足りない笑
追加でおやきの食べ歩きもできそうな感じですが
そろそろ戻り始めないと。

七味唐辛子の八幡屋礒五郎さんで
お土産を買い
ぶらぶらお店を眺めながら
また善光寺の山門をくぐります。
人出はますます多くなっています。
熱中症で救急搬送される方が出ないことを祈りつつ
駐車場の方向へと歩いているとこんな石碑が。

「聖徳皇太子」と彫られた聖徳太子碑

「大工・左官等の職人の守護神としても
篤く祀られてきました」という
初耳ワードが説明版に。
「この碑は長野県北部の建築関係業者によって
建立された」そうで、
聖徳太子と刀自古の謎は深まるばかり。

次はいよいよツアーファイナル、
小布施に参ります!

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