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宗教上の理由で志望校に受け入れられなかった話

進学先の候補

私の地元では小学校5年生から次の学校へ進学する。成績の良さによって3つの種別の学校に分けられる。私が当時進学できる種別の学校のうち、候補は家から近い以下の3校だった。

  1. 女子校で市内上位校、言語系・音楽・自然科学などに強く、生徒の素行が良いと評判で、シスターによる孤児院が始まりという歴史を持つ

  2. 元男子校で後に教学になった市内上位校、言語系・音楽・自然科学に強く、ラテン語学校とイエズス会の系譜を継いでいる

  3. 共学で科学に強く、技術系に進む人が多い。第1外国語は英語のみだが、バイリンガル育成に力を入れている

当時引っ込み思案だった私が男子がやや苦手だったり、交友関係のこともあり、共学はあまり気が進まなかったので1.を第一志望とした。地元ではある程度レベルの高い学校に入ることは平穏長く生活を送る上で重要だ。下位の学校は荒れていることが多いからだ。

しかし1.の学校を受験すると周囲に伝えると「あなたには難しい。とても宗教的な学校だからね。とても難しいよ。」と、同級生も、その親たちも、そして先生たちも、全員が口を揃えた。

その学校はカトリック教会の教義に基づいた人材育成に重きを置いている。小学校でもあったのだが、それに引き続きミサも毎週あるという。

応募してみた

結論から言うと応募自体は受け付けられ、校長先生との面接もした。洗礼を受ける予定があるか聞かれた気もするが、記憶があまり定かではない。

結果は当然のように不合格だった。通知も早かった。理由について具体的な言及はなかったが、応募前から周囲に満場一致で「キリスト教徒、カトリックじゃないと無理」と断言されていたので納得はした。不合格の理由について言及しなかったのは人権上問題があると自覚していたからだと、私は踏んでいる。

どうしてこうなったのか

あくまでも想像でしかないが、学校の理念(人としての教育)がカトリックの教義に基づくということは、本人と両親が無信教や異教徒となると、異なる価値観が現場に入り込むことになる。価値観の対立には「答え」が無いのためトラブルが起こることを未然に防ぎたいのではないだろうか。

また、選択制授業などに対応できないと言う問題点もある。現地の学校では一般的には信仰によって宗教の授業を自習や別の授業に差し替えたり、ミサを免除したりするが、修道院併設の学校となるとそういった対応は難しいと考える。

これは差別的なのか?

私が思うに、少なくともアメリカではかなりダメそうだ。逆に日本では信仰宗教系含め、他宗教を受け入れないという感覚がそもそもなさそうである。

正直、私はこれを宗教差別ではあると考えているが、差別による排除とは思えないという少し複雑な感想を持っている。

学校の事情があるのことは全く持って理解できるし、伝統も関係があるとは思う。

精神の継承≒歴史教育であり、精神が継承されなければ歴史で何が起こったか理解できず、特に宗教に関連するものについては、現代の価値観だけで考えてしいがちなのではないか。

また、今回は他にも通える学校の候補が他にも選択肢があるパターンなので割と許されるのではないかと考えている。ただ、女子校を希望してた側面はあったので、気持ちとしてはかなり残念ではあった。もちろん大人になってみると18歳までずっと女子校ってどうなの?と気にはなるのだが。

私の出身国は基本的人権で宗教の自由が保障されている。日本と同じだ。そして何人たりとも平等で信仰を理由に排除されてはならないという思想に基づき法律は設計されている。
しかし現実は法律だけではどうにもならないのだ。特定の信仰によって形成された社会を異教徒に壊される可能性は彼女ら、彼らにとって大きなリスクである。差別は必ずしも嫌悪やヘイトからやってくるのではなく、防衛本能からやってくることもあるのかもしれないことを、これを読んでいる方には頭の隅に入れておいていただけると幸いだ。

そもそも日本の学校では上智大学のようなキリスト教系大学などでも異教徒を幅広く受け入れているわけだが、それは日本人の信仰「意識」がそもそも希薄であることに由来すると考えている。日本人は「八百万の神」と言うだけあってさまざまなものを信仰しているわけだが、積極的に祈りを捧げたり、集会に行くかというとそうでもない。お願い事をしに神社に行ったり、故人の冥福祈るためにお寺にお世話になったり、そんな程度だろう。しかし何も信仰していないわけではなく「〇〇するとバチが当たる」と言う考えがあったり、信仰心自体はかなり厚いのではないかと思う。
日本の新興宗教系の学校でも信者以外を受け入れる理由は、その学生を信者にしたい、自分たちの教義を広めたいという意図があると考える。教義を広めることはどの宗教にとっても三本指に入るくらい重要なことだからだ。

これを踏まえて、私が受け入れられなかった1.の学校に対して思ったことは「そんなにキリスト教が大事なら、私を入学させて、説得してカトリック教徒にしてみろ」だった。その一方でそれが現実的には難しいこともわかる。なぜか。理由は簡単で、カトリック教会というのは教義を広めるために豪華な壁画やステンドグラスを作ったり、ゴージャスな光り輝く金色の装飾を施したり、巨大なオルガンで壮大な音楽を奏でたり、「神秘的な空間」を演出することで人を取り込もうという工夫をしてきた宗派である。つまりそこまでやらないと人がついてこなかったという経緯がある。
これが私がカトリックの学校が受け入れたくなかったもう一つの理由かもしれない。


人を排除してはならない。

そう叫ぶことは簡単だ。しかし特定社会の調和を乱されるリスクを恐れるのも人の性(さが)である。この現実にも目を向けてあげてほしいと私は考えている。もちろん不当な扱いが減ることが当然好ましいのだが、そのために何が必要かを考える時、「互いを認め合いましょう」レベルの安直な答えを持ってこないでほしい。

どこの国も、ポリコレにうるさい諸外国からとやかく言われないでほしいのが素直な気持ちだ。

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