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『夏物語(川上未映子著)』を読んで考えたこと。~夏子にとっての現在(いま)あるいは永遠の他者について~

 川上未映子『夏物語』を遅ればせながら読んだ。川上未映子の小説は、いろいろと考えさせられる小説ばかりである。読了後、よかった、楽しかった、凄かった、だけで終わる作品ではないのである。いつも、いろいろと考えさせられ、すぐにピタリとはまる答えはないのだが、それでもずっと気になって、答えを見つけ出したくて・・・といったモヤモヤを引きずったまま何日かを過ごすことになる。

 最新作『黄色い家』もそんな作品であり、そのことについては以前、noteに書いたことがある。


 今回の『夏物語』は、安易には論じられないナイーブな主題を取り扱っている。子供を生む/生まない、あるいは生まれることへの問いという主題である。生まれてくることは悪なのか、子供を生むということは親のエゴなのか、登場人物の一人である善百合子が語るように暴力なのか。生まれてくることは苦しみなのか、生まれてこないことのほうがよいのか。

 古代ギリシャにも遡るという反出生主義の考えを含め、この「生む/生まない」問題を、私は論じることはできない。恥ずかしながら、これまでの人生でそれらの問題を真剣に考えたことがなかったくらいである。なぜ自分は存在するのかと形而上的に問うたことはあっても、なぜ母は私を生んだのか、私に許可なくそうしたのか、といったことを、形而下的に問うたことがなかった。

 このあたりは、いろんな方が論考や考えを提出されていて、著者の対談、インタビュー記事も豊富にあるので、そちらをご参照頂きたい。


 ここでは、私が漠然と考えたとを述べていきたいと思う。

 上記の主題に切り込むのではなく、この小説の表象的な部分や物語の構成的な部分に視点を向けるのであれば、まず、この小説はとかくさまざまな「他者」に満ち溢れている、ということに気付く。

 作家である主人公の夏目夏子、その姉である巻子、姪の緑子、編集者の仙川、同じく作家であるシングルマザーの遊佐リカ、唯一の肉体関係を持ったかつての恋人の成瀬、精子提供で生まれ本当の父を探す逢沢潤、逢沢潤の恋人で、同じく精子提供で生まれてきて、反出生主義の思想を持つ善百合子、個人で精子提供をしている恩田、今は亡き夏子の母と祖母のコミばあ、どこかへ行ってしまった父、幼き頃の夏子、そして生まれてきた赤ん坊。

 これらの人物は、生きていること生まれてきたこと、親であるということ子であるということ、生むこと生まないことということをめぐって、主人公の夏子を取り巻いている。

 物語の核となる部分の概略だけ述べておくと、夏子は売れない小説家であり、結婚はしていない。交際相手もいない。かつて恋人はいたことがあった。その恋人のことは好きでたまらなかったが、セックスだけはどうしても受け入れられなかった。夏子はセックス自体に対して懐疑的である。

 だが、それでも子どもが欲しいという思いがあり、セックスを介さず出産する方法、精子提供による人工授精(AID)について調べるようになる。実際に精子提供を売りにしている恩田という男に会ってみたり、精子提供によって生まれ実の父親を知らない逢沢や、同じ境遇でかつ虐待も受けてきたという逢沢の恋人、善百合子とも出会い、夏子自身は自分の子どもを生みたいという思いにかられ出産を目指していく・・・。

 これらは、第二部の物語で、この第二部の前提となるのが第一部、姪の緑子、姉の巻子をめぐる物語なのだが、巻子と緑子の親子関係には親子と思えぬような隔たり、そうかといって離れるわけでもない、微妙な距離を保った関係性がある。

 夏子は、これらさまざまな関係性の中に置かれ、さまざまな境遇の人間のさまざまな意見をききながらも、「自分の子供を生む」ということについての思いを膨らませていく。

 これらの登場人物を通して、そこには、ただ在るように生きているもの、楽観的に生きているもの、生活のために生きているもの、勝者として生きるもの、苦しみながら生きているもの、何かに生かされているもの、ただ生まれてきてしまったものと、さまざまな「生」の在り方が描かれている。

 だが、これら物語の現在を織りなすものは、上記のような「生」だけではない。「死」もまた重要なファクターとして、この物語を、主人公の夏子を形作っている。

 まず、夏子の母と祖母のコミばあという存在がある。彼女たちは既に亡くなっていて、文字通りの「死者」である。

 編集者の仙川も、ある時、突然「死者」になってしまう。それまで元気な姿を見せ、夏子にもさんざん発破をかけ喧嘩をしたこともあった仙川が、不意に亡き人になるのである。
 
 それから母にDVをし疾走した父。この父は作中姿を現すこともなく、夏子の回想の中での存在である。彼もまた、夏子にとってはほとんど「死者」のようなものであろう。

 高校生の時の恋人であった成瀬君も、ある意味、夏子にとっては「死者」同様の存在であろう。別れてからずっと連絡をとっておらず、彼の存在はフェイスブックのみでだけ認識できている。ある時、その成瀬君から一度だけ着信があり言葉を交わすのだが、最初にこんなやりとりをしている。

「久しぶり。元気?」
「元気っていうか、成瀬くん?」
 ・・・・
「もしかして、成瀬くん死んだんか思った」
「死んだらおれはかけてこやんやろ」

『夏物語』より

 成瀬君はもはやかつての成瀬君ではなかった。成瀬君が語るのは震災による原発事故のことであったり、政府がいかに無能かということであったり、「その聞き慣れた声とはうらはらに、まるでわたしの知らない人のように思えた」のである。 

 そして幼い夏子。過去の夏子もまた、同様に今の夏子自身にとっては、死者、あるいはほとんど「他者」といってもいいような存在ではないだろうか。

 たとえば、哲学者のスピノザは「死」についてこう語っている。

ここで注意しなければならないのは、身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解しているということである。つまり、血液の循環その他身体が生きているとされる諸特徴が持続されている場合でも、なお人間身体がその本性とまったく異なる他の本性に変化しうることが不可能でないと私は信ずるのである。なぜなら、人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。(『エチカ』第四部定理三十九備考)

『エティカ』スピノザ 工藤喜作、斎藤博訳(中公クラシック)

 
 スピノザはここで、生理的な現象によって破壊されるという意味での死以外の死について、二つの例を挙げる。病で記憶を失ってしまったスペインの詩人の例と、子どもから成人になった人間の例であり、どちらも人間身体がほとんど同一とはいえないほどの大きな変化を被る事例である。

 大人は、自分がかつて子どもであったことを信じることができないほどに、いまの自分と子どもの時の本質が異なることを知る。それはつまり、人は一度生まれ変わっている、一度死んでいると考えられるということだ。

 夏子もまた、幼き夏子がもはや「他者」でしかないことを知る。
 その場面が、ラストの方で精緻に描かれている。夏子はかつての実家があった町に立ち寄り、父と母と姉の巻子がそこにいて、コミばあにおんぶされてという過去を一つ一つ思い出すように想起していくのだが、自分が住んでいた家があった場所に行くことに躊躇する。

昔に住んでいた場所をふらりと覗いてみることなんてべつに大したことじゃないはずなのに、どうしてこんな気持ちでいるのだろう。でも、わたしは怖かった。何が怖いのかはわからなかったけれど、わたしたちが住んでいた家を、あの風景を目にすることを思うと、なぜなのか足がすくむように感じられた。

『夏物語』より

 家に向かうのに、時間を要するのだが、夏子はこの場を去ることができず、かつてあった実家へと足を踏み出す。そこにあったのは、自分が知っている「家」ではなく、ただただ剝き出しの現在(いま)であった。それは、「物」としかいいようがない、あるいはほとんど「無」に等しい物々しさとでもいおうか。その無によって、夏子は突き放されたような感覚になる。

八百屋があった場所は、べつの家になっていた・・・青みがかった灰色の外壁の小さな家で、まるで折り紙で作られたみたいに均質で、古いのかそうでないのか、よくわからなかった。左手のほうにスチール製の玄関のドアがみえた。すりガラスの窓にはカーテンがかかっておらず、人が住んでいるのかどうかもわからないような感じがした。その右隣にあった喫茶店は昔のままのような気がしたけれど、シャッターはもうずいぶん長いあいだ下りたままになっているようだった。わたしはゆっくりと歩いていった。誰ともすれ違わなかったし、本当に何の音もしなかった。まるで太陽の光と熱がそこにあるはずの音や人影をひとつ残らず吸収してしまったかのようだった。

『夏物語』より

 ただ、夏子の回想は、そこに死者がいるような感じがするのである。死んだ母も、コミばあも、疾走した父も、そこにいるかのような「明るさ」がある。

ビルにはもう誰も住んではいないみたいだった。もうずいぶん長い間、取り壊されるのをただ待っているのだというようにビルはひっそりと佇んでいた。錆びついた郵便受けが陰のなかに浮かびあがり、奥には階段が見えた。小さな階段だった。一歩進むたびに毛羽だつように蘇る感覚があり、わたしは小さく息をしながら、階段を昇っていった。大人がひとり行けばいっぱいになるようなこの階段を、わたしはコミばあにおぶわれて上がったことがあった。巻子と遊んだこともあった。母を追いかけて、笑いながら駆け上がったこともあった。珍しくみんなで出かけるときに、ポケットに手を入れて降りていく小さな父の後ろ姿をみたこともあった。

『夏物語』より

 だが、その「明るさ」は、無理やり夏子が、希望もこめて、自分のもとへと手繰り寄せているだけなのかもしれない。

額から垂れてくる汗をぬぐい、目をこすりながら、ノブをにぎり、わたしはがちゃがちゃと前後に動かしつづけた。あかなかった。叩いてもみた。でもドアは乾いた音を立てて軋むだけだった。わたしはもっと強くドアを叩いた。急かされるように、追われるように、わたしはドアを叩きつづけた。このドアがひらけば、もう一度会えるかもしれないとわたしは思った。もう一度、会えるのかもしれない、ランドセルを背負ったわたしが階段を上がってきて、そしてなかからドアがひらいて、赤いエプロンをつけた母がおかえりと言うのかもしれない・・・・父は、とわたしは思った。父は、覚えているだろうか、ドアを叩きながらわたしは思った。父は、ある日どこかへ消えてしまった父は、父はどこかで、覚えているだろうか。わたしたちと暮らしたことを、そしてわたしたちのことを、思い出すことはあったのだろうか。

『夏物語』より

 死者は何も答えてくれない。答えようともしない。だが、死者は紛れもなく、今ここにいる夏子を、夏子の存在を「規定」している。

 これらの描写は、「過去はけっして死なない。過ぎ去ってさえいない」という、ウィリアム・フォークナーの言葉を想起させる。

 夏子は、「見えないものを見ようとすること」に執着する。生まれてくるべき自分の子供というものが「未来」に向けた執着であるならば、かつての自分、死んでしまった家族たち、死んでいった者たちへの想起は「過去」への執着である。

 では、「現在(いま)」はどこにあるのだろうか。夏子にとっての「現在(いま)」とは?

 それは、逢沢の元恋人、善百合子との対話にあるのではないか。
 夏子は、この善百合子との対話を通して、ある決意を告げるのだが、まさにこの「決意」こそが、夏子にとっての「現在(いま)」への執着ではあるまいか。

 それは、過去(死者)も未来(生まれてくる他者)も、すべて一身に引き受けよう(肯定しよう)という、ある種の覚悟のようなものである。

 善百合子と会った時に、二人の間でこんな会話がされる。善百合子は、出産は親たちの「身勝手な賭け」だと言い、子どもを願うことの残酷さを夏子に対して問いかけていた人物だ。

 その善百合子に対して、夏子は言う。

「本当に身勝手な、ひどいことをしようとしているのかもしれないと」
・・・
「わたしがしようとしていることは、とりかえしのつかないことなのかもしれません。どうなるのかもわかりません。こんなのは最初から、ぜんぶ間違っていることなのかもしれません。でも、わたしは」
・・・
「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」

『夏物語』より

 ここで、夏子はたんに「産もうと思います。精子提供を受けてでも子供を産もうと思います」と、精子提供で生まれてきた善百合子に対して言うわけではない。善百合子は、夏子が産むことを決心しているのだろうと察している。だが、夏子は「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」と遠回しな言葉を告げるのである。
 
 もちろん、善百合子に気を遣ってというのもあるのだろうが、この「忘れる」ということは、「記憶」「想起」に関わるものであろう。記憶はなにも過去のことだけに関わるものではない。未来への想起や予測といったものもまた、出来事を実際に体験しているかのようにイメージすることであり、過去の経験、あるいは誰かがすでに経験していることの反復である。

 したがって、夏子が言う「忘れる」とは、過去においても未来においても、「記憶を閉ざす」「想起することを止める」ということを意味するだろう。
 だが、過去(死者)を想起することも、未来(生まれてくるであろう他者)を想起することも、私は閉ざさない、たとえその考えが間違っていたとしても、私は「間違う」方を選ぶのだと。

 ここでも、ウィリアム・フォークナーの言葉が思い出される。「悲しみと虚無しかないのだとしたら、ぼくは悲しみのほうを取ろう」である。
 
 これが、夏子の「決意」である。それは、過去も未来も、忘却することなく、すべて記憶しよう=肯定しようという、夏子が選択した「現在(いま)」である。

 だが、そうだとすれば、なおさら善百合子は、そのことを肯定できまい。彼女は言う。

「(逢沢は)生まれてきたことを、よかったと思っているから」
・・・
「わたしは、あなたとも、逢沢とも違うから」
・・・
「ただ、弱いだけなのかもしれないけど」
・・・
「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」

『夏物語』より

 精子提供で生まれてきた彼女には、過去を肯定できない。なぜなら、忘却もなにも、父の記憶というものがそもそも不在だからである。したがって、過去を反復することのできない未来もまた、肯定できないのだ。ゆえに、彼女にとっては、現在(いま)も、とても肯定できるものではない。
 だからこそ、善百合子は「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけない」のである。彼女は「記憶」を拠り所に生きることなどできないゆえ、「忘却」を選ぶ他ないのである。この場合の彼女の忘却とは、思い出でに蓋をすることではない。(そもそも思い出が不在なのだから)。それは「生まれてきたこと」や「生きている」という事実に蓋をすることを意味する。

 では、善百合子と同じ境遇であるはずの逢沢は、彼女が言うように、なぜ自分を肯定できるのだろう。逢沢が自身を肯定できるのは、精子提供者=実の父との記憶ではなく、他者=育ての父との記憶、経験を頼りに未来を想起することを選んだからだ。それは、彼自身の力強い肯定ではあるのだが、一般的な父親、男性がやってきたことの反復、想起でもある。だから、逢沢は、無邪気にこう言ってしまうのである。

「もし、いまも夏目さんが子どものことを考えているなら、僕の子どもを産んでもらえないだろうか」
 
 その後、逢沢はすぐに言い換える。

「夏目さんがもしいまでも子どもを望んでいるなら、会いたいと思っているのなら、僕と子どもを――」

 いずれにしても、この逢沢の言葉により、夏子は、逢沢と子供を作ることを決意した。恋人として逢沢とそうするのではない。自分の肯定のために、そうするのである。機械的な精子提供で産むのか、男性との実際の行為で産むのかが夏子の問いではない。生むこと自体への葛藤があるゆえ、善百合子と向き合う必要があったのだし、「間違うことを選ぶ」と告げる必要があったのだ。

 最後に、夏子は善百合子とこんなやり取りを交わす。

「あなたの書いた小説を読んだ」
しばらくして善百合子が言った。
「人がたくさん死ぬのね」
「はい」
「それでもずっと生きていて」
「はい」
「生きているのか死んでいるのかわからないくらい、でも生きていて」
「はい」
「どうしてあなたが泣くの」

『夏物語』より

 一見、奇妙な会話だ。あなたの小説は「たくさん死ぬのね」と同時に「それでもずっと生きていて」という言葉がすぐに重ねられる。
 
 だが、この描写こそが、過去(死者)も未来(生まれてくる他者)も、すべて一身に引き受け(肯定し)、それでも生きる、という夏子の決意そのものである。
 夏子にとって、これまでは過去も未来も、はっきりと分断されていた。忘却の中にあり、閉ざされていた。夏子はその過去も未来も、自分の中での肯定を通じて、はっきりと「現在(いま)」に向き合うとしているのである。

 その夏子にとっての肯定=決意は、「正しさ」であるかどうかは本作は問わない。夏子自身が言うように「間違い」かもしれないし、善百合子のような立場の人が言うような、無意識の暴力や悪であるのかもしれない。

 実際に、本作を読んで、夏子がとる決断に対しては、読者の賛否が分かれているように見受けられる。だが、本作はその「正しさ」を主張したいのでもなく、読者をそこに導きたいというわけでもないだろう。作者自身が、夏子を「他者」として、この物語に放り込んだことを自覚しているからだ。

 むろん、夏子が引き受けた「現在(いま)」だけでは、<世界>たりえないであろう。私たちが生きるこの<世界>は、生まれてくるものと死んでいくものだけで成立しているわけではない。この小説が、不可避的に善百合子のような存在を必要とするのには理由がある。
 
「未来」は、たんに生まれてくるものだけを指し示すのではない。生まれてくるものがあるということは、生まれてこないものもあるということだ。
 
 その「生まれてこない」あるいは「生めない」という環境の必然や、「生まない」という選択の問題も、この世界は孕む。この点に関して触れると、批評家の石川義正『存在論的中絶』の中で指摘するように、何かの「中絶」は、何かの誕生でもあり、何かの誕生は「たんに中絶されなかった」というような、可能性と必然性が両立する無限判断の世界こそが、われわれの<世界>というべきなのである。

 ここに立ち入るには、より深い考察が必要になってしまうのでやめておくが、夏子が引き受けた「現在(いま)」は、あくまで夏子にとっての世界である。それゆえ、夏子の立場もまた相対化される。

 この作品が目指しているのは、そんな夏子ですら一人の「他者」でしかない、「他者だらけの世界」であろう。
 それは、生きるもの、死ぬもの、生まれてくるもの、それらが同居するようにして今ここにあるという存在の必然性と、その必然性はまた、あらゆる生まれてこなかった可能性(潜在性)のもとにおいてあるのだという、「他者」が幾重にも折り重なった「現実」の意である。

 善百合子の言葉は、私たちの現実にも、そのまま跳ね返ってくる。

「人がたくさん死ぬのね」
「はい」
「それでもずっと生きていて」
「はい」
「生きているのか死んでいるのかわからないくらい、でも生きていて」

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