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『人は隔たりのただ中で一致する』 : スピノザ研究者、上野修の言葉たち

 
上野修先生は、スピノザ研究の泰斗である。

現在、スピノザ全集(岩波書店)の翻訳、編集にあたっていて、スピノザ協会の代表でもある。

『スピノザ考』を最近刊行し、代表作としては『精神の眼は論証そのもの―デカルト、ホッブズ、スピノザ』が挙げられる。

『スピノザ考』については以下のような記事を書かせて頂いた。

上野先生の著作および、著作の中の各章のタイトルは、スピノザの一節からとっているのだろうが、ものすごく詩的なタイトルなのである。

上記の『精神の眼は論証そのもの』も、次のような構成である。

<目 次>
ものを言う首 ― 序にかえて (デカルト、ホッブズ、スピノザをつなぐもの)
第1章 残りの者 ― あるいはホッブズ契約説のパラドックスとスピノザ
第2章 意志・徴そして事後 ― ホッブズの意志論
第3章 スピノザと敬虔の文法 ― 神学と哲学の分離と一致
第4章 スピノザの聖書解釈 ― 『神学政治論』の「普遍的信仰の教儀をめぐって
弟5章 われらに似たるもの ― スピノザによる想像的自我およびその分身と欲望
第6章 精神の眼は論証そのもの ― スピノザ『エチカ』における享楽と論証
第7章 デカルトにおける物体の概念
第8章 無数に異なる同じもの ― スピノザの実体論
第9章 スピノザの今日、声の彼方へ

「ものを言う首」、「残りの者」、「われらに似たるもの」、「精神の眼は論証そのもの」、「無数に異なる同じもの」

これらのタイトルが、通常の論文で見られるものとは、異質なものであることは、お分かり頂けるであろうか。

このようなセンスはどこから来るのだろうかと、不思議に思っていたのだが、最近、上野先生は、詩人の中原中也についても寄稿を寄せていた。

『中也、死児の見る夢』という寄稿である。

読んでいて、私はふと中原中也の詩について何かがわかった気がした――私たちはもう死んでいてずっと夢を見ている。 知らないうちに死んでいるので、夢はこんなにリアルなのだ。中也はそんな感覚を持っていたのではないか。そういえば中也の詩には死児の気配が充満している。

枝々の 拱(く)みあわすあたりかなしげの
空は死児等(しじら)の亡霊にみち まばたきぬ
「含羞(はじらい)」より

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間
森の中では死んだ子が
螢のやうに蹲んでる
「月の光り その二」より 

https://www.chuyakan.jp/collection-search/import/pdf/2024.pdf より


そうか、上野先生の詩的センスはこういうところから来るのかと思っていたところ、まさに胸を突き刺すようなエッセイを、立て続けに発見した。

一つ目。『人間ならざるものに向けて』

最後の文章を引用する。

私は人間である前にモノであり、その真理である・・・・・自分はやはり人間ではなかったということの、息も詰まるほどの自由。喜びも悲しみも、人間になるという一縷の希望も、決して追いつくことのできない自由。「人間」はモノとしての脳がわれわれに見させる一貫した夢かもしれない。夢の中にいてもスピノザに倣ってそう考える自由はある。

思想の言葉(『思想』2019年6月号)より

 
私はまさにこの言葉に触発され、次のような記事を書いた。


「人間」はモノとしての脳がわれわれに見させる一貫した夢かもしれない

言うならば、私というモノが私に夢(意識)を見せているという自己原因的な構造がそこにはある。

私は、これを、「内在的シミュレーション仮説」と呼ぶことにした。

このモノとしての脳が、身体そのものが、もっといえばこの世界そのものが、私たちに夢を見せているのかもしれない、というのが上野修の考えである。しかし、そのモノとは、つまるところ、この世界そのものでもあるのだから、創造主でもなければ超越者でもない。言うならば、私というモノが私に夢(意識)を見せているという自己原因的な構造がそこにはある。それはこの世界の<内部>から出てくるものである。スピノザがシミレーション仮説を提唱するのであれば、きっとこのようなものになるのではないか。これはまさに、スピノザ的な、「内在的シミュレーション仮説」とも呼ぶべきものであろう。

 「私たちの世界はマトリックスの世界なのだろうか」より

 
二つ目。『人は隔たりのただ中で一致する』

「スピノザ国際会議」たるものに、日本の研究者代表として参加した上野先生のエッセイである。以下のサイトでも読むことができる。

「多様な移民の共存を課題とするブラジルにおいて、スピノザは一つの指針としてポルトガル語文化の一部となりつつある」という、世界各国におけるスピノザ思想の受容についても興味深い。

 
このエッセイもまた、今日を生きるわれわれには、胸を打つものである。最後の箇所を引用しよう。


人間は生まれつき市民なのではない、市民になるのである*1。
「民族」という規定は現存在の身体性ゆえに消去不可能だが、人間の本質にとっては外的な規定にすぎない*2。
それに媒介されなくとも、隔たりのただ中で、人は自由において一致する。「自由な人間のみが、相互にもっとも感謝しあう」のだから*3。


*1『政治論』第五章第二節。
*2「民族」(natio)に関する『エチカ』の唯一の定理(第三部定理四六)を参照。
*3 同、第四部定理七一。

『図書』2023年10月号より


注釈にあるように、上記の文章はスピノザの著作からの引用を含む。このスピノザの定義の文章を編集し、このようなエッセイを表わす上野先生は、研究者であると同時に詩人のようでもあると、私には思えるのである。

「自由な人間のみが、相互にもっとも感謝しあう」

われわれは、自由な人間であると、言えるだろうか。他者に、感謝しあえているだろうか。国民、市民、民族、人種、あるいは職業、性差という「概念」で、われわれは一致するのではない。

「隔たり」があったとして、「差異」があったとして、「自由」において、われわれは一致しなければならないのだ。


 
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