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デイヴィッド・リンチ『大きな魚をつかまえよう』刊行10周年 翻訳 赤塚成人(ペンネーム 草坂虹恵)さんインタビュー

デイヴィッド・リンチ監督が超越瞑想(TM)の効用と自らの創造性を語った『大きな魚をつかまえよう』(四月社刊)。2012年本書を刊行した翻訳の赤塚成人さんに、かつて出版を決めた経緯やこれまでにあった反響を取材しました。今年になって瞑想を始めた赤塚さん。そのきっかけとなった『オーソンとランチを一緒に』(さる3月20日に発表された「キネマ旬報 映画本大賞2022」で第1位)出版のご苦労と、始めてみて気づいた瞑想の思いがけない効果についても、お話をまとめてあります。ぜひご一読ください。

 本との出会い

──最初に原書の存在を知ったのは?

赤塚さん:2007年の夏、日本で『インランド・エンパイア』が封切りされるおり、雑誌で話題にされていたのを読みました。アメリカで映画公開とほぼ同じ時期に刊行されたせいか、日本でも一緒に紹介されていたんです。

──では、映画の記事でリンチ監督が本を出したと…

赤塚さん:知りました。それから、この本の話題をしばらく追いかけましたが、日本では当時、あまり熱心に語られていなかったと記憶しています。リンチの熱心なファンは、映画のダークなイメージが強くて、瞑想の効用を説く本書の素朴な語りに違和感を感じているふうでした。
 でも私は、あの奇妙な映像世界は瞑想体験から来ていると感じて、両者のつながりに心惹かれました。そこで、何かのついでに昔の新聞を調べると、日本で最初の絵画展が開かれることになって、1991年に来日したリンチが、「17年前から瞑想している」と話していた記事を見つけたんです。17年前といえば1974年、彼が最初の妻に去られ、資金難で『イレイザーヘッド』(1977)の製作を一度中止にした年です。人生のどん底にあって瞑想を始めたんだと、リンチを見る目が変わりました。

──そうして原書を読んだ感想は?

赤塚さん:瞑想を創作に携わる者に必須の充電ツールと薦めているところが面白く、アーティストの心構えを説いた部分にも感動しました。前者については、「怒り、憂鬱、悲しみの感情は、芸術家には万力のようなもので、いったん締めつけられると、アイデアが湧く経験も乏しくなってしまう」、後者については、「ゴッホが健康だったら、現存する作品の何倍も、パワフルな芸術を後世に残していたに違いない」という言葉が印象に残っています。私は好きな作家がどんな困難を克服して作品を書いたのか知るのが好きで、自伝や評伝をよく読んでいました。この本はたいそう風変わりだけど、私を始めとする読者が知りたいことを教えてくれると思いました。

──ちなみに超越瞑想のことも本書で知ったのですか。

赤塚さん:高校時代はビートルズが好きで、彼らの本をよく読んでいたので、ある程度は知っていました。

 翻訳するのに心がけたこと

──翻訳権を獲得したのは?

赤塚さん:2008年の5月です。原書が出て1年半も過ぎていたので、すでに別の版元の手に渡っていても不思議でありませんでしたが、雑誌の評判がいまひとつだったせいかまだ空いていて、速やかに権利を得ることができました。

──訳者の草坂虹恵(くさか・にじえ)は、赤塚さんのお名前をローマ字にして並べ替えたものですね。なぜペンネームにされたのですか。

赤塚さん:はじめて翻訳したものなので恥じらいがありました(笑)。ミステリ作家の泡坂妻夫さんのように完璧なアナグラムができず、3字はみだしてしまい残念でした(笑)。

ブックデザイン 服部一成

──翻訳するにあたって心がけたことは?

赤塚さん:妙に思われるかもしれませんが、自分でのめり込んで瞑想を始めないということです(笑)。これは瞑想をやったことのない人に向けて、優しく語りかける一冊です。ひとたび学んでから訳せば、経験の浅さを補おうと、どこか語調が強くなり、説教臭くなると気にかけました。それで翻訳に関しては、訳出したものをこちらのマハリシ総合教育研究所の鈴木志津夫代表に見ていただき、読んでおかしなところはないか確認してもらいました。修正のご要望はほぼなかったように思います。

──そのあと、訳者あとがきもご自分で書かれたのですね。

赤塚さん:それこそトンデモ本と誤解されないように、TMのことを調べてわかりやすく書いたつもりです。細かいようですが、自分で翻訳して世に出す以上、本の帯文やあとがきも、自分と同じ経験していない者の目線で書いた方が一般読者へのよき橋渡しになると考えました。ビートルズのリシケシュ訪問や2009年にリンチ財団が催した慈善コンサートの話題、クリント・イーストウッドが財団に寄せたメッセージなど、重要な情報を追記できたのはよかったです。

 刊行してからの反響

──邦訳は2012年春の刊行でした。この10年間の反響はいかがでしたか。

赤塚さん:発売した当初は一部のメディアに小さな紹介が載った程度でしたが、その年の夏から秋にかけて、 渋谷ヒカリエのTOMIO KOYAMA GALLARYとラフォーレミュージアム原宿でリンチの美術展が催されて、会場販売でよく売れました。たまたまリンチがまた、画業に力を入れ始めた時期だったんですね。
 それからはSNSで話題にされることも増えて、徐々に認知されていきました。意外なところでは、清水ミチコさんがツイッターで紹介してくださり、ディーン・フジオカさんもご自宅の書架に並んでいる写真をツイートしてくださいました。最近では昨年8月、満島ひかりさんがNHKのラジオ特番「ヴォイスミツシマ」で、「解釈」という文章を朗読してくださり、自分の翻訳であることも忘れて感動してしまいました。

──装丁が原著とだいぶ違うイメージなのに、最初はびっくりしました。

赤塚さん:原書は瞑想して意識の底に潜るイメージですが、何か違うなと。映画の雰囲気に寄せているんだと思いますが、リンチはこの本で映画監督とは違う、もうひとつの顔を見せてると思ったんです。そこで原書にない、笑顔のリンチの写真の権利を買って、服部一成さんにデザインしてもらったものがいまある本のデザインです(笑)。一見素人臭く見えますが、たいへん洗練されていて大胆不敵。それでいて、カラフルなのにすっきりとした感触もあって、「アート・ライフ∞瞑想レッスン」という日本語の副題に合っていると思います。結果的に、邦訳は、瞑想を終えた後のリフレッシュ感、自由に伸び伸びと発想できる感覚に近くなっているはずです。 

原書書影

──コロナ禍に読んだ本をSNSにアップする遊びが流行ったとき、この邦訳の表紙を挙げる人も結構いたんですよ。

赤塚さん:へえ。それは知らなかった。リンチって不思議ですよね。『インランド・エンパイア』以降、『ツイン・ピークス The Return』全18話(2017)を監督するまで、長編を1本も撮ってない。そしてこのTVシリーズ以降、今日までやはり長編の新作はありません。これだけ寡作だとふつうは世間から忘れられてしまうのに、ずっと人気があるんです。

──映像世界はダークでも、リンチ監督の内面にある純粋性や無邪気さがきっと人を惹きつけるのではないですか。

赤塚さん:そうでしょうね。グロテスクな描写はあっても、陰湿な感じやネガティブな雰囲気がまるでない。どこか飄々として、不思議なユーモアと親しみやすさがある。すごく独特で、瞑想をやっている人ならではのバランス感覚を感じるんです。

  最近、TMを始めた理由

──いま瞑想のお話が出ましたが、実は赤塚さんは、今年になってからTMを学ばれたんですよね。

赤塚さん:はい。何か新しいことを始めるにあたって、人それぞれに出合いの時期がありますが、瞑想に関して自分は今がそのときと悟ったんです。

──それはどんな理由から?

赤塚:昨年、オーソン・ウェルズという映画監督兼スターの晩年の会話録(『オーソンとランチを一緒に』2022年邦訳)を刊行しましたが、翻訳を進めるなか、欧米でこの30年の間にウェルズ研究は飛躍的に進展し、多くの新事実が発掘されていることを知りました。自分を含めた日本人のウェルズ理解は、世界レベルで見てかなり遅れていると気がついたんです。そこで一度翻訳を中断して、海外の研究書を読んで、日本の読者のために訳注や付録の記事を書くことに専念したのですが、これがなんとも大変で、気がつけば翻訳を始めてから、7年の歳月が過ぎてしまっていました。

──この会話録1冊に7年も費やしたのですか?

赤塚さん:ええ。ありあまる才能と多彩なキャリアがあることから、ウェルズは70歳で亡くなるまで多くの人間の嫉妬を買い、流言や誹謗中傷も絶えなくて、死んだときには何が真実で何が根拠のない噂話なのか、専門家すらよくわからない状態だったんです。それを精査するために、海外でいろんな作家や批評家がウェルズの研究を始めましたが、その過程でも誤解や勘違いが生じて、ひとつの事実を調べるのに、3つも4つも文献を読まないといけない具合でした。まったくウェルズという人は、キャリアも人格も巨大で、調べれば調べるほど知られていない歴史が出てくるんです。

装丁 服部一成 イラストレーション 前田ひさえ

──晩年は、日本でウィスキーや英語教材の広告にも出ていましたし。

赤塚さん:生前から伝説のように扱われてきた人で、ただでさえいろんな顔があるのに、その顔ごとに虚実ないまぜの逸話がある(笑)。これには途方に暮れました。私のように個人で細々と編集全般の仕事を引きうけている人間にとって、いつひとつの仕事が終わるのか先が見えないことほど、心理的に不安になることはありません。さすがに本を出したあかつきには疲労困憊で、何をするにも抜け殻みたいになり、感情の追いつかない日々が続いていました。溜まりに溜まった疲労感から解放されて、心身共にリフレッシュするために、瞑想を始めようと思ったんです。

 瞑想を始めて変わったこと

──実際にTM4日間コースを学んでいかがでしたか。

赤塚さん:「超越瞑想」って画数の多い字が並んでいて、難解な印象を与えがちだけど、ずいぶん損しているなあと(笑)。拍子抜けするほど簡単にできて、リンチが書いているとおりだと思いました。自分は仏教系の宗教2世として育てられて、子ども時代に苦労したので、ある特定の宗教的信条を強要されることに人一倍抵抗感が強いのですが、先生に学んでいる4日間、そうした思いをしたことはなく、楽しく受講できました。インドに古くから伝わる瞑想法をマハリシが西側諸国に広めるとき、宗教色を薄めて、どんな信条の人でも実践できると寛容性をもたせたのがよかったんだと思います。

──この数か月続けてみた体感は?

赤塚さん:最初の瞑想は心臓が大きく脈打つようで、身体に溜まっていた疲れがどっと抜けていく感覚がありました。デトックス効果なのか、それから数日間は脱力感があって、歩く速さもゆっくりになりました。毎日、続けるうちに心臓の揺れはなくなり、眉間やこめかみに心地よさを感じて、リンチのいう「なじみ深い感覚」はこれかと理解しました。子どもの頃、散髪に行くと、シャンプーや整髪料の香りが鼻につんときて、額が妙に心地よくなりましたが、それに近い体感を自分は覚えました。
 瞑想するときは、背もたれのある椅子に座って目を閉じて、心にマントラを思いながら、朝は鳥のさえずりを、夕方は防災無線のチャイムを聞きながら、静かに身を委ねます。心の中に昨日起きたことややりかけの仕事のことが浮かんでもそのままにし、気がついたらふたたびマントラを思い、部屋の外の音も聞こえるがままにします。やがて、心に湧く想念とマントラと外の音が交錯し、そのあわいに意識がたゆたううち、脳全体が優しくつつまれる感触になります。いまは瞑想する朝夕20分を、ナチュラルで愛おしい時間と感じています。

──日常生活のなかでも、瞑想の効用を感じることはありますか。

赤塚さん:ネガティブな感情が減って、総じて前向きになれているように思います。また、これまですごい冷え性だったのが以前ほど冷えを感じなくなり、疲れ目も解消されているみたいです。自分は自閉症の診断を受けていますが、瞑想して脳の神経回路が安らぐせいか、この特性がもたらす凸凹もいくぶん減っている気がします。アルコールをあまり飲まなくなり、本を読む時間が増えたのもうれしい利点のひとつです。

 新しい気づき

──瞑想して思ったことは?

赤塚さん:やはり本で読んで知識を得るのと、実際にやってみるのとは違いますね。独学で体得されようとする方もいるかもしれませんが、瞑想は長い歴史のなかで育まれたリラクゼーションの技法ですから、個人の努力で身に着けようとしても、なかなかうまく行かないと思います。自分はまだビギナーで、日によって体験に落差があるため、何か気になったときにチェックしてもらい、アドバイスを得られるTMのシステムに助けられています。

──瞑想を始めてからリンチ監督の作品を見て、何か気づいたことはありますか。

赤塚さん:『ツイン・ピークス』シリーズに赤い部屋が登場しますが、あれはTMで教わるところの「統一場」ではないのか。うまく説明できませんが、瞑想を始めてからリンチの映画を見ると、彼の作品の絶妙なトーンと瞑想して体感できる感触はどこか似ているように思います(笑)。

赤塚成人(あかつか・せいじん) 
編集した主な本に荒川洋治著『文芸時評という感想』(第5回小林秀雄賞)。昨年、翻訳したオーソン・ウェルズとヘンリー・ジャグロムの共著、『オーソンとランチを一緒に』(ピーター・ビスキンド編/ 序文)がこの春、キネマ旬報の「映画本大賞2022」で第1位を獲得。他社の印刷物の編集制作、取材や執筆の活動をおこないながら、自ら設立した四月社で本を刊行しつづけている。


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