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生産性の高低で人の優劣を決めてしまうことへの漠然とした違和感〜言葉はいのちを救えるか/岩永直子

今、岩永直子さんという医療記者の方が著した「言葉はいのちを救えるか?」を読んでいます。
難病を抱える方、障碍者、自殺対策について考える方、安楽死の導入を考える方。
色々な観点からインタビューを重ね、生と死に迫っていく内容になっています。
生きることも死ぬことも、一人間である以上避けては通れないことは自明であり、いきおい、噛み締めるように読んでいます。

まだ読了してはいませんが、思うところがあったので頭の整理の意味も込めて文字として残したく、本記事を書いています。

生産性のない人間は保護される必要はないのか

数年前の相模原市の障碍者施設殺傷事件は、世間に大きな衝撃を与えました。
自分も当時のニュース映像をいまだに想起できるくらい、印象に残っています。

事件後、さまざまなメディアにより犯人の動機や発言が報道されました。
犯人である植松死刑囚の主張の中に「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害してもよい」というものがありました。
殺害してもよい、というのは極論なので置いておくにしてもその前段の「社会に迷惑をかけるだけ」の部分については、否定しない方も一定数いた、とのことです。

全国民が不利益や差別に苦しむことなく健やかな生活が送れる環境が整うべき、障碍があるからといって差別されるべきではないというのは直感的にそのとおりだと思います。
でも、植松死刑囚や杉田水脈議員のように「生産性のない人間は不要、税金で保護すべきでもない」という主張がなされた時、心から腹落ちして「その考えは絶対に間違っている」という完全否定ができない自分もいることに気づきました。

生産性という評価軸

話を少しシンプルにするために、ここでは知的障害者に絞って考えてみたいと思います。
ここに1人の重度の知的障害の方がいます。その人は、自分一人では生きていけないため、周いの人からの手厚い介護が必要です。そして、介護には非常にお金が必要です。医療機器を常時装着しており、その費用もかかっています。

その方のために我々の支払う税金が使われるとして、自分は全く異を唱えようとは思いませんし、万人、生きる権利があると思います。それが特に本人の意思であればなおさらです。

それに対し、「何も生産してないなら、保護は不要じゃないか」という意見も想定しうるかと思います。
感覚的には「そんな暴論吐いて言い訳がない!」というのはあるのですが、冷静に、論理的に否定するにはどうしたらよいのでしょうか?

生産性のみのこだわることの危うさ

本書のなかで、上に書いたようなことが触れられています。
そのインタビュー相手となったのが、東京大学の熊谷先生という方。彼自身、小児麻痺を患っているという、いわば、当事者です。

その方の主張がとても印象的でした。

生産性に価値が宿るのは条件付きですが、必要性には無条件に価値が宿っているとしか考えられなと個人的には思います。それが、生きていく上での様々な必要性をもつすべての人々に無条件に価値が宿ると私が考える理由です。

生産性という単語は財やサービスを生み出す能力と定義できます。
で、その生産性の価値というのは、財やサービスが「必要とされること」すなわち必要性である、という主張ですね。
必要性が価値であるなら、生産性がなかろうが、必要とされる人全てに価値がある、と。
いやいや、そんな寝たきりで意識がない人を必要としてる人なんていないでしょう?という問いに対して、熊谷さんは自身の医者としての経験から、体そのものが必要性を有している、と解きます。

100%自分が理解できているとは思っていませんし、完全に腑におちていない部分もありますが、一つ、解像度が上がったような気がします。


これまで、数多くインタビュー集を読んできましたが、本書は質問の単刀直入さ
、深さの両面で群を抜いています。
自分だったら相手に失礼だとか、不快な思いをさせたくない、ここまで突っ込んだ質問はなかなかできない・・・。でも、それを乗り越えて深く生と死を追求したからこそ、これだけのクオリティの作品が生み出されたのだと思います。

魅力的な一冊。
万人におすすめです。

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