校内研修の難しさ

 夏休みになって校内研修が始まりました。
また今年も思うこと。校内研修は難しい。何なんでしょうね。終わればそれでいいでしょ。そういう雰囲気に溢れています。それがヤなんですよ。というわけで。

成員の興味が合わない

 単純に全員の興味が合わないということ。教科という枠組みがある以上しょうがないけれどもそれにしてもここが一番難しいですね。おそらく校外の研修ならそんなことはないのに・・・という感情もあるのでしょう。そもそも研究と修養において自分の興味、関心がさほど重視される必要があるんでしょうかという気もするのですが。なぜなら知というものはパブリックな価値を持つもんだといういささか主体性とは逆行した考えの持ち主だからです。かくいう私もここは非常に気にします。矛盾してます。
 私の場合、これが知と呼べるのか?その怒りからの行動なんですが、やってることはたぶん同じです。つまり動機は違えども見え方は同じ行為であるということが起こっている。これは社会現象においてもそう珍しい光景ではないのかもしれません。

成員の話が噛み合わない

 よって話が噛み合わない。これもなんとかならないかなぁと。しかしこれが主催者の主導できっちりかみあったとて、これなんなん?は起こります。これも矛盾です。話が噛み合うというのは結論が同じになるという意味ではないということ。同じ流れになるということです。一体感の一体感が違う。ん?この言葉が分かる人間と分からない人間がいるならば、この話し合いが永遠に噛み合わないということがわかるはずです。
 しかしそれは終わりなき対話という苦行、多分夫婦生活よりも大きな苦行になること請け合いです。しかしもし成員全員が噛み合わないことを受容できるならこれほど強くそして分かり合える集団というのはないのかもしれません。それは宗教団体や全共闘のオルグに近いと言えるのかもしれないからです。
 それくらい話が噛み合うというのは危険なことなのかしれません。これも循環している上に矛盾しているような気がします。

成員に組織としての理解がない

 それは所属している人間にこの組織というものがどういうものかということを考える気があるかということです。組織がどうあろうと自分は自分。それは間違いない。しかし組織の持つ特性や影響力ということを完全に無視することはできない。それもまた事実。
 であるなら校内研修というのは校内という集団がもつ特性の理解を深めることに終始してもいいのかもしれない。しかしこれにも不具合があってそうしたことを突き詰めることを教育や業務であるとは見なさない人も教育現場には居られるということです。何度かそうした方にこうしたスタイルの話し合いをこき下ろされたことがあります。そうした人間を罵倒することは非常に簡単なことなのですが、それをやってしまうとそうした何も考えたり実行したりしないくせに他者を攻撃することだけは一丁前という、いわゆる教育にまつわる評論家気取りの連中と同類になってしまいます。
 どれだけ否定しようが、その学校の構成員であるという事実とその学校が持ち合わせる事実には責任の一端を持つという矜持がなければ多くの人を惹きつけたり動かしたりすることは叶わないだろうということです。 

学びの総括がない

 最悪だったのは締めの管理職の言葉です。というかもう途中から研修として崩壊していたように思うのですが。これがフリートークの難しいところなのかも知れません。というかすでに最初の課題、興味が合わないというところに私自身が陥っている可能性があります。つまり循環を始めているということなんですよね。この場合は悪循環だと思います。自分の興味によっていないことは決して悪ではないはずなんですが・・・という最初の段落に書いたことに戻っていくんですよ。

 というわけで管理職は研修の学びとは全く関係ない、しかし教材とは関連性のある日常の一場面を綴ったあるあるの話で笑いをとって終わらせました。まあそれで満足している人間もいたのでそれはそれでいいのかも知れませんし、それがうちの管理職のウデですよねと言えなくもない。好意的に受けとれば。

 これが学びであったかどうか?個々に判断する必要があるだろうし、振り返る必要があるのでしょうが、終わった瞬間に忘れ去らなければやってられないというのが教師の仕事の辛いところであるということも若干理解できます。過去をひきづっていると次にやらなければならない仕事でミスってしまうからです。つまり子どもには振り返れと言っておきながら自分の剣キュと修養については振り返りを求めていられない妥当性があると言えばあるわけです。

じゃどうする

ここまで八方塞がりだと笑えますが、ツンでるわけでもない。というか悪い方に考えすぎじゃないのかというご指摘が今にも聞こえてきそうですが、そうした状況を活かす方法がまるでないわけでもないからです。それは合意とか広がりとか積み重なりとかとりあえず形にするとかいう「言うが易し行うは難し」のアリバイづくりでは意味がないです。よくある「やったことにする」「できたこととする」という思考停止方法では形骸化とか前例踏襲とかいうことを繰り返して打ち捨てることに他ならないからです。これはおそらく全国の校内研修がやっているほぼ唯一の解決方法です。

ではどうする。
思いついたことをnoteしてみよう。以上。

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