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「できなかった」ということと、「やらなかった」ということでは、結果が同じでも後味が全然違う。祖父母のお世話生活で思うこと〜part 1〜

ふとそう思った。
超絶いきなりですが、祖父母のお世話生活で思うこと〜part 1〜です。
背景情報とかはまた今度書きます。車がないと移動できない田舎で、パキスタン猫の弥生と一緒に祖父母と同居してます。
とりあえず目次。


このままでは意味がわからないと思うので、①「できなかった」ということの具体例をひとつ。

「できなかった」ということの事例

先週の月曜日は、祖父母の通院のため、朝8時30分に家を出て車で10分の距離にあるかかりつけ医へ。順番待ちのボードに名前を記載する。順番通りに行けば、10時半頃受診できそうだ。
家に戻ってきた時点で朝9時前、行く前に回しておいた洗濯機が終わっていたので、洗濯物を裏の畑まで干しに行く。
2階の自室に戻って汗を拭いて、やっとパソコンをつける。9時20分。今日のタスクなどを書いて、メールチェックをして、作業を始めようとすると、祖父に呼ばれる。スマホが動かないんだって。1階へ行って対応して、9時40分。そろそろ祖母が外出する準備を手伝わないと。
祖母はとってもこだわりの強い人で、外出するにはいくつもの手順を踏まないといけない。でもなんせ身体が不自由だから、ひとつひとつの動作に非常に時間がかかる。それを見て祖父が怒鳴り散らす。そんな状態を放置して作業なんてできないので、祖母の準備をお手伝いする。(*我が家は吹き抜け構造になっているので、1階の音が全て2階に聞こえてきます。)
さて、祖母の準備が整いました。この時点で祖父は祖母にキレ散らかした挙句に、玄関を出てイライラしながら待っています。さあ、祖母の手を引いて玄関を出て、車までお連れして、車に乗せて、そして祖父母両方のシートベルトを閉めて、出発です。10時20分になりました。
病院へ着いたら、少し余裕ができます。病院の待合室まで祖母の手を引いて送り届けたら、順番が来るまで二人で待てると言ってくれたので、私は祖父に頼まれていた買い物をすべく、薬局へ行きました。買い物が済んだら、近くのコーヒーショップへ。コーヒーを注文して、パソコン作業の続きをします。やっと誰にも「呼ばれない」状態になりました。30分くらい作業したところで、電話が鳴ります。「終わったから迎えにきて。」はい、と答えてコーヒーショップを後にします。
さあ、時刻は11時20分。祖父母が病院で受け取った処方箋を写真に撮って
薬局に送信して(こういうシステムに感謝しまくりです)、祖母の手を引いて車に乗せて、シートベルトを閉めて、家に帰ります。家に着いたら再び祖母の手を引いて、玄関へ。それから祖父母の昼食準備。祖父は自分で料理をするので、祖母のためにパンとお皿を準備して、ペットボトルのカフェラテをグラスに注いであげます。それから自分の昼食を準備。サンドイッチを作りました。はい、昼食をとったら、もう12時30分です。

この日の午前中の作業時間は、30分でした。
もう少し早く起きれば、たぶんもう少し作業時間を増やせたんだと思います。
でも、8時半から12時半という4時間のなかで、作業時間が30分であったということには、変わりがありません。
これが、「できなかった」ということの事例です。

これに対して、②「やらなかった」ということの事例は、ものすごく単純です。

「やらなかった」ということの事例

なんとなくやる気が出なくて、ある日の午前中は漫画を読んで過ごしました。途中少し思い立って、30分だけ作業をしました。そのあとはまたごろごろして、過ごしました。
これが、「やらなかった」ということの事例です。

2つの違いについて考える


結果としてはどちらも、30分の作業時間の午前中でした。
でも、後味としては①「できなかった」ということの方が②「やらなかった」ということよりも、格段に、しんどい
このしんどさについて、考えてみたいと思います。
(つらつらと書き連ねているだけなので、あらかじめ決めた結論があるわけではありません。その辺は全く期待しないでください。)

給料が発生しているわけでもなくて、生産的な活動をしているわけでもないという点では①も②も同じです。
そして、病院に連れて行ったり祖父のスマホのお世話をしたりすることは、私が本気で抵抗すれば、断ることもできる事案です。だから、その行為を私が選択したという点においても、①と②は お な じ なんでしょうか?
ここはどうやら同じではない感じがします。

なぜなら、①の選択には、私以外の人が絡んでいるからです。②の選択は、完全に私一人の選択です。
私が祖父母を病院に連れて行くのを断れば、祖父母はタクシーで行くことになる。そうすると、順番待ちのボードへの記名は難しいので、おそらく9時頃に家を出て、11時頃まで院内で待って、それから11時半頃ようやく病院を後にすることになるでしょう。そして、祖父がふらつきながら祖母を支えることで、両方転んでしまうかもしれません。さらに、祖父は準備の遅い祖母に苛立ちすぎて、もしかしたら置いて行ってしまうかも。
それでも、断ることはできます。お金はかかるけれど、祖父母も、父母も私に何も言わないと思います。
祖父のスマホのお世話についても、祖父が私を呼んでいるのを無視したり、あとは私にはわからない、と言ったりすることもできます(でも私はわからないと言うと、ショップに連れて行ってくれ、というルートに自動的に切り替わります)。
これらを踏まえて、病院に連れて行ったり、祖父のスマホ対応をしたり、という選択をしている私がいます

強制されているわけではないけれど(例えば連れていかなければ叱責されるとか、誰かが死んでしまういうことはない)、
だらだら漫画読む選択と同じ選択というわけではない、
関係性に埋め込まれた形式の行為なんですよね。
だからむしろ、選択という言葉で捉えるのは適切ではないかもしれない
というか、これは私の選択なのか?それとも強制されたことなのか?という思考の方法こそが、しんどさにつながっている感じもします。

ここからは感覚的な言葉を使いますが(それもだいじだと思ってます)、
②の私の行動は、私にとっては間違いなく(それが合理的であるか如何は置いといて)私の選択だし、私の自由、私の時間、という感じがします。
でも①は、私の時間じゃないんです。時間とか自由とかが奪われている感じがする。
私の時間か、私の時間じゃないか、この感覚がどうやら重要な感じがします。

弥生がもう寝ようよ、と寄ってきたので今日はこのへんで。
また少しずつ考えます。
私の時間じゃない、と感じる時のしんどさは変わらずにあり続けると思うけれど、それを言語化して考えることによって、生きている感覚をつかむことができる感じがしてます。


ふみふみ職人の弥生さん




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