プログラミング教育の定着とGIGAの関係

 プログラミング教育は定着する前にGIGAによって押し流された的な論理展開をする人がいるが、やはり学校現場がわかっていない。彼は少しの間現場にいたが、そもそも現場に馴染んでいなかったのだろう。

 優秀を気取る人間というのは、現場の空気を読めないまま突進して和を乱す。もちろん周りは大人なのですごいねと言ってあげるがこうした不和から勘違いをしたまま実務家教員になる経路というものが確実にある。

 それは外部有識者が学校を改革する幻想にとてもよく似ている。もちろん藤原氏と工藤氏のことである。これらは長続きしない。もちろん受け継がれもしない。思いつきなので(思いつきが悪いとは言ってない。念のため)思想や文化にまで高まっていない。また改変できる余白がなく、固定的な枠組みであることに価値を見いだし自己陶酔に陥りそれを喧伝する傾向にあるからです。おおぞらの木村氏も同じこと。彼ら彼女らのすることに実質的な意味がない。教育というのは文化的な広がりによって価値をもっていくという難しさがあるからである。
 これは言うは易く行うは難しの典型例だと思う。売り上げ実績でカイゼンを邁進できるような見た目にわかりやすい指標が存在しないから。だからうまく続かないことを否定しているのではなく、そこにもっと視点や論点をもっていかなければならないのに、あえてそこには触れないようにしているのかな?と思えるような論理展開が為されているところに違和感を覚えるのである。良いところは自分たちの実践、悪いところは他校の実践という発表会形式に落とし込めている。これらに自分から身をやつして参加する人の気が知れない。

 これらの実践では皆が、現場にいる教員とその雰囲気を全く理解していないことがその共通点である。そもそもこうした人たちは一般的な教員が眼中に入っていない。だからこその唯我独尊の枠組みが作ることができ、突っ走ることができるわけです。
 こうした取り組み、そして研究授業に共通するのは「失敗はゆるさない、失敗は表には出さない、出すなら非常に軽い部分を次への課題として示す」ということ。
 こうしたやり方をすれば、徐々に間違いを許さない風土が染み付いていく。反省すら許されない、上手く行ってないことも上手くいっていると強弁するより他ない。それでは文化として逆に進まざるを得ないということ。

 非常に逆説的ですが、失敗しまくることを赦す組織にこそ善き文化が醸成されるわけです。
 プログラミング教育にしても、教員間でも子どもにも失敗を赦せる流れが造れていれば、GIGAに押し流されない力強い文化が残るはずということが理解できていません。
 実際のところプログラミング教育というのは、取り組みが一通り行われていれば後は子ども個々のなかに残り、個々の力で進んでいくはずのモノであるということ。それぐらいプログラミングアプリの出来が良い。特にScratchは良くできている。
 もし阻害する要因があるとすれば、自分で自分のタブレットを別の欲望のために別の使い方に転化するか、そこから派生した他者による使用の制限かになります。これらが今の日本全国で非常に多く発動していて、GIGAそのものの阻害要因になっています。GIGAによる身体性の無限で一気な拡張が子どもの成長と相性が良くないと指摘されたのは数十年前のハナシです。

 それを踏まえる度量の広さが彼らにはない。これまで彼らに浴びせられた罵声と諦めの声の量を考えれば致し方のないことなのかもしれない。
 と同時に失敗だらけの実践しか近寄ってこないことへの怒りなのかもしれない。

 それは明確に現場というもののゲンジツが理解できてない、それを変えていくホンマもんの取り組みにコミットできていない、イコール現場がわかっていないという最初にあげた結論に繋がっていきます。GIGAが二期に進んだとしてもおそらく今以上の教育との一体化は進まない。それは学習指導要領に採用されようがされまいが関係ない。現場のゲンジツにコミットできなければ何を強要しても広がらない、どんな旗振り役がいてもきちんと集団がなりたいように戻っていってしまうということ。
 ご立派な掛け声や分析がきちんと批判の対象になっていかなければ間違いが量産されていく。それをきちんと踏まえたプラットホームが必要だなぁと思った次第。
 実践や文化を変えていくことは本当に難しい。

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