『人は隔たりのただ中で一致する』 : スピノザ研究者、上野修の言葉たち
上野修先生は、スピノザ研究の泰斗である。
現在、スピノザ全集(岩波書店)の翻訳、編集にあたっていて、スピノザ協会の代表でもある。
『スピノザ考』を最近刊行し、代表作としては『精神の眼は論証そのもの―デカルト、ホッブズ、スピノザ』が挙げられる。
『スピノザ考』については以下のような記事を書かせて頂いた。
上野先生の著作および、著作の中の各章のタイトルは、スピノザの一節からとっているのだろうが、ものすごく詩的なタイトルなのである。
上記の『精神の眼は論証そのもの』も、次のような構成である。
「ものを言う首」、「残りの者」、「われらに似たるもの」、「精神の眼は論証そのもの」、「無数に異なる同じもの」
これらのタイトルが、通常の論文で見られるものとは、異質なものであることは、お分かり頂けるであろうか。
このようなセンスはどこから来るのだろうかと、不思議に思っていたのだが、最近、上野先生は、詩人の中原中也についても寄稿を寄せていた。
『中也、死児の見る夢』という寄稿である。
そうか、上野先生の詩的センスはこういうところから来るのかと思っていたところ、まさに胸を突き刺すようなエッセイを、立て続けに発見した。
一つ目。『人間ならざるものに向けて』
最後の文章を引用する。
私はまさにこの言葉に触発され、次のような記事を書いた。
「人間」はモノとしての脳がわれわれに見させる一貫した夢かもしれない
言うならば、私というモノが私に夢(意識)を見せているという自己原因的な構造がそこにはある。
私は、これを、「内在的シミュレーション仮説」と呼ぶことにした。
二つ目。『人は隔たりのただ中で一致する』
「スピノザ国際会議」たるものに、日本の研究者代表として参加した上野先生のエッセイである。以下のサイトでも読むことができる。
「多様な移民の共存を課題とするブラジルにおいて、スピノザは一つの指針としてポルトガル語文化の一部となりつつある」という、世界各国におけるスピノザ思想の受容についても興味深い。
このエッセイもまた、今日を生きるわれわれには、胸を打つものである。最後の箇所を引用しよう。
注釈にあるように、上記の文章はスピノザの著作からの引用を含む。このスピノザの定義の文章を編集し、このようなエッセイを表わす上野先生は、研究者であると同時に詩人のようでもあると、私には思えるのである。
「自由な人間のみが、相互にもっとも感謝しあう」
われわれは、自由な人間であると、言えるだろうか。他者に、感謝しあえているだろうか。国民、市民、民族、人種、あるいは職業、性差という「概念」で、われわれは一致するのではない。
「隔たり」があったとして、「差異」があったとして、「自由」において、われわれは一致しなければならないのだ。
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